ニュージャージー州
State of New Jersey
ニュージャージー州の旗ニュージャージー州の印
州旗(州章)
州の愛称: 庭園の州
The Garden State
州のモットー: 自由と繁栄
Liberty and prosperity
ニュージャージー州の位置
州都トレントン
最大の都市ニューアーク
州知事フィル・マーフィー英語版
公用語法的指定なし
面積
 - 総計
 - 陸地
 - 水域
全米第47位
22,608 km²
19,231 km²
3,378 km² (15%)
人口2010年
 - 総計
 - 人口密度
全米第11位
8,791,894
459人/km²
合衆国加入
 - 順番
 - 加入年月日

3番目
1787年12月18日
時間帯UTC -5
DST -4
緯度北緯38°56' - 41°21'
経度西経73°54' - 75°34'
東西の幅112 km
南北の長さ273 km
標高
 -最高標高
 -平均標高
 -最低標高

550 m
80 m
0 m
略称 (ISO 3166-2:US)US-NJ
ウェブサイトニュージャージー州政府
上院議員ボブ・メネンデス
コリー・ブッカー

ニュージャージー州: State of New Jersey)は、アメリカ合衆国東部の大西洋沿岸にあるである。州の北東はハドソン川を境としてニューヨーク州に接し、西はペンシルベニア州に、西南の一角はデラウェア湾を挟んでデラウェア州に接している。南東と南は大西洋に面している。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第47位、人口では第11位、人口密度では第1位である。2011年の世帯当たり収入の中央値では第2位である[1]州都トレントンで、最大の都市ニューアークである。

北東にニューヨーク、南西にフィラデルフィアと隣接しており、古くから2つの都市を結ぶ回廊、あるいは郊外都市、気軽なリゾート地としても発展を遂げてきた。著名な衛星都市としてニューヨーク側にジャージーシティニューアーク、フィラデルフィア側にカムデントレントンなどがある。中でもアトランティックシティは東海岸随一のカジノ・シティとして有名である。

イギリスから最初に独立した13州のうちの1つであり、州名はイギリス海峡に位置するチャンネル諸島ジャージー島に由来する。

家庭で話される言語(ニュージャージー州) 2010
英語
  
71.31%
スペイン語
  
14.59%
人種構成(ニュージャージー州) 2010
白人
  
59.3%
ヒスパニック
  
17.7%
黒人
  
13.7%
アジア系
  
8.3%
インディアン
  
0.3%
混血
  
2.7%

歴史

約1億8,000万年前のジュラ紀、ニュージャージー州となった地域は北アフリカに接していた。北アメリカとアフリカのプレートが衝突した圧力でアパラチア山脈が隆起した。約18,000年前の氷期には氷河がニュージャージーにも達した。氷河が後退するとその後にパセーイク湖や多くの川、湿地、峡谷が残った[2]

この地域に最初に入ったのはアメリカ・インディアンであり、ヨーロッパ人が到着したときには、レニ・レナペ族が支配していた。レナペ族はトウモロコシを主とする小規模の農業を行う緩やかな組織をもつ集団であり、デラウェア川ハドソン川下流、ロングアイランド湾西部を取り巻く地域で移動する狩猟採集型社会の拡大を目指していた。レナペ族の社会は共通の母系先祖を元にする母系集団に分かれていた。これら集団はカメやオオカミなど動物の印で識別される3つの胞族に組織された。17世紀初期にオランダ人と遭遇しており、ヨーロッパ人との関係は主に毛皮交易を通じたものであった。

植民地時代

ニュージャージーの土地に最初に領有権を主張したのはオランダ人だった。ニューネーデルラント植民地は、現在の大西洋岸中部州の部分で構成されていた。ヨーロッパ人による土地の領有権という考え方はレナペ族に認められなかったが、オランダ西インド会社の政策では、植民者が入植する土地を購入することを求めていた。最初に購入したのはマイケル・ポーであり、ノース川に沿ったパボニアの領主となり、後にバーゲンと呼ばれた。ピーター・ミニュイットはデラウェア川沿いの土地を購入し、ニュースウェーデン植民地を設立した。1664年には、これら全域がイングランド領となった。この年、イングランドのリチャード・ニコルズ大佐の指揮するイングランド艦隊が現在のニューヨーク港に入り、アムステルダム砦を占領して全域をイングランド領に併合した。

イングランド内戦のとき、チャネル諸島のジャージーはイギリス王室に対する忠誠を守り、国王を匿っていた。国王チャールズ1世が処刑された後、1649年にその息子チャールズ2世はジャージーの主都セント・ヘリアのロイヤル広場で即位の宣言を行った。北アメリカの土地はチャールズ2世によって分割され、弟のヨーク公ジェームズにはニューイングランドメリーランドに挟まれた地域を領主領(王室領植民地と区別)として与えた。ジェームズはハドソン川とデラウェア川に挟まれた地域(今日のニュージャージー州)を、イングランド内戦のときにも忠誠を尽くした2人の友人に与えた。それがジョージ・カートレットとストラットンの初代バークレー男爵ジョン・バークレーだった[3]。この地域はニュージャージー植民地と名付けられた。

ニュージャージーはその始まりから、民族も宗教も多様であるという特徴があった。ニューイングランドの福音主義者達が、スコットランド長老派教会員やオランダ改革派教会員と共に入植した。住民の大半は100エーカー (400,000 平方メートル) の土地を持って町に住んでおり、それ以上の広大な土地を所有する者は希だった。イングランドのクエーカー教徒やイングランド国教会員が大規模土地所有者だった。プリマス植民地ジェームズタウンなど他の植民地とは異なり、ヨーロッパから直接移民して来るものではなく、他の植民地からの移住者で第二の人口増が起きた。植民地時代を通じて農業社会に留まり、田園が残り、換金作物を栽培する農業も間歇的なものだった。デラウェア川沿いのバーリントンやパースアンボイなどいくつかの町が、ニューヨーク市やフィラデルフィア市への重要な出荷港として出現した。土地が肥沃で、宗教に対して寛容な政策を採ったことが多くの開拓者を惹き付け、1775年までに人口は12万人になっていた。

イングランドがハッケンサック川とアーサー・キル沿いを支配するようになって最初の10年間、開拓者はおもにニューイングランドから来ていた。1673年3月18日、バークレーが持ち分である植民地の半分をイングランドのクエーカーに売却した。クエーカー教徒はクエーカーの植民地としてデラウェア・バレー地域に入植した。ウィリアム・ペンがしばらくその土地の信託者を務めていた。1674年から1702年の28年間は東ジャージーと西ジャージーという2つの植民地として統治された。当時はニューヨーク植民地あるいはニューイングランド自治領の一部として扱われていた。

1702年、領主や総督ではなく王室の下に2つの植民地が統合された。王室植民地としてコーンベリー卿エドワード・ハイドが初代総督になった。しかし、ハイドはイギリス本国からは非効率で腐敗しており、賄賂をせしめて土地に投機していると見なされたため、1708年にイングランドに呼び戻された。その後、ニュージャージーはニューヨークの総督によって統治されたが、これにはニュージャージーの開拓者達が激高し、ニューヨークを依怙贔屓していると告発した。ルイス・モリス判事がこの訴訟の処理にあたり、1738年には国王ジョージ2世から総督に指名された[4]

アメリカ独立戦争期

アメリカ独立戦争で、ニュージャージーはイギリスの支配に対して反抗した13植民地の1つとなった。ニュージャージー憲法が1776年7月2日に成立したが、これは第二次大陸会議でアメリカがイギリスからの独立を宣言する2日前のことだった。憲法を採択したのは植民地議会であり、そのまま州議会となった。中立性を保つために、ニュージャージーがイギリスと和解に達した場合には、この憲法が無効になるものとされていた。

大陸会議に対するニュージャージーの代表、リチャード・ストックトンジョン・ウィザースプーンフランシス・ホプキンソンジョン・ハートエイブラハム・クラークアメリカ独立宣言に署名した。

独立戦争の間、イギリス軍とアメリカ軍が何度もニュージャージーを行き来し、いくつか重要な戦闘も起こったため、「革命の交差点」と呼ばれることも多い。ジョージ・ワシントン将軍がモリスタウンを2冬にわたって冬季宿営地としたことから、革命の軍事首都とも呼ばれた。

1776年12月25日から26日の夜、ワシントン将軍指揮下の大陸軍がデラウェア川を渡り、渡河後におきたトレントンの戦いでドイツ人傭兵部隊を急襲し破った。この戦闘からわずか1週間後に第二次トレントンの戦いが起こり、イギリス軍のチャールズ・コーンウォリス将軍の進軍を防いで大きな勝利を掴んだ。さらに1777年1月3日にはプリンストンを急襲して同地のイギリス軍を破った。エマヌエル・ロイツが描いた『デラウェア川を渡るワシントン』は独立戦争の象徴になった。

ワシントン指揮下のアメリカ軍は、1778年6月にもヘンリー・クリントン指揮下のイギリス軍とモンマスの戦いで会したが、引き分けに終わった。ワシントンは急襲でイギリス軍部隊を捉えようとしたが、イギリス軍がアメリカ軍の側面を衝くと、アメリカ軍は算を乱して後退した。アメリカ軍は再度編成し直され、イギリス軍の攻撃に耐えた。

1783年夏、大陸会議がプリンストン大学のナッソーホールで開催されたため、プリンストンは4か月の間 首都になった。独立戦争を終わらせるパリ条約が調印されたという報せが入ったのもこの時だった。

1787年12月18日、ニュージャージー州はアメリカ合衆国憲法を批准した3番目の州になった。この憲法はニューヨーク州やペンシルベニア州がヨーロッパからの輸入品に関税を課すことを妨げていたので、ニュージャージー州では人気が高かった。1789年11月20日、権利章典を批准した新生アメリカ合衆国で最初の州になった。

1776年に採択されたニュージャージー州憲法では、「一定以上の富を持つ」全ての住人に選挙権を制限していた。これには女性や黒人も含んだが、結婚した女性はその夫とは別に独自の資産を持てなかったので、選挙権がなかった。1807年、州議会は憲法が普遍的に「白人男性」に選挙権を与え、貧者を除外するという解釈を与えた法案を成立させた[5]

19世紀

1804年2月15日、ニュージャージー州は北部では最後に奴隷制度を廃止した州となり、現存する奴隷制度を緩やかになくしていく法を成立させた。このため、徐々に奴隷人口は減っていき、南北戦争が近付いた頃には州内で1ダースばかりのアフリカ系アメリカ人が自由人の見習い状態にあるだけになっていた。当初州民は奴隷制度を禁じ、黒人に権利を認める憲法修正の批准を拒んだ。

1844年、二代目の州憲法が批准されて施行された。これによって郡が州上院議員を選ぶ選挙区となり、マーサー郡の新設など郡境の調整が続いた。この規定は1947年憲法でも継続されたが、1962年の「ベイカー対カー事件」に対するアメリカ合衆国最高裁判所判決で違憲とされた。1844年の憲法は1776年の憲法より州知事の権限が強かったが、知事に対してあるいは州民に対して責任のない役職を多く創り出していた。また任期は3年間としたが、再選は認められなかった。

独立戦争とは異なり、ニュージャージー州で南北戦争の戦闘は起きなかった。しかしその戦争期間を通じて8万人が北軍に従軍し、南軍と対抗した。

トマス・エジソン、1901年、ウェストオレンジの研究室で

エイブラハム・リンカーンが出馬した2度の大統領選挙において、ニュージャージー州は2度とも対抗馬の候補者を選んだ北部州の3州の1つになった(他はデラウェア州とケンタッキー州)。1860年ではスティーブン・ダグラスを、1864年ではジョージ・マクレランを選んだ。マクレランは1878年から1881年に州知事を務めた。南北戦争の初期は共和党知事チャールズ・スミス・オルデンが指導し、その後は民主党のジョエル・パーカーが継いだ。

産業革命期、パターソンなどの都市が成長し、繁栄した。それまでの経済は農業依存であり、収穫の良否に左右されたり土壌が痩せつつあるなどの問題があった。このため経済の工業への転換が進み、まずは繊維や絹など日用品の製造が進められた。発明家トマス・エジソンは産業革命期の重要人物であり、1,093の特許を取得し、その多くをニュージャージー州で働きながら発明した。エジソンの施設はまずメンローパークに、その後ウェストオレンジに置かれ、おそらく国内初の研究所だと考えられている。メンローパークのクリスティ通りは街灯が灯った世界初の大通りとなった。蒸気機関車蒸気船が導入されて交通も様変わりした。

19世紀半ばには鉄鉱石鉱業も重要な産業だった。州南部パインランドにある沼鉄鉱鉱山は国内初の鉄鉱石出荷元となった[6]。マウントホープ、マインヒル、ロックウェイバレーなどの鉱山が発見され、鉱業が発展した。新しい町がうまれ、またモリス運河などの需要が生じ、建設への大きな推進力となった。スターリングヒル鉱山では亜鉛の採掘も主要産業となった。

20世紀

ニュージャージー州は二度の世界大戦で軍需品生産の中心となり、特に海軍艦艇の建造が盛んだった。戦艦、巡洋艦、駆逐艦は全て州内で建造された。第二次世界大戦時アメリカ国内の軍需品の6.8%を製造し、国内48州の中では第5位だった[7]。さらに1917年建設のディックス砦(当初はキャンプ・ディックスと呼ばれた)[8]、キャンプ・メリット[9]、1941年建設のキャンプ・キルマーは[10]全て、両大戦中に兵士を収容し訓練するために建設された。冷戦時代には防衛のための主要地域となった。ナイキミサイルの基地が14か所建設され、特にニューヨーク市とフィラデルフィア市の防衛が目的とされた。第二次世界大戦でジョン・F・ケネディ中尉が指揮した魚雷艇PT-109は、ベイヨンのエルコ・ボートワークスで建造された。航空母艦USSエンタープライズ(CV-6)は1950年代にベイヨンのミリタリー・オーシャン・ターミナルで短期間ドック入りし、その後カーニーに送られてスクラップにされた[11]。1962年、世界初の原子力推進貨物船NSサバンナカムデンで進水した。

狂騒の20年代もニュージャージー州は繁栄した。1921年、アトランティックシティで最初のミス・アメリカ・コンテストが開催され、1927年にはジャージーシティマンハッタンを繋ぐホランド・トンネルが開通し、1933年にはカムデンで最初のドライブインシアターが開業した。1930年代の世界恐慌時代、失業者には物乞い免許を提供し[12]、ツェッペリンの飛行船ヒンデンブルグ号レイクハースト上空で炎上墜落し、SSモロキャッスルは海上で出火した後にアシュベリーパーク近くに座礁した。

1951年、ニュージャージー・ターンパイクが開通し、州北部(およびニューヨーク大都市圏)と南部(およびフィラデルフィア大都市圏)の移動が速くできるようになった。

1960年代、多くの工業都市で人種暴動が起こった。最初のものは1964年8月2日、ジャージーシティで起きた。1967年にはニューアーク、1967年にはプレーンフィールドと続いた。1968年4月にはマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が暗殺され、他の暴動に繋がった。1971年にはカムデンでも暴動が起こった。

1976年、ニュージャージー州最高裁判所から学校の平等性を保つための資金手当を行うよう命令が出され、ニュージャージー州議会は所得税法案を成立させた。これ以前には所得税を課していなかった[13]

ハイポイント記念碑、サセックス郡ハイポイントのマーシャ湖より望む、海抜1,803フィート (550 m) あり、州内最高地点である[14]
ペンシルベニア州境にあるデラウェア・ウォーターギャップ
リングウッド州立公園スカイランドのニュージャージー州植物園、パセーイク郡とバーゲン郡に跨る
エセックス郡ミルバーンのサウス山保有地

地理

ジャージーショアのメイ岬の夕日
パリセイズ州間公園の部分、ニュージャージー・パリセイズの崖はハドソン川を見下ろす
パターソンを流れるパセーイク川のグレートフォールズ、2011年11月に国立公園に指定、合衆国東部では最大級の滝がある[15]

参照:ニュージャージー州の郡一覧Geography of New Jersey

ニュージャージー州は、北と北東はニューヨーク州(その部分はハドソン川、ニューヨーク湾上流、キルバンクル、ニューアーク湾、アーサー・キルの対岸)、東は大西洋、南西はデラウェア湾の対岸にデラウェア州、西はデラウェア川越しにペンシルベニア州と接している。ニュージャージー州の西部境界線はデラウェア川によって大きく明示される。ニュージャージー州はボスウォッシュ(都市圏)の中心地である。

ニュージャージー州は地形と人口に基づいて5つの地域に区分できる。北東部はゲイトウェイ地域と呼ばれ、ニューヨーク市マンハッタンに最も近く、住人の多くがニューヨーク市に通勤している。北西部はスカイランズと呼ばれ、北東部に比べて樹木が多く、田園が残り、山も多い。ジャージーショアは州東中部と南東部の大西洋岸にあり、独自の自然、住宅地、生活様式がある。デラウェア・バレーは州南西部の郡が入り、フィラデルフィア大都市圏に入る。5番目の地域は州南部内陸のパイン・バーレンである。松とオークの混合林で覆われ、他の地域に比べて人口密度が低い。

ニュージャージー州は大まかに3つの地理的地域に分けることもできる。北ジャージー英語版中央ジャージー英語版、および南ジャージー英語版である。中央ジャージーは独自の特性を持っていないと考える住民も居るが、北ジャージーや南ジャージーとは異なる地形や文化があると見なす人もいる。

アメリカ合衆国行政管理予算局は7つの大都市圏に区分しており、その中にはニューヨーク市あるいはフィラデルフィア大都市圏に含まれる16の郡が入っている。4郡は独立した大都市圏であり、ウォーレン郡はペンシルベニア州のリーハイ・バレー大都市圏に含まれる。 サセックス郡モンタギュー・タウンシップにあるハイポイントが、標高1,803フィート (550 m) で州内最高地点である。ハドソン川下流西岸にあるパリセイズには険しい崖の連なりがある。

州内主要河川として、ハドソン川、デラウェア川、ラリタン川、パセーイク川、ハッケンザック川、ラーウェイ川、マスコネトコング川、マリカ川、ランコカス川、マナスカン川、モーリス川、トムズ川がある。

東部海岸に突き出るサンディフックはレクリエーション海岸である。大西洋岸にあるバーナゲット半島からさらに突き出した砂嘴である。東部海岸の防波島であるロングビーチ島もレクリエーション海岸である。この島に行くには本土とを繋ぐ橋がある。その北端にバーナゲット灯台がある。

アメリカ合衆国国立公園局が管理する地域には次のものがある。

  • アパラチアン・トレイル
  • デラウェア国立景観河川
  • デラウェア・ウォーターギャップ国立レクリエーション地域
  • エリス島国立保護区
  • ゲイトウェイ国立レクリエーション地域、モンマス郡
  • グレートエッグハーバー川
  • モリスタウン国立歴史公園、モリスタウン
  • ニュージャージー海岸遺産トレイル
  • ニュージャージー・パインランズ国定保存地
  • トマス・エジソン国立歴史公園、ウェストオレンジ

その他特徴ある地形として次のものがある。

  • デラウェア・ウォーターギャップ
  • グレートスワンプ国立野生生物保護区
  • ザ・ハイランズ
  • ニュージャージー・メドウランズ
  • パインバーレンズ
  • サウス山

気候

ニュージャージー州の気候は地形的な特徴と同様に多様である。南部、中部、北東部は湿潤な温帯気候にある。北西部は湿潤大陸性気候であり、標高が高いために冷涼である。年間日照時間は2,400ないし2,800時間である[16]

通常の夏は暑く湿度が高い。州全体の平均最高気温は82°F (28 ℃) から87°F (31 ℃)、最低気温は60°F (16 ℃) から69°F (21 ℃) である。気温が90°F (32 ℃) を超える日は毎夏平均25日あるが、100°F (38 ℃) を超えるのは数年に一度である。冬は寒く、平均最高気温は34°F (1 ℃) から43°F (6 ℃)、最低気温は16°F (-9 ℃) から28°F (-2 ℃) である。短時間に10°F (-12 ℃)を下回る時があれば、50°F (10 ℃)をこえるようなこともある。北西部は特に寒く0°F (-18 ℃)を下回るのが普通である。春と秋は温暖の差があり、夏よりは雨が少ない。植物耐寒性区分では、北西部の6からケープメイ近くでの7Bと8Aの境目まで変化している[17]

年間平均降水量は43インチ (1,100 mm) から51インチ (1,300 mm) であり、年間を通じて平均した雨が降る。冬季の降雪量は、南部と海岸近くで10インチ (25 cm) ないし15インチ (38 cm)、北東部と中央部で15インチ (38 cm) ないし30インチ (76 cm)、北西部高台で40インチ (100 cm) ないし50インチ (125 cm) だが、年によって違いが大きい。降水日は年間平均120日あり、雷雨は25日から30日、その大半は夏季に起きている。

冬と初春はノースイースターの風が吹き、アメリカ合衆国北東部全体に吹雪や洪水を起こすことがある。ハリケーンや熱帯低気圧、竜巻、地震は希である。ただし、2012年10月29日のハリケーン・サンディは時速90マイル (40 m/s) の暴風を伴って上陸し、大きな被害を出した。

州内各都市での月別平均最高最低気温 °C (°F)[18][19][20]
都市 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
サセックス 1/−9 (34/16) 3/−8 (38/18) 8/−4 (47/26) 15/2 (59/36) 21/7 (70/45) 25/12 (78/55) 28/16 (82/60) 27/14 (81/58) 23/10 (73/50) 17/4 (62/38) 11/−1 (51/31) 4/−6 (39/22)
ニューアーク 4/−4 (39/24) 6/−3 (42/27) 10/1 (51/34) 17/7 (62/44) 22/12 (72/53) 28/17 (82/63) 30/20 (86/69) 29/20 (84/68) 25/15 (77/60) 18/9 (65/48) 13/4 (55/39) 6/−1 (44/30)
アトランティックシティ 5/−2 (42/29) 6/−1 (44/31) 10/3 (50/37) 14/8 (58/46) 19/13 (67/55) 24/18 (76/64) 27/21 (81/70) 27/21 (80/70) 24/18 (75/64) 18/11 (65/53) 13/6 (56/43) 8/1 (46/34)
ケープメイ 6/−2 (42/28) 7/−2 (44/29) 11/2 (51/35) 16/7 (61/44) 21/12 (70/53) 26/17 (79/63) 29/20 (85/68) 29/19 (83/67) 25/16 (78/61) 19/9 (67/50) 14/4 (57/41) 8/0 (47/32)

人口動勢

人口
1790184,139
1800211,14914.7%
1810245,56216.3%
1820277,57513.0%
1830320,82315.6%
1840373,30616.4%
1850489,55531.1%
1860672,03537.3%
1870906,09634.8%
18801,131,11624.8%
18901,444,93327.7%
19001,883,66930.4%
19102,537,16734.7%
19203,155,90024.4%
19304,041,33428.1%
19404,160,1652.9%
19504,835,32916.2%
19606,066,78225.5%
19707,168,16418.2%
19807,364,8232.7%
19907,730,1885.0%
20008,414,3508.9%
20108,791,8944.5%
2012(推計)8,864,5900.8%
Source: 1910–2010[21]
ニュージャージー州の人口分布図

2012年7月1日時点の推計によるニュージャージー州の人口は 8,864,590 人となっていた。2010年国勢調査での 8,791,894 人から0.8%増加していた[22]。ニュージャージー州の住民は通例 "ニュージャージアン"と呼ばれている。2010年時点で国内50州のうち人口では第8位、人口密度は1,185人/平方マイル (458人/km2) で第1位である。州民の多くはニューヨーク市やフィラデルフィア市の大都市周辺と東部ジャージー海岸に住んでおり、最南部と北西部は比較的密度が小さい。

ニューアーク市は国内で4番目に貧しい都市であるが[23]、ニュージャージー州は世帯当たり年収の中央値で、国内で2番目に富裕な州でもある[24]。これは州の大半が大都市郊外部となっており、住民の多くはニューヨーク市やフィラデルフィア市に通う裕福な層であることが大きな理由である。郡の全てが国勢調査局の定義する広域都市圏に含まれる「都市化部」にあると見なされている[25]。このような州はニュージャージー州のみである。

2009年7月1日時点で、アメリカ合衆国国勢調査局による州人口は 8,707,739 人であり[26]、2000年国勢調査[27]より、268,301人、3.2%増加していた。これには前回の国勢調査からの自然増343,965人(出生933,185人、死亡589,220人)、および州外への移住者53,930人の純減が含まれている[27]。アメリカ合衆国外からの移住者は384,687人増加したが、合衆国内部への移住で438,617人減少していた[27]。2005年時点で州内に160万人(州人口の19.2%)の外国生まれが暮らしている[28]。 2010年、違法移民の数が55万人[29]、人口の6.4%いると推計された。これは国内50州の中で4番目に高い比率である[30][31]

ニュージャージー州の人口重心ニュージャージー・ターンパイク(高速道路、略称 : NJTP)の東、ミドルセックス郡ミルタウン英語版とされている[32]。 2010年、人口の6.2%は5歳以下、23.5%が18歳以下と報告され13.5%は65歳以上である。女性は人口のおおよそ51.3%である[33]

州内には単位面積当たりの科学者と技術者の数では世界一である[34]

人種、民族、および祖先

2010年国勢調査に拠れば、ニュージャージー州の人種による人口構成は次のようになっている。

  • 17.7% ヒスパニック(人種によらない)

非ヒスパニック白人の比率は2011年時点で58.9%である[35]。1970年には85%だったことから、かなりの減少となっている[36]

2000年時点で、ペンシルベニア州で申告された祖先による構成比は、以下の通りだった。イタリア系 (17.9%)、アイルランド系 (15.9%)、アフリカ系 (13.6%)、ドイツ系 (12.6%)、ポーランド系 (6.9%)。

バーゲン郡パリセイズパークのコリアンタウン、ブロード・アベニュー[37]、韓国系アメリカ人の人口構成比が52%と多数派になっている[38]
ハドソン郡ジャージーシティのインド・スクエア
ニュージャージー州の大都市圏区分図、青色系の郡がニューヨーク大都市圏、緑色系の郡がフィラデルフィア大都市圏に入る。マーサー郡はニューヨーク広域都市圏に、アトランティック、ケープメイ、カンバーランド各郡はフィラデルフィア大都市圏に、ウォーレン郡はリーハイ・バレー都市圏に入ると考えられる

ニュージャージー州は国内でも最大級に民族と宗教の多様な州である。2011年時点で1歳未満の州民の56.4%は少数民族の両親に生まれていた(非ヒスパニック白人も少数民族に数える)[39]。2000年国勢調査に拠れば、ユダヤ系人口比率はニューヨーク州に次いで第2位である[40]。イスラム教徒の比率もミシガン州に次いで第2位である。ペルー系人口比率は第1位、キューバ系人口比率はフロリダ州に次いで第2位、アジア系人口比率とイタリア系人口比率は第3位だった。アフリカ系、ヒスパニック系、アラブ系、ブラジル系、ポルトガル系も高い数字を示している。インド系は絶対数で国内第3位だった[41][42][43]。韓国系は第3位、フィリピン系は第4位、中国系は第4位だった。

2011年3月時点で約2,500人の日系アメリカ人がエッジウォーターとフォートリーに集中して住んでいる。これは州内でも最大の集中度である[44]

2000年国勢調査に拠れば、5歳以上の人口の12.3%が家庭でスペイン語を話しており、イタリア語は1.1%、ポルトガル語は1.0%、タガログ語は1.0%だった[45]。これは出身民族の多様化が進み、州内各地に同一民族が集中するコミュニティが多く出来ていることも影響している[46][47][48][49]

宗教

2001年時点で、ニュージャージー州民の宗教宗派別構成比は次のようになっている[50]

インディアン部族

ニュージャージー州のかつてのレナペ部族連合

この地には、チェロキー族マナホアク族メヘリン族モナカン族ナヒッサン族ノッタウェイ族オッカネーチ族ポウハタン族サポニ族シャコリ族ショーニー族ツテロ族などが先住し、ウィグワムの集落を形成して定住農耕生活を営んでいた。

同地のインディアンはイギリス、フランス、アメリカ入植政府との覇権争いに巻き込まれ、代理戦争を演じさせられて大きく数を減らした。1830年になると、アンドリュー・ジャクソン大統領が「インディアン移住法」を強行制定し、ほとんどの部族は他州へ強制移住させられた。

なおもこの州に残ったインディアン部族はすべて、アメリカ連邦政府に認定されておらず、「絶滅部族」扱いとして連邦協定では存在しないことになっている。したがって連邦協定に基づく保留地(Reservation)も領有していない。

4つの部族とひとつの団体が現在、州政府からの認定を受け州立保留地を領有しており、おもに観光・保養リゾートに注力している。「レナペ族」は「デラウェア族」とも呼ばれ、ポウハタン族など他部族との連合主体「レニ=レナペ」として、白人が入植してくるまで、同州の部族では最大勢力だった。

ポウハタン族は、この大陸に入植したイギリス人が出会った最初期のインディアン部族であり、最初期に領土を奪われた部族でもある。もっぱらバージニア州に本拠を置いた「ポウハタン部族連邦」は17世紀に入植政府によって滅ぼされ、部族そのものはこのニュージャージー州に追いやられた。

この部族はイギリス人探検家のジョン・スミスが吹聴した、「ポウハタン族に殺されそうになったときに、酋長の娘ポカホンタスが命を身を挺(てい)して救ってくれた」という真偽不明な逸話で知られ、「白人を救ったよいインディアン」のポカホンタスのこの「善行」は、合衆国の植民史を彩る美談としてもてはやされ、アメリカの教科書の教材にまでなっている。しかしポウハタン族はこの逸話を「作り話である」として完全否定しており、1995年にディズニー社がこの逸話を題材にアニメ映画「ポカホンタス」を公開した際には、「白人に都合良く史実の改竄を行った」として全米のインディアン団体とともに抗議声明を出している。

タイノ族」は中南米の部族であるが、奴隷としてこの地に連行されてきた。

≪アメリカ連邦政府は公式認定していないが、州政府が認定している部族・団体≫

≪アメリカ連邦政府も州政府も公式認定していない部族≫