セネガル共和国
République du Sénégal
セネガルの国旗
Coat of arms of Senegal.svg
国旗 (国章)
国の標語:Un Peuple, Un But, Une Foi
(仏語: 1つの国民、1つの目標、1つの信念)
国歌コラを弾け、バラフォンを叩け
セネガルの位置
公用語 フランス語
首都 ダカール
最大の都市 ダカール
政府
大統領 マッキー・サル
首相 廃止
面積
総計 196,190km285位
水面積率 2.1%
人口
総計(2012年 13,100,000人(???位
人口密度 55人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 7兆3,077億[1]CFAフラン
GDP(MER
合計(2013年 148億[1]ドル(118位
GDP(PPP
合計(2013年317億[1]ドル(114位
1人あたり 2,243[1]ドル
独立
 - 日付
フランスより
1960年4月4日
通貨 CFAフランXOF
時間帯 UTC 0(DST:なし)
ISO 3166-1 SN / SEN
ccTLD .sn
国際電話番号 221

セネガル共和国(セネガルきょうわこく、フランス語: République du Sénégal [ʁepyblik dy seneɡal])、通称セネガルは、西アフリカサハラ砂漠西南端に位置する共和制をとる国家である。北東にモーリタニア、東にマリ、南東にギニア、南にギニアビサウと国境を接している。また、ガンビア川の岸に沿った細長い国土を持つガンビアとも国境を接し、セネガルは同国を陸上から囲んでいる。これによってセネガルの南部のカザマンス地方は、残りの地域から隔てられている。西は大西洋に面し、カーボベルデと海上の国境を接している。領内にはアフリカ大陸最西端で、カーボデルデの国名の由来となっているベルデ岬を抱えている。セネガルの経済的・政治的首都ダカールである。セネガルは旧世界アフロ・ユーラシア)の大陸部における最西の国である[2]。国名の由来は東と北の国境となるセネガル川にある。「Senegal」という名前はウォロフ語で「我々の船」を意味する「Sunuu Gaal」に由来する。かつて支配を受けたフランスとの関係は深く、フランコフォニー国際機関に加盟している。なお、首都のダカールはかつてのパリ・ダカール・ラリーの終着点として知られている。

国名

正式名称は公用語であるフランス語で、République du Sénégal(レピュブリク・デュ・セネガル)と言う。通称、Sénégal

公式の英語表記はRepublic of Senegal [ˌsɛnɨˈɡɔːl, -ˈɡɑːl] ( 音声ファイル)

日本語の表記は、セネガル共和国。通称、セネガル

歴史

古代諸王国

旧石器、および、新石器時代の遺跡が見つかっており、その頃から人類が居住していたこと分かっている。

セネガル川の中流、下流域は9世紀以降、北アフリカのマグリブ地方のイスラーム王国との交易で栄え、ガーナ王国テクルール王国英語版トゥクロール族800年代 - 1285年)、ジョロフ王国が成立した。とりわけテクルール王国にはアルモラヴィド(ムラービト朝)の影響で11世紀イスラーム教が伝来し、王侯貴族を中心にイスラーム化が進んだ[3]。その後、マリ帝国1240年 - 1473年)の影響の下で、14世紀から16世紀にかけてウォロフ人ジョロフ王国などの勢力が台頭した。

植民地化の進展

かつては奴隷貿易の拠点だったゴレ島の要塞。セネガンビアからも多くの奴隷南北アメリカ大陸と周辺の島々へと連行された。

公式な記録から判断する限りで、初めて現在のセネガルに相当する地域に訪れたヨーロッパ人ポルトガル王国ディニス・ディアスであり、1444年にこの地を訪れたディニス・ディアスは、訪問先のアフリカ大陸最西端の岬をポルトガル語で「」を意味するベルデ岬と名付けた[4]。ディニス・ディアスはこの地から若者4人を拉致して本国のポルトガルへと連れ帰り通訳として教育し、この4人は15世紀当時のセネガンビアの諸王国を記録した、ヴェネツィア共和国の商人であったカダモストが1455年に行った探検を手助けした[5]

1549年ジョロフ王国(Wollof Empire、1350年 - 1549年)が、カジョール王国ウォロフ語版フランス語版英語版ウォロフ語: Kajoor、1549年 - 1879年)やジョロフ王国英語版(Jolof Kingdom、1549年 - 1875年)などに分裂し、1550年バオル王国フランス語版英語版1550年 - 1859年)が独立した。

その後ポルトガルに続いてオランダイギリスの商人がこの地に進出したものの、1659年フランス王国がセネガル川の中州にサン=ルイ商館を建設した[6]。1673年から1674年にかけて、イスラームのマラブー聖人)がヨーロッパ人や、ヨーロッパ人に協力する在地の諸王国の奴隷狩りに対して反乱を起こしたが[7]、武力鎮圧された。そして、1677年ゴレ島をオランダから奪取した後、セネガンビア地域にはフランスの強い影響が及ぶようになった[6]

フランス植民地時代

サン=ルイ島およびゴレ島は1815年ウィーン会議でフランスの植民地とされた。その後フランスはダカールなどの都市やダカール港などの開発を進め、さらに、ダカールとセネガルの北部のサンルイを結ぶ鉄道などの建設を進めた。

1848年奴隷貿易が廃止された。1854年にフランス軍のルイ・フェデルブ将軍が総督に就任すると、現地の諸王国を征服し(1859年en:Battle of Logandème)、セネガル川流域をフランスの支配下に置いた[8]1867年en:The Battle of Fandane-Thiouthiouneマラブー戦争Serer-Marabout Wars)。鉄道敷設により支配体制を強固にしようとするフランスの植民地化に対し、カジョール王国ウォロフ語版フランス語版英語版ウォロフ語: Kajoor、1549年 - 1879年)のラット・ジョール王が抵抗を行ったものの、1886年10月26日にジョール王がフランス軍との戦闘で殺害された後、植民地化は更に進んだ[9]。フランスはこの後1890年よりカザマンス地方の征服を進め、1895年フランス領西アフリカを確立し、ダカールはその中心地となった[10]

征服後、フランスは在地の有力者が所有していた奴隷を解放する一方で、イスラームのムリッド教団を通じて農民に商品作物として落花生を栽培させる経済構造を樹立し、フランス化した都市部の「市民」(les citoyens)に本国への参政権を与えつつ、地方部の「従属民」(les sujets)を「原住民法」によって統治する植民地体制を確立した[11]。フランス植民地下でセネガル人は「セネガル歩兵」としてフランスの戦争に動員され、彼らは19世紀の西アフリカ植民地化戦争や20世紀の第一次世界大戦第二次世界大戦インドシナ戦争スエズ戦争などに参加させられた[12]

1926年には後に『星の王子さま』の著者となるサン・テグジュペリが、フランス南部の都市トゥールーズとダカールと間を結ぶ航空機の飛行士となった。第二次世界大戦中の1940年9月23日には、ヴィシー政権についたセネガル植民地政府軍とイギリス海軍との間でダカール沖海戦が勃発した。

第二次世界大戦が終結し、世界的に脱植民地化の流れが加速してきた1958年11月にフランス共同体内の自治国となり、1959年4月にフランス領スーダン(現マリ)とマリ連邦を結成した。

独立後

ネグリチュードの文学者にしてセネガル共和国初代大統領、レオポール・セダール・サンゴール

1960年4月4日マリ連邦としてフランスから独立し、同年8月20日にはマリ連邦から分離しセネガル共和国として単独国家となった。同年9月6日にネグリチュード運動の文学者であり、セネガル社会党 (PSS) を率いたレオポール・セダール・サンゴールが初代大統領に就任し、アフリカ社会主義を掲げつつもマルクス=レーニン主義からは距離を置いた、親フランスの穏健改革路線を採用して1980年12月31日まで長期政権を維持した。サンゴールは自ら国歌「コラを弾け、バラフォンを叩け」の作詞もしている。

1981年1月1日にアブドゥ・ディウフ首相が第2代大統領に就任し、ディウフ大統領は1983年、1988年、1993年の大統領選でも勝利した。なお、ディウフは1982年2月に隣国ガンビアセネガンビア国家連合を発足させたものの、セネガンビア国家連合はフランス領であったセネガルとイギリス領であったガンビアの体制の違い、主権問題経済格差などの問題で対立し、1989年9月にガンビアとの国家連合を解消した。また、ディウフ政権下では1982年12月26日にカザマンス紛争が、1989年から1991年にかけて北の隣国モーリタニアとの国境紛争が勃発した英語版

2000年3月19日の大統領選決選投票で、セネガル民主党 (PDS) のアブドゥライ・ワッド党首が当選し、同年4月1日に大統領に就任した。4月5日にワッド大統領は、ディウフ政権で外相などを務めたムスタファ・ニアスを首相に任命し、連立政権が成立した。

21世紀

2001年1月7日に、新憲法案が国民投票で承認され、大統領任期を7年から5年に短縮、議会一院制とし、議席数も140から120に削減され、さらに女性の土地所有権も認められた。国民議会選挙をめぐって連立与党内での対立が発生し、2001年3月3日にワッド大統領はニアス首相を解任し、後任にマーム・マジョル・ボイを任命し、同国初の女性首相が誕生した。4月29日の立法議会選挙でセネガル民主党 (PDS) などの政党連合「変革」が120議席中89議席を獲得し、進歩勢力同盟 (AFP) は11議席、セネガル社会党 (PSS) は10議席、民主刷新連合 (URD) は3議席を獲得した。また、2002年5月の地方議会選挙でも、与党連合 (CAP21) が安定した勝利を収めた。これにより、大統領選挙、国民議会選挙に続き、ワッド大統領はセネガル国民からの支持を3回にわたって獲得したことで、1960年以来40年間続いた社会党政権からの政権交代を完了させ、国内政治を運営する上で安定した政権基盤を築いた。

2001年9月26日に、ガンビア沖の海上でフェリーのジョラ号が転覆した。事故調査委員会は乗員乗客1220人のうち、1053人が死亡したと伝えた。さらに、セネガル軍が現場に艦船や航空機を派遣したのが事故発生から12時間後と出遅れた上に、フェリーは定員550人を大幅にオーバーしていた上に、フェリーの設計も湖での航行用だったなど、杜撰な実態が明らかになった。サンボ国防相とサコ設備・運輸相は、10月1日に責任を取って辞任した。ワッド大統領は11月4日に、ボイ首相以下全閣僚の解任を発表し、PDSイドリサ・セック副党首が首相になった。セック首相はワッド大統領の有力な後継者と見られていたものの、2004年4月21日に解任され、マッキー・サル内務大臣が首相に就任した。2004年12月10日には死刑制度廃止された。この他に、2004年12月30日には、セネガル南部のカザマンス地方の分離独立を狙うカザマンス民主勢力運動英語版との間で、一応の和平協定締結されたものの、紛争の火種は残ったままである。なお、2004年は、前年のセネガル、西サハラモロッコに於ける大雨によってサバクトビバッタの大量発生 (2004年)英語版が生起し、打撃を受けた年でもあった。

2007年2月25日の大統領選挙でPDSのワッドが再び大統領に選ばれた。2010年にはセネガル共和国独立50周年を記念して、首都ダカールにアフリカ・ルネサンスの像が落成した。

2012年の大統領選挙では、ワッド大統領の対抗馬として立候補したマッキー・サルが3月25日の決選投票でワッドを破り、第4代大統領に就任した。

政治

第4代大統領マッキー・サル

カザマンス紛争

1982年12月26日に、ギニアビサウとの国境地帯にある、ジョラ族の多いカザマンス地方ジガンショール州セディウ州コルダ州)の分離独立を進めるカザマンス民主勢力運動英語版 (MFDC, フランス語: Mouvement des Forces Démocratiques de la Casamance) が、ジガンショールでギニアビサウを根拠地に反政府武装闘争を開始した。1998年にMFDCと政府が、ガンビアの仲介で和平交渉に入り、1999年12月に双方が停戦合意した。そして2001年3月にも、停戦の再確認や捕虜解放など5項目の和平協定に調印した。

しかし、その後もMFDCと見られる武装集団による略奪や襲撃事件が頻発し、2002年1月中旬にはニアン内相がMFDCの指導者と会談した。2003年に、MFDC事務総長シーディー・バッジ (Sidhi Badji) が死去したものの、和平交渉は継続された。2004年12月30日に、アブドゥライ・ワッド大統領とMFDC事務総長オーギュスタン・ジャマクヌ・サンゴール英語版 (Augustin Diamacoune Senghor) の間で和平合意した。

ところが、MFDCの強硬派であるサリフ・サージョの部隊による襲撃事件などが、2006年になってからも頻発しており、また3月から4月にかけてギニアビサウ国境地域でギニアビサウ軍英語版との戦闘が繰り広げられるなど、当地方の政治情勢は依然不透明な状況にある。日本の外務省の渡航情報では、渡航延期勧告が継続中のままである。

軍事

海軍の艦船

選抜徴兵制が採用されており、成人男性の選抜者は2年の兵役に服する。兵力は、陸軍が8000人、海軍が600人、空軍が800人、憲兵隊が5800人である。2002年の国防予算は67,000,000ドル。

ただし、セネガル領内にはヴェルデ岬駐留フランス軍も存在する。

国際関係

独立以来、親フランス路線を維持しており、西側諸国とも友好的である。

1982年から1989年まで隣国のガンビアと、セネガンビア国家連合を形成していた。この連合が解消された後、ガンビアとは対立したものの、1991年にセネガルとガンビアは友好協力協定に調印した。

1989年4月に北の隣国モーリタニアとの間で国境紛争、いわゆるセネガル・モーリタニア紛争が勃発し、紛争によって数万人に及ぶ両国の国民が相互に追放された[14]

この他、イスラエルとは激しく対立している。これは、セネガル国民のほとんどが敬虔なイスラム教徒であり、同じイスラム教徒であるパレスチナ人の置かれている境遇に対して非常に同情的だとの背景が存在する。

1996年中華民国台湾)と国交を回復するも、2005年に再び中華人民共和国と国交を樹立したため台湾とは断交した。中華人民共和国との国交樹立後、中国人華僑)の進出が盛んとなり、中国の存在感が増している[15]。また、2010年にセネガル共和国独立50周年を祝して建造された首都ダカールの「アフリカ・ルネサンスの像」は、朝鮮民主主義人民共和国万寿台海外開発会社によって建造されている。

日本との関係

1962年に日本はダカールに公使館を設立し、以後ODA青年海外協力隊派遣を通じて交流を行っている[16]