ニカラグア共和国
República de Nicaragua
ニカラグアの国旗 ニカラグアの国章
国旗 国章
国の標語:En Dios Confiamos
(スペイン語: 我々は神に託す)
国歌Nicaragua,Salve a tí
ニカラグアの位置
公用語 スペイン語
首都 マナグア
最大の都市 マナグア
政府
大統領 ダニエル・オルテガ
首相 なし
面積
総計 129,494km295位
水面積率 7.1%
人口
総計(2016年 6,080,000人(109位
人口密度 41人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 1,230億[1]コルドバ・オロ(A$)
GDP (MER)
合計(2008年 63億[1]ドル(129位
GDP (PPP)
合計(2008年166億[1]ドル(123位
1人あたり 2,688[1]ドル
独立
 - 日付
スペインより
1821年9月15日
通貨 コルドバ・オロ(A$) (NIO)
時間帯 UTC -6(DST:なし)
ISO 3166-1 NI / NIC
ccTLD .ni
国際電話番号 505

ニカラグア共和国(ニカラグアきょうわこく、スペイン語: República de Nicaragua)、通称ニカラグアは、中央アメリカ中部に位置するラテンアメリカ共和制国家である。北西にホンジュラス、南にコスタリカと国境を接し、東はカリブ海、南西は太平洋に面している。また、カリブ海にコーン諸島ミスキート諸島を領有している。首都はマナグア

ニカラグアは狭義の中央アメリカで最も面積が広い国である。1936年から1979年まで続いたソモサ一家の独裁政治と、ソモサ独裁に対するニカラグア革命後の内戦のために開発は極めて歪な形でなされ、そのために国民所得や識字率などが中央アメリカでも未だに低い水準にある。

国名

Nicaragua-map.png

正式名称はスペイン語で、República de Nicaragua[reˈpuβlika ðe nikaˈɾaɣwa] レプブリカ・デ・ニカラグア)。通称は、Nicaragua

公式の英語表記は、Republic of Nicaragua (米:[rɪˈpʌblɪk əv ˌnɪkəˈrɑːɡwə], 英:[ˌnɪkəˈræɡjuə] リパブリック・オブ・ニカラーグア/ニカラギュア)。通称は、Nicaragua

日本語の表記は、ニカラグア共和国。通称、ニカラグアニカラグァニカラグワと表記されることもある。

国名は現在のニカラグアの地に勢力を保っていた先住民の一つ、ニキラノ族の首長ニカラオスペイン語版英語版がその由来となっているといわれている。

歴史

先コロンブス期

ヨーロッパ人の到達以前のこの地にはチブチャスペイン語版系の諸族が居住していた。現在のニカラグアは北方からトルテカ族アステカ族がやってくる中間点で、相互の影響により豊かな文化が形成され、美しい陶器や石像を今に残している。また、それゆえにアステカ帝国最南端の交易所があり、中米地峡の北と南を繋いでいた。

スペイン植民地時代

1492年にクリストーバル・コロンアメリカ大陸を「発見」してからは、アメリカ大陸全域がヨーロッパ人の侵略に晒されたが、ニカラグアもその例外ではなかった。1502年にコロンに発見されたニカラグアでは、インディヘナが集団改宗する事件などもあった。

中央部のニカラオカリ(現在のリバス付近)を本拠とするインディヘナニキラノ族の首長ニカラオスペイン語版英語版が侵略に立ち向かった。それゆえ、この地域一帯を総称しニカラグア(ニカラオの地)と呼ぶようになった。しかし、このようなインディヘナたちの抵抗にもかかわらず、スペイン人征服者フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ(コルドバは現行の通貨名となっている)に征服され、以後ニカラグアは、他の周辺地域と同様に、スペインによる過酷な支配下におかれることになった。

こうして植民地になったニカラグアでは、金鉱山やカカオ栽培等にインディヘナが奴隷として過酷な労役に使役され、ヨーロッパから天然痘などの疫病が伝播すると、虐殺や奴隷化の対象となったインディヘナ人口は絶滅に近いほど激減した。インディヘナがほぼ絶滅すると、代わりにアフリカ大陸から黒人奴隷が投入されるのも、ラテンアメリカの他地域と同様であった。その後、ヌエバ・エスパーニャ副王領の下のグアテマラ総督領スペイン語版英語版の一部として管理下におかれ、農業牧畜業が営まれたが、ニカラグアは中米ではホンジュラスやコスタリカと並んで開発が立ち遅れた地域だった。また、植民地時代を通じて次第にメスティーソが増えていった。

スペインの影響力が発揮され続けた太平洋側とは異なり、植民地時代を通してカリブ海側はイギリス海賊の襲撃が相次ぎ、カリブ海側の先住民ミスキート族の王国、モスキート海岸英語版はイギリス領ホンジュラス(現在のベリーズ)のようにイギリスの影響力が強まることになった。

植民地から独立国へ

大西洋岸に位置するコーン諸島は、元々モスキート海岸の残りと共にニカラグアに割譲されるまでイギリスの保護領だった。

19世紀前半にはインディアス植民地各地のクリオージョ達の間で独立の気運が高まった。1789年のフランス革命以来のヨーロッパの政治的混乱の中、ナポレオン戦争により1808年からスペイン本国では、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトボルボン朝フェルナンド7世を退位させ、兄のジョゼフスペイン王ホセ1世として即位させると、それに反発する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発した。インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。1811年から独立闘争が本格化し、1821年9月15日グアテマラ総督領スペイン語版英語版が独立すると、ニカラグアもスペイン支配から解放された。 中央アメリカ諸国は1821年9月16日に独立したアグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝の第一次メキシコ帝国に併合された。

中央アメリカ連邦共和国(

1823年のメキシコ帝国の崩壊に伴い旧グアテマラ総監領の五州は中央アメリカ連合州として独立。1824年には中央アメリカ連邦が成立した。エル・サルバドル出身のマヌエル・ホセ・アルセスペイン語版英語版が中米連邦初代大統領となるが、独立後すぐに政治的混乱を起こした。フランシスコ・モラサンをはじめとする自由主義者のエル・サルバドル派と、 ラファエル・カレーラをはじめとする保守主義者のグアテマラ派の内戦のなかで、モラサン率いる政府軍がグアテマラの戦いで敗れると、1838年に中米連邦は崩壊した。

再独立とニカラグア国民戦争

中央アメリカ連邦が崩壊して再独立した後は、他のラテンアメリカ諸国と同じように自由党スペイン語版英語版(PLN)と保守党スペイン語版英語版(PC)の対立が先鋭化した。連邦崩壊後は自由主義派のレオン保守主義派のグラナダの主導権争いが続き、両者が独自に大統領を擁立する中で中央政府はしばらく存在しなかったが、1853年にグラナダ出身の保守主義者フルート・チャモロスペイン語版英語版が選挙によって大統領に就任すると、混乱はようやく収束したかに見えた。

しかし混乱は続き、1854年12月にアメリカ合衆国南部人で傭兵出身の冒険家ウィリアム・ウォーカーがニカラグア自由党の傭兵として上陸し、レオンの自由党とグラナダの保守党の内紛を利用して支配権を掌握した。ウォーカーは翌1856年6月、自らニカラグア大統領に就任した。アメリカ南部のテネシー州出身で環カリブ海帝国を建設しようとしていたウォーカーは、英語公用語として強制し、既にニカラグアでは廃止されていた黒人奴隷制の復活を布告し、さらにはアメリカ合衆国人の土地取得を有利にする法律を制定した。中央アメリカ諸国はこの挙に対し一致団結して当たり、国民戦争スペイン語版が始まった。イギリスやバンダービルド財閥の支援を受けたコスタリカを主体とした中央アメリカ連合軍は、リバスの戦い英語版スペイン語版でウォーカー軍を破り、1857年にウォーカーは打倒された。先の国民戦争でウォーカーを招き入れてしまったことが仇になり、以後の自由党は暫く勢力を失い、その後しばらく保守党政権が続いた。

中央アメリカ大共和国(

1893年、自由党のホセ・サントス・セラヤスペイン語版英語版が政権を握り進出を始めたアメリカ合衆国資本の援助を受けて鉄道建設などを実行した。1894年、セラヤはイギリス領だった大西洋側のモスキート海岸英語版を合衆国の支持の下に併合し、ニカラグアは太平洋と大西洋の両方に面した国家となった。

またセラヤはニカラグアをグアテマラに代わって中央アメリカの指導的な国家にするために手を尽くし、エル・サルバドル、ホンジュラスと共に1896年には中央アメリカ大共和国を樹立するが、1898年にはこの国家は崩壊してしまった。セラヤはその後独裁者として長期政権を維持するが1909年、アメリカ政府を激怒させてしまい失脚することになった。

アメリカ合衆国の進出 (1909 - 1933)

アメリカ海兵隊を撤退に追いやったアウグスト・セサル・サンディーノ(中央)。現在もニカラグアの国民的英雄となっている。

セラヤ失脚後は様々な政権が入れ替わり立ち替わりし、ブライアン・チャモロ協定スペイン語版英語版が結ばれるとようやく建国当時からパナマ案と並んでの候補だった、中米地峡運河建設のニカラグア案が正式に放棄されることになった。

1927年、自由党のホセ・マリア・モンカーダスペイン語版英語版らが保守党のアドルフォ・ディアススペイン語版英語版政権に対しての内戦英語版を始めた。この内戦はすぐに停戦してしまったが、停戦後再びアメリカ海兵隊が上陸してくると自由党軍のアウグスト・セサル・サンディーノ将軍だけは停戦に応じず、選挙監視を行うために駐留していたアメリカ海兵隊(占領軍)をニカラグア国民主権防衛軍で攻撃した(サンディーノ戦争)。サンディーノ戦争はラテンアメリカ諸国の支援を受けての、世界初の近代的なゲリラ戦争となった。アメリカ海兵隊は被害を恐れ、国家警備隊スペイン語版英語版を養成し、海兵隊と共に国家警備隊がサンディーノ軍とジャングルの中でゲリラ戦を行うことになった。しかし、お互い決め手に欠けたまま時間だけが経ち、遂に選挙監視の任務が終わったこと、世界恐慌の影響でニカラグアに駐留する費用も惜しくなったことなどを原因に1933年、アメリカ海兵隊が撤退してサンディーノ戦争は終結した。

しかし翌1934年、サンディーノは国家警備隊隊長アナスタシオ・ソモサ・ガルシアに暗殺され、1936年にソモサはクーデターを起こして大統領となった。こうして以降のニカラグアは1936年から1979年まで43年に及ぶソモサ王朝の支配が続くことになった。

なお、日本とは、1935年堀義貴初代駐ニカラグア日本公使が着任し、正式に外交関係が成立した[2]

ソモサ王朝 (1936 - 1979)

1937年に大統領に就任したアナスタシオ・ソモサ・ガルシア(タチョ)は、傀儡大統領を据えて政治と国家を私物化し、国家警備隊を利用した純然たる力の政治が行われた。第二次世界大戦の間には「敵性国民」であることを理由にドイツ系地主の財産を没収し、私財にするなどの一方で、大戦後には隣国のコスタリカと二度、ホンジュラスと一度紛争を起こすなど、中央アメリカにおけるニカラグアの影響力を拡大することに余念がなかった。

タチョが詩人に暗殺されると、長男のルイス・ソモサ・デバイレが後継者として実権を掌握した。ルイスは自由党(PLN)をコントロールして言論の自由の一部解禁や福祉の拡充を行うなど、形だけでもメキシコ制度的革命党(PRI)のような、PLNによる一党独裁体制の体裁をとっていたが、1963年に病死した。

後を継いだタチョの次男のアナスタシオ・ソモサ・デバイレ(タチート)は純然たる力の政治を目指し、国家警備隊による暴力を政権基盤として独裁を行った。1972年にマナグア大地震スペイン語版英語版により、首都マナグアが壊滅すると世界中からニカラグアへの義捐物資が送られたが、タチートはこれを全てソモサ一家とその関連企業の間で着服し、国民の不満は一層高まることになった。

ニカラグア革命とコントラ戦争

1936年から続いていたソモサ家独裁への反対は1972年のマナグア大地震へのソモサ政府の暴力的な対応により拡大を続けていったが、1978年1月に反体制派新聞「ラ・プレンサスペイン語版英語版」社長のペドロ・ホアキン・チャモロスペイン語版英語版が政府によって暗殺されたことにより、国民の独裁政権への不満は頂点に達した。武装蜂起したサンディニスタ民族解放戦線 (FSLN。組織名は「サンディーノ主義」の意) は中道・左派の幅広い結集を受け、ラテンアメリカ諸国と国際社会を味方につけ、1979年7月19日アナスタシオ・ソモサ・デバイレ大統領は合衆国のマイアミに亡命し(第一次ニカラグア内戦)、43年間におよぶソモサ王朝は終焉した。

ニカラグア革命はニカラグア固有の条件に起因した独自の革命であり、社会正義を実現するために遅れた部分を改革するというところから始まったものであった。このため、当初は非同盟政策、混合経済複数政党制などの国造りを目標にして、キューバソビエト連邦などの東側諸国から一線を画するつもりでいたが、次第にアメリカ合衆国やソ連やサンディニスタや国内保守派の思惑が入り乱れ、これが第二次ニカラグア内戦へと繋がっていった。

コントラの兵士(1987年

人権外交」を掲げたジミー・カーター合衆国大統領とは違って革命を敵視したロナルド・レーガン合衆国大統領は“自由で民主的な政権を作る”という名目の下、「エル・サルバドル死守」を掲げて中央アメリカに介入を始めた。また、 オリバー・ノースがアメリカ政府とは独立した支援活動を繰り広げるなど、水面下でのさまざまな暗躍が噂された。アメリカ合衆国は経済援助を停止し、CIAなどさまざまな組織を通じて、旧ソモサ軍の兵士や、エデン・パストラをはじめとするサンディニスタの反主流派、カリブ海のモスキート海岸英語版の先住民、ミスキート族などを反政府勢力コントラに組織し、ニカラグアに第二次ニカラグア内戦を強いた。

1984年から1985年にかけて、革命政権「国家再建会議」から民政移管する形式がとられ、選挙によってサンディニスタ党首で再建会議議長のダニエル・オルテガが大統領となった。このオルテガ第一次政権は、ニカラグア国内の鉄道を撤収し、大規模な私有財産の接収を行った。また、反対者を秘密警察を通じて誘拐・拷問・幽閉などの徹底的な弾圧を行ったので、多くの知識人・富裕層がアメリカのマイアミロサンゼルスに亡命した。この結果、ソモサ以前は中米一の繁栄を誇っていたニカラグア経済は完全に破壊されてしまう(第一次オルテガ政権が幕を閉じた時には、GDPはソモサ末期の1979年の30%以下にまで低下していた)[要出典]

1986年6月、国際司法裁判所は、アメリカの主張を全面的に退け「機雷封鎖、コントラ支援を含むニカラグアへの攻撃は、国連憲章をふくむ国際法に違反」とする判決を下すが(ニカラグア事件)、アメリカはコントラ支援をますますエスカレートさせる。11月、アメリカ合衆国のイランへの武器売却代金がニカラグアのコントラ・グループに流れていた事が発覚(イラン・コントラ事件)。この時アメリカ合衆国の手先となって支援資金の洗浄をしていたのは、アフガニスタンなどで反米武力闘争を行なっていたウサーマ・ビン・ラーディンの兄サーレム・ビン・ラーディン英語版であった。

終戦、和平合意、その後のニカラグア

1987年中米和平条約スペイン語版英語版Acuerdo de Esquipulas)の合意に沿って、1988年3月、政府と反政府勢力問の暫定停戦合意が成立した。1990年2月、国連による国際監視のもとで大統領選挙を実施した。オルテガをはじめとするサンディニスタ幹部はこの選挙での勝利を予想していたが、サンディニスタは僅差で敗れ、国民野党連合 (UNO) のビオレータ・チャモロ候補が初の女性大統領に選出された。4月にチャモロ政権が発足。6月にはコントラが武装解除・解体完了を宣言する一方、国軍(それまで革命前の反政府武装勢力時代からの名称「サンディニスタ人民軍」を用いていたが、「ニカラグア軍スペイン語版」と改称した)が8万人から1万5千人に削減され、内戦は実質的に終結した。サンディニスタ内ではクーデターを起こして政権を確保しようとする動きもあったが、オルテガ大統領はこれを制し、無事民主的な政権交代が実施された。その一方でダニエルの弟ウンベルト・オルテガスペイン語版英語版が国軍の最高司令官に留任するなど、サンディニスタと野党のお互いの妥協が認められた形となった。

1996年10月20日に、大統領等選挙が行われ、自由同盟(AL、中道右派連合)[3]から元ソモサの部下だったアルノルド・アレマンスペイン語版英語版候補が当選した。1997年1月10日、アレマン新政権が発足する。同時にダニエル・オルテガの養女へのセクハラなど、FSLN幹部の汚職がスキャンダル化し、サンディニスタ革新運動スペイン語版英語版(MRS)が分裂した。

2001年11月4日に行われた総選挙で、エンリケ・ボラーニョス前副大統領が選出、2002年1月10日にボラーニョス政権発足。前アレマン大統領の在任時の汚職疑惑が社会問題化する。2006年11月5日に行われた大統領選挙で、カトリック教会を味方につけ貧困撲滅を訴えた、FSLNのダニエル・オルテガ元大統領が16年ぶりに当選した[4]2007年1月10日にオルテガは大統領に就任した。

2011年11月6日、大統領選挙でオルテガ現大統領が再選された(ニカラグア中央選管が7日に発表した。開票率86%の段階で左派政党・サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)のオルテガは約63%を獲得した。次点の右派政党・独立自由党スペイン語版英語版(PLI)のファビオ・ガデアスペイン語版英語版候補は約32%)。

2018年の抗議デモ

2018年4月18日、オルテガ大統領が憲法上の手続を経ていない社会保険法改正を実施。これに対し、市民が反発、大学生中心の抗議デモが各地で発生。多数の死傷者が発生する暴動に発展。4月22日に社会保険法改正令が取り消され、事態は一旦沈静化したものの、5月中旬以降、反政府派の大学生への弾圧を機に、暴動が再燃。NGOによると、暴動による累計死者数は少なくとも285名となった[5]

略年表