ザンビア共和国
Republic of Zambia
ザンビアの国旗 ザンビアの国章
国旗 (国章)
国の標語:One Zambia, One Nation
(英語: 1つのザンビア、1つの国)
国歌誇りと自由を胸に、ザンビアの歌を
ザンビアの位置
公用語 英語[1]
首都 ルサカ
最大の都市 ルサカ
政府
大統領 エドガー・ルング
首相 なし
面積
総計 752,614km238位
水面積率 1.6%
人口
総計(2017年 17,218,000人(???位
人口密度 14人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2017年 2兆4,278億[2]ザンビア・クワチャ
GDP(MER
合計(2017年 200億[2]ドル(???位
GDP(PPP
合計(2017年688億[2]ドル(???位
1人あたり 3,996[2]ドル
独立イギリスから
1964年10月24日
通貨 ザンビア・クワチャZMK
時間帯 UTC +2(DST:なし)
ISO 3166-1 ZM / ZMB
ccTLD .zm
国際電話番号 260

ザンビア共和国(ザンビアきょうわこく)、通称ザンビアは、アフリカ南部に位置する共和制国家イギリス連邦加盟国のひとつである。かつてはイギリス北ローデシアであった地域。内陸国であり、コンゴ民主共和国タンザニアマラウイモザンビークジンバブエナミビアアンゴラボツワナの8つの国に接している[3]。国の人口は1,735万人(2018年:世銀)であり、首都はルサカである。公用語英語2018年に発表された世界平和度指数ランキングでは163か国中48位となり、アフリカでもっとも平和な国の一つとして評価されている。

ザンビアと南隣のジンバブエとの国境に流れるザンベジ川には世界三大瀑布の一つと称されるヴィクトリアの滝があり、アフリカを代表する動物、ゾウカバキリンシマウマヌーも多く住み、大自然が大変よく残されている。一方で、北部のカッパーベルトには鉱山が多数存在し、独立以前から銅の生産を主産業とする大鉱産国である[4]

国名

正式名称は英語で、Republic of Zambia(リパブリック・オブ・ザンビア)。通称、Zambia(ザンビア)。

日本語の表記は、ザンビア共和国。通称はザンビア

国名は、国の西部から南部を流れるザンベジ川に因んでいる。

歴史

独立前

1798年にこの土地に進出していたポルトガルは、1830年代から大西洋岸のアンゴラ植民地とインド洋岸のモザンビークを結ぶべく、内陸のザンビアへの探検を本格化させ、シルヴァ・ポルトのような探検家がこの地を訪れた。他方、19世紀半ばにはイギリスもこの地への関心を深め、1855年にこの地を訪れた探検家にして宣教師でもあったデイビッド・リビングストンが、「モーシ・オワ・トゥーニャ」の滝をヨーロッパ人として初めて「発見」し、当時のイギリスのヴィクトリア女王の名に因んで「ヴィクトリアの滝」と名付けた。

1880年代に入ってヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進むと、アフリカを横断しようとするポルトガルの利害は、カイロからケープタウンまでアフリカを縦断しようとしていたイギリスのそれと真向から衝突した。ボーア人アフリカーナー)の機先を制してアフリカ内陸部の土地を占有しようとしたセシル・ローズの意向によりイギリスはローデシアからザンベジ川上流とニヤサ湖の間の地域の統治権を確立した後、1889年10月29日南アフリカ会社を設立した[5]。ローズは、更にアフリカ内陸部への領有意識を拡大し1890年3月にベチュアナランド警察隊の将校であるロシュナーがザンベジ川を渡ってロヅィ族の王レワニカとの間で「ロシュナー協定」を締結し、このロシュナー協定によって1891年までにイギリス南アフリカ会社は、レワニカ王の統治権が及んでいたバロツェランド一帯に行政権を及ぼした[6]。また、イギリスは1890年1月11日にポルトガルに対して最後通牒を出し、現在のザンビアとジンバブエとマラウイに相当する地域に展開していたポルトガル軍を撤収させて、現在とジンバブエとザンビアに相当する地域の植民地化を決定的なものとした[7]。この事件はポルトガル本国での共和主義者によるアフリカ内陸部を結ぶ「バラ色地図」計画に失敗した王政への批判を招き、1910年10月5日革命の遠因ともなった[8]

1912年のアフリカ

1898年6月25日に初のヨーロッパ人移民があった後、1900年バロツェランド・北西ローデシア立法審議会が開かれ、この地はイギリスの保護領となったが、在地のレワニカ王はその後も一定の権力を保ち、レワニカ王は1906年にバロツェランドの奴隷制を廃止した[9]。その後20世紀初頭には、ツェツェ蠅が多く、農業に適していなかったこの北ローデシアの地へのヨーロッパ人の入植は進まず、鉄道も建設されなかった[10]

1924年、イギリスはこの地を北ローデシア保護領として直轄植民地化した。1925年カタンガの国境付近での大鉱脈(カッパーベルト)が発見されると、それまで開発の進んでいなかった北ローデシアには1929年ローデシア・アングロ・アメリカン社(AAC)とローデシア・セレクション・トラスト社(RST)が銅開発に乗り出し、1930年にはアフリカ人銅山労働者の人数は23,000人に達した[11]。北ローデシアの銅経済は1929年世界恐慌勃発と1931年11月の銅価格の暴落を乗り切り、その経済的な好調は南ローデシアに居住していた白人入植者の目をこの地に向けることになった[12]

北ローデシアは、1953年南ローデシア(現在のジンバブエ)に入植したイギリス系白人主導で、南ローデシア、ニヤサランド(現在のマラウイ)と共にローデシア・ニヤサランド連邦に改編され、連邦初代首相にはハギンス英語版が就任した[13]1956年に第二代連邦首相に就任したロイ・ウェレンスキーの統治を経てローデシア・ニヤサランド連邦では葉タバコ生産やカリバ水力発電ダムの電力による工業化が急速に進んだが、連邦の経済政策が白人入植者の集中していた南ローデシアを優先する方針を取ったために黒人民族主義者の反発を招いて1963年に崩壊し、翌1964年7月にニヤサランドはバンダ首相の下でマラウイとして独立を達成、北ローデシアも在地のロヅィ族の王ムワナウイナ3世によるバロツェランドの分離独立運動を制した北ローデシア植民地政府首相のケネス・カウンダ統一民族独立党(UNIP)により、1964年10月24日にザンビアとしてイギリスから独立した[14]。そのため、1964年10月10日に開幕した東京オリンピックの大会期間中は北ローデシア代表として参加したが、閉幕日当日の10月24日が国家独立日となったために国名が変更されてザンビア代表となり、閉会式にはザンビアの国旗を掲げて入場行進を行ったという逸話が残っている[15]

独立後

独立後直後に国際連合に加盟したザンビアは、国連の経済制裁決議に従ってアパルトヘイトを敷いていた南アフリカ共和国との経済関係を断ち、さらに1965年にローデシアイアン・スミス首相の下で一方的独立宣言を行うと、ローデシアの封鎖にも加わった[16]。両国に大きく経済的に依存していたザンビア経済は大打撃を受け、さらに内陸国であったザンビアはそれまで行っていたローデシア鉄道を用いた銅輸出への道を絶たれた。1969年8月にカウンダ政権は外資系銅企業の国有化政策を進め、1970年7月にはタンザニア、中華人民共和国の援助でローデシアを経由しない銅輸出のためのタンザン鉄道の建設が調印された[17]。また、1970年2月にカウンダは国内の部族主義を克服するため[18]統一民族独立党(UNIP)による一党制を樹立した。

1973年にカウンダはローデシアとの国境を完全に封鎖し、さらに銅企業の国有化政策を推進した。外交面でカウンダはポルトガルからの独立を目指すモザンビーク解放戦線(FRELIMO)やアンゴラ国民解放戦線(FNLA)を支援しており、1974年4月25日にポルトガルでカーネーション革命が勃発し、エスタード・ノーヴォ体制が崩壊すると、9月にFRELIMOとポルトガル新政府を仲介してルサカ合意英語版を実現させた。西の隣国アンゴラの独立に際しては、1975年11月のアンゴラ解放人民運動(MPLA)主導での独立達成当初は中立を表明したが、翌1976年4月にMPLA政権を承認した[19]

ザンビアは独立以来一貫して銅に依存した経済構造を有しており、政府主導での農業部門の拡大による経済の多角化が唱えられながらも小農の形成は進まなかった。このような経済構造が災いして、1970年代後半の銅価格低迷はザンビアの経済に大打撃を与え、1980年代のザンビアは経済的に低迷し続けた[20]。1982年、AAC とRST が合併して Zambia Consolidated Copper Mines Limited(ZCCM)となった。国民は銅価格の低下に起因するザンビア経済の凋落に不満を示した。1986年12月には暴動が発生、1989年にはカウンダの与党統一民族独立党(UNIP)一党制に対して公然と複数政党制を要求する声が挙がり、1990年6月の暴動を経て同1990年7月20日には複数政党制民主主義運動(MMD)が結成された。1991年複数政党制を導入した選挙で与党UNIPはフレデリック・チルバ率いる複数政党制民主主義運動(MMD)に敗れ、カウンダ政権は終焉した[21]

新たに就任したチルバ大統領は経済の自由化を進め、ZCCMを1997年から2000年にかけて8つの事業へ段階的に民営化するなどの改革を行ったが経済は好転せず、汚職が恒常化しクーデターが試みられるなど政治は不安定化した。

2002年にMMDからレヴィー・ムワナワサが大統領に就任した。ムワナワサ大統領は2006年の大統領選挙でザンビアへの経済進出著しい中国と中国人の排斥を唱えた野党・愛国戦線のマイケル・サタ候補を制した[22]

その後ムワナワサ大統領は任期中の2008年に死去し、その後の大統領選でMMDのルピヤ・バンダ大統領代行が当選した[23]。2011年の大統領選には当時の現職のバンダ大統領代行を破ったマイケル・サタ候補が当選し、政権交代が起きたものの、サタ大統領もまた任期中の2014年10月28日にロンドンで死去した。副大統領で白人のガイ・スコットが暫定大統領に就任した[24]のち、与党・愛国戦線のエドガー・ルングが、選挙を経て2015年1月25日に第6代大統領に就任した。

ルング大統領

政治

ザンビアは共和制大統領制をとる立憲国家で、現行憲法1991年8月24日に公布(1996年改正)されたものである。

国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。1996年の憲法改正により3選禁止事項が盛り込まれた。閣僚は大統領が国民議会議員の中から任命する。首相職は1991年8月31日に廃止された。

立法府一院制で、正式名称は国民議会。定数は158議席で、うち150議席は国民の直接選挙により選出され、8議席は大統領による任命制である。議員の任期は5年である。

1991年からザンビアは複数政党制が認められている。2018年時点の与党は革新政党である愛国戦線(PF)であり、最大野党は自由主義政党の国家開発統一党(UPND)である。前与党の複数政党制民主主義運動(MMD)は2016年の選挙で大敗し小政党に転落している。旧一党支配政党の統一民族独立党(UNIP)は存在はしているものの、議席は獲得できていない。

国際関係

中華人民共和国との関係

ザンビアは1964年の独立以来中華人民共和国とは経済的にも軍事的にも友好関係にあり、ザンビア中部からタンザニアダルエスサラームまでのタンザン鉄道を建設したのも中国であった。

しかし、1998年に起きた銅鉱山を買い取った中国人による労働組合設立の弾圧や、2006年の中国人の賃金未払いによる労働者デモで中国人監督が労働者に発砲した事件などでザンビア国民の対中感情は悪くなってきている。2006年秋の大統領選に出馬した野党愛国戦線マイケル・サタ党首は中国追放論を主張した。結果は敗れたものの、28%の支持を得た。首都のルサカでは選挙を争った前大統領レヴィー・ムワナワサの3倍の票を得た。

日本との関係

日本はこのザンビアの援助に力を入れており、経済協力は年間5,200万ドル(約57億円、2001年)に及ぶ。この額は日本の対アフリカ援助で3番目となっている。