ニヴフ、ギリヤーク
Nivkh
Nivkh People.JPG
ニヴフ民族
総人口
約5,300人
居住地域
ロシアハバロフスク地方サハリン州)、日本
言語
ロシア語ニヴフ語日本語
宗教
正教シャーマニズム
関連する民族
アイヌウィルタウリチオロチ

ニヴフニブフ(Nivkh、ロシア語での複数形はニヴヒ(Nivkhi))は、樺太北部及び対岸のアムール川下流域に住む少数民族。古くはギリヤーク(Gilyak)(ロシア語での複数形はギリヤーキ(Gilyaki))と呼ばれた。古アジア諸語に分類される固有の言語ニヴフ語を持つ。アイヌウィルタと隣り合って居住していたが、ツングース・満州系諸族モンゴル系民族などと全く別系統の民族である。

概要

ニヴフ集落2002地図

ニヴフはオホーツク文化の担い手であったという説がある[1][2][3]

樺太の他の先住民ウィルタと同様、古くは狩猟・漁猟をしていた。また近世には外満州山丹人やウィルタとともに日本との貿易の仲介(山丹交易)もしていた。

第二次世界大戦前に日本領だった南樺太に居住していたニヴフは樺太戸籍に登録されて樺太土人として扱われて内地人と区別されていたが、日本国籍をもっていた。日本国籍を保有するニヴフは日本の敗戦後に北海道網走市など)へ進んで移住した。終戦後の日本では1945年に樺太戸籍にあったニヴフの参政権が停止されたものの、1952年のサンフランシスコ平和条約発効の際に就籍という形で参政権を回復した。

現在の人口は両国合わせて数千人と考えられるが、多くはロシア領内に住む。 日本では明確な統計は存在しない。『現代のアイヌ : 民族移動のロマン』(菅原幸助、現文社、1966)によれば1966年時点で網走3世帯、函館2世帯、札幌3世帯で30人いたとされる。

名称

ギリヤークはモンゴロイド、ニヴフ男性。

「ニヴフ」という自称はアムール川下流部で「人」を意味する語に由来するものであり、樺太東岸ではニグヴン(Nigvyng)というが、これも「人」を意味する[4]

アイヌは樺太北部東岸を「ニクブン」・樺太北部西岸や大陸を「スメレンクル」と呼んだ[5]間宮林蔵は「スメレンクル夷」と記したが、これは樺太アイヌ語の「sumari(キツネ)」と、アイヌ語で人をいう「クル」が合わさった「キツネびと」を意味する名称という説がある[6]

ロシア革命前はギリヤーク(гиляк)と呼ばれていたが、現在では彼らの自称に基づいてニヴフ(нивх)と呼ばれている[7][8]。「ギリヤーク」という名称はロシア語風に訛ったものであり、もともとは「ギリミ(吉里迷)」といった。その語源についてはギリャミ(гилями)「漕ぐ」に由来するとされ、ウリチ語のギラミ(гилaми)「大きな舟に乗る人々」がその意であるとされる[9]

歴史

右が男性、中央が女性のニヴフ。左はアイヌの男性を描いた絵(1862年)

元朝によるアイヌ攻撃

アムール川下流域から樺太にかけての地域に居住していた吉里迷(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)の子孫であるシデ(碩徳)の遠征により1263年中統4年)にモンゴルに服従した[10]。翌1264年至元元年)に吉里迷の民は、骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告した。ここで言う吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)、骨嵬(苦夷・蝦夷とも)はアイヌを指している[11]。亦里于に関してはかつてツングース系民族(ウィルタ)と見る説が有力であったが、近年では骨嵬とは別のアイヌ系集団であったとする説が唱えられている[12]

この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した[13]。これがいわゆる「北からの蒙古襲来」(ニヴフや元朝の視点では「南からの骨嵬・亦里于襲来」[14])の初めであり、西日本に対する侵攻(元寇、1274年)より10年早かった。

間宮林蔵とニヴフ

間宮林蔵樺太西岸のニヴフ集落を訪れたのは1808年と1809年、海峡を渡り外満州アムール川下流部に入ったのは1809年であった。

習俗

衣服

伝統的な衣装を着たニヴフハンター-スキー(シャツ)とコスク(スカート)。 サハリン州。

下着にはズボン下とシャツがあり、その上からズボンと、膝まで達するシャツを着る。シャツは左から右へ合わせ、首と胸のところでとめる。肌着は中国製の青または灰色の木綿でつくられる。暖かい時には下着だけのことが多いが、夏でも寒い日には犬の毛皮の外套(ロシア語ではシューバ шyбa)を着こんだ。履物はアザラシの皮製長靴であり、甲の部分と靴底は毛を取り除いたアザラシの皮を利用し、胴の部分は毛を表にしたアザラシの皮で膝まで達し、ズボンをその中に入れて紐で縛り付けた。かぶり物は雨と日光を避けるためにヒブハク(hib-hak)と呼ばれる笠をかぶる。女性はロシア語ではハラート(xaлaт)と呼ばれる膝下まで達する魚皮製のシャツを着る。

住居

ニヴフの夏の村(20世紀初頭)

間宮林蔵やシュレンクはニヴフの建物を4つに分類している。

  1. 穴居
  2. 穴居せざる者の居家
  3. 穴居する者夏居る処の家
  4. 倉庫

「穴居」というのは半地下式住居のことで、ニヴフ語で「トルフ toryf」と呼ばれる。現在では見られなくなったが、1960年代までは存在していたとみられる[15]。外観は土まんじゅうの形をなしており、冬には雪に覆われ、煙出しの部分だけが黒く見える。内部は木でピラミッド状の骨組みが組まれ、その上から土をかぶせて外壁としている。天井にはタマ・クティ(tama khuty)と呼ばれる煙出し穴があるが、明りとりの役割もあった。入口は必ず東向きに造られ、土まんじゅうから突き出ている。半地下なのでしきいと土間の間に段差があるため、階段がある場合とない場合があり、いくらか危険がある。

「穴居せざる者の居家」というのは19世紀になって、ニヴフに広まった穴居に代わる住居スタイルであり、ニヴフ語で「チャドルフ chadryf」と呼ばれるものである。これは丸太を組んだログハウス状の家屋であり、半地下ではなく地上型となったため、窓ができて明りとりがしやくすなったが、冬に寒風が吹きこんでくるという問題点があった。内部は土間があり、かまどが2つある。土間の中央には犬を飼うための長い板(kangyl)が設けられていた。

「穴居する者夏居る処の家」というのはニヴフの夏期の家屋であり、「ケルフ keryf(海の家、海岸の家)」と呼ばれる。ニヴフは10月から5月までは冬用の家で暮らすが、5月から10月は夏用の家で暮らす。夏季用住居は地上にそのまま建てる地上式と、杭上に建てる高床式があった。

「倉庫」というのは高床式倉庫のことで、ニヴフ語で「ニョ nyo」と呼ばれる。構造は夏季用住居のケルフとほぼ同じであるが、食糧庫として利用されていたため、杭(切り株)の上にはネズミ除けが設けられていた。

氏族

スモリャクの調査によると、19世紀末から20世紀初頭にかけてギリヤークの氏族は67を数えた[16]。氏族名は熊,アザラシ,鳥などの動物名、人のあだ名、一年の月名、場所名などに由来するものが多かった[17]

飲食物

伝統的なニヴフ料理-モス(ベリーと魚の皮カスタード)

主として魚・肉を食べる。魚はサケ類やチョウザメであり、干し魚や刺身にして食す。肉は主にアザラシであり、アザラシは煮て食す。他には熊,キツネ,オオカミ,アナグマなども食す。また、干し魚(マ)は魚油または海獣油にひたして食べる。

アミューズメント

ニヴフの熊祭り

楽器