ノルウェー連続テロ事件
Statsministers kontor Office of the prime minister.jpg
事件直後の首相府および法務・警察省庁舎。爆破により窓ガラスが割られた。
ノルウェー連続テロ事件の位置(ブスケルー県内)
オスロ
オスロ
ウトヤ島
ウトヤ島
ノルウェー連続テロ事件 (ブスケルー県)
テロの現場となったオスロブスケルー県
場所  ノルウェー
オスロウトヤ島
座標 北緯59度54分54秒 東経10度44分48秒 / 北緯59.9149776度 東経10.746544度 / 59.9149776; 10.746544 (ノルウェー連続テロ事件)座標: 北緯59度54分54秒 東経10度44分48秒 / 北緯59.9149776度 東経10.746544度 / 59.9149776; 10.746544 (ノルウェー連続テロ事件)
日付 2011年7月22日 (2011-07-22) (CEST)
標的 ノルウェー政治指導部(オスロ)
ノルウェー労働党青年部(ウトヤ島)
攻撃手段 爆破、銃乱射
武器 ライフル銃(ミニ14)
拳銃 (グロック34)
爆発物
死亡者 77人[1]
負傷者 100人以上[2]
容疑者 アンネシュ・ベーリング・ブレイビク
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事件後のオスロ大聖堂にて。花が捧げられた。

ノルウェー連続テロ事件(ノルウェーれんぞくテロじけん)は、2011年7月22日ノルウェーの首都オスロおよびウトヤ島で発生した連続テロ事件である。

概要

2011年7月22日、オスロにおいて行政機関の庁舎 (Regjeringskvartaletが爆破され、続いてウトヤ島で銃乱射事件が発生した[3]

庁舎爆破事件により8人、銃乱射事件により69人がそれぞれ死亡しており[3]、両事件で77人が死亡した[4]。ノルウェー国内において第二次世界大戦以降の最悪の惨事とされている[5]

ノルウェー警察当局により、両事件は極右思想を持つ[6]キリスト教原理主義[7]アンネシュ・ベーリング・ブレイビク(当時32歳)が起こした連続テロとされている。ウトヤ島銃乱射事件での死者には王太子妃の義兄が含まれていた[8]。さらに、ブレイビクは移民の受け入れを推進したグロ・ハーレム・ブルントラント首相も殺害しようとしていた[9]

テロ事件発生により、ノルウェー・クローネUSドルに対して下落[10]。また、リスク分散のため金先物市場で金が買われた[11]

2011年7月26日夕方、オスロにて事件の追悼集会が開かれた。参加者は少なくとも10万人。イェンス・ストルテンベルグ首相やホーコン王太子も参加した[12]

事件直後の憶測

ノルウェーの政治中枢がテロの標的となった要因として、当初は以下のことが指摘された。

事件直後にイスラム過激派のウェブサイト上にて事件への関与をほのめかすメッセージが公開されたが、直後に関与を否定している[16]

事件の経過

準備

2009年秋にブレイビクは爆弾製造のための爆薬化学肥料の入手を目的として鉱山会社と農場を購入、ノルウェーのネオナチサイトを利用しそこで自動車爆弾の製造方法をやりとりし[17]、2011年5月にブレイビクは爆弾の材料である肥料6トンを購入し、80日間をかけてアンホ爆薬を使用した爆弾を製造した。

また、ノルウェーでは余暇に行う狩猟や射撃のためにを所持することは認められており、ブレイビクも認可のもと拳銃と自動式ライフル銃を所持していた[18]

ブレイビクは2011年7月17日にTwitterに犯行決意を書き込み、2011年7月22日の犯行直前に1514ページの文書をウェブに公開。自らテンプル騎士団を自称し、殉死作戦を書き連ねた[19]

庁舎爆破

事件発生時のオスロの市内中心部。アンホ爆薬を使用した車爆弾が爆発した。
爆破現場付近の地図。赤が首相府および法務・警察省庁舎、オレンジが大破した自動車があった場所、青が石油・エネルギー省および貿易・産業省庁舎。

2011年7月22日午後3時半頃、首都オスロの中心部にある17階建ての首相府および法務・警察省庁舎付近でブレイビクが仕掛けた爆弾が爆発した[20]。建物最上階には首相府があったが、ストルテンベルグ首相は執務室におらず自宅にいたため[21]無事だった[20]。このほか石油・エネルギー省および貿易・産業省庁舎で火災が発生するなど[14]付近の建物が被害を受けた[22]

現場はノルウェーの行政機関の庁舎が建ち並ぶエリアであり、主要紙ヴェルデンス・ガング本社の近くでもあった[13]

爆発が起こったのは金曜日の午後であったが、バカンスシーズンであったため、被害にあった建物への出勤者は少なかった[23]

事件直後に警察によって付近の道路が全て封鎖された[15]ほか、市民に対しオスロ中心部からの避難を指示した[24]

ブレイビクが仕掛けた爆弾は車爆弾であるとみられ[25]、爆弾の重さは約950キロと推定されている[26]。なお、爆破は複数回起きたと報じられていた[13]

ウトヤ島銃乱射

オスロ近郊にあるウトヤ島ではノルウェー労働党青年部の集会が行われ、10代の青年約700人が参加していた[27]

政府庁舎爆破事件直後にブレイビクはタクシーでウトヤ島の近くまで行った後に警察官の制服を着てボートで島に上陸し、爆破テロ捜査を口実に参加者を整列させ[23]、午後5時頃より銃を乱射した[28]

ブレイビクは確実に殺せるよう各人に2発ずつ撃ち込んで殺していった[29]。島にいた青年たちの中には乱射から逃れるために島から泳いで脱出する者もいた[6]

また、島からは爆発する前の爆弾が発見されており、さらなる被害拡大を狙っていたとされている[30]。翌23日には同党党首であり、かつて同青年部の代表を務めたこともあるストルテンベルグ首相が現地入りすることが予定されていた[22]

逮捕後

銃乱射事件の直後にブレイビクが逮捕された[31]。ブレイビクは所持していた銃に大量の弾丸が残っていたが抵抗しなかったことや逮捕直前に警察に投降する電話をしていることから、銃撃戦を回避して生き延びて自分の信条を法廷で訴える狙いがあったとされている[32][33]

7月23日、殺人や反テロ法違反でブレイビクを起訴した[18]。7月25日、勾留延長について尋問するためオスロ地方裁判所に出廷[34]。ノルウェーでは国民の知る権利のため原則裁判の審理は全て公開されるが、ブレイビクにより法廷で思想宣伝されるのではないかと市民から懸念が大きいこともあり審理は非公開になった[34]。また、慣例である審理冒頭に行われるメディアによるブレイビク本人へのインタビューも行われなかった[34]。ブレイビクは公開審理を要求していた[35]

ブレイビクは、「イスラムによる乗っ取りから西欧を守るため」を動機として「反多文化主義革命」に火をつけることをあげ、「非道ではあるが必要なことだった」と主張して[36]無罪を主張した。審理は約40分続き、警察が求めていた8週間の勾留延長の許可を認めた[37]。8月13日にはウトヤ島にて現場検証が行われ、ブレイビクが犯行を再現している[1]

11月14日の審理では犯行を認めたものの、有罪にはならないと主張[38]。11月29日にはブレイビクが統合失調症である鑑定結果が裁判所に提出され、裁判は行われない可能性が高まった。鑑定は2人の精神科医が、のべ36時間にわたり容疑者と面会を行い、容疑者は犯行時も現在も妄想の世界で生きていると判断され、責任能力がないと結論づけられた。この鑑定によってブレイビクが収監されず精神病院で治療されるにとどまる可能性が大きくなった[39]ことを受け被害者の遺族が反発し、2012年1月に裁判所は再鑑定を命じた。鑑定が続く中、ブレイビクは3月7日にテロ及び殺人容疑で起訴され、4月16日に公判が開始されることとなった[40][41]。公判ではブレイビクの精神状態が最大の争点となり、検察側はブレイビクを精神病療養施設へ強制収容するよう主張したが、ブレイビクは精神病ではないと主張し続けた。2012年8月23日、オスロ司法裁判所は禁錮最低10年、最長21年の判決を言い渡した[42]。これはノルウェーにおける最高刑である(「人道に対する罪」が適用されれば禁錮30年)[43]。このため裁判中は廃止された死刑制度の復活や無期刑の導入が呼びかけられるなどの影響が出た[44]ほか、司法当局が2011年7月26日にブレイビクを人道に対する罪で起訴する方向であるとも報じられた[43]

警察への批判

地元警察はウトヤ島での事件の通報後、現地到着に約1時間を要したことについて批判を浴びた[35]。警察はこのことについて準備する間がなかったとしている[45]。そしてオスロ警察のSWATの出動要請をし、それを待っていた事や当時島の状況を把握できなかったと述べた[45]。一方、オスロ警察は近郊の他町からもってきたボートで島に上陸しブレイビクを逮捕した[45]。移送に合うボートがなかなか見つからなかったり上陸に使用したボートは小さくて装備も人も多かったため定員超過していたがそのまま使用、状態もよくなかった[45]。このほか特殊部隊移送には警察ヘリが適しているがそのヘリには飛行時間の制限がありその1機しか所有していなかった[45]。ノルウェー公共放送のテレビNRKは警察到着までに自社ヘリが島上空におり、逮捕前のブレイビクを撮影している[45]。警察の初動が迅速であれば結果が変わったのではないかとする報道について警察幹部は「公平ではない」とした。初動に問題が無かったか調査するとしたものの初動は満足しているとした[45]

裁判と並行して独立検証委員会による事件調査が行われ、2012年8月には事件の防止は可能であったと報告した。警察の対応を批判し、これを受け警察トップが辞任する事態に発展した[19]

国際社会の声明