スウェーデン王国
Konungariket Sverige
スウェーデンの国旗 スウェーデンの国章
国旗 国章
国の標語:För Sverige i tiden
(スウェーデン語: スウェーデンのために、時代と共に)
国歌Du gamla, du fria(スウェーデン語)
古き自由な北の国
スウェーデンの位置
公用語 スウェーデン語(2009年から)
首都 ストックホルム
最大の都市 ストックホルム
政府
国王 カール16世グスタフ
首相 ステファン・ロベーン
面積
総計 449,964km254位
水面積率 8.7%
人口
総計(2013年 9,596,436人(84位
人口密度 20人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 3兆1,578億[1]スウェーデン・クローナ
GDP (MER)
合計(2008年 4,845億[1]ドル(19位
GDP (PPP)
合計(2008年3,418億[1]ドル(???位
1人あたり 37,245[1]ドル
カルマル同盟より独立1523年6月6日
通貨 スウェーデン・クローナ (SEK)
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 SE / SWE
ccTLD .se
国際電話番号 46

スウェーデン王国(スウェーデンおうこく、スウェーデン語: Sv-Konungariket Sverige.ogg Konungariket Sverige[ヘルプ/ファイル])、通称スウェーデンは、北ヨーロッパスカンディナヴィア半島に位置する立憲君主制国家。首都はストックホルム。西にノルウェー、北東にフィンランド国境を接し、南西にカテガット海峡を挟んでデンマークと近接する。東から南にはバルト海が存在し、対岸のロシアドイツとの関わりが深い。法定最低賃金は存在しておらず[2]、スウェーデン国外の大企業や機関投資家に経済を左右されている。

概要

現王家はベルナドッテ家。興家より半世紀ほど後の大不況アメリカ合衆国人口が流出した。それから手形交換制度ができたり、ノーベル賞が創設されたり、第一次世界大戦の情報戦に参加したりして、国家戦略を現代化させた。歴代国王は王位につく際に、自分の統治について所信表明する習慣になっている[註 1]

スウェーデンの経済は近代から、ノーベル財団の理事を輩出するヴァレンベリ家が支えてきたといわれている。トールステン・ノルデンフェルトボリス・ハーゲリンは多国籍軍事産業を開拓した。戦間期にはイーヴァル・クルーガーの金融帝国が台頭して積極的に外資を導入した。そして、スウェーデン系のエドワード・レフラーがボストンで最初のミューチュアル・ファンドを開発した。戦後、フォルケ・ベルナドッテが射殺され、ペール・ヤコブソンヨーロッパ支払同盟の構想へ意見した。アルバ・ライマル・ミュルダールノルディックモデルを推進したので、スウェーデンは政治家にまで厚い高負担高福祉国家となった。しかしオイルショックで財政難に陥り、政治と経済がバブル崩壊の手前から機関化した。スウェーデンは中立を放棄して欧州連合に加盟した。

2003年、スウェーデンはユーロ導入を否決した。世界幸福地図では世界178ヵ国で第7位(2006年)、世界価値観調査での幸福度(Happiness)はアイスランド、デンマークに次いで第3位(2005年)であった[3]。外国機関投資家の演出した幸福は世界金融危機で崩れ去り、スウェーデンはデンマーク・アイスランドのように高い失業率を記録した。1998年BAEシステムズインベストールから35%を譲り受けてSAABの筆頭株主となったが[4]、2005年1月に売却して支配率を22%に下げた[5]。2011年末サーブ・オートモービルが破産した。同社はスウェーデン政府からの公的支援を拒否されていた。

現在のスウェーデン経済では電力会社バッテンフォールの躍進が目立つ。家計の総額に近い外資がスウェーデンを支えており[6]、その労働人口に対する公務員の比率がフランスを超えて28.3%に達する[7]

関連する記事についてはスウェーデン関係記事の一覧を参照。

国名

正式名称はKonungariket Sverige(コーヌンガリーケト・スヴェリエ)。通称Sverige。形容詞はsvensk(スヴェンスク)。 スウェーデン語ではSverige(スヴェーリエ)といい、スヴェーア族の国を意味する。英語表記はSweden、国民はSwede、形容詞はSwedish。

日本語の表記はスウェーデン王国。通称スウェーデン。他にスエーデンスェーデンという表記もされる。漢字による当て字は「瑞典」。スイスの当て字は「瑞西」で、いずれも「」と略されるが、これらの漢字名は一般に余り用いられないため混乱を生むことは少ない。なお、特にスイスと区別する場合はスウェーデンを「[8]、スイスを「瑞」と略する[註 2]

歴史

古代はスウェーデン・ヴァイキング(ヴァリャーグ)として主に東方で活動した。ヨーロッパ文化やキリスト教も受容し、13世紀頃にはフォルクンガ朝が現在のフィンランドを含む地域を統一。1397年にデンマーク・ノルウェーとカルマル同盟を結び同君連合となる。

バルト帝国

1523年、カルマル同盟から離脱し王政となる(ヴァーサ朝)。16世紀の宗教改革ではプロテスタントを受容し、バルト海地域へ進出する。17世紀にグスタフ2世アドルフ(獅子王)の時代にバルト帝国を建国する。新大陸にも植民地を築き、王国は最盛期を迎える。三十年戦争に参加したり、1634年にフーゴー・グローティウスを駐仏大使として活躍させたりして、オランダへ急接近し国際的地位を築いた。1654年にプファルツ朝に王朝替えするもバルト帝国を維持。しかし18世紀初頭にカール12世はバルト海の覇権を争い、ピョートル1世の時代のロシア帝国との大北方戦争で敗れ、沿岸の領土を失い一時没落する。18世紀後半にホルシュタイン=ゴットルプ朝グスタフ3世が中興させるも、ナポレオン戦争に伴う第二次ロシア・スウェーデン戦争の敗北により、フィンランドを失った。

ベルナドッテ

1809年の革命で立憲君主制が成立、1814年にキール条約でノルウェーを併合、1818年よりフランス人ベルナドット元帥(カール14世ヨハン)が国王に即位しベルナドッテ朝が始まる。身分制的・封建制的秩序の解体が進みだした。ウィーン体制ではノルウェーと同君連合(1814年 - 1905年)を結ぶが、スウェーデン=ノルウェーは1905年に分離した。19世紀半ばにスウェーデン王の推奨した汎スカンディナヴィア主義が頓挫し、北欧は小国分立に向かった。スウェーデンでは1866年に身分制議会が廃止され、政治がシティのように経済力で支配されるようになった。世紀後半の大不況にアメリカへ人口が流出した。国内では、自由教会運動、禁酒運動、社会民主主義労働運動などがおこった。1914年からの第一次世界大戦では中立であったが、ドイツ帝国アメリカ合衆国へ送る外交電文をストックホルム経由で再暗号化してやったり、それをイギリスから非難されてからもブエノスアイレスのスウェーデン大使館を経由させたりして、結果的には逆に英国がドイツの外交電文を解読する機会をつくった。戦後の首相二人(Gerhard Louis De Geer andOscar von Sydow)が金解禁をやろうとして戦後不況にデフレ政策で臨んだ。

マッチ帝国

無謀な緊縮政策に踏み切らせたのはストックホルム証券取引所の活況であった。新株発行に必要な銀行からの借入れ資本は、1918年末にスウェーデン全商業銀行による貸付の43%(18億クローナ)に達した。上場株式の総額は1917年で40億クローナにものぼり、このころの出来高は1980年まで史上最高であったといわれる。イーヴァル・クルーガースベンスカ・ハンデルスバンケンのコンソーシアムから6千万クローネを借り入れ、1920年夏に集中して国外投資を遂行した。競争相手を買収したり、相手が分からないときは借款を提供して政府保証のマッチ専売権を獲得した。戦後不況の財務悪化を粉飾決算でごまかしながら、1922年ボストン旧家のリー・ヒギンソン商会(Lee, Higginson & Co.)の援助で新株を発行した。1923年に国際マッチ会社(IMCO)を設立、はりぼてのマッチ帝国ができあがった。毎年、無理をして配当を支払った。1925-8年に株価は上昇をつづけ、世界恐慌で下落した。マッチ帝国は、もっと拡大すれば公的資金の注入を期待できると考えたかもしれない。1929年にボリデン(Boliden AB)を、翌1930年にはエリクソンを買収した。しかしアセアのような基幹産業やヴァレンベリ家の国際金融網とは関わりがもてなかった。1932年2月23日、リクスバンクとハンデルスから借款を受けようと交渉した。銀行は財務情報なくして融資はできないと断った。3月にクルーガーは死んだ。ヴァレンベリ家も参加する調査委員会がプライスウォーターハウスを招き、背信的な粉飾をあぶりだした。2月の借款交渉でクルーガーから寄付を受け取っていた首相(Carl Gustaf Ekman)は、その他の問題でも追及され8月に辞めた。[9]

社民党政権

1932年にスウェーデン社会民主労働党(社民党)政権となった。武装中立政策を取り、第一次世界大戦第二次世界大戦の両大戦にも参加していないが、両大戦とも義勇軍を組織していた。特に第二次大戦では、ナチスドイツなど枢軸国連合国の両方に様々な便宜を図ったことが中立違反として、戦中も戦後も国内外から批判を浴びている。ただし、当時は連合国も枢軸国も国際法を守っていなかったうえ、両陣営がそれぞれ優勢な時期でも宣戦布告や領土内への侵攻を許さなかったことは事実である。ことにデンマーク、ノルウェー、フィンランド人の反ナチスレジスタンスユダヤ人を保護したことは、人道に重きを置いた決定と言える。また大日本帝国政府の終戦の事前交渉も行なっている。1940年代後半から1950年代にかけてスウェーデンは、イタリアユーゴスラビアギリシャトルコなどから、労働力不足を補うために労働者を受け入れた[10][11][註 3]

東西冷戦中はノルディックバランスを構築し、アメリカ寄りの政策と中立主義政策を行き来した。内政では社民党がブレトンウッズ協定の1944年から所得比例の公的付加年金の創設を主張していたが、1959年5月14日夕刻たった1票差で社民党政府の法案が通った。日本では国民年金法が制定され、アメリカでは企業年金が大成長したような時代だった。一方では1947年に投資準備金関連法(1938年制定)を改正、恒久化した。この投資準備金制度は、好況期に税控除前の利益の一部を積み立てさせ、不況期に労働市場庁の承認や命令で有効利用させるものである。1955年に設定対象を林業へ拡大した。1960-61年にはデフレ政策として企業の投資準備金を全額リクスバンクに凍結預金させた[12]。スウェーデンは対外投資を増大させた[13]

戦後17年間、エステン・ウンデン(Östen Undén)がスウェーデン外相をつとめあげた結果どうなったか。1953年に北欧共通労働市場協定を締結したが、1950年代後半から移民が大量に入ってきて、1960年代後半にピークを迎えた。約2/3がフィンランド系であり、定住を前提に共生をめざし、定住外国人に地方参政権を与えるなどの政策がとられた[11]。これは1974年の地方自治法制定につながってゆく。一方では、ウンデン計画の通り軍縮が進んだ。スウェーデン軍事産業の収益は減少した。こうしてアメリカの軍産複合体と国際市場縮小の痛みを分かち合いながら、ノーベル経済学賞を創設して財テクも共有するようになった。政治資金の在り方も変わった。1965年に公庫補助制度が導入されたのである。これは1957年プエルトリコが先鞭をつけた国庫補助制度である。スウェーデンの場合は使途を指定されず、議席数に比例して与えられ、1969年にはコミューンレベルでも導入された[14]

石油ショック

非産油国のスウェーデンはオイルショックの直撃を受けた。スウェーデン人はイーヴァル・クルーガーを研究するようになった。これに学んでオーバーローンは抑えられたかもしれない。エドワード・レフラーに対する研究蓄積の程度は定かでないが、隆盛している投信業界にメスを入れるのは難しかったはずであり、その強く出られないあたりがユーロ危機で金融派生商品項目の赤字を計上する原因なのであろう。スウェーデンは1973年に外国人労働者の受入をやめた。同年にデンマーク欧州連合に加盟して、北欧諸国の税制論議をリードするようになった。政党に対する国庫補助が増額されてゆき、政権交代が常態化する環境が生まれた。1977年、造船業が国有化された(Svenska Varv)。1978年、鉄鋼業が統合された(SSAB)。スウェーデンがオイルショックで負った後遺症は、1980年100万人規模の労働争議に現れた。同年6月の国会決議で、2010年までに原発を全廃することになった。1982年からオロフ・パルメ首相がスウェーデン経済を改革してゆき、SSABの採算性を確保するとともに、社会サービス法を制定した[15]。1984年、勤労者基金制度が導入された(1990年廃止)。1985年、金利が自由化し、貸出量規制が廃止された。税制改革としてアメリカの改革法案(1986年に成立)が徹底的に調査された。スウェーデンは混乱を極めた。

同1985年1月、50人超の連盟による嘆願書が司法長官マグヌス・ショーベリ(Magnus Sjöberg)に送られた。医師と警察が市民の頭部に送信機をインプラントすることが合法かどうかについて回答を求めるものであった。司法長官は3ヵ月後、書簡をストックホルム地方検事へ送った。検事が司法長官に代わり、合法であると主張した。[16][17][18]

金融植民地

首相の暗殺された1986年、スウェーデン政府が株式取引税を1%から2%に増額した。するとビッグバンマイケル・ミルケンの乱舞する中、イギリスとアメリカの証券市場でスウェーデン株の取引量が急増した。こうしてスウェーデン経済は機関化しだした。個人向けのファイナンス・カンパニーからシャドー・バンキング・システムが成長した[19]。国内株を引き止めようと公開市場操作を導入し買いオペ。1987年、株価の上昇が止まった[20]。そこで1988年に公開買付制度を導入したが、それはセカンダリー・バンキング時代のシティ・コード(City Code on Takeovers and Mergers)を模したものであった[21]。株価は再上昇、スウェーデンの脱原発路線は機関化により後退していった。1989-90年をピークにスウェーデンの株価と地価は急落した。1990年1月29日から3週間にわたり、全国の銀行ロックアウトした。現金自動預け払い機も停止。このときはストックホルム・アーランダ空港の外貨両替所も閉鎖となった。10-11月、不動産担保証券(MBS)が発行された[22][23]。1991年1月、新しい税法が実施された。法定法人税率は30%に引き下げられたが、しかし課税ベースが大幅拡大し、結果として長年つづいた投資準備金制度が廃止された。1992年末で住宅ローンを中心に国内銀行の抱える不良債権は1332億クローナにのぼった。セキュラムが設立されて、証券化の時代が到来した。セキュラムは政府当局に対するマッキンゼー・アンド・カンパニーの提案に従った(Justin Jenk)。1992年のエーデル改革(Ädelreformen)が社会サービス法を修正、高齢者に対する保健医療サービスについてはコミューンへ権限委譲を進め、高齢者介護サービスの実施をコミューンへ一元化した。累積する地方債を国内外の機関投資家が消化することになった。1995年スウェーデンは、同じく中立国であるオーストリア、フィンランドとともに欧州連合 (EU) に加盟し、中立主義を放棄した。そして法人税率は25%になった。

2000年には、地方財政の予算原則として新たに均衡予算原則が地方自治法に盛り込まれ、赤字決算となったら三年以内に解消することが求められるようになった。2001年に社会サービス法を全面改正し、利用者負担に上限額を設定するとともに、利用者負担額を支払った後利用者の手元に残る額の下限額を設定した。2002年7月から全国一律に適用された。教育の充実もあいまって、コミュンインベスト(Kommuninvest)などにスウェーデンの地方財政は機関化されていった。地方債の発行残高は2003年に1775億9千万クローネとなった。2001年10月、イタリアリナーテ空港事故。2003年6月、スウェーデンはユーロ導入を否決した。国一つ分しかないマネーサプライが内外から需要され、スウェーデンは高金利不況でキャッシュレス化していった。同2003年、大手保険会社スカンディア(Skandia)が北米事業をプルデンシャル・ファイナンシャルに売却した。2004年、フィンランドにサンポコンツェルンが設立された。

政治

政体立憲君主制。国家元首である国王は、国家の象徴であり、儀礼的職務のみを行う。

スウェーデンの立法機関たる議会リクスダーゲン (Riksdagen) と呼ばれる。1971年に両院制から一院制に変わった。2006年総選挙時の定数は349議席で、議員の任期は4年。議員の選出方法は比例代表制による。

行政府の長は首相である。議会の総選挙後に、国会議長が副議長及び各党の代表者を招集して新首相を推挙し、議会の過半数の反対でないことで承認される(反対票を投じないまでも、賛成できない議員は、投票を棄権する)。その後、国王の臨席する任命式において国会議長が新首相を任命し、新首相は同時に各大臣を任命し組閣を行う。

このように、1974年改正後のスウェーデン憲法では、通常の立憲君主国の君主が有する首相任命権を始めとする全ての官吏任命権を形式的にも失っている。国王の権能は情報閣議による大臣からの情報収集(いわゆる内奏)や外国使節の接受などもっぱら儀礼的な機能に限られている。そのため、もはや立憲君主制ではなく、日本のような象徴君主制という新たな統治形態であるとする学説もある[誰によって?]

政党

2014年9月の選挙で議会に議席を獲得した政党は以下の8党。

その他特筆すべき政党 - 地方議会でのみ議席を保有

ジョーク政党