ケープタウン市都市圏
City of Cape Town Metropolitan Municipality
Kaapstad
南アフリカ共和国の旗
Cape Town Montage.png
ケープタウン市都市圏の市章
都市圏
愛称 : The mother city(母なる都市)
位置
ケープタウンの位置の位置図
ケープタウンの位置
ケープタウンの位置(西ケープ州)の位置図
ケープタウンの位置(西ケープ州)
座標 : 南緯33度55分 東経18度25分 / 南緯33.917度 東経18.417度 / -33.917; 18.417
歴史
建設 1652年
都市圏指定 2000年
行政
 南アフリカ共和国
  西ケープ州
 都市圏 ケープタウン市都市圏
市長 パトリシア・デ・リール
民主同盟
地理
面積  
  都市圏 2,454.72 km2 (947.8 mi2)
人口
人口 (2018年現在)
  都市圏 3,776,000人
    人口密度   9,400人/km2(24,000人/mi2
  都市圏 4,005,015人
    都市圏人口密度   1,600人/km2(4,200人/mi2
その他
等時帯 南アフリカ標準時 (UTC+2)
郵便番号 8000
ISO 3166-2 ZA-WC
公式ウェブサイト : City of Cape Town official website
市街風景
ケープ岬(衛星画像より作成)

ケープタウン英語: Cape Townアフリカーンス語: Kaapstadコサ語: IKapa)は、南アフリカ共和国西ケープ州に位置する都市都市圏)である。立法府所在地で、同州の州都アフリカ有数の世界都市である。

概要

テーブル湾に面する同市はそのが有名であるとともに、世界的に有名なテーブルマウンテン喜望峰などを含んだケープ草原(en:Cape floral kingdom)のなかにある。

ケープタウンはもともと東アフリカインド東アジア貿易に携わるオランダ船の食料基地として建設されており、それはスエズ運河1869年に建設される200年以上も前のことであった。ヤン・ファン・リーベック1652年4月6日に到着して南アフリカで初めてのヨーロッパ植民地を設立するのであるが、ケープタウンは急速に成長してヨーロッパ初の前哨基地(キャッスル・オブ・グッドホープ)という元々の目的を超えてしまった。ヨハネスブルグダーバンが成長するまでは南アフリカ最大の都市であったのである。南アフリカに始めて白人が入植した土地であり、のちの内陸部へのすべての開拓の起点ともなった。そのため、南アフリカの白人からは「マザー・シティー」(母なる都市)との愛称で呼ばれる。

2001年の南アフリカの国勢調査によれば、ケープタウン大都市圏は295万人の人口を持ち、[1] 面積は2499平方キロメートルで南アフリカの他の都市よりも大きい。この結果、人口密度は比較的低くなり1平方キロメートルあたり1158人である。ケープタウンはフランスニースイスラエルハイファ姉妹都市となっている。ケープタウン市内人口は2011年国勢調査によると、433,688人となっている。周辺地域と合わせた大都市圏人口は3,740,026人。

歴史

創設

ヴァスコ・ダ・ガマ1498年に喜望峰回りの欧印航路を開発して以降、この地方は欧州東洋とを結ぶ主要航路となっていたが、喜望峰沖は航海上の難所であるにもかかわらず、ポルトガル領のルアンダソファラ間には補給港がなく、交通の障壁となっていた。このため、オランダ東インド会社がこの地域への補給港建設を計画し、同社に所属していたヤン・ファン・リーベック1652年にテーブル湾南岸の、現在のケープタウン中心部に入植し、ケープタウン市を建設した。

ケープタウン周辺では熱帯原産のバントゥー系の主食作物は生育できなかったため、この地方に居住していたのは牧畜民であるコイコイ人だった。彼らは食料生産力が低いため人口が少なく戦闘力も低かったため、入植者たちにすぐに追われ、ケープタウンは安全に成長することができるようになった。この地への入植を決定した東インド会社首脳部は、この地に補給港以上のものをつくろうとは考えておらず、利益を考慮しない代わりに損害も少なくするため、できる限り放任する姿勢をとった。入植者たちの一部は自由農民となり、ケープタウン及びその周辺で農耕や牧畜を開始した。入植者は会社によって1707年までは無料で輸送され、次々とこの地に入植していった。入植者たちにはオランダ人のほか、ナントの勅令の廃止によってフランスを追われたユグノーたちもおり、彼らはケープタウン近郊に入植してワイン作りを始めた。1679年には第10代ケープ植民地総督シモン・ファン・デル・ステルが内陸部のステレンボッシュに居留地を作り、以後ケープ植民地はケープタウン市のみの植民地から面的な広がりを持つようになった。

18世紀には、ケープタウンは補給基地の枠を超えて成長を続けるようになった。ケープタウンの港には欧印航路の商船が立ちよるようになり、彼らを相手とする商人層が成長し、一部のものは富を蓄え富裕層となっていった。農民は独立自営農民として各地に巨大な農園を構え、奴隷を使用しながら大規模農業を営むようになった。この2者と商船を顧客とする職人層も出現した。農民層の一部はケープタウン市から遠くはなれた内陸部で牧畜を営むようになり、トレックボーアと呼ばれるようになったが、彼らの生産品はケープタウンで売られ、必需品もケープタウン商人が供給しており、ケープタウン経済から独立した存在ではなかった。18世紀末にはケープタウンの世帯数は1100戸に達していた。1778年には富を蓄えた都市商人と農民層がオランダ本国に代表団を送って政治的代表権と貿易の自由を要求したが、黙殺された。[2]

英領ケープ植民地

1795年フランス革命の余波を受けイギリス艦隊がケープタウンに上陸し、ケープはイギリスの占領下に置かれた。1803年にはアミアンの和約によってオランダ連邦共和国の後継国家であるバタヴィア共和国がケープ植民地の支配権を取り戻したが、1806年1月には再びイギリス軍がケープを占領し、1815年ウィーン議定書によってケープタウンは正式にイギリス領となった。

イギリス領となっても、ケープ植民地の首都及び中心がケープタウンにおかれたことに変わりはなかった。 1820年にはイギリス人の移民が始まったものの、ケープタウンにおいてもケープ植民地全体においても、イギリス系はオランダ系ボーア人の人口を越えることはなかった。1833年の奴隷解放によって東ケープのトレックボーアたちは不満を募らせ、やがてグレート・トレックを引き起こすが、ケープタウンはすでに商工業を中心とした社会となっており、グレート・トレックへの参加者はほとんどいなかった。

グレート・トレックによって内陸部にオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国が成立すると、イギリス本国はケープ植民地の政治的自立性をある程度認める政策をとるようになり、1854年にはケープタウンにケープ植民地議会が開設された。この議会は制限選挙制であったが人種制限はなく、これによって一部の黒人及びカラードは1956年まで選挙権を保持することに成功した。植民地政府は同時に経済開発を進め、ケープタウンに電信郵便が整備され、ステレンボッシュやケープ半島南部への鉄道も開通した。1865年には、ケープタウンの人口は28000人に達していた。

1886年、トランスヴァールのヨハネスブルグでが発見されると、ケープタウンは当初は鉄道によってヨハネスブルグからの金の輸出を独占していたものの、やがてヨハネスブルグにはナタール州のダーバンからの鉄道が到達し、さらにトランスヴァール政府がポルトガル領ロレンソ・マルケス(現マプト)へのデラゴア湾鉄道を建設したことから輸送ルートが変化した。この輸送ルート問題は、やがてボーア戦争の引き金の一つとなった。

南アフリカ時代

1902年にボーア戦争が終結したのち、イギリス領となった4植民地に大同団結の動きが起き、やがて1910年にはイギリスの自治領である南アフリカ連邦が成立すると、ケープタウンには南アフリカ連邦の議会が設置された。しかし諸州の兼ね合いにより、行政首都は旧トランスヴァールの首都であるプレトリアに、司法首都は旧オレンジ自由国の首都であるブルームフォンテーンに置かれることとなった。これは、ケープタウンの地位を相対的に低下させる一因となった。金鉱発見以後も沸き立つ経済によって、ヨハネスブルグの経済はケープタウンをしのぐようになり、プレトリア・ウィットウォータースランド(ヨハネスブルグ)・フェリーニヒング経済圏(現ハウテン州)はケープタウン経済圏を抜いて南アフリカの経済の中心となった。しかし、ケープタウンの重要性は保持された。

アパルトヘイト廃止運動の中心人物であり、1994年黒人初の南アフリカ共和国大統領になったネルソン・マンデラは、ケープタウン沖合いにあるロベン島刑務所1964年から1990年までの27年間収監されていた。釈放後、最初の記念演説はケープタウン市役所のバルコニーにておこなわれ、10万人の聴衆を集めた。[3]

地理

テーブルマウンテン

ケープタウンの中心はケープ半島の北の端に位置し、テーブル湾に面した地区である。この地区は北をテーブル湾、西をシグナル・ヒルとライオンズ・ヘッド、南をテーブルマウンテン、東をデビルスピークといった山々に囲まれほぼ円形をしており、その形からシティ・ボウルと呼ばれている。目抜き通りはシティ・ボウルを南北に貫くアダレー・ストリートであり、ケープタウン駅や南アフリカ国会議事堂、南アフリカ博物館やカンパニー・ガーデンズといった観光名所も多くある。ケープタウン駅の南には、ケープタウンの基点となったキャッスル・オブ・グッドホープがそびえる。中心部の北側にある旧港地区は近年再開発がおこなわれ、ビクトリア&アルフレッド・ウォーター・フロントとして観光の目玉となっている。その北はグリーン・ポイントと呼ばれ、ケープタウン・スタジアムやゴルフ場などがあるスポーツ・レクリエーション中心のエリアである。

ケープタウンよりシグナル・ヒルをはさんで西に位置し、大西洋に面するシーポイント地区を中心とする北西部一帯は白人が多く、高級住宅街となっている。

市街地の背後に見事にそそり立つテーブルマウンテンは1000メートル以上の高さを持ち、ほぼ垂直の崖で取り囲まれている。この山にときおり薄い雲がかかったりすると、その外観から「テーブルクロス」などと呼ばれることもある。ケープの気候は変わりやすいため、テーブルクロスのかかっていないテーブルマウンテンはめずらしいほどである。この半島を背骨として貫く山脈が大西洋の中を南に張り出し喜望峰となっている。ケープタウンの中にある300mを越える頂(いただき)は70以上。ケープタウンの多くの郊外住宅地区は半島と本土を結ぶケープ・フラッツにある。ケープ・フラッツは海底が隆起して出来た陸地であり、大方は砂っぽい地質である。テーブルマウンテンはかつては島だったことになる。ケープ・フラッツはアパルトヘイト時代に市中心部の第6地区(ディストリクト・シックス)から強制移住させられたカラードたちの居住区であり、現在でも低所得者層の居住地となっている。近年では東から流入してきたコーサ人が優勢な地区となっている。

気候

ケープタウンの年間気温

ケープ半島地中海性気候でありはっきりとした季節がある。5月から9月まで続くには大西洋から寒冷前線と強い北西風をもたらす。冬は寒く、平均最低気温は摂氏7℃。年間降水量の大半は冬に集中しているが、山がちな地形によって、特定箇所の総降水量は大幅に変化する。市の南部ニューランド郊外は南アフリカ共和国内で最も降水量が多い。峡谷部や海岸部の年間平均降水量は515ミリだが、山間部では1,500ミリにもなる。10月から3月まで続くは暑くて乾燥している。半島は東南から強い風をしばしば受けるが、これは「ケープ・ドクター」と呼ばれている。汚れを吹き飛ばし、空気を清浄にするからである。この東南風は南大西洋からケープタウンの西に張り出している南大西洋高気圧によるものである。夏の気温は温暖であり平均最高気温は26℃である。[4]

ケープタウン (1961–1990)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C (°F) 39.3
(102.7)
38.3
(100.9)
40.7
(105.3)
38.6
(101.5)
33.5
(92.3)
29.8
(85.6)
29.0
(84.2)
32.0
(89.6)
33.1
(91.6)
37.2
(99)
39.9
(103.8)
35.4
(95.7)
40.7
(105.3)
平均最高気温 °C (°F) 26.1
(79)
26.5
(79.7)
25.4
(77.7)
23.0
(73.4)
20.3
(68.5)
18.1
(64.6)
17.5
(63.5)
17.8
(64)
19.2
(66.6)
21.3
(70.3)
23.5
(74.3)
24.9
(76.8)
22.0
(71.6)
日平均気温 °C (°F) 20.4
(68.7)
20.4
(68.7)
19.2
(66.6)
16.9
(62.4)
14.4
(57.9)
12.5
(54.5)
11.9
(53.4)
12.4
(54.3)
13.7
(56.7)
15.6
(60.1)
17.9
(64.2)
19.5
(67.1)
16.2
(61.2)
平均最低気温 °C (°F) 15.7
(60.3)
15.6
(60.1)
14.2
(57.6)
11.9
(53.4)
9.4
(48.9)
7.8
(46)
7.0
(44.6)
7.5
(45.5)
8.7
(47.7)
10.6
(51.1)
13.2
(55.8)
14.9
(58.8)
11.4
(52.5)
最低気温記録 °C (°F) 7.4
(45.3)
6.4
(43.5)
4.6
(40.3)
2.4
(36.3)
0.9
(33.6)
−1.2
(29.8)
−1.3
(29.7)
−0.4
(31.3)
0.2
(32.4)
1.0
(33.8)
3.9
(39)
6.2
(43.2)
−1.3
(29.7)
降水量 mm (inch) 15
(0.59)
17
(0.67)
20
(0.79)
41
(1.61)
69
(2.72)
93
(3.66)
82
(3.23)
77
(3.03)
40
(1.57)
30
(1.18)
14
(0.55)
17
(0.67)
515
(20.28)
平均降水日数 (≥ 0.1 mm) 5.5 4.6 4.8 8.3 11.4 13.3 11.8 13.7 10.4 8.7 4.9 6.3 103.7
湿度 71 72 74 78 81 81 81 80 77 74 71 71 76
平均月間日照時間 337.9 297.4 292.9 233.5 205.3 175.4 193.1 212.1 224.7 277.7 309.8 334.2 3,094
出典 1: World Meteorological Organization,[5] NOAA[6]
出典 2: South African weather service[7]

政治

ケープタウン市役所
主要記事:City of Cape Town

ケープタウンが市制を施行したのはケープ植民地時代の1839年である。当時は現在の市の中心部に当たるシティ・ボウルと呼ばれる山に囲まれた円形の地区のみが市域であった。ケープ半島には10個の独立した自治体が存在していた。やがて市域の拡張などにより自治体は徐々にケープタウン市に併合されていったが、現在の市域が確定したのはアパルトヘイト廃止後の1994年のことだった。

ケープタウン市議会は定数221で、そのうち111議席は111選挙区からの小選挙区制で、残り110議席は比例代表制によって選出される。2006年から2009年までは民主同盟党首であるヘレン・ツィレが市長をつとめ、2009年総選挙でツィレが西ケープ州首相に転ずると、市長には同党のパトリシア・デ・リールが就任した。ケープタウンは最大野党民主同盟(DA)の牙城であり、市議会の過半数を占めるとともに、国政選挙においても民主同盟の最大の地盤となっている。これは、与党アフリカ民族会議が黒人主体の政党であり、ケープタウンの人口の多数を占めるカラードからの支持が弱いこと、および民主同盟がカラードから最も支持を受けている政党であることによる。2011年5月18日に行われた地方選挙においても、民主同盟は221議席中135議席を獲得して過半数を大きく超え、引き続き最大政党となった。国政の与党であるアフリカ民族会議(ANC)は73議席を獲得した[8]

人口統計

母語話者(ケープタウン大都市圏 2011年)
アフリカーンス語
  
35.69%
コーサ語
  
29.82%
英語
  
28.40%
その他
  
2.91%
ケープタウン大都市圏内の人口密度図
  <1 /km²
  1–3 /km²
  3–10 /km²
  10–30 /km²
  30–100 /km²
  100–300 /km²
  300–1000 /km²
  1000–3000 /km²
  >3000 /km²
ケープタウン大都市圏各地区の使用言語図(2001年)
  英語
  優勢言語なし

2001年南アフリカ国勢調査によれば、ケープタウンの人口は2,893,251人である。公式世帯数759,767のうち87.4%が水洗あるいは化学処理トイレを持ち、94.4%が週1回以上の自治体によるゴミ収集を受け、80.1%の世帯が主なエネルギー源として電気を用いている。16.1%の世帯が独身である。[9]

人口の48.13%をカラードが占めており、次いで黒人が31%、白人が18.75%、アジア系が1.43%である。24歳以下が46.6%で65歳以上が5%であり、中央値が26歳。100人の女性に対して男性は92.4人。市街地に住む19.4%が失業しており、失業者の58.3%が黒人、38.1%がカラード、3.1%が白人で、0.5%がアジア系である。ケープタウンに住む黒人の大半がコーサ人であるが、これは彼らがバントゥー系最南端に住む民族であり、もともとの居住域であるトランスカイシスカイなどのホームランドからケープタウンが近かったからである。

2011年の国勢調査によると、ケープタウン大都市圏居住者の35.69%の母語がアフリカーンス語であり、29.82%がコサ語、28.40%が英語、2.91%がその他の言語となっている。中心部にある旧ケープタウン市地域(人口433,688人)では英国植民地の歴史が長いことや、国際都市でもあるために英語を母語とする住民が67.68%と圧倒的に多く、アフリカーンス語は22.53%と少ない。また、喜望峰があるケープ半島地域なども英語が優勢な地域である。南アフリカ政府の英語一本化政策により、アフリカーンス語の公用語の地位が形骸化したことによってアフリカーンス語の看板や広告、標識などは減少傾向にあるために、印象では世界最大のアフリカーンス語人口を誇る都市という実態とは乖離しつつあるが、郊外ではアフリカーンス語が圧倒的に優勢であり、アフリカーナーとカラードを中心に大多数の人がアフリカーンス語を使って生活している。また、コサ語もコーサ人が多く住む地域で使われている。

居住者の76.6%がキリスト教徒であり、10.7%が無宗教、9.7%がムスリム、0.5%がユダヤ教徒、0.2%がヒンズー教徒、2.3%が他の宗教もしくは不特定な信仰をもっている。

20歳以上で4.2%の市民が教育をまったく受けていない。11.8%はなんらかの形で小学校に行ったことがあり、7.1%は小学校のみ卒業し、38.9%はなんらかの中等教育を受け、25.4%が高校までは卒業し、12.6%がそれ以上の教育を受けている。20歳から65歳の中央年収額は25774ランド、男性に限れば中央年収額は28406ランド、女性に限れば22265ランドである。

産業

ケープタウンはヨハネスブルグ=プレトリアについで南アフリカ第2の経済規模を持つ大都市圏であり、アフリカ全体でも3位の経済圏である。南アフリカ国会や西ケープ州政府などの行政機能の集積による経済面での効果も大きい。移住者が多いため不動産市場及び建設市場が活況を呈しており、2010年FIFAワールドカップの開催はそれをさらに促進した。

ケープタウンは世界の海上交通上の要衝であり、船舶が集まるため、多くの造船会社や海運業者がオフィスを構えている。船舶の修繕も主要産業の一つである。

ケープタウン周辺は温暖な気候と適度な降雨に恵まれ、果物や農産物の一大産地となっている。近郊のステレンボッシュを中心とするワイン生産地帯で生産されたケープ・ワインは、近年世界市場で高く評価されるようになり、輸出が増加している。こういった農産物や食料品の集散地・輸出港としてもケープタウンは重要である。

また、ケープタウン西の海は北から流れてくる寒流のベンゲラ海流と、東から流れてくる暖流のモザンビーク海流とが合流する潮目であり、世界有数の好漁場となっている。そのため漁業も盛んであり、特に日本の遠洋漁業船団の一大拠点となっている。

治安

アパルトヘイト撤廃後、ケープタウンにも国内や周辺諸国から大量の住民が流入したが、彼らの多くは職を得られず、治安が急速に悪化した。ヨハネスブルグほどの治安悪化は見られず、昼間なら徒歩での外出も可能ではあるものの、犯罪は増加している。日本の外務省からは、市の中心部(シティ・ボウルおよび北西部)ならびに市東部の貧困層が多く住むケープ・フラッツ地区には注意喚起が発出されている。一方、ケープ半島や内陸部郊外の農村地帯の治安は比較的良好である。

交通