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(国旗) | (国章) |
公用語 | ドイツ語[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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首都 | ベルリン州 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最大の都市 | ベルリン(都市州) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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通貨 | ユーロ (€)(EUR)[4][5] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
時間帯 | UTC +1(DST:+2) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ISO 3166-1 | DE / DEU | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ccTLD | .de | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国際電話番号 | 49 |
ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、ドイツ語: Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(ドイツ語: Deutschland)は、中央ヨーロッパ西部に位置する連邦共和制国家。首都および最大都市はベルリン州。
かつて「西ドイツ」と呼ばれていた時代は「西欧」に分類されていたが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として分類されるようになっている。
ドイツは限定的統治権を保有する16の州からなり、総面積は35万7386平方キロメートルで、おもに温暖な季節的気候に属する。ヨーロッパ大陸における経済的および政治的な主要国であり、多くの文化、理論、技術分野における歴史上重要な指導国である。人口は8300万人で、欧州連合では最大の人口を有する。
ドイツは名目GDPで世界第4位かつ購買力平価で世界第5位である。産業および技術分野における世界的なリーダーとして、世界第3位の輸出国かつ世界第3位の輸入国である。世界最古のユニバーサルヘルスケア制度を含む、包括的な社会保障を特色とする非常に高い生活水準で先進国である。豊かな文化および政治の歴史で知られ、多くの影響力のある哲学者、芸術家、音楽家、映画人、起業家、科学者および発明家の故国である。ドイツは、1993年に欧州連合になった1957年の欧州諸共同体原加盟国である。同国はシェンゲン圏の一部であり、1999年以来ユーロ圏の一員である。また、国際連合、北大西洋条約機構、G7、G20、OECD、欧州評議会の主要なメンバーであり、ヨーロッパの大国・ビッグ4や列強の一国に数えられる。アメリカ合衆国に次ぎ、ドイツは世界第2位の移住地である[1]。
ドイツ語での正式名称は、Bundesrepublik Deutschland([ˈbʊndəsʁepuˌbliːk ˈdɔʏtʃlant] ( 音声ファイル) ブンデスレプブリーク・ドイチュラント)。通称はDeutschland(ドイチュラント)、略称はBRD(ベーエァデー)。Bundは「連邦」の、Republikは「共和国」の意である。
在日大使館や日本の外務省が用いる日本語表記はドイツ連邦共和国。通称はドイツ。漢字では独逸(獨逸)、独乙(獨乙)などと表記され、独(獨)と略される。中国語では徳意志、徳国となる。英語表記はFederal Republic of Germany。通称は Germany([ˈʤɜrməni] ジャーマニ)。略称はFRG。Germanyはラテン語のGermania(ゲルマニア:「ゲルマン人の地」の意味)に由来し、地名としてのドイツを指す。フランス語やスペイン語、ポルトガル語ではそれぞれAllemagne(アルマーニュ)、Alemania(アレマニア)、Alemanha(アレマーニャ)と呼ばれるが、これらは本来は「(ゲルマン人の一派である)アレマン人の地」を意味する。また、ポーランド語、チェコ語、ハンガリー語ではそれぞれNiemcy(ニエムツィ)、Německo(ネメツコ)、Németország(ネーメトルサーグ)と呼ばれるが、これはスラヴ祖語の「němъ」あるいはその派生語の「němьcь」(言葉が話せない人、発話障害者)に由来する[2]。
「ドイツ」という言葉の由来は、原語もしくはオランダ語の「Duits」が起源だといわれている。
「ドイツ(Deutsch)」の語源は、北部で話されていたゲルマン語の「theod」「thiud」「thiod」などの名詞に由来し、いずれも「民衆」や「大衆」を意味している。意味も使われた時代も同じだが、綴りは地域によって異なる。フランク王国時代に、ラテン系言語ではなくゲルマン系言語を用いるゲルマン人の一般大衆をこう呼んだことから、同地域を指す呼称として用いられ始めた。「th」はのちに「d」という発音と綴りになったため「diet」に変わった。さらに古高ドイツ語では形容詞化するための接尾辞「-isk」が付加されて「diutisk」と変わった。意味も「大衆の、民衆の」という形容詞になり、その後「diutisch」に変わり、現代ドイツ語では「deutsch」となった[3][4]。
形容詞形の「deutsch」には上記の意味はなく、単に「ドイツの」という意味だけである。代わりに「völkisch」という形容詞が「大衆の、民衆の」という意味で使われたが、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が自らの理念や政策を表現するのに好んで用いたため、戦後はナチズムを連想させるとして用いられなくなり、現在は「des Volkes」がおもに使われる。
ドイツの歴史 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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![]() この記事はシリーズの一部です。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近世
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再統一後のドイツ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連項目 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現在のドイツを含む西ヨーロッパ地域に人類が居住を始めたのは、石器などが発見されたa地層から約70万年前と考えられている。60万年から55万年前の地層ではハイデルベルク原人の化石が、4万年前の地層ではネアンデルタール人の化石が確認されている。新人は約3万5000年前から現れ、紀元前4000年ごろの巨石文明を経て紀元前1800年ごろまでに青銅器文明に移行している。紀元前1000年ごろには、ケルト系民族によってドナウ川流域にハルシュタット文明と呼ばれる鉄器文明が栄えた。 紀元前58年から51年までのガイウス・ユリウス・カエサルのガリア遠征などを経て、ゲルマン人は傭兵や農民としてローマ帝国に溶け込んでいった。しかし紀元後9年にトイトブルク森の戦いが起こり、ゲルマン人が勝利してライン右岸を守った。この流域南部において83年にドミティアヌス帝がリメス・ゲルマニクスの建設を打ち出し、マイン川からドナウ川へとつながる長城が建設された。これによってライン中・上流域ではリメスが前進した。これは2000年にわたるドイツ史の将来を規定する伏線となった。すなわち、ローマ帝国内にあるドイツ南部と、外にあるドイツ北部である。ローマ帝国の解体が進むと、375年には西ゴート族が黒海沿岸から地中海に沿って、コロナートゥス化の進んだ西部へ移動した。 476年、西ローマ帝国が滅亡した。代わって西ヨーロッパを支配したフランク王国では各地に分王国が興り、そのひとつアウストラシアが北方でライン両岸を占めた。843年、ヴェルダン条約によってフランク王国が三分割された。そのうちのひとつである東フランク王国が、のちのドイツの原型となった。東フランク王国の国王オットー1世(ザクセン朝)は962年にアウグストゥス(古代ローマ帝国皇帝の称号)を得て、いわゆる神聖ローマ帝国と呼ばれる連合体を形成した。 神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世のとき、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)」と国名を称した。宗教改革ではドイツの諸侯が新旧両教に分かれて互いに争った。 三十年戦争ではドイツのほとんど全土が徹底的に破壊され、1600万人いたドイツの人口が戦火によって600万人に減少したといわれる。 帝国自由都市の自治権が奪われ、ドイツは領邦主権体制となった。1667年にザミュエル・フォン・プーフェンドルフが著した書『ドイツ帝国憲法について(Über die Verfassung des deutschen Reiches)』において初めて、ドイツ国という呼称が確定できる。 プロイセン王国の台頭とドイツ帝国の興亡シュヴァーベンにあるホーエンツォレルン城一帯から台頭したプロイセン領邦君主ホーエンツォレルン家は、17世紀半ばからオランダとともに勢力を拡大し、1701年にはプロイセン王国を形成した。 フランス革命の動乱は全ヨーロッパに波及し、ドイツもナポレオンの侵略を免れなかった。対仏大同盟がナポレオンを破り、ドイツは帝国代表者会議主要決議の枠内で国家統一を志向するようになった。ホーエンツォレルン家とオーストリアのハプスブルク家はドイツ統一の役割を争ったが、北ドイツ連邦を作り普墺戦争と普仏戦争に勝利したプロイセン国王ヴィルヘルム1世は、ドイツ系オーストリアを除くドイツ帝国を創建し、ベルリンを首都とした。国内産業は驚異的な発展を遂げた。 ヴィルヘルム2世の治世では同盟政策を東方問題に左右された。イギリス・フランス・ロシアと対立し、第一次世界大戦で協商国と激しい消耗戦を繰り広げた。1918年には戦力の限界とドイツ革命の勃発によってヴェルサイユ条約に調印し、帝政も終了した。 ヴァイマル共和政の混乱とナチス・ドイツドイツは共和国として再出発した(ヴァイマル共和政)。これは連邦制が小党を乱立させて政局を不安定にした。ヴェルサイユ条約がドイツに課した巨額の戦争賠償は経済や政治に悪影響を与えた。1921年には1ドル=4.2マルクだったものが、1923年夏には1ドル=110万マルクという下落でハイパーインフレに陥り、レンテンマルク発行による通貨改革が行われた[5]。1920年代中ごろから相対的な安定期を迎え、国際社会にも復帰しつつあった。しかし、その成長も1930年代の世界恐慌に挫かれた。 経済の破綻を背景に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が台頭した。アドルフ・ヒトラーの指導下で、極右的民族主義、差別的な人種政策、さらに拡張的な領土政策を唱えた。1933年にヒトラーが首相に任命されると、ナチ党は国内の政敵を次々に制圧し、ナチ党一党独裁体制を築き上げた(ナチス・ドイツ)。ヒトラーはヴェルサイユ条約の軍備制限を破棄し、オーストリアやチェコスロバキアの領土を獲得していった(ミュンヘン会談)。このころから次第に英仏との緊張関係が高まった。ポーランド回廊を寸断すべく、ドイツは1939年9月ポーランドへ侵攻した。これが英仏の宣戦を招き、第二次世界大戦が始まった。一時はフランスを打倒してヴィシー政権を樹立し、ヨーロッパの大半を勢力下に置いた。が、バトル・オブ・ブリテンで大敗しイギリス上陸を断念、独ソ戦で打開を図った。しかし、スターリングラード攻防戦での敗北でソ連侵攻にも失敗した。その後、連合国軍の上陸などを経た1945年4月30日にヒトラーが自殺し、ドイツ軍は無条件降伏を行った。 連合国による占領と東西分断1945年6月5日のベルリン宣言により、ドイツ中央政府の不在が宣言され、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4か国による分割占領が開始された(連合軍軍政期)。ドイツの占領政策は戦争中の協議とポツダム協定によって規定されていたが、ソ連が物納での賠償を主張して西側諸国と鋭く対立し(ドル条項問題)、西側連合国とソ連の占領地域は分断を深めていった。この結果、西側連合国の占領地域は1949年、ボンを暫定的な首都とするドイツ連邦共和国(西ドイツ)に、ソ連の占領地域はベルリンの東部地区(東ベルリン)を首都とするドイツ民主共和国(東ドイツ)として独立し、ドイツは分断国家としての道を歩むことになった。 西ドイツとフランス両国の首脳が交流を深めた結果、1951年に欧州石炭鉄鋼共同体が誕生した。冷戦の時代を通じ、東西ドイツは資本主義と共産主義が対立する最前線となった。労働力をめぐる対立は1961年にベルリンの壁となって現れた。1972年に東西ドイツ基本条約が成立した。 再統一後のドイツ1989年、ソビエト連邦のペレストロイカに端を発した東ドイツの民主化運動(東欧革命)をきっかけにベルリンの壁が崩壊した。翌1990年の10月3日に再統一(正式にはドイツ連邦共和国がドイツ民主共和国を吸収・併合した形での統一)を達成し、首都もボンからベルリンへと戻された。1992年9月、ドイツマルクが高騰して欧州の通貨を混乱に陥れた。2001年5月2日に連邦がベルリンへの首都機能移転を完了させた。2002年、ドイツ連邦銀行の政策が欧州中央銀行と加盟国の中央銀行で構成される欧州中央銀行制度へ移管された。 地理詳細は「ドイツの地理」を参照
ドイツは西欧および中欧に属し[6]、北にデンマーク、東にポーランドとチェコ、南にオーストリアとスイス、南西にフランスとルクセンブルク、そして北西にベルギーとオランダとそれぞれ国境を接しており、国土はおおよそ北緯47 - 55度(ジルト島の北端が55度)、東経5 - 16度の範囲に位置している。総面積は35万7022平方キロメートルに及び、領土34万8672平方キロメートル、領海8350平方キロメートルからなる。この面積はヨーロッパ第5位、世界第64位である[7]。 標高は南部のアルプス山脈最高峰ツークシュピッツェの2962メートルから、北西部の北海(Nordsee)および北東部のバルト海(Ostsee)海岸に及ぶ。中位山地、北ドイツ低地(最低地点はヴィルシュターマールシュの海抜3.54メートル)にはライン川、ドナウ川、エルベ川が流れている。 おもな天然資源は、鉄鉱石、石炭、炭酸カリウム、木材、褐炭、ウラン、銅、天然ガス、塩、ニッケル、可耕地と水である[7]。 ドイツの地形は北から南へ、大きく5つの地域に分けられる。北ドイツ低地、中部山岳地帯、南西ドイツ中部山岳階段状地域、南ドイツアルプス前縁地帯、バイエルン・アルプスである。 北ドイツ低地は全体的に標高100メートル以下の平坦な地域で、エルベ川などの川沿いにはリューネブルクハイデと呼ばれる大きな丘陵地がある。バルト海沿岸は平坦な砂浜や、断崖をなす岩石海岸となっている。中部山岳地帯は、おおよそ北はハノーファーの辺りから南はマイン川に及ぶ地域で、ドイツの西部と中部に広がり、ドイツを南北に分けている。地形的に峡谷や低い山々、盆地など変化にとんでおり、山地としては西部のアイフェル丘陵とフンスリュック山地、中央部のハルツ山地、東部のエルツ山脈がある。南西ドイツ中部山岳階段状地域にはオーデンヴァルトや、ドイツ語で「黒い森」を意味するシュヴァルツヴァルトの標高1000メートルを超える広大な森林がある。アルプスはドイツ国内ではもっとも標高が高い地域で、南部の丘陵や大きな湖の多いシュヴァーベン=バイルン高原に加えて、広大な堆石平野とウンターバイエルン丘陵地、そしてドナウ低地を包括している。ここにはアルプスの山々に囲まれた絵のように美しい数々の湖や観光地があり、オーストリアとの国境地帯にはドイツの最高峰ツークシュピッツェ(標高2962メートル)がそびえ立つ。 ドイツにおける火山活動は先カンブリア代に収束している。先カンブリア代末から始まったカレドニア変動や、後期古生代に起こったバリスカン(ヘルシニアン)変動はいずれも主要活動帯がドイツを横切っているものの、地表には痕跡が残っていない。バリスカン変動は2000キロメートルに及ぶ規模の大陸間の変動であった。現在のドイツの地形を決定したのは新生代における褶曲運動である。アルプス変動帯の活動により、最南部は標高1200メートルにいたるまで隆起した。ドイツにおけるアルプス変動帯は東アルプスと呼ばれている。同時に西部フランス国境に近いライン川に相当する位置に、ライン地溝を形成する。ライン地溝は、約500キロメートルにわたって南北に伸びる。 ドイツ北部(北ヨーロッパ平野)の地表は氷河地形の典型例である。最終氷期においては北緯51度線にいたるまで氷河が発達し、ヨーロッパを横切る数千キロメートル規模の末端堆石堤を残した。その100 - 200キロメートルの海岸線方面にはモレーンが残る。末端堆石堤とモレーンの北側に沿っていずれも氷食性のレスが堆積し、農業に適した肥沃な土壌が広がる。一方、モレーンの南側は土地が痩せている。ドイツに残る長大な河川はいずれも最終氷期の河川に由来するが、ポーランドのヴィスワ川、ポーランド国境に伸びるオーデル川、エルベ川、ドイツ西部のヴェーザー川が互いに連結し、網目状の流路を形成するなど、現在とは異なる水系が広がっていた。 気候ドイツの大部分はケッペンの気候区分でいう西岸海洋性気候に属し、温暖な偏西風とメキシコ湾流の北延である北大西洋海流の暖流によって緯度の割には比較的温和である[8]。温かい海流が北海に隣接する地域に影響を与え、北西部および北部の気候は海洋性気候となっている。降雨は年間を通してあり、特に夏季に多い。冬季は温暖で夏季は(30℃を越えることもあるが)冷涼になる傾向がある[9][10]。 東部はより大陸性気候的で、冬季はやや寒冷になる[8][10]。そして長い乾期がしばしば発生する。中部および南ドイツは過渡的な地域で、海洋性から大陸性までさまざまである。国土の大部分を占める海洋性および大陸性気候に加えて、南端にあるアルプス地方と中央ドイツ高地の幾つかの地域は低温と多い降水量に特徴づけられる[9]。 自然ドイツは「ヨーロッパの地中海沿岸部山地混交林」と「大西洋北東部大陸棚海域」の2つの生態系ブロックに分けられる[11]。2008年時点ではドイツの過半が耕地(34%)と森林・疎林(30.1%)に占められており、13.4%が放牧地で11.8%が定住地・道路となっている[12]。 動植物は中央ヨーロッパにおいて一般的なものである。ブナ、カシ、およびその他の落葉樹が森林の3分の1を構成しており、また針葉樹が植林の結果、増加傾向にある。トウヒとモミの木が高地山脈を占めている一方で松やカラマツを砂質土で見出だせる。シダ、花、菌類、そしてコケの多くの種がある。野生動物にはシカ、イノシシ、ムフロン、狐、アナグマ、ノウサギ、そして少数のビーバーが含まれている[13]。 ドイツにはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン干潟国立公園、ヤスムント国立公園、フォアポンメルン入り江地帯国立公園、ミューリッツ国立公園、下オーデル渓谷国立公園、ハルツ国立公園、ザクセン・スイス国立公園、バイエルンの森国立公園などの国立公園がある。ドイツ国内では400以上の動物園が運営されており、世界最多とされる[14]。ベルリン動物園はドイツ最古の動物園であり、ここには世界でもっとも多くの動植物種が収集されている[15]。 地方行政区分詳細は「ドイツの地方行政区分」を参照
ドイツには16の連邦州がある。ベルリンとハンブルクは都市州と呼ばれ、単独で連邦州を形成する。ブレーメンとブレーマーハーフェンも合わせて都市州となる。
主要都市詳細は「ドイツの都市の一覧」を参照
ドイツは小邦分立による地方分権の歴史が長いため、ロンドンやパリ、東京のような首都への一極集中はしていない。人口は2017年のデータを使用。
政治![]() 国会議事堂(Reichstag) ドイツは連邦制、議院内閣制、代表民主制の共和国である。ドイツの政治システムは1949年に発効されたドイツ連邦共和国基本法(Grundgesetz)の枠組みに基づいて運営されている。基本法改正には両院の3分の2の賛成を必要としており、このうち「人間の尊厳の保証」「権力の分割」「連邦制」そして「法による支配」といった基本法諸原則は「永久化」され、侵害は許されない[17][18]。 連邦大統領(Bundespräsident)は国家元首であり、おもに儀礼的な権能のみが与えられている[19]。大統領は任期5年で、連邦議会議員と各州議会代表とで構成される連邦会議によって選出される。大統領は連邦議会の解散権を有する[20]。 大統領に次ぐ序列は連邦議会議長(Bundestagspräsident)であり、連邦議会によって選出され、議会運営の監督責任を持つ。 序列第3位であり、政府の長となる地位が連邦首相(Bundeskanzler)である。連邦議会で選出されたあとに、議長によって任命される[21]。首相は任期4年で、行政府の長として行政権を執行する。内閣の閣僚は首相の指名に基づき、大統領が任命する。 連邦の立法権は連邦議会(Bundestag)と連邦参議院(Bundesrat)が有し、この両院で立法府を構成する。連邦議会議員は小選挙区比例代表併用制による直接選挙によって選ばれ[7]、定数は598議席[22](ただし選挙制度の関係で超過議席が出るため、選挙のたびに実際の議席数は変わり、2020年現在は709議席)で任期4年。連邦参議院議員は定数69議席で16州政府の代表であり、また州政府内閣の閣僚でもある[21]。 1949年以降、政権はドイツキリスト教民主同盟とドイツ社会民主党によって占められており、歴代首相はいずれかの党から選出されている。しかしながら、選挙制度の関係で単独政権だったことは一度も無く、常に両党の大連立か、いずれかの党と自由民主党 (ドイツ)か同盟90/緑の党との連立政権が組まれている[23]。ほかに連邦議会に議席を有する主要政党として、欧州懐疑主義と反移民を掲げるドイツのための選択肢(2017年以降)、東ドイツの独裁政党だったドイツ社会主義統一党の流れをくむ左翼党(2005年以降)がある[24]。 ドイツでは、首相と党首と議員団長(与党会派の代表)が「3つの頭」といわれる。政党は単なる「看板」ではなく、社会と国家をつなぐ実体のある組織であり、その長である党首独自の仕事も多い。そのため首相と党首を別の人が務めることも珍しくない[25]。 警察・司法ドイツはゲルマン法の要素を加えたローマ法を基礎とする大陸法を法律において採用している(ドイツ法)。憲法に関しては第二次世界大戦後の1949年に西ドイツでドイツ連邦共和国基本法(Grundgesetz für die Bundesrepublik Deutschland)が暫定的な憲法(基本法)として定められたが、ドイツ民主共和国憲法を制定していた東ドイツとの統合後(ドイツ再統一)も正式憲法は制定されず、共和国基本法が継続している。 司法機関については連邦憲法裁判所(Bundesverfassungsgericht)が違憲審査権を有する憲法に関する事項の最高裁判所として機能している[21][26][27]。Oberste Gerichtshöfe des Bundesと呼ばれるドイツの最高裁判所制度は専門化がなされており、民事および刑事に関する裁判所は連邦通常裁判所、それ以外の事項に関しては連邦労働裁判所、連邦社会裁判所、連邦財政裁判所、連邦行政裁判所などがそれぞれ担当する[19]。また国際刑法典(Völkerstrafgesetzbuch)は人道に対する罪、ジェノサイドそして戦争犯罪について規定しており、いくつかの状況においてドイツの裁判所に対して普遍的管轄権を与えている[28]。刑法と民法は刑法典(Strafgesetzbuch)と民法典(Bürgerliches Gesetzbuch)に成文化されている。ドイツの刑法制度は犯罪者の更生と一般大衆の保護を主眼としている[29]。 治安維持については他国と同じく、基本的には警察(Polizei)によって行われる。その警察組織はナチスドイツ時代に設置されていた集権的な秩序警察(Ordnungspolizei)を廃止し、それぞれの州政府によって地方警察 (Landespolizei)が運営され、警察とは別に都市や地区レベルの治安組織もある。連邦全体の組織としては連邦刑事局(BKA)および連邦警察局(BPOL)があり、前者は複数の州や他国が関係する事件に介入して調整を行い、後者は国境警備やカウンターテロリズムを担当する。世界的に知られる特殊部隊であるGSG-9はBPOLの指揮下にある。集団警備が必要な場合は機動隊(Bereitschaftspolizei)が動員されるが、これについてはBPOLと地方警察がそれぞれ部隊を持ち、内務省が全体を管轄している。 ほかに警察組織以外の特殊な治安機関としては内務省直属の連邦憲法擁護庁(BfV)が存在し、政府直属の連邦情報局(BND)、軍直属の軍事保安局(MAD)と並んで諜報機関としても機能している。 軍事ドイツには在欧アメリカ軍が常駐する。作戦指揮はアメリカ欧州軍から受ける。第二次世界大戦以降、ドイツのラムシュタイン空軍基地に司令部を置いており、ドイツ国内に何か所か基地がある。ドイツはニュークリア・シェアリングのための核兵器を装備している。 ドイツ連邦軍(Bundeswehr)は陸軍(Heer)、海軍(Marine)、空軍(Luftwaffe)、救護業務軍(Zentraler Sanitätsdienst)そして戦力基盤軍(Streitkräftebasis)に分けられる。2018年時点においてドイツの軍事支出はGDP比1.24%で対GDP比としては世界94位だが[7]、軍事費自体は世界第8位である。また、軍事支出は約495億ドルと低めに抑えられている[30]。平時において連邦軍は国防大臣の指揮下に置かれる。ドイツが戦時に入れば(基本法は自衛のみを容認している)、首相が連邦軍の総司令官となる[31]。2011年5月現在、ドイツ連邦軍は職業軍人18万8000人と兵役最低6か月の18 - 25歳からなる徴集兵3万1000人を擁している[32]。ドイツ政府は職業軍人17万人、短期志願兵1万5000人へ縮小することを計画している[33]。各軍には予備役兵がおり、軍事訓練や海外派兵に参加している。予備役の将来の兵力や機能に関する新たなコンセプトが2011年に発表された[33]。 ドイツ連邦軍と国境警備隊が国防を担っているほか、相互防衛条約に基づき6万人強の米軍が駐留している。ドイツは欧州連合およびNATOの主要構成国であり、ロシアなど東方諸国を主たる仮想敵国としてきた。時代の移り変わりとともに、政府は連邦軍の主任務を、従来の国土防衛から「国際紛争への対処」に移行させる方針を発表した。内容としては、2010年までに紛争地においてNATO即応部隊などに参加する「介入軍」、平和維持活動にあたる「安定化軍」、両軍の後方支援を担当する「支援軍」の3つに再編成するものである。 ドイツ連邦軍は、1996年から始まるコソボ紛争に投入され、セルビアへの空爆を実施して初陣を飾る[34]。以来、各地の戦争に参加しており、2011年現在、ドイツ兵約6900人が国際平和維持活動に参加して国外に駐留しており、この中にはNATO主導の国際治安支援部隊(ISAF)に参加してアフガニスタンやウズベキスタンに駐留する4900人、コソボ駐留の1150人、国際連合レバノン暫定駐留軍の300人が含まれる[35]。 2011年まで、ドイツには18歳以上の男性に対する徴兵制度が存在し6か月の兵役期間が課せられていた。しかし、良心的兵役拒否者は同期間の民間役務(Zivildienst)と呼ばれる老人介護や障害者支援などの社会奉仕活動、または消防団や赤十字に対する6年間のボランティア活動を選択することができた。兵役拒否者は年々増加し、近年では兵役を選択する者は2割に過ぎなくなっていた[36]。このドイツの徴兵制度は2011年7月1日をもって中止となった[37][38][36]。しかし、徴兵制の廃止により、それまでボランティアとして慈善活動に従事させられた兵役拒否者がいなくなってしまい、老人介護などの福祉に多大な経済的負担が発生する懸念が持たれており[39]、ドイツ政府は補充対策を検討している[40]。 2001年以降、女性軍人に対する制限が廃止されすべての軍務に従事できるようになったが、女性は徴兵制の対象ではなかった。2011年現在で約1万7500人の女性の現役兵と予備役兵がいる[41]。 ドイツはアメリカ、ロシアに次ぐ世界第3位の武器輸出国である。人権弾圧国家や紛争地への武器輸出は禁止しているとされるが、実際にはサウジアラビアのような人権弾圧の疑いのある国や、イスラエルのように核保有の疑いがあり、パレスチナ問題のような不和を抱える国にも輸出されている[42][43]。ドイツの武器輸出は伸びており、2013年に輸出した武器の総額は、前年比24%増の58億5000万ユーロ(約8015億円)であった。一方、ドイツ国民の間には武器輸出に反対する声が強く、2012年の世論調査では、ドイツ人の3分の2が武器輸出に反対しているとする調査もある[44]。
国際関係詳細は「ドイツの国際関係」を参照
![]() アンゲラ・メルケル首相は、2007年ハイリゲンダムG8サミットの議長を務めた ドイツは190か国以上との外交関係を結び、229か所の在外公館を有している[45]。 2011年現在、ドイツは欧州連合(EU)への最大の分担金拠出国であり(拠出額20%)[46]、国連(UN)に対しては第3位の分担金拠出国である(拠出額8%)[47]。ドイツは北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、主要国首脳会議(G8)、G20、世界銀行、国際通貨基金(IMF)に加盟している。ドイツは欧州連合発足当初から主要な役割を果たしており[48]、また第二次世界大戦以降はフランスとの緊密な同盟関係を保っている。ドイツは欧州の政治および安全保障面での統合を推進する努力を続けてきた[49][50][51]。 ドイツの開発援助政策は外交政策における独立した分野となっている。政策は連邦経済協力開発省(BMZ)が策定し、関係各機関が遂行する[52]。ドイツ政府は開発援助政策を国際社会における共同責任と位置づけている[53]。ドイツの開発援助支出額は米国、フランスに次ぐ世界第3位である[54][55]。 冷戦の時代、鉄のカーテンにより分断されたドイツは東西緊張の象徴となり、欧州における政治的戦場となっていた。しかしながら、東方外交を行ったヴィリー・ブラント首相は1970年代における東西緊張のデタント成功の鍵となった[56]。1999年にゲアハルト・シュレーダー首相がNATOのコソボ派兵への参加を決めたことにより、ドイツ外交の新たな基礎が定められ、第二次世界大戦以後、初めてドイツ兵が戦場へ送られた[57]。ドイツと米国は緊密な政治的同盟関係にある[21]。1948年のマーシャル・プランと強い文化的な結びつきが両国の絆を強めたが、シュレーダー首相のイラク戦争に対する強い反対意見は大西洋主義の終焉を示唆し、独米関係を冷却化させた[58][59]。両国は経済的に相互依存関係にあり、ドイツの対米輸出は8.8%、輸入は6.6%である[60]。2019年現在、中華人民共和国は、アジアにおける一番の貿易相手国である。ドイツの武器輸出額は中国に次ぐ世界4位[61]。 日本との関係詳細は「日独関係」を参照
1603年 - 1870年 江戸時代に来日したドイツ人の1人に、徳川綱吉とも会見した博物学者エンゲルベルト・ケンペルがいる。ケンペルが著した広汎な『日本誌』は詳細な紀行文にして博物誌であり、ゲーテも愛読したと伝えられる。日本に西洋医学を伝えたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトもドイツ人であり、徳川幕府が崩壊したあとも、日本人は盛んにドイツから医学を学んだ。 直接の外交関係は、1850年代にプロイセン王国の軍艦が品川沖に来航したことに始まり、アメリカ合衆国のマシュー・カルブレイス・ペリーのように武力で外交を開こうとした。このため、1911年まで(すなわち幕末から明治まで)の日独関係は不平等条約で結ばれていた。しかし、後述のように文化交流では重要な国となった。さらに歴史的経過を見ると、ドイツ帝国成立(1871年)と明治維新(1868年)がほぼ同じ時期に起こった点も大きい。 1871年 - 1945年 1873年に岩倉使節団はベルリン[62]、ハンブルク、ミュンヘン[63]を歴訪しており、その当時の様子は『米欧回覧実記』にも詳しく記載されている。明治維新を経た1870年代から1880年代までの日本では、ドイツ帝国の文化や制度が熱心に学ばれ、近代化の過程に大きな影響を与えた。このため、日本の近代化は「ドイツ的近代化」であるとも言われている[要出典]。伊藤博文は、大日本帝国憲法の作成にあたってベルリン大学の憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストとウィーン大学のシュタインに師事し、歴史法学を研究している。当時の東京帝国大学がヨーロッパから招聘した教員にはドイツ人が多く、明治9年(1876年)にエルヴィン・フォン・ベルツが来日したのをはじめ、哲学では夏目漱石もその教えを受けて「ケーベル博士」と親しまれたラファエル・フォン・ケーベル、化学ではゴットフリード・ワグネルなどがいる。工学においては、大久保利通の命を受けた井上省三が、ザガン市(現・ポーランド領ジャガン)のカール・ウルブリヒト工場で紡績の生産技術を学び、日本に伝えている。その知識は現代の日本の製造業の礎となった。軍事においても、大日本帝国陸軍は普仏戦争後に軍制をフランス式からプロイセン式へと変え、その制度と理論による近代化に努め、日露戦争の勝利につながった。 日清戦争後、ドイツは、ロシア帝国やフランスとともに、日本に対し三国干渉を行った。さらに第一次世界大戦が勃発すると日本が日英同盟により連合国側に与したため、ついにドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国など中央同盟国側とは山東半島やミクロネシア、地中海などで戦火を交えるに至った(→第一次世界大戦下の日本)。 第一次世界大戦敗戦後、ドイツ帝国は崩壊しヴァイマル共和制が成立し、ヴェルサイユ条約によって莫大な賠償金を課され、全植民地の喪失とともに国内での軍事産業が制限された。そのためドイツは、ソ連や中国との密貿易関係を構築した。特に中国はタングステンを産出したため、中独合作を行い、日中戦争(支那事変)では蔣介石政権に最新の兵器と軍事顧問団を送り込み、日本軍を苦しめた。当時日本が高度に軍事成長を果たすのに対して、ドイツは黄禍論も背景にあり、脅威を感じていた。その後、国際情勢の変動により、1936年には日独防共協定を締結。利害を共有する日独両国は親近感を深め、1940年には日独伊三国軍事同盟へと発展し、第二次世界大戦では枢軸国(同盟国)としてともに戦うこととなった。 1945年 - 現在 技術・経済面での交流は活発で、日本にとってヨーロッパ最大の貿易相手国となっている。特にドイツの自動車は日本でも高い人気を誇り、日本の輸入車の販売数上位3つはメルセデス・ベンツ、BMW、フォルクスワーゲンが占めている。文化や制度の面では第二次世界大戦前ほどの影響力を持たなくなったものの、クラシック音楽ではバッハやベートーヴェンをはじめとするドイツ(およびオーストリア)の作曲家の楽曲が愛好されている。 欧州連合が設立されてからは、欧州連合の中心国として交流してきた。 ドイツでは、1999年1月から2000年9月までは「ドイツにおける日本年」と定められて日本が総合的に紹介され、また日本では2005年と2006年に「日本におけるドイツ年」の諸企画が行われ、新しい形の日独交流が形成されている。 経済2013年のドイツのGDPは3兆6359億ドルであり、アメリカ、中国、日本に次ぐ世界第4位の経済大国である[64]。EU加盟国では最大の経済力を持ち、工業製品輸出額などでは世界一である。ビスマルク統一直後にイギリスを抜いて世界最大の経済大国となり、1890年代にはアメリカに抜かれたものの、今度はアメリカ資本の集中的な投下を受けて充実を維持した。両国は第二次産業革命の牽引役と言われている。 メルセデス・ベンツ・Sクラス。世界第4位、欧州第1位のGDPを擁するドイツは、世界有数の自動車輸出国である ドイツ経済の主要産業は工業である(自動車・化学・機械・金属・電気製品)。大企業より中小企業の割合がほかの先進国より高い。ドイツは戦前から科学技術に優れており、ガソリン自動車やディーゼルエンジンを発明したのはドイツ人であった。また現在見られる液体燃料ロケット(スペースシャトル、ソユーズ、アリアン、H-IIAなど、固体ロケットM-Vロケットなどを除く)は戦時中にナチスが開発した技術が基礎となっている。現在でも技術力があり、自動車はメルセデス・ベンツ、ポルシェ、BMW、アウディ、フォルクスワーゲンといったブランドが世界的に有名である。そのほか、化学・薬品大手のバイエル、ベーリンガーインゲルハイム、電機大手のシーメンス、ボッシュ、航空会社のルフトハンザドイツ航空、金融のドイツ銀行、コメルツ銀行、経営管理ソフトウェア大手のSAP、光学機器メーカーのカール・ツァイス、ライカ、世界最大の映画用カメラメーカーであるアーノルド&リヒター、人工透析で世界シェア40%のフレゼニウス、化学メーカーのBASF、建設機械メーカーのリープヘルなど、世界的に活動している大企業は多い。近年は再生可能エネルギー産業が急成長している[65][66]。 また生活用品や日用品においても、家庭用・業務用洗剤のヘンケル、清掃機器のケルヒャー、高級キッチンのミーレ、電気シェーバーや電動歯ブラシのブラウン、スポーツ用品のアディダス、プーマ、高級時計のランゲ・アンド・ゾーネや軍用時計のチュチマ、世界最初の電波時計を作ったユンハンス、筆記用具のモンブラン、ペリカン[67]、ロットリング、ラミー、ファーバーカステル、ステッドラー、音響機器のゼンハイザー、ベリンガーや世界初のステレオヘッドフォンを発売したベイヤー、ぬいぐるみのテディベアで知られるシュタイフなど世界的に著名な企業が多い。 繁栄の基礎となるアメリカ資本を惹きつけることができたのは、戦前にコンツェルンができるほど充実した保険制度のおかげかもしれない。 旧西ドイツは日本同様、第二次世界大戦後に急速な経済発展を成し遂げたが、1990年の東西統一以降旧東ドイツへの援助コストの増大、社会保障のためのコスト増大などが重荷となって経済が低迷した。また、旧東ドイツでは市場経済に適応できなかった旧国営企業の倒産などで失業が増え、旧東側では失業率が17.2%に達し、深刻な問題となっていた。企業が人件費の安いポーランドやチェコなどへ生産拠点を移転させようとしているために、ますます失業が増えるのではないかとの懸念もある[要出典]。しかしこの数年はGDPは増加傾向であり[68]、失業率も減少して2011年の時点では1991年以来の低水準となっている[69]。 かつてはすべての州で、「閉店法(Ladenöffnungszeit)」により、(空港や駅構内の売店、ガソリンスタンド併設のコンビニを除く)小売店は平日(月曜日から土曜日まで)は20時から翌朝6時まで、日曜・祝日は終日営業できないといった規則が定められていたが、2006年のFIFAワールドカップ開催をきっかけとして営業時間が延長された。同時に各州に閉店法に関する詳細を定める権限も移り、一部州では閉店法自体が撤廃されるところも出てきている。大型のショッピングセンターやトルコ・イタリア・ギリシャ・中国など外国人が経営する店は深夜や土日も開店している場合も多い。 2010年代後半からユーロ安により安定的な経常収支の黒字を記録してきた。2019年の経常黒字額は2930億ドルと4年連続世界最高水準を記録。経常黒字の対国内総生産比は、欧州委員会が持続可能と見なす水準6.0%を超え7.6%に達した[70]。 社会保障ドイツの医療は世界で初めて公的年金、公的医療保険制度を導入した。日本を含む多くの諸外国がこれを取り入れている。1883年にオットー・フォン・ビスマルクが成立させた疾病保険法にさかのぼる世界最古の国民皆保険制度を有している[71]。現在、全住民には国家によって提供される基礎健康保険が適用され、保険者は公的・私的の中から自由に選択できる。世界保健機関によれば、2015年のドイツ国民医療費は84.5%が公費負担、15.5%が私費負担である[72]。GDPに占める医療費は11.2%であった。平均寿命は2016年時点で、男性が78.7歳、女性が83.3歳で男性は世界第24位、女性は世界第23位であった[72]。乳児死亡率は2018年時点で、出生児1000人あたり3.4人(男児:3.7人、女児:3.1人)と非常に低い数値である[7]。 2009年現在のおもな死亡原因は心血管疾患の42%、続いて悪性腫瘍の25%だった[73]。2008年現在、8万2000人がHIV/AIDSに感染しており、1982年以降、合計2万6000人がこの病気で死亡している[74]。2005年の統計では成人の27%が喫煙者である[74]。2007年の調査によれば、ドイツは肥満した人の数がヨーロッパで最大である[75][76]。 現在の年金制度は、連邦労働社会省が所管している。強制加入の国営年金保険と、任意の企業年金、私的年金の3つにて構成される。国営年金は雇用主と雇用者が折半して拠出し、2015年の保険料は18.7%であり、低所得者への減額制度がある[77]。 詳細は「年金#ドイツ」を参照
交通ヨーロッパの中央部に位置するドイツは輸送機関の中枢となっている。このことは密集化され、かつ近代化された輸送ネットワークに反映されている。自動車大国であるだけに道路網も発達しており、アウトバーンと呼ばれる高速道路が主要都市を結んでおり、総延長は世界第3位である[78]。鉄道はドイツ鉄道(DB, Deutsche Bahn)が全国に路線を張り巡らせ、超高速列車ICEや都市間を結ぶインターシティ、ヨーロッパ各国との間の国際列車が多数運行されている[79]。また、都市部では近郊電車のSバーンや地下鉄(Uバーン)、路面電車の路線網が発達している。なおヴッパータールには、現在運行している世界最古のモノレールがある。トランスラピッドは世界金融危機で建設が断念された。 航空では、欧州でも屈指の大手航空会社ルフトハンザドイツ航空が世界各国に航空路線を持っている。また、ユーロウイングスなどの格安航空会社もある。ドイツ最大のフランクフルト空港とミュンヘン国際空港はルフトハンザの国際ハブ空港となっており、とりわけフランクフルト空港は欧州で3番目に利用旅客数の多い空港となっている[80]。そのほかの主要空港にはベルリン・テーゲル、ベルリン・シェーネフェルト、デュッセルドルフ、ハンブルク、ケルン・ボン、ライプツィヒ・ハレがある[81]。 2008年現在、ドイツは世界第6位のエネルギー消費国であり[82]、主要エネルギーの60%を輸入に依存している[83]。政府はエネルギー効率改善と再生可能エネルギー活用を推進している[84]。エネルギー効率は1970年前半以降改善しており、政府は2050年までに国内電力需要を再生可能エネルギーのみで賄うことを目標に掲げている[85]。2010年時点でのエネルギー源は石油(33.8%)、褐炭を含む石炭(22.8%)、天然ガス(21.8%)、原子力(10.8%)、水力発電や風力発電(1.5%)、そしてその他の再生可能エネルギー(7.9%)となっている[86]。2000年、政府と原子力産業は2021年までにすべての原子力発電所を閉鎖することに合意した[87]。 ドイツは京都議定書や生物多様性、排出量規制、リサイクルそして再生可能エネルギーの利用などを推進するその他の諸条約に係わっており、世界レベルでの持続可能な開発を支持している[88]。ドイツ政府は大幅な排出量削減運動に着手しており、国内の排出量は低下している[89]。しかしながら、2007年時点でのドイツの温室効果ガス排出量は依然としてEU最大である[90]。 特に電力系統において、1990年から固定価格買い取り制度を採用、スマートグリッドを構築中である。1994年、基本法第20条a項として「国は未来の世代に対する責任という面においても生活基盤としての自然を保護するものとする」という条文が採用された。経済と環境は対立するものではなく、大気、土壌、水質の保護は経済発展の前提条件とされた。背景には、国土が狭いうえに海岸線が短いため埋立地も十分に確保できず、そのうえ廃棄物の他国への越境移動が禁止されたため、自国内で処理せざるを得なくなったことである。環境保護に対する国民の意識が高まり、 1998年に同盟90/緑の党が連立政権に参加した。
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