チェコ共和国
Česká republika
チェコの国旗 チェコの国章
国旗 国章
国の標語:Pravda vítězí
(チェコ語:真実は勝つ
国歌Kde domov můj(チェコ語)
我が家何処や
チェコの位置
公用語 チェコ語
首都 プラハ
最大の都市 プラハ
政府
大統領 ミロシュ・ゼマン
首相 アンドレイ・バビシュ
面積
総計 78,866km2114位
水面積率 2.0%
人口
総計(2008年 10,369,000人(79位
人口密度 130人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 3兆7,058億[1]チェコ・コルナ
GDP(MER
合計(2008年 2,170億[1]ドル(38位
GDP(PPP
合計(2008年2,621億[1]ドル(36位
1人あたり 25,395[1]ドル
独立
 - 日付
チェコスロバキア解体
1993年1月1日
通貨 チェコ・コルナCZK
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 CZ / CZE
ccTLD .cz
国際電話番号 420 1
註1: 1997年までは、スロバキアと共に42

チェコ共和国(チェコきょうわこく、チェコ語: Česká republika: Czech Republic)、通称チェコは、中央ヨーロッパ[注釈 1]共和制国家。首都はプラハである。国土は東西に細長い六角形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接する。

1993年チェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離し成立した。NATOEUOECDの加盟国で、中欧4か国からなるヴィシェグラード・グループの一員でもある。

国名

正式名称(チェコ語)は Česká republika [ˈtʃɛskaː ˈrɛpuˌblɪka] ( 音声ファイル)(チェスカー・レプブリカ:チェコ共和国)。通称は Česko [ˈt͡ʃɛsko](チェスコ)。

英語での公式名称は Czech Republic [ˈtʃɛk ɹɨˈpʌblɪk] ( 音声ファイル)(チェク・リパブリック)だった。チェコ外務省が1993年に提唱した通称にラテン語風の Czechia (チェキア)があり、チェコ政府は2016年4月14日に公式にこの略称を英語圏および国連に向けて使用することを発表したが[2][3][4]、現在一般的に使われているとは言いがたく、“Czech Republic” をそのまま用いることが多い。

日本語ではチェコ共和国外務省統一表記)。通称チェコ。かつての外務省書類などではチェッコという表記が使用された[注釈 2]

かつてひとつの国家であった「チェコスロバキア」の英語での綴りは Czechoslovakia である。これは1918年の建国時にチェコ民族とスロバキア民族によるひとつの国家として建国されたものであるが、日本では「チェコスロバキア」の短縮形として単に「チェコ」を使う場面もみられた。

チェコ共和国の国境が現在のようになったのは1993年になってのことである。プラハを中心とした “Čechy” [ˈt͡ʃɛxɪ](チェヒ、ラテン名「ボヘミア」)、ブルノを中心とした “Morava” [mɔˈrava](モラーヴァ、ラテン名「モラヴィア」)、さらにポーランド国境近くの “Slezsko” [ˈslɛsskɔ, ˈslɛskɔ]スレスコ、ラテン名「シレジア」)の3つの地方がチェコ共和国を形成している。

ボヘミア地方を示す “Čechy”(チェヒ)をチェコスロバキア建国の命名に採用しているが、もちろん国家にはモラヴィアもシレジアも入る。歴史的に、チェコ語における Čechy、および英語の Czech では、「ボヘミア地方」のみを指す文献もある。そのため、チェコ共和国という国家としての表現を必要とする場合、「チェコ共和国」、“Česká republika”“Czech republic” を用いるのが正確であり、世界的には一般的な考え方である。

現在、チェコ共和国内のメディアなどで見かける “Česko” は、チェコスロバキア時代の通称 “Československo” から、形式上チェコにあたる部分を切り離した呼び名であり、チェコ共和国を指す。しかし、新しい呼称のため、定着したといえるのは最近であり、公の場や正式な文章では用いられない。

歴史

古代 - 中世

古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。その後ゲルマン人が定住したが[5]、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配、続いてアバール人が支配者となった。9世紀前半、スラヴ人が大モラヴィア王国を建設した。大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。

西部のボヘミアモラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した(チェヒ国チェコ語版英語版)。907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアハンガリーの支配を受けることになった。10世紀後半からカトリックが普及した。11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。12世紀のオタカル1世の時代にボヘミア王の称号(Duchy から Kingdom に昇格)と世襲が承認され、その後ヴァーツラフ1世が国王に即位した。

13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得した。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝ではカレル1世(カール4世)が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えた。首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立された。この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。

15世紀にはヤン・フスプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」とみなされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱が起きた(フス戦争)。

その後、ハンガリー王国ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。なお、チェコ史においてハプスブルク家の支配は長年「暗黒時代」とされてきたが、これには旧体制を否定しようとする新生の共和国、続く共産主義政権のプロパガンダが多分に含まれており、「暗黒時代」史観はもはや過去のものとなっている。

民族主義の目覚めからチェコスロバキア共和国建国まで

18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義民族主義の気運がチェコでも高まった。1848年ヨーロッパに広がった1848年革命チェコ革命を誘発し、パラツキーがプラハでスラヴ人会議英語版を開催し、汎スラヴ主義が提唱された。1867年アウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになった。19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となった。

第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、1918年に民族自決の理念のもとチェコスロバキア共和国の独立が宣言され、初代大統領にはトマーシュ・マサリクが就任した。このときにボヘミア、モラヴィア、ハンガリーの一部であったスロバキアが領土となった。マサリク政権では西欧的民主主義が布かれたが、チェコスロバキアにおいてはチェコ人が社会のほぼすべてを支配し、スロバキア人と対立した。そのため、スロバキア人は親ドイツの立場をとった。チェコスロバキアとして行った外交においては国内の状況がチェコ人支配だったため反共・反ドイツの立場を取った。1935年からナチス・ドイツの圧迫が強まると、1938年ミュンヘン会談ズデーテン地方をドイツに割譲し、1939年にはボヘミアとモラヴィアは保護領としてドイツに編入され、反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの保護国となり、チェコスロバキアは地図から姿を消した(ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体)。

共産主義政権とその崩壊後

共産党体制下のチェコスロバキア(左・青色チェコ、右・水色スロバキア)

第二次世界大戦後にチェコスロバキア共和国は復活した。1946年、1940年から1945年までエドヴァルド・ベネシュによって布告されていた一連の法案(いわゆる「ベネシュ布告」)が臨時連邦政府委員会によって可決承認され、これによりズデーテンに多く住んでいたドイツ人やスロバキアに多く住んでいたハンガリー人のほとんどの人が財産を奪われたうえ、チェコスロバキアから追放された(この「ベネシュ布告」は現在のチェコおよびスロバキアにおいても有効であり、どちらの国でも撤回されていない。1946年までチェコに領地を持っていたリヒテンシュタイン公国はこれを法律による重大な人権侵害だとして、2009年までチェコ・スロバキア両国を国家として承認するのを拒否してきた[6])。

ヴァーツラフ広場で花束をささげる群集 (ビロード革命

1946年の選挙で第一党となっていた共産党がソ連からの影響力なども背景に1948年共産主義政権を設立し、「人民民主主義」を宣言した(二月事件)。1960年には「社会主義共和国」に改名した。しかしスターリン的抑圧に対する不満が爆発し、ノヴォトニー政権に代わりスロバキア人のドゥプチェク率いる政権が誕生し、「プラハの春」と呼ばれる自由化民主化路線が布かれた。しかし、改革の行方に懸念を抱いたソ連を含むワルシャワ条約機構5か国の軍が介入(チェコスロヴァキア侵攻英語版)、スロバキア人のフサーク政権が樹立され、正常化体制英語版路線を推し進めた。国内の秘密警察網が整備強化されて国民同士の監視と秘密警察への密告が奨励され、当時の東ドイツと並んで東欧で最悪の警察国家となった。人々は相互不信に陥り、プロテスタント教会では信者や聖職者の間での密告が頻発した結果として教会組織が自ら消滅していき、信者は宗教不信から無神論者になっていった。フサーク政権は思想的な締め付けを強めた一方、個人の経済活動をある程度の規模までは黙認し、この「地下経済」によって国内の消費財の生産は活発化した。

1989年からのビロード革命によって共産党体制は崩壊し、翌1990年には複数政党制による自由選挙が行われた。1992年6月の選挙では民主スロバキア同盟が勝利したため、それまで互いに反発していたチェコとスロバキアの分離は決定的となった。1993年1月にチェコスロバキアはチェコスロバキアに平和的に分離(ビロード離婚)した。

2002年8月、記録的な豪雨によってヴルタヴァ川(モルダウ川)が氾濫し(欧州洪水英語版)、プラハをはじめ多くの都市が被害にあった。

2004年5月1日にチェコは欧州連合に加盟した。

政治

第3代大統領ミロシュ・ゼマン

国家元首議会によって選出される大統領である。任期は5年で3選は禁止され、2013年以降はミロシュ・ゼマンが務める。大統領は首相を任命し、その補佐を受けて17名の大臣も任命する。近年では、2010年5月28 - 29日に実施された総選挙の結果、中道左派チェコ社会民主党が第1党となったものの議席の過半数には程遠く、また連立政権の樹立のめどが立たないため敗北を宣言した。このため、第2党の市民民主党と新党のTOP 09公共の物との間で中道右派の連立政権を発足させることで合意し、その首班には市民民主党党首のペトル・ネチャスが任命された。しかし、ネチャスは2013年、自身の首席補佐官で愛人と噂されていたヤナ・ナジョヴァーが逮捕されるというスキャンダルで引責辞任し、後任に同党のイジー・ルスノクが就いた。

議会は元老院代議院によって構成される。代議院は議席数200、任期は4年で、比例代表制による直接選挙で選出される。元老院は議席数81、任期は6年で、2年ごとに定数の3分の1ずつを改選する。チェコ共和国発足当初、元老院は選挙方法などが決まらず、代議院がその機能を代行してきたが、1996年11月に初の小選挙区制による元老院選挙が行われて両院制が整った。

軍事