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サツマイモ (さつまいも)
サツマイモの花
サツマイモの花
分類
: 植物界 Plantae
: 被子植物門 Angiosperms
階級なし : 真正双子葉類 eudicots
階級なし : キク類 Asterids
: ナス目 Solanales
: ヒルガオ科 Convolvulaceae
: サツマイモ属 Ipomoea
: サツマイモ I. batatas
学名
Ipomoea batatas
L.
和名
  • サツマイモ(薩摩芋)
  • カンショ(甘藷)
英名
Sweet potato
掘り出したサツマイモ
さつまいも 塊根 皮むき 生[1]
100 gあたりの栄養価
エネルギー 559 kJ (134 kcal)
31.9 g
デンプン 正確性注意 30.9 g
食物繊維 2.2 g
0.2 g
飽和脂肪酸 0.03 g
多価不飽和 0.02 g
1.2 g
ビタミン
ビタミンA相当量
(0%)
2 µg
(0%)
28 µg
チアミン (B1)
(10%)
0.11 mg
リボフラビン (B2)
(3%)
0.04 mg
ナイアシン (B3)
(5%)
0.8 mg
パントテン酸 (B5)
(18%)
0.90 mg
ビタミンB6
(20%)
0.26 mg
葉酸 (B9)
(12%)
49 µg
ビタミンC
(35%)
29 mg
ビタミンE
(10%)
1.5 mg
ミネラル
ナトリウム
(1%)
11 mg
カリウム
(10%)
480 mg
カルシウム
(4%)
36 mg
マグネシウム
(7%)
24 mg
リン
(7%)
47 mg
鉄分
(5%)
0.6 mg
亜鉛
(2%)
0.2 mg
(9%)
0.17 mg
他の成分
水分 65.6 g
水溶性食物繊維 0.6 g
不溶性食物繊維 1.6 g
ビオチン (B7) 4.1 µg
有機酸 0.4 g

ビタミンEはα─トコフェロールのみを示した[2]。別名:かんしょ(甘藷)。廃棄部位:表層および両端(表皮の割合:2 %)
%はアメリカ合衆国における
成人栄養摂取目標RDIの割合。
サツマイモのアミノ酸スコア[3][4]

サツマイモ(薩摩芋、甘藷、学名: Ipomoea batatas)は、ヒルガオ科サツマイモ属植物。あるいはその食用部分である塊根(養分を蓄えている肥大した根)。この和名は、琉球王国(現・沖縄県)を経て薩摩国(現・鹿児島県)に伝わったことに由来する[5]。別名として甘藷(かんしょ)

近縁の植物に、アサガオヨウサイ(アサガオ菜)がある。

英語圏の一部では、サツマイモ「sweet potato」を「Yam」などの別の名前で呼んでいる[6][注釈 1]ヤム芋を育てていたアフリカ系奴隷が、アメリカ合衆国で作られた水っぽい「ソフトスイートポテト品種」をヤム芋と似ていたことから「ヤム」と呼ぶようになった。アメリカなどでは本来のヤム芋は輸入食料品店ぐらいにしか置いてないことから、ヤムと表示されていれば「ラベルに注意書き」が無い限り「ソフト」スイートポテトのことである[7][8]

地方により、また歴史的にも呼称は変遷し、たとえば日本本土では「唐芋(からいも、とういも)」や「琉球薯(りゅうきゅういも)」、野國總管沖縄本島に導入した当時は「蕃薯(ばんしょ、はぬす、はんす、はんつ)」と呼ばれていた。他に「とん」「うむ(いもの琉球発音)」等とも呼ばれる。

概要

ピンク色でアサガオに似るが、鈍感な短日性であるため本州などの温帯地域では開花しにくく、品種や栽培条件によってまれに開花する程度である。また、花の数が少なく受粉しにくい上に、受粉後の寒さで枯れてしまうことが多いため、品種改良では種子を効率よく採るためにアサガオなど数種類の近縁植物に接木して、台木から送られる養分や植物ホルモン等の働きによって開花を促進する技術が使われる。

1955年昭和30年)に西山市三メキシコで祖先に当たる二倍体の野生種を見つけ、イポメア・トリフィーダ (Ipomoea trifida) と名付けた。後に他の学者達によって中南米が原産地とされた。若いを利用する専用の品種もあり、主食野菜として食用にされる。原産地は南アメリカ大陸ペルー熱帯地方とされる。大航海時代イタリアクリストファー・コロンブス1498年ベネズエラを訪れて以降、1519年にはポルトガルフェルディナンド・マゼランがスペイン船隊を率いて南端のマゼラン海峡を発見し、16世紀に頻繁に南アメリカ大陸にやってきたスペイン人あるいはポルトガル人により東南アジアに導入された。ルソン島フィリピン)から中国を経て1597年宮古島へ伝わり、17世紀の初め頃に琉球、九州、その後は八丈島本州と伝わった。アジアにおいては外来植物である。中国)から伝来した由来により、特に九州では唐芋とも呼ばれる場合が多い[9]

ニュージーランドへは10世紀頃に伝播し、「クマラ」(kumara) の名称で広く消費されている。西洋人の来航前に既にポリネシア域内では広く栽培されていたため、古代ポリネシア人は南米までの航海を行っていたのではないかと推測されている。

イギリスではエリザベス朝の頃に、その甘さから好意的に受け入れられた。イギリス人はこの芋をペルーでの塊茎を意味する言葉 batata から patate と呼んだ。18世紀末に甘くないジャガイモ (potato) が一般化するにつれ、サツマイモはsweet potatoと呼ばれるようになった[10]

栽培

栽培法

サツマイモは繁殖能力が高く窒素固定細菌(クレブシエラ・オキシトーカ (Klebsiella oxytoca)、パントエア・アグロメランス (Pantoea agglomerans))など[11][12]との共生により窒素固定が行えるため痩せた土地でも育つ。従って、初心者でも比較的育てやすく、江戸時代以降飢饉対策として広く栽培されている。数枚の葉が付いたツル(茎)を土に挿すという形で定植し[注釈 2]不定根を発生させる。その後、不定根が十分に肥大したところで収穫する方法が一般的である(種から発芽させる方法もあるが、アサガオのようにツルを伸ばして生長するためイモはあまり取れない)。農家では前年に収穫した種芋を加温して、その種芋から伸びたツルを切り取って苗とする。家庭菜園程度であれば春に園芸店やホームセンターなどでツルを購入して栽培するのが簡単である。

に苗を植え付け、晩夏からにかけて収穫する(暖地の場合)。また、肥料(特に窒素肥料)を多く与えて葉や茎が育ちすぎると、過剰成長して根の品質(外見・味)が下がる。また、極端な場合では光合成で作られた栄養が茎や葉の成長に浪費されるため、芋の収穫量が減る。サツマイモは痩せた土地でも育つので、前作で野菜が良く採れた場合、初心者は全く肥料を与えないで栽培する方が安全である。苗が植物ウイルスに感染すると収量低下を起こすため、ウイルスフリー苗が利用されることもある[13][14]

以下は特殊な栽培法についての説明である。

  • 乾燥地ではツル苗の活着率が悪いため、種芋を直接または種芋を適当な大きさに分割して、ジャガイモのように圃場に直接植えつける(直播)こともある。栽培の省力化を目論んで種芋直播用農機具の技術開発が行われている[15]
  • 希少品種などの極少量の種芋から多くの苗を得ることを目的に、種芋を輪切りにして、その切断面から不定芽を出させる方法もある[要出典]
  • 開花しやすい系統では種子(真性種子)から栽培されるものもある。
    病気
    害虫
    • サツマイモネコブセンチュウ、ドウガネブイブイ、チャイロムナボソコメツキ、イモキバガ、ナカジロシタバ

    沖縄県全域、奄美群島トカラ列島小笠原諸島ではイモゾウムシ[16]、サツマイモノメイガ[17]による被害が問題となっているが、根絶に向け不妊虫放飼法による対策も行われている[18]

    品種

    • 紅あずま、紅こまち、紅赤(べにあか)、安納紅、安納こがね、紅はるか、シルクスイート、金時などの品種がある。デンプン原料用としては、シロユタカ、シロサツマ、コガネセンガン(黄金千貫)など。
    • シモンイモ - 南アメリカ原産の白甘藷(英語:Ipomoea batatas)は、日本では「シモン芋」とも呼ばれる。
    • 天然着色料の原料としても使用される品種[19]

産地

世界

国際連合食糧農業機関 (FAO) が発表した統計資料によると、2008年平成20年)の全世界における生産量は1億605万トンであり、主食にするイモ類ではジャガイモ(同3億2556万トン)、キャッサバ(同2億3246万トン)に次ぐ。生産地域は中華人民共和国に極端に集中しており、その大部分は酒類への加工用である。日本の生産量は101.1万トン。

  1. 中華人民共和国 80,522,926トン (75.9%)
  2. ナイジェリア 3,318,000トン (3.1%)
  3. ウガンダ 2,707,000トン (2.6%)
  4. インドネシア 1,876,944トン (1.8%)
  5. ベトナム 1,323,900トン (1.2%)
  6. タンザニア 1,322,000トン (1.2%)
  7. インド 1,094,000トン (1.0%)
  8. 日本 1,011,000トン (0.95%)
  9. ケニア 894,781トン (0.84%)
  10. マダガスカル 890,000トン (0.84%)
サツマイモ畑

日本

日本における主産地

鹿児島県茨城県千葉県宮崎県徳島県が全国のトップ5県。この内、上位4県で全国の8割を占め、とりわけ鹿児島県は全国の生産量約81万トンの4割弱を産する[20]。同県ではデンプン原料用や酒造原料用としての作付けも多い。産地の偏在にはいくつか理由がある。まず、県内の多くの地域がサツマイモの栽培に適した水はけの良いシラス台地であること。また、サツマイモは可食部が地中の「芋」であるため、台風に襲われても害を受けにくいことなどがあげられる。

ブランド産地

この他にも、新潟市西区を主産地とする「いもジェンヌ」のように、地元品種のブランド化を試みる生産者や地方自治体がある[21]宮崎県串間市の「ヤマダイかんしょ」は、長年に渡る品質の良い産品の安定的な供給の結果、主たる出荷先である西日本の市場関係者から、「かんしょ(サツマイモ)と言えばヤマダイかんしょ」とまでの高い評価を得、市場の信頼を獲得している。[22]また、平成15年から全国に先駆けて、香港への輸出を行っている。このようなことから、地理的表示法に基づき、地理的表示として登録されている。

日本国内間の検疫

植物防疫法の定めにより、イモゾウムシやサツマイモノメイガなどの害虫の拡散を防ぐため国内間でも検疫が行われ[23]、沖縄県全域、奄美群島トカラ列島小笠原諸島からは、サツマイモやグンバイヒルガオ等のヒルガオ科植物の生茎葉および生塊根等の持ち出しは規制されている[24]。個人の手荷物程度の量であれば、所定の方法で事前に申請すれば移動規制地域から持ち出すことができる。ただし、蒸気で消毒を行う蒸熱処理を行うため、その施設がない地域からの持ち出しはできない[25]。加工品にはこのような制限はない。

現地の港および空港に、これらの注意を促す掲示やポスターがあるので、当地を訪問の際には参照されたい。

日本列島における栽培と普及史

南方ないしは中国から琉球国に伝わり、それが薩摩藩領で栽培され、諸国に伝わった、とするのが定説である。ただし、中国から伝わったものと南蛮貿易などで南方からもたらされたものは別品種・別系統である、とする考察もある。

日本列島の特に本州を中心にした社会では、伝来の経緯から当初「リュウキュウイモ(琉球芋)」「カライモ(唐芋)」またはその色から「赤芋」と呼ばれていたが、江戸幕府薩摩藩から入手し、全国に栽培を奨励して以降は「サツマイモ(薩摩芋)」という呼称が普及し、先の呼び方より多く使用されるようになった。現在も方言として各地に「アカイモ」「カライモ」「トイモ(唐芋)」などの呼称が残っている。[注釈 3]

琉球への渡来

種子島西之表市に建つ「日本甘藷栽培初地之碑」
  • 1597年宮古島に伝来したとする説がある。長真氏等の家譜によると、1594年、宮古島の村役人であった長真氏旨屋(砂川親雲上旨屋)が、宮古島を支配下に置いていた琉球王国首里王府への帰途に逆風で中国に漂着した。1597年に中国を出発したが、今度は九州に流れ着き、それからようやく帰島した。この時に宮古島へ苗を持ち帰ったとする。旨屋は栽培の普及に努め、島では主食となるほどに広まった。死後はンーヌ主(芋の神様)として御獄に祀られている。ただし、サツマイモがフィリピンから中国・福州に伝来したのが1594年であり、1597年はそのわずか3年後であることから、この説には時期的に疑問が呈されており、『宮古史伝』や『宮古島庶民史』は家譜の記述を誤記として退け、宮古への伝来を1618年としている[26]。宮古島から沖縄本島へは伝播しなかった。先島では1612年与那国島1694年石垣島など、それぞれの島ごとに中国から、本島とは関係なくばらばらに伝来し、その島内では急速に普及が図られるものの、他の島へ伝えるのは消極的だった。2013年時点、宮古島の大座御嶽にて甘藷(イモ)の神が祭られている[27]
  • 1604年或は1605年[28]、当時の琉球王国(現在の沖縄県)の沖縄本島に伝わる。への進貢船の事務職長(総管)であった野國総管(与那覇 松)という人物が明の福建等處承宣布政使司(今日の中国福建省付近とされる)からの帰途、苗を鉢植えにして北谷間切野国村(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町)に持ち帰り、儀間村の地頭・儀間真常が総管から苗を分けてもらい栽培に成功、痩せ地でも育つことから広まった。種子島や本土に伝来したのはこちらの系統である。
  • 1713年の『琉球国由来記』では、蕃薯には種類があり、皮や実の色から4種類が分類されている。
  • 1609年(

    前述のように、一般的には日本列島の南方から順に伝わった、とされるが、室町時代安土桃山時代に中国や東南アジアから直接、九州各地の貿易港や畿内などにもたらされていても不思議ではない。以下に記すように、導入ルートも複数ある。しかし導入された土地で必ずしも定着したとは限らないようである。

    • 後世に薩摩藩で編纂された農書本草学書『成形図説』に拠れば、慶長から元和年間(1596から1623年)にかけてのうちに領内の坊津港でのポルトガル人との貿易において、ルソンからの交易品として既にサツマイモがもたらされていた、とされる。
    三浦按針
    • 1614年(慶長19年)、肥前国平戸イギリス商館[注釈 4]長公使のリチャード・コックスの命を受けたウィリアム・アダムス(三浦按針)は、平戸からシャム(タイ)に向けて貿易のための航海に立った。しかし中古の中国ジャンク船を改造したシーアドベンチャー号は浸水を起こし、緊急に琉球国那覇港に寄港した。船の修理を行う間にアダムスは現地の芋を入手し、翌1615年(元和元年)に平戸に持ち帰った。イギリスで食されていたジャガイモに似ているため、コックスは平戸でを借り、農民に委託する形でこれを栽培した、とコックスの日記に記されている。コックスはこれを「琉球芋」と記している。
    • 同じく元和の頃、薩摩出身の僧侶であった鼎山が、紀伊国に持ち込んだ、とされる。
    「貝原益軒像」
    『大和本草』(国立科学博物館の展示)
    • 1697年元禄9年)、宮崎安貞が『農業全書』を著す。同書で甘藷について記述しているが、宮崎は甘藷そのものを見たことはなかったのではないか、と推測されている。また「薩摩や長崎周辺では「琉球芋」または「赤芋」と言い広く栽培されているが、他地域では知られていない」と記している。宮崎と親交のあった貝原益軒1708年(宝永5年)の著『大和本草』では、貝原が実際に観察したと推測される記述がみられ、また、「蕃薯(琉球芋、赤芋)」と「甘薯」の二つに分けて区別している。貝原は「蕃薯は長崎に多く、甘い」「甘薯は元禄時期に琉球から薩摩に伝わった」としている。
    • 1692年元禄5年)、伊予国今治藩の重臣江島為信が、日向国から今治藩領に種芋を移入した。
    • 1704年宝永元年)に出版された浮世草子『心中大鑑』(書方軒)に、「八里半(後述)といふ芋、栗に似たる風味とて四国にありとかや」とあり、これはサツマイモのことだと推定される。
    徳光神社
    甘藷翁(前田利右衛門)頌徳碑
    • 1705年1709年とするものもあり)、薩摩山川岡児ケ水村前田利右衛門は、船乗りとして琉球を訪れ、甘藷を持ち帰り、「カライモ」と呼び、やがて薩摩藩で栽培されるようになった。前田利右衛門を祀る徳光神社には「さつまいも発祥の地」とする碑が建てられている。
    • 藩を挙げて栽培を奨励していた薩摩藩を除き、サツマイモはまず、民間の力で広まった。それらの土地の多くは土壌や土地傾斜などが耕作に不向きなために食糧生産力が低い、すなわち気候異常などにより飢饉が発生し易かった土地に広まった。薩摩藩もまた、領内の半数を占めたシラス台地と呼ばれる”米作には不向きな土地”があったことが奨励の主要因である。「救荒食物」・「救荒植物」や「飢饉」の項目も参照。

      • 安芸国竹原の村上休広が琉球から芋を持ち帰り、竹原周辺で栽培を奨励した、とする話が伝わる。
      • 1711年正徳3年)、六部僧として大三島から諸国行脚の道中に薩摩を訪れた下見吉十郎が、薩摩藩領内からの持ち出し禁止とされていた芋を、仏像に穴を空けてそこに種芋を隠すという手法で持ち出し、故郷である伊予国(現在の愛媛県)大三島での栽培を開始した。この下見の妻が村上休広の娘、という血縁関係である。
      • 1715年(正徳5年)、対馬郷士の原田三郎右衛門が、薩摩国からサツマイモの種芋を持ち帰った。対馬国の地は全島の9割近くが山地であり、耕作面積が非常に狭いため、武士階級でも山野の食物を採集して食べていたほど食糧生産事情が悪かったが、サツマイモの普及によりこれが解消した。現地では「孝行イモ」とも呼ばれる。また、サツマイモを非常に手間をかけて加工し、「せん」と呼ばれる保存食を製造していた。この「せん」から対馬独特の団子や餅、ちまき、さらに「ろくべえ」と呼ばれる麺を作る。六兵衛は肥前国島原半島周辺と対馬にて作られているが、両者の関係はよくわかっていない。共通するのは他のサツマイモ産地と同様に「米作りに適した土地(土壌)ではなかった」という点である。
      • 幕府はこの頃既に救荒作物としてリュウキュウイモ(サツマイモ)の有用性を認識していたらしく、1723年(享保8年)に耕作に不向きで全島飢饉に陥ることが多かった八丈島にこれを導入しようとしている。同年の試みは失敗に終わったが、数年後の1727年(享保12年)に定着に成功した。1735年(享保20年)には伊豆七島に種芋を送り、栽培を推奨している。
      井戸正明像(井戸神社蔵)
      • 徳川吉宗
        青木昆陽
        1734年、青木昆陽は薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、九州出身の者の手を借り、江戸小石川植物園下総の馬加村(現・千葉市花見川区幕張町)、上総九十九里浜の不動堂村(現・九十九里町)において試験栽培し、1735年栽培成功を確認。「薩摩芋」はこれ以後、東日本にも広く普及するようになる。
        1734年、 昆陽は『甘藷記』を記し、普及に努めている。編纂は越智直澄。共著は小比賀時胤、越智直澄、医官の野呂元丈
        1736年元文元年)昆陽は幕府より薩摩芋御用掛を拝命し、幕臣となった。
        サツマイモの普及イコール甘藷先生(青木昆陽)の手柄、とするには異説もあるが、昆陽が同時代に既に薩摩芋を代名詞とする名声を得ていたことは事実である。
        早川正紀の銅像

        余談となるが幕府はこの頃、同じような目的からジャガイモの普及・栽培も奨励している。

        一般への普及

        その後、サツマイモは庶民の生活・文化の中に急速に浸透した。サツマイモを詠んだ狂歌川柳も多く残る。

        • 1751年寛延4年)頃、川越名主が息子を上総に派遣してサツマイモの栽培法を学ばせ、これを導入した。これがのちに川越をサツマイモの名産地と成した。のち川越藩主の松平直恒を通し将軍徳川家治に川越地方でとれたサツマイモを献上した際、「川越いも」の名を賜ったとされる。
        川越旧三富新田の神明社境内
        「甘諸乃神(いものかみ)」
        • 1773年安永2年)出版の小松屋百亀小噺本『聞上手』に「いもや」という話が収録されている。古典落語『芋俵』の元になったとされるが、この時点で江戸では芋が庶民にも親しまれ、芋の商いが商売として成り立っていたことがわかる。
        • 1789年寛政元年)、いわゆる百珍物のレシピ本である『甘藷百珍』(珍古楼主人・著)が出版された。
        • 寛政年間(1789年-1801年)頃、尼崎においてサツマイモの栽培が始まった。それまでは農業に適しているとはいえなかった荒れた土地を使い、「尼いも」と呼ばれ特産となった芋は京阪神の料亭などに出荷された。
        • 1794年(寛政6年)に山東京伝・作で北尾重政・画の黄表紙『箕間尺参人酩酊』には、蒸し芋売りの店が描かれている。1830年頃の随筆『寛天見聞記』には「寛政の頃は焼き芋はなく、蒸し芋しかなかった。のち神田甚兵衛橋(弁慶橋隣)あたりで焼き芋が初めて売られた」と記されている。
        • 文政年間(1818年-1831年)頃、駿河国御前崎周辺(現在の静岡県御前崎市)で干しいもの製法が確立された。現代の干しいもも基本的にこの製法である。
        • 1831年天保2年)、幕臣の山田桂翁による随筆集『宝暦現来集』には、1793年(寛政5年)の冬に、江戸本郷[要曖昧さ回避]四丁目の番屋にて、行灯に「八里半」と書いて焼芋[注釈 6]を売った、その後小石川白山町にてこちらは行灯に「十三里」と書いて石焼芋が売られた、と記されている。また、それ以前の江戸では「蒸し芋」が主であったが、このヒット以降、焼き芋が主流になったとも書かれている。番所では小物の商いをすることが黙認されており、その物販の一つとして冬場に芋が売られていた。
        『名所江戸百景』冬の部
        びくにはし雪中
        • 上述の「八里半」とは栗(九里)に食味が近いという意味である。前出の通り、1704年頃には既に関西方面では知られた名称だったことが推測される。また「十三里」は栗より上という意味と、当時サツマイモ栽培が盛んであった武蔵国川越が、江戸から十三里の距離であったことに由来すると共に「栗より美味い十三里(九里+四里=十三里)」という江戸の地口の宣伝文句と共に広まった。1853年嘉永六年)頃に書かれた喜多川守貞の『守貞謾稿』では、川越とはもはや無関係の関西方面でも「十三里」と書かれた芋売りがいたことが記されている。同書では一方で江戸の「○焼き」「八里半」と書かれた看板(行燈)の挿絵も収録されている。1858年安政5年)に描かれた歌川広重の『名所江戸百景』中の「びくにはし雪中」という作品には、冬の江戸(京橋川が外堀に出る河口に架かっていた比丘尼橋付近。現在の銀座一丁目あたり)で「○焼き」「十三里」と書かれた看板が描かれている。この「○焼き」とは焼き芋の形体の事であり、切ってから焼いたものを「切焼き」、芋一本を丸ごと焼いたものを「丸焼き」と呼び、「○焼き」などと書かれた。また「十里」という用語もある。1850年 (嘉永3年) に西沢一鳳が出した江戸見聞録『皇都午睡』[注釈 7]にて、生焼けの芋を十里と言う、と書かれている。五里五里、すなわち食感がゴリゴリだという意味である。
        • 前出の『守貞謾稿』では大阪京都において「ほっこり、ほっこり」と言いながら行商で蒸し芋を売り歩く姿が記録されており、これは同書に先立つ1809年文化6年)出版の十返舎一九滑稽本東海道中膝栗毛』大阪編においても「ほっこりほっこり、ぬくいのあがらんかいな」と売り歩く姿が書かれている。ここから派生し、上方方面では蒸し芋・焼き芋の事を「ほっこり」と呼ぶようになった。『東海道中膝栗毛』作中においても「女中がたの器量不器量、ほっこり買うて喰うてござるも」という文があり、現代の辞書においても「ほっこり」の意味として「上方方言で焼き芋のこと」とされている。
        • 1853年嘉永六年)、薩摩の商人であった丹宗庄右衛門が罪を得て八丈島に遠島処分となった。前出のように八丈島では米が恒久的に不作であり、酒造りに回す余剰の米が無く、酒造は禁止されていた。庄右衛門は八丈島にて栽培定着していたサツマイモを使って、地元薩摩で行われていた芋焼酎作りに着手し成功した。庄右衛門が島に居た16年の間に彼は、薩摩から焼酎に適した品種の芋、薩摩の優れた道具の導入を行い、八丈島に芋焼酎産業を定着させた。
        • 江戸末期において甘いサツマイモは、世間に肥満が増えた原因とされたことがある。
        • 近世後期において、九州、四国を中心とした日本の西南地域ではサツマイモの日常食材化が進み、人口増加率も全国平均を大きく上回っている。風害や干害に強く人口支持力の高いサツマイモは、米の売却で利益を得る諸藩にとってもまた藩領民にとっても、基本的に税の対象外でもあり、都合の良い作物だった[30]
        • 江戸時代末期に生まれた菊池貴一郎が「蘆乃葉散人」という筆名で明治30年代になって出版した『江戸府内絵本風俗往来』という書がある。自身の手による挿絵もある同書には、自身の江戸期の思い出として「冬になれば江戸の町人が住む市中で焼芋店のあらぬ所はなかった」「町々の木戸の番太郎の店(番屋)では必ず焼芋を売っていた」「日本橋あたりの繁華街で売っていた芋は甘くて香りが良かった。あれは川越の本場物だったと推測する。だからであろう、値段も高かった」と記されている。また、「焼き芋は9月下旬から12月まで売られた」「1月から2~3月は焼芋ではなく蒸し芋または芋の丸揚げが売られた」とも記されている。同書の著者の菊池とは、のちの四代目歌川広重のことである。
        • 幕末から明治期には現在もサツマイモで名高い川越の赤沢仁兵衛が実験・研究し、まとめた「赤沢式甘藷栽培法」によって収穫量が増加した。
        大学芋