ドイツ国
(大ドイツ国)
Deutsches Reich
(Großdeutsches Reich)
1934年 - 1945年 フレンスブルク政府
ナチス・ドイツの国旗 ナチス・ドイツの国章
国旗国章
国の標語: "Ein Volk, ein Reich, ein Führer."
ドイツ語: 一つの民族、一つの国家、一人の総統)
国歌: 世界に冠たるドイツ 旗を高く掲げよ
ナチス・ドイツの位置
第二次世界大戦中のドイツ国領土(1942年)
公用語 ドイツ語
首都 ベルリン
大統領(1933年 - 1934年、1945年)
総統(1934年 - 1945年)
1925年5月12日 - 1934年8月2日 パウル・フォン・ヒンデンブルク
1934年8月2日[1] - 1945年4月30日アドルフ・ヒトラー
1945年4月30日 - 1945年5月23日カール・デーニッツ
首相
1933年1月30日 - 1945年4月30日アドルフ・ヒトラー
1945年4月30日 - 1945年5月1日ヨーゼフ・ゲッベルス
1945年5月1日 - 1945年5月23日ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク
面積
1939年633,786km²
1939年696,265km²
人口
1937年69,314,000人
変遷
ヒトラー内閣成立 1933年1月30日
全権委任法成立1933年3月24日
ヴェルサイユ条約軍事制限条項の破棄1935年3月16日
ラインラント進駐ロカルノ条約破棄)1936年3月7日
第二次世界大戦開始1939年9月1日
ヒトラー自殺1945年4月30日
無条件降伏1945年5月8日
通貨ライヒスマルク
現在ドイツの旗 ドイツ
ポーランドの旗 ポーランド
ロシアの旗 ロシア
カリーニングラード州の旗 カリーニングラード州
 オーストリア
 チェコ
スロバキアの旗 スロバキア
 ウクライナ
先代次代
ヴァイマル共和政 ヴァイマル共和政
ザール盆地地域 ザール盆地地域
オーストリア共和国 オーストリア共和国
チェコスロバキア チェコスロバキア
自由都市ダンツィヒ 自由都市ダンツィヒ
ポーランド共和国 ポーランド共和国
フレンスブルク政府 フレンスブルク政府
  1. ^ 国家元首に関する法律が発効した日

ナチス・ドイツは、アドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)による支配下の、1933年から1945年までのドイツ国に対する呼称である。社会のほぼ全ての側面においてナチズムの考え方が強制される全体主義国家と化した。1939年9月1日にポーランドに侵攻しヨーロッパにおける第二次世界大戦を引き起こすも、戦況の悪化の末ヒトラーが自殺し、1945年5月に連合国軍に敗北、解体され滅亡した。

概要

1933年1月30日、ヴァイマル共和政パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領により、ヒトラーはドイツ国首相に任命された。まもなく大統領令と全権委任法によって憲法を事実上停止した上に、対立政党の禁止や長いナイフの夜による突撃隊粛清などにより政治的敵対勢力を全て抹殺し、ヒトラーを中心とする独裁体制を強固にした。一方で、政府は組織的かつ協力的な組織ではなく、ヒトラーの情実及び権力を求めて闘争を行う党派の集合体であった。1934年8月2日のヒンデンブルク死後、ヒトラーは首相府及び大統領府並びに両権限を統合した上に個人として国家元首の権能を吸収し、名実ともにドイツの独裁者になった[1]。国家元首となったヒトラーの地位は日本語で総統と呼ばれる。世界恐慌の影響でドイツ経済はどん底となり、大量の失業者があふれていたが、多額の軍事支出を始めとする公共投資により、重工業を中心とする産業が伸長し、1935年にはほぼ完全雇用を達成した(ナチス・ドイツの経済)。

人種主義、特に反ユダヤ主義は、同政権の中心的特徴であった。ゲルマン人 (北方人種) は、最も純粋なアーリア人種ひいては支配人種英語版だと考えられた。自由主義者、社会主義者、共産主義者は、殺害、投獄又は国外追放された。キリスト教会もまた多くの指導者が投獄され、抑圧された。教育は人種主義見地により、人口政策、健康に重点が置かれた。女性の就業及び教育機会は奪われた。娯楽及び旅行は歓喜力行団のプログラムにより組織化された。宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは世論操作のため、映画、大規模集会、ヒトラーの洗脳演説を有効活用した。政府は芸術的表現を統制し、特定の芸術形式を奨励し、それ以外は頽廃芸術として禁止又は抑圧した。1936年夏季オリンピックにより国際舞台で、ドイツがナチ党の唱える理想国家である「第三帝国」であるとアピールされた。

ナチス・ドイツは次第に積極的な領土要求を行い、要求が満たされなければ戦争を行うと脅迫した。1938年及び1939年には、オーストリア及びチェコスロバキアを占拠した。ヒトラーはヨシフ・スターリン条約を結び、1939年9月にポーランドに侵攻し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が勃発した。イタリア王国及び東欧諸国と同盟を結び(枢軸国)、1940年までにドイツはヨーロッパの大部分を制圧し(ドイツによるヨーロッパ占領)、イギリスを脅かした。1941年のソビエト連邦へのドイツの侵攻開始後、ドイツとソ連は壮絶な独ソ戦の死闘を繰り広げた。東部占領地域は残忍な勢力下に置かれ、ヒトラーの統治に対する反対勢力は情け容赦なく抑圧された。この戦いの最中、ナチス・ドイツ政権の人種政策は、何百万ものユダヤ人及び好ましくないと見なされた生きるに値しない命強制収容所及び絶滅収容所へ投獄、殺害したホロコーストにおいて頂点に達した。1943年にドイツは大規模な軍事的敗北を被った。1944年にはドイツへの大規模な爆撃が段階的に増大したことと、連合国軍の反攻によりドイツの勢力圏は縮小の一途をたどった。6月のフランスへの連合国の侵攻後、ドイツは完全に守勢に回り、領土も次第に制圧された。終戦間際でのヒトラーの敗北への拒絶は、ドイツ国土の大規模な破壊と、さらなる犠牲を産むことになった(ネロ指令)。ベルリン攻防戦が行われる最中の1945年4月30日のヒトラーの自殺によってナチス政権は事実上崩壊し、5月9日、ドイツ国防軍による降伏が行われた(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦))。ヒトラーに指名されたカール・デーニッツらのフレンスブルク政府は正当性を否認され、6月5日ベルリン宣言によりドイツに中央政府が存在しないことが確認され、ドイツは法的にも占領下に置かれることとなった(連合軍軍政期 (ドイツ))。戦勝した連合国は非ナチ化政策を開始、多くのナチス指導者は戦争犯罪でニュルンベルク裁判などの非ナチ化裁判の公判に付された。

国名

Grossdeutsches Reich - Reichsarbeitsdienst.jpg Grossdeutsches Reich - Reichsarbeitsdienst 1.jpg
RADの隊員を模した切手(1944年)。
「大ドイツ国」の国号が用いられている。

正式な国名は、帝政時代およびヴァイマル共和政時代と同じく「Deutsches Reichドイツ国ドイッチェス・ライヒ)」であった。

1938年オーストリア併合以降ドイツ民族主義の意識が高まり、民間などで「Grossdeutschland(大ドイツ)」等の呼称が使われ始め、グロースドイッチュラント師団などの部隊名にも用いられた。1943年6月24日には、総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースが、公文書の中で初めて「Grossdeutsches Reich(グロースドイッチェス・ライヒ、大ドイツ国)」の名称を用いた[2]。同年10月24日以降は切手にもこれが印刷されるなど、事実上の国号として扱われたが、正式な改称は最後まで行われなかった。

「ナチス」という呼称は、本来NSDAPの対立者による蔑称であったが、党が政権をとる前から世界に広く知られていた[注 1]。英語圏では党の政権掌握後のドイツ国を指して「Nazi Germany」という呼称が用いられた。日本においても昭和8年(1933年)10月27日付の『大阪毎日新聞』で「ナチス独政府[3]という表記が見られ、昭和10年(1935年)4月28日付の『大阪朝日新聞』では「ナチス・ドイツ」の呼称が用いられている。昭和11年(1936年)5月31日付『大阪朝日新聞』の天声人語でも「ナチ・ドイツ[4]と表記され、戦時中の昭和18年(1943年)1月11日でも「ナチス・ドイツ」という語が用いられた[5][注 2]

また、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、神聖ローマ帝国、ドイツ帝国を継承する「理想国家」という意味で、「第三帝国: Drittes Reich: Third Reich)」という呼称も宣伝に使用したが、逆にナチスへの批判や反ナチの風刺などに利用されたため、1939年夏以降ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相は、この語の使用を控えるよう通告している。ただし、完全に禁止されたわけではなく、以降も「第三帝国」の呼称を引用することはあった。

現代ドイツにおいてはNazizeit(ナチ時代)、Nazi-Deutschland(ナチ・ドイツ)という用法もあるが[6]、分断時代の西ドイツにおいても、「NSDAP」などの呼び方が一般的であり、ナチスの名称はほとんど用いられなかった[7]。Nationalsozialismus、もしくはそれを略したNSがナチスの呼称として用いられる[8][9][要文献特定詳細情報]。またHitlerdeutschland(ヒトラー・ドイツ)[10][要文献特定詳細情報]という用法もある。

年表

ドイツの歴史
Coat of arms featuring a large black eagle with wings spread and beak open. The eagle is black, with red talons and beak, and is over a gold background.
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再統一後のドイツ
関連項目
オーストリアの歴史

ドイツ ポータル
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1932年
1933年
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1935年
1936年
1937年
1938年
1939年
1940年
1941年
1942年
1943年
1944年
1945年
  • 4月16日 ベルリンの戦い始まる。
  • 4月30日 ヒトラーが総統官邸地下壕において自殺。後継大統領にカール・デーニッツ海軍総司令官、首相に宣伝相のヨーゼフ・ゲッベルスを指名。
  • 5月1日 ゲッベルスが地下壕において自殺し、政府機能が崩壊。デーニッツのフレンスブルク政府が活動を開始。
  • 5月2日 ベルリンがソ連軍に占領される。
  • 5月7日 アルフレート・ヨードル大将がランスにおいて連合国への降伏文書に署名。
  • 5月8日 ヴィルヘルム・カイテル元帥がベルリンのカルルスホルストにおいて、降伏文書の批准を行う。
  • 5月23日 デーニッツをはじめとするフレンスブルク政府閣僚が逮捕される。
  • 6月5日 ベルリン宣言によりドイツに中央政府が存在しないことが確認され、ドイツ国の歴史に終止符が打たれる。統合的な占領行政が開始(連合軍軍政期)。
  • 政権掌握

    ナチスはヒトラー内閣成立直前の1932年の二度の国会選挙で最大の得票を得たが、議会においては単独では過半数を獲得することはできなかった。同年11月の選挙でナチスは34議席を失ったが、第1党の地位は保持した。一方ドイツ共産党は11議席を増やし、首都ベルリンでは共産党が投票総数の31%を占めて単独第1党となった。これに脅威を感じた保守派と財界は以後、ナチスへの協力姿勢を強め、途絶えていた財界からナチスへの献金も再開された。

    1933年1月30日、ヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命されて政権を獲得した。同時にナチス党幹部であるヘルマン・ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に任じられた。ゲーリングはプロイセン州の警察を掌握し、突撃隊親衛隊を補助警察官として雇用した。これにより多くのナチスの政敵、特にドイツ共産党およびドイツ社会民主党員が政治犯として強制収容所に収容された。

    非常権限掌握

    ヒトラーは組閣後ただちに総選挙を行ったが、2月27日ドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーはこれを口実として「民族と国家防衛のための緊急令」と「民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令」の二つの緊急大統領令を発布させた。これにより国内の行政・警察権限を完全に握ったヒトラーは、ドイツ共産党に対する弾圧を行った。選挙では共産党議員も多数当選したが、選挙後に共産党は非合法化され、共産党議員の議席は議席ごと抹消された。ドイツ中央党など中道政党の賛成も得て全権委任法を制定し、一党独裁体制を確立した。その後、ドイツ国内の政党・労働団体は解散を余儀なくされ、ナチス党は国家と不可分の一体であるとされた。

    1934年6月には突撃隊幕僚長エルンスト・レームをはじめとする党内の不満分子やナチス党に対する反対者を非合法手段で逮捕処刑した(長いナイフの夜)。1934年8月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは従来の首相職に加えて国家元首の機能を吸収し、国民投票によってドイツ国民により賛同された。これ以降のヒトラーは指導者兼首相(Der Führer und Reichskanzler)、日本語では総統と呼ばれる。

    支配の強化

    1935年にはヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言した。ヒトラーはアウトバーンなどの公共事業に力を入れ、壊滅状態にあったドイツ経済を立て直した。一方で、ユダヤ人ロマのような少数民族迫害など独裁政治を推し進めた。1936年にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって非武装地帯となっていたラインラントに進駐した(ラインラント進駐)。同年には国家の威信を賭けたベルリンオリンピックが行われた。また、1938年には最後の党外大勢力であるドイツ国防軍の首脳をスキャンダルで失脚させ(ブロンベルク罷免事件)、軍の支配権も確立した。

    外交においては“劣等民族”とされたスラブ人国家のソ連反共イデオロギーの面からも激しく敵視し、英仏とも緊張状態に陥った。ただし、ヒトラーはイギリスとの同盟を模索していたとされる。アジアにおいてはリッベントロップ外相の影響もあり、伝統的に協力関係(中独合作)であった中華民国(中国)から国益の似通う日本へと友好国を切り替えた。1936年には日独防共協定を締結。1938年には満州国を正式に承認し、中華民国のドイツ軍事顧問団を召還した。1940年9月にはアメリカ仮想敵国として日独伊三国軍事同盟を締結した。

    領土拡張政策

    1938年、ナチス式敬礼でドイツ兵を歓迎するチェコスロバキアザーツにおけるドイツ系住民

    1938年には、オーストリアを併合(アンシュルス)。9月にはチェコスロバキアに対し、ドイツ系住民が多く存在するズデーテン地方の割譲を要求。英仏は反発し、戦争突入の寸前にまで陥ったが、イタリアベニート・ムッソリーニの提唱により英仏独伊の4ヶ国の首脳によるミュンヘン会談が開かれ、ヒトラーは英仏から妥協を引き出すことに成功した。

    この時ヒトラーが英国のネヴィル・チェンバレン首相に出した条件は「領土拡張はこれが最後」というものであった。しかしヒトラーはこの約束を遵守せず、翌1939年にはドイツ系住民保護を名目にチェコスロバキア全土に進軍、傀儡政権として独立させたスロバキアを除いて事実上併合した(チェコスロバキア併合)。オーストリア・チェコスロバキアを手に入れたヒトラーの次の目標は、ポーランド領となっているダンツィヒ回廊であった。ヒトラーは軍事行動に先立って、犬猿の仲とされたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦との間で独ソ不可侵条約を締結。世界中を驚愕させた。

    第二次世界大戦

    第二次世界大戦中のヨーロッパにおけるドイツ及び枢軸国の版図 (クリックするとフルサイズの画像で動画版を参照可)
    枢軸国の絶頂期におけるヨーロッパ

    ヒトラーはダンツィヒ回廊の返還をポーランドに要求。拒否されると、独ソ不可侵条約締結からちょうど1週間後の1939年9月1日ドイツ軍ポーランドへ侵攻した。ヒトラーは、イギリスフランスは参戦しないだろうと高をくくっていたが、その思惑に反してイギリスおよびフランスはドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が開始された。しかし、戦争準備が十分でなかった英仏はドイツへの攻撃を行わず、ドイツもポーランドに大半の戦力を投入していたため、独仏国境での戦闘はごく一部の散発的なものを除いてまったく生じなかった。西部戦線におけるこの状態は翌1940年5月のドイツ軍によるベネルクス3国侵攻まで続いた。ポーランドはドイツ軍の電撃戦により1ヶ月で崩壊。国土をドイツとソ連に分割された。

    1940年の春には、ドイツ軍はデンマークノルウェーを立て続けに占領し、5月にはベネルクス三国に侵攻、制圧した。ドイツ軍は強固なマジノ線が敷かれていた独仏国境を避け、ベルギー領のアルデンヌの森を突破し、いっきにフランス領内に攻め込んだ。ドイツ軍は電撃戦によりフランスを圧倒し、1ヶ月でフランスを降伏に追い込んだ。

    イギリスを除く西ヨーロッパの連合国領のすべてを征服したドイツ軍は、イギリス本土上陸作戦(アシカ作戦)の前哨戦としてブリテン島上空の制空権を賭けてバトル・オブ・ブリテンを開始したが敗北。イギリス本土上陸は中止に追い込まれた。その後は、貧弱な同盟国であるイタリアの救援として北アフリカ戦線バルカン半島戦線に部隊を派遣。バルカン半島からギリシャにかけての地域を完全に制圧し、北アフリカでも物量に勝るイギリス軍を一時アレクサンドリア近辺まで追い込んだ。

    そして、1941年6月22日、突如不可侵条約を破棄しソ連に侵攻する(バルバロッサ作戦)。ソ連への攻撃は、バトル・オブ・ブリテンの失敗によって戦争の前途に行き詰まりを感じていたヒトラーの、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」という考えのもと始められたが[11]、ドイツの「生存圏Lebensraum を東方に拡張する目的もあった(東方生存圏)。ソ連軍は完全に不意を突かれた形となり、大粛清によるソ連軍の弱体化の影響もありドイツ軍は同年末にはモスクワ近郊まで進出した。しかし、冬将軍の訪れと補給難により撤退。独ソ戦は膠着状態となりヒトラーが当初もくろんだ1941年内のソ連打倒は失敗に終わった。ナチスは当初、共産主義の圧制下にあったウクライナバルト諸国などで一時的に地元住民から歓迎され、ソビエトから離反したロシア解放軍コサックが味方するなどの効果をもたらした。しかしドイツは占領地において植民地化と搾取を行ったこともあり、これら占領地で発生した独立運動などに関してドイツ軍は武力で抑え込む姿勢に出たため住民感情の反発を招き、パルチザン活動が激化することとなった。ロシア人が「大祖国戦争」と呼ぶこの戦争で1,100万人の赤軍兵士のほか、およそ1,400万人の市民が死んだ。

    日本軍による真珠湾攻撃の3日後、ヒトラーは対米宣戦布告を行った。1942年夏、ドイツ軍はブラウ作戦を発動しソ連南部に進攻、石油鉱物資源が豊富なカフカス・コーカサス地方のスターリングラードまで進出した。しかしスターリングラード攻防戦は長期化し、冬将軍の再来により補給が途絶えたドイツ軍はソ連軍に包囲され、翌1943年2月、スターリングラードの第6軍は降伏。その後、7月のクルスクの戦いを最後にドイツ軍が東部戦線において攻勢に回ることはなかった。クルスクでの戦いの最中には、イタリアのシチリア島連合軍が上陸。翌月にはイタリア本土に連合軍が上陸し、9月にはイタリアは連合軍に降伏した。直後にドイツ軍は幽閉されていたムッソリーニを特殊部隊で救出し、イタリア北部を制圧し傀儡のイタリア社会共和国を樹立させ、南チロルなど一部地域を事実上支配下に置いた。これにより、イタリア戦線が開始された。

    1944年6月、連合軍がフランス北部のノルマンディーに上陸し、ドイツ軍は二正面作戦を余儀なくされる。同時期には東部戦線でもソ連軍によるバグラチオン作戦が開始され、ドイツ中央軍集団が壊滅。7月にはヒトラー暗殺計画とクーデターが実行されたが失敗に終わった。東部戦線でのソ連軍の進撃に伴い、ルーマニアブルガリアフィンランドといった同盟国が次々に枢軸側から離反した。

    各地で敗退を続けるドイツ軍は、同年12月に西部戦線で一大攻勢に打って出た(バルジの戦い)が失敗。1945年に入ると連合軍のライン川渡河を許した。東部戦線でもソ連軍が東プロイセンを占領し、オーデル・ナイセ線を越えた。4月、ソ連軍によるベルリン総攻撃が開始された。30日にヒトラーは総統官邸地下壕で自殺した。ヒトラーの遺言により、カール・デーニッツ海軍総司令官が大統領となった(フレンスブルク政府)。5月2日にベルリンはソ連軍によって占領され、ベルリンの戦いは終結した。5月7日、デーニッツにより権限を授けられた国防軍最高司令部作戦部長、アルフレート・ヨードル大将が連合国に対する降伏文書に署名し、翌5月8日に最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が批准文書に署名した。すでにナチス党は事実上崩壊しており、連合国も中央政府の存在を認めなかったため(ベルリン宣言 (1945年))、ナチス・ドイツの政府は実態として消滅しており、フレンスブルク政府も閣僚が逮捕されたことによって終焉を迎えた。

    ナチス・ドイツの思想

    ナチズムにおいては「アーリア人種こそが世界を支配するに値する人種である」というアーリア至上主義が用いられ、その中でも容姿端麗で知能が高く、運動神経の優れた者が最もアーリア人種的であるとされた。この思想を肯定する右派の政治結社トゥーレ協会ゲルマン騎士団などが党黎明期より大きな権威を持っていた。 また、頭脳の優れた超人こそが大衆を支配すべきだと信じられ、超人を生み出すために数々の人体実験を行った[12][要文献特定詳細情報]

    一方、反ユダヤ・反ロスチャイルド主義が強固であり、ウィーンのロスチャイルド家はオーストリア併合の際にナチスの家宅捜索を受け財産を没収され、アメリカへ亡命を余儀なくされることになる。

    また、共産主義はユダヤの陰謀であると主張し、東方生存圏の構想へと結びつくことになった。これらがニュルンベルク法ホロコーストに繋がったのである[13][要ページ番号]

    政治

    ナチス・ドイツの政治は原則的には、ナチ党のイデオロギーである指導者原理によるものであった。一人の指導者に被指導者層が従う、つまり民族の指導者であるナチ党、その指導者であるヒトラーに民族すべてが従うというこの原理は、政治分野だけでなく経済や市民生活全てに適用された。ヒトラーの地位である指導者(Führer)は法律で定義されたものではなく[14]、国家や法の上に立つものであるとされた[15]。このため民族共同体の構成員である国民は、指導者の意思に服従し、忠誠を誓うことが義務であるとされた。

    この体制では明文化された法よりもヒトラーの意思に従うことこそが重要であるとされ、合法的であるとされた[16]。一方でヒトラーは下位の指導者に大幅な自由裁量権を認めており、社会ダーウィン主義に基づく権力闘争を是認・奨励していた。このためヒトラーの意思を体現すると称する各指導者同士の権力闘争が頻発し、権力的アナーキーと評される状態となった[17][要文献特定詳細情報]

    強制的同一化

    ナチス時代の特色ある政策の一つは政治や社会全体を均質化しようとするGleichschaltung、「強制的同一化」(強制的同質化)と呼ばれる運動である。

    国民啓蒙・宣伝省が設置された日の会見でヨーゼフ・ゲッベルスが「政府と民族全体の強制的同一化の実現」が同省の目的である[18][要文献特定詳細情報]と述べたように、ドイツ民族にもナチズムに基づく同一化が求められた。そのためナチ党以外の政党、労働組合や私的なクラブは次々に排除され、禁止された。代わりに人々は国家や党の主導によるイベントや集会に動員・参加することが義務づけられ、他の事象に興味を持つ時間を奪われていった。

    ナチ党

    1933年7月6日までにナチ党以外の既存政党はすべて解散に追い込まれ、ヒトラーが「党が今や国家となったのだ」と言明する事態となった[19]。7月14日には政党新設禁止法が公布され、唯一の政党であるナチ党以外の政党の設立・存続が禁止された。12月1日には「ナチズム革命の勝利の結果、国家社会主義ドイツ労働者党がドイツ国家思想の担い手となり、党は国家と不可分に結ばれる」ことが法律で定められた(党と国家の統一を保障するための法律)。この法律では党は公法人であるとされたが、1935年4月19日の「統一法施行令」では「共同体」(Gemeinschaft)と定義し直された。しかしこれらの条文も1942年12月12日の「ナチス党の法的地位に関する指導者命令」によって削除された[20]。党と国家の役割を定義する試みはしばしば行われたが、結局のところは両者の境界は曖昧なままであった。この党の状態をマルティン・ボルマンは「ナチス党の地位は法律の規定によっては正しく把握しうるものではなかった」としている[21]

    一方でナチ党の世界観において、党は国家と同様、指導者の下にあって、民族指導を実現する一つの手段・装置であるとされたが、党は国家より優位に立つ存在であった。ラインハルト・ヘーンde)は党は国家より先に立つ第一次的存在であるとし[22]、「国家の存在理由は、官庁・官僚装置を使って、党により与えられた大きな方針を実現し、党の負担を軽減する」存在であると説明している[23]

    統治機構

    国内政治の機構もナチズムの影響を強く受けた。ヴァイマル共和政の時代では内閣は合議機関であったが、やがて形式だけのものとなり、権力を持つものは一部の大臣のみとなった。ドイツ帝国以来の官僚機構と並立して党の機関も権力の一部となり、時には優位に立つこともあった。党の地方区分であった大管区は公的なものとなり、大管区指導者は地方の長として大きな権限をふるった。また親衛隊の勢力拡大は大きく、国内の治安権力を掌握した最有力組織の一つとなった。またナチス時代初期の外交分野では、外務省のほか党の外交政策局、さらにリッベントロップの個人事務所(「リッベントロップ事務所」Büro Ribbentrop、1936年以降は「リッベントロップ機関」Dienststelle Ribbentrop)が並立し、それぞれ別個の外交活動を行うことさえあった。

    またナチ党はヴァイマル共和政下の強い地方自治は阻害要因でしかないと考えており、ヒトラー内閣が成立すると州の自治権は次第に奪われていった。中央政府から国家代理官や国家弁務官が送り込まれ、中央政府の権限が強化される一方で、地方議会は解散に追い込まれ、州政府は形骸化した。またナチ党の地方組織大管区が実質的な地方区分となり、大管区指導者が地方の支配者となった。

    対外政策

    ヒトラーはドイツ民族を養うためには現状の領土では不可能であると考えており、東ヨーロッパにおける東方生存圏の獲得を主張していた。軍事力の充実もこの目的を達成するためのものであった。1938年11月にはオーストリアとチェコスロバキアに対する侵略政策を軍首脳に明かしている(ホスバッハ覚書)。この思想に基づいてポーランド、チェコスロバキア、ソ連に対する侵略政策を進めた。また、ヒムラーなどはヨーロッパ全土のゲルマン民族を、ドイツ民族の指導の下に統括する大ゲルマン帝国(Großgermanisches Reich)という構想も持っていた。

    一方で東アジア外交では、中国をとるか日本をとるかという路線対立が政軍内にあり、日本接近派が主導権を握る1939年頃まで続いた。

    経済政策

    1941年のBuna Werkeにて、IG・ファルベンの建設中の合成石油工場。同工場はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の一部である。

    しばしばナチスは、経済分野において高い能力を示したと評されることがあるが、ナチズムがドイツの経済回復に与えた理論的影響はほとんど無かった。ヒトラーは「私たちの経済理論の基本的な特徴は私たちが理論を全然有しないことである[24]」と言っているように、『我が闘争』で展開している自らの経済観が事実上マルクス経済学に依拠していても気づかないほど経済学に疎く[25]、当初訴えていた政策は「ユダヤ人や戦争成金から資産を収奪して国民に再配分する」という稚拙なものだった。またナチ党の経済理論家であったゴットフリート・フェーダーグレゴール・シュトラッサーは早い段階で失脚しており、影響を与えることはできなかった。

    1933年2月1日、ヒトラーは4年以内に「経済再建と失業問題の解決」を実現する「二つの偉大な四カ年計画ドイツ語: Vierjahresplan)によって、わが民族の経済を再組織するという二つの大事業を成功させる」と発表した(第一次四カ年計画)。一方でヒトラーは1923年インフレーションを沈静化させて名高かったヒャルマル・シャハトドイツ帝国銀行(ライヒスバンク)総裁に迎えた。後に経済大臣になったシャハトの政策は、ヒトラーの前任者であるパーペン、シュライヒャー内閣時代の計画を継承し、公共事業、価格統制でインフレの再発を防ぎ、失業者を半減させた。

    一方でヒトラーはドイツ再軍備のために300億マルクの支出を要求した。シャハトは金属調査会社(Metallurgische Forschungsgesellschaft)というダミー会社を作り、この会社にライヒスバンクが保障する手形を発行させる方式で再軍備の資金を調達した[26][要ページ番号]。このメフォ手形の発行でインフレを伴わない資金調達が可能となったが、政府に見えない負債を膨大に抱えさせる結果となった。

    一方で農業は原料不足が深刻化し、支払い残高を維持することが難しく、膨大な貿易赤字は避けられないため、外貨危機に悩んでいた。そこでシャハトは1934年から双務主義で均衡を図り、広域経済(ドイツ語: Großraumwirtschaft)を敷いた。しかし、シャハトは外貨割り当てを巡って農業省と対立し、軍備のあり方でゲーリングとも対立した。その後、1935年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄し、徴兵制を施行して軍備拡張政策を実行する。

    外貨割り当てではシャハトの案が採用されたが、1936年8月26日にヒトラーはゲーリングを指導者とする第二次四カ年計画を開始させ、経済省から独立した四カ年計画庁が経済面において大きな権力をふるうことになった。第二次四カ年計画により、1937年には人員需要が失業者を上回り、ほぼ完全雇用が達成された[27][要文献特定詳細情報]。景気回復の成果はあったが、投資財産業に比べ著しく消費財産業を劣らせ、極度な外貨不足をもたらした。また、労働力不足に陥り、物価・賃金が急騰し、価格停止令など様々な対策を講じたが、どれも失敗に終わった。このためドイツ経済は過熱し、生存圏の拡大か軍備の制限かという二つの選択に迫られた。ヒトラーは前者を選び、反対したシャハトは閑職に追いやられた。同時期に再び財政収支の悪化が激化し、アルベルト・シュペーアは「第二次世界大戦に参戦しなかったとしても第三帝国は財政赤字で破綻する」と思ったという。またシャハトの失脚後にはユダヤ人・ユダヤ系とされた企業から資本・財産を奪うアーリア化の措置が進行している。

    第二次世界大戦が勃発すると、軍事支出は当時のヨーロッパでは最高の割合を示すようになり、1944年にはドイツ経済のほとんどを占めるようになった。またフランスなどの占領地からの収奪、捕虜や外国人の強制労働が、ドイツ経済において大きな割合を占めるようになった。しかしこの体制は経済封鎖と占領地失陥によってほころびだし、1945年の敗戦と同時に、戦争経済は崩壊した。これらの政策はミハウ・カレツキを始めとする経済学者らによって典型的な軍事ケインズ主義と総括されている。

    自動車政策

    1930年代後半のアウトバーン

    カーマニアでもあるヒトラーの経済政策は余り芳しくなかった自動車生産を急激に伸ばさせ、ドイツの自動車産業を経営不振から脱却させたことで知られる。1933年にヒトラーはベルリン自動車ショーでアウトバーンの建設を発表し、自動車税が撤廃された。インフラストラクチャー開発の中で道路工事が特に盛んだったことや戦争準備で軍隊及び物資をすぐに運べる最新式の道路網を必要としていたこともあり、クルップダイムラー・ベンツメッサーシュミットなどの軍需企業の協力を得て、アウトバーンの建設を加速し、フォルクスワーゲン構想を推進させた(フォルクスワーゲンの車が大衆に普及したのは戦後だが、自動車生産の基盤はナチス政権時代に整った)。

    環境政策

    ナチス・ドイツの中央集権的な機構により、環境保護・動物保護の政策は大きく進展し、後のドイツ連邦共和国に受け継がれる保護法制が成立した。しかしこれらも軍需が優先され、実態としては不十分なものであった。

    農業・食糧政策

    1933年9月に食糧農業相にリヒャルト・ヴァルター・ダレが就任して以降、ドイツの農業にも統制の手が入った。9月12日にはライヒ食糧団de:Reichsnährstand)が結成され、ナチス党の農業全国指導者でもあるダレが農業組合、生産者、加工精製業者、取引業者間の利害調整を行うことになった。9月23日にはライヒ農場世襲法が制定され、農民の所有地を『世襲農地』として認定し、譲渡・負担設定・賃貸を禁止した。またこの中で農民(Bauer)はドイツ国籍を持ち、ドイツ民族もしくは同等の血統を持つことを要求された。これはダレの提唱した『血と土』理論に基づくものであり、農民は世襲農地から離れることが出来なくなった[28][要文献特定詳細情報]ナチス・ドイツの農業と農政de))。

    軍事

    1942年、スターリングラード付近のPanzerwaffeの戦車及び装甲車の隊列
    1933年4月1日、ユダヤ系店舗のボイコットを強制するSA隊員