ドイツ国
(大ドイツ国)
Deutsches Reich
Großdeutsches Reich
1934年 - 1945年 フレンスブルク政府
ナチス・ドイツの国旗 ナチス・ドイツの国章
国旗国章
国の標語: "Ein Volk, ein Reich, ein Führer."
ドイツ語: 一つの民族、一つの国家、一人の総統)
国歌: 世界に冠たるドイツ 旗を高く掲げよ
ナチス・ドイツの位置
第二次世界大戦中のドイツ国領土(1942年)
  •   ドイツ本国および保護領総督統治領
公用語 ドイツ語
首都 ベルリン
大統領(1933年 - 1934年、1945年)
総統(1934年 - 1945年)
1925年5月12日 - 1934年8月2日 パウル・フォン・ヒンデンブルク
1934年8月2日[1] - 1945年4月30日アドルフ・ヒトラー
1945年4月30日 - 1945年5月23日カール・デーニッツ
首相
1933年1月30日 - 1945年4月30日アドルフ・ヒトラー
1945年4月30日 - 1945年5月1日ヨーゼフ・ゲッベルス
1945年5月1日 - 1945年5月23日ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク
面積
1939年633,786km²
1939年696,265km²
人口
1937年69,314,000人
変遷
ヒトラー内閣成立 1933年1月30日
全権委任法成立1933年3月24日
ヴェルサイユ条約軍事制限条項の破棄1935年3月16日
ラインラント進駐ロカルノ条約破棄)1936年3月7日
第二次世界大戦開始1939年9月1日
ヒトラー自殺1945年4月30日
無条件降伏1945年5月8日
通貨ライヒスマルク
現在ドイツの旗 ドイツ
ポーランドの旗 ポーランド
ロシアの旗 ロシア
カリーニングラード州の旗 カリーニングラード州
 オーストリア
 チェコ
スロバキアの旗 スロバキア
 ウクライナ
先代次代
ヴァイマル共和政 ヴァイマル共和政
ザール盆地地域 ザール盆地地域
オーストリア共和国 オーストリア共和国
チェコスロバキア チェコスロバキア
自由都市ダンツィヒ 自由都市ダンツィヒ
ポーランド共和国 ポーランド共和国
フレンスブルク政府 フレンスブルク政府
  1. ^ 国家元首に関する法律が発効した日

ナチス・ドイツは、アドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)による支配下の、1933年から1945年までのドイツ国に対する呼称である。社会のほぼ全ての側面においてナチズムの考え方が強制される全体主義国家と化した。1939年9月1日にポーランドに侵攻しヨーロッパにおける第二次世界大戦を引き起こすも、戦況の悪化の末ヒトラーが自殺し、1945年5月に連合国軍に敗北、解体され滅亡した。

概要

1933年1月30日、ヴァイマル共和政パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領により、ヒトラーはドイツ国首相に任命された。まもなく大統領令と全権委任法によって憲法を事実上停止した上に、対立政党の禁止や長いナイフの夜による突撃隊粛清などにより政治的敵対勢力を全て抹殺し、ヒトラーを中心とする独裁体制を強固にした。一方で、政府は組織的かつ協力的な組織ではなく、ヒトラーの情実及び権力を求めて闘争を行う党派の集合体であった。1934年8月2日のヒンデンブルク死後、ヒトラーは首相府及び大統領府並びに両権限を統合した上に個人として国家元首の権能を吸収し、名実ともにドイツの独裁者になった[1]。国家元首となったヒトラーの地位は日本語で総統と呼ばれる。世界恐慌の影響でドイツ経済はどん底となり、大量の失業者があふれていたが、多額の軍事支出を始めとする公共投資により、重工業を中心とする産業が伸長し、1935年にはほぼ完全雇用を達成した(ナチス・ドイツの経済)。

人種主義、特に反ユダヤ主義は、同政権の中心的特徴であった。ゲルマン人北方人種)は、最も純粋なアーリア人種ひいては支配人種英語版だと考えられた。自由主義者、社会主義者、共産主義者は、殺害、投獄又は国外追放された。キリスト教会もまた多くの指導者が投獄され、抑圧された。教育は人種主義見地により、人口政策、健康に重点が置かれた。女性の就業及び教育機会は奪われた。娯楽及び旅行は歓喜力行団のプログラムにより組織化された。宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは世論操作のため、映画、大規模集会、ヒトラーの洗脳演説を有効活用した。政府は芸術的表現を統制し、特定の芸術形式を奨励し、それ以外は頽廃芸術として禁止又は抑圧した。1936年夏季オリンピックにより国際舞台で、ドイツがナチ党の唱える理想国家である「第三帝国」であるとアピールされた。

ナチス・ドイツは次第に積極的な領土要求を行い、要求が満たされなければ戦争を行うと脅迫した。1938年及び1939年には、オーストリア及びチェコスロバキアを占拠した。ヒトラーはヨシフ・スターリン条約を結び、1939年9月にポーランドに侵攻し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が勃発した。イタリア王国及び東欧諸国と同盟を結び(枢軸国)、1940年までにドイツはヨーロッパの大部分を制圧し(ドイツによるヨーロッパ占領)、イギリスを脅かした。1941年のソビエト連邦へのドイツの侵攻開始後、ドイツとソ連は壮絶な独ソ戦の死闘を繰り広げた。東部占領地域は残忍な勢力下に置かれ、ヒトラーの統治に対する反対勢力は情け容赦なく抑圧された。この戦いの最中、ナチス・ドイツ政権の人種政策は、何百万ものユダヤ人及び好ましくないと見なされた生きるに値しない命強制収容所及び絶滅収容所へ投獄、殺害したホロコーストにおいて頂点に達した。1943年にドイツは大規模な軍事的敗北を被った。1944年にはドイツへの大規模な爆撃が段階的に増大したことと、連合国軍の反攻によりドイツの勢力圏は縮小の一途をたどった。6月のフランスへの連合国の侵攻後、ドイツは完全に守勢に回り、領土も次第に制圧された。終戦間際でのヒトラーの敗北への拒絶は、ドイツ国土の大規模な破壊と、さらなる犠牲を産むことになった(ネロ指令)。ベルリン攻防戦が行われる最中の1945年4月30日のヒトラーの自殺によってナチス政権は事実上崩壊し、5月9日、ドイツ国防軍による降伏が行われた(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦))。ヒトラーに指名されたカール・デーニッツらのフレンスブルク政府は正当性を否認され、6月5日ベルリン宣言によりドイツに中央政府が存在しないことが確認され、ドイツは法的にも占領下に置かれることとなった(連合軍軍政期 (ドイツ))。戦勝した連合国は非ナチ化政策を開始、多くのナチス指導者は戦争犯罪でニュルンベルク裁判などの非ナチ化裁判の公判に付された。

国名

Grossdeutsches Reich - Reichsarbeitsdienst.jpg Grossdeutsches Reich - Reichsarbeitsdienst 1.jpg
RADの隊員を模した切手(1944年)。
「大ドイツ国」の国号が用いられている。

正式な国名は、帝政時代およびヴァイマル共和政時代と同じく「Deutsches Reichドイツ国ドイッチェス・ライヒ)」であった。

1938年オーストリア併合以降ドイツ民族主義の意識が高まり、民間などで「Grossdeutschland(大ドイツ)」等の呼称が使われ始め、グロースドイッチュラント師団などの部隊名にも用いられた。1943年6月24日には、総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースが、公文書の中で初めて「Grossdeutsches Reich(グロースドイッチェス・ライヒ、大ドイツ国)」の名称を用いた[2]。同年10月24日以降は切手にもこれが印刷されるなど、事実上の国号として扱われたが、正式な改称は最後まで行われなかった。

「ナチス」という呼称は、本来NSDAPの対立者による蔑称であったが、党が政権をとる前から世界に広く知られていた[注 1]。英語圏では党の政権掌握後のドイツ国を指して「Nazi Germany」という呼称が用いられた。日本においても昭和8年(1933年)10月27日付の『大阪毎日新聞』で「ナチス独政府[3]という表記が見られ、昭和10年(1935年)4月28日付の『大阪朝日新聞』では「ナチス・ドイツ」の呼称が用いられている。昭和11年(1936年)5月31日付『大阪朝日新聞』の天声人語でも「ナチ・ドイツ[4]と表記され、戦時中の昭和18年(1943年)1月11日でも「ナチス・ドイツ」という語が用いられた[5][注 2]

また、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、神聖ローマ帝国、ドイツ帝国を継承する「理想国家」という意味で、「第三帝国: Drittes Reich: Third Reich)」という呼称も宣伝に使用したが、逆にナチスへの批判や反ナチの風刺などに利用されたため、1939年夏以降ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相は、この語の使用を控えるよう通告している。ただし、完全に禁止されたわけではなく、以降も「第三帝国」の呼称を引用することはあった。

現代ドイツにおいてはNazizeit(ナチ時代)、Nazi-Deutschland(ナチ・ドイツ)という用法もあるが[6]、分断時代の西ドイツにおいても、「NSDAP」などの呼び方が一般的であり、ナチスの名称はほとんど用いられなかった[7]。Nationalsozialismus、もしくはそれを略したNSがナチスの呼称として用いられる[8][9][要文献特定詳細情報]。またHitlerdeutschland(ヒトラー・ドイツ)[10][要文献特定詳細情報]という用法もある。

年表

ドイツの歴史
Coat of arms featuring a large black eagle with wings spread and beak open. The eagle is black, with red talons and beak, and is over a gold background.
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再統一後のドイツ
関連項目
オーストリアの歴史

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