フランス共和国
République française
フランスの国旗 フランスの紋章
国旗 国章に準じる紋章
国の標語:Liberté, Égalité, Fraternité
(フランス語: 自由、平等、友愛
国歌ラ・マルセイエーズ
フランスの位置
公用語 フランス語
首都 パリ
最大の都市 パリ
政府
大統領 エマニュエル・マクロン
首相 エドゥアール・フィリップ
面積
総計 551,500km251位[1]
水面積率 0.2%
人口
総計(2016年 62,814,233人(21位[1]
人口密度 113人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2012年 2兆0377億[2]ユーロ (€)
GDP (MER)
合計(2012年 2兆5804億[2]ドル(5位
GDP (PPP)
合計(2012年2兆2525億[2]ドル(8位
1人あたり 35,519[2]ドル
建国
西フランク王国カロリング朝時代)843年8月10日[1]
フランス王国カペー朝成立以後)987年
フランス第一共和政1792年8月10日
フランス第五共和政(現行)1958年10月4日
通貨 ユーロ (€) (EUR) [3][4]
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 FR / FRA
ccTLD .fr
国際電話番号 33
  1. ^ a b c CIA World Factbook/France
  2. ^ a b c d IMF>Data and Statistics>World Economic Outlook Databases>By Countrise>France
  3. ^ 1999年までの通貨はフラン (₣)。
  4. ^ フランスのユーロ硬貨も参照。

この表のデータは本土のみで、海外県・属領を含まない。

フランス共和国(フランスきょうわこく、フランス語: République française)、通称フランスは、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。

概要

フランスはラスコー洞窟に始まる長い歴史をもつ。鉄器時代、現在のフランスに相当するガリアにはガリア人およびケルト人が居住していた。紀元前51年、ガリア人はローマ帝国により西暦486年まで制圧された。ガリアを数百年間支配し、最終的には中世のフランス王国を建国したゲルマンフランク人の襲撃および移住にガロ・ローマ人は直面した。1337年から1453年までの百年戦争での勝利は国体を強固にしたので、絶対君主制の礎となった。ルネサンス期、フランスは世界的規模の植民地帝国の第1段階を確立した。16世紀のうち40年近くの間はユグノー戦争に明け暮れていた。

ルイ14世ブルボン朝の最盛期を築いたが、しかし君主制は18世紀末のフランス革命で崩壊した。人間と市民の権利の宣言は、今日に至るまで国の理想を表現している。世界に先駆けて共和国を樹立したが、ナポレオン・ボナパルト帝国を建国した。1804年にハイチを失いナポレオンは窮した。世界で初めて認めたユダヤ人の市民権を1808年5月に制限してから、外資対仏大同盟の軍事費へ流れた。ナポレオンの降伏後は絶対君主制が復活した。1830年に立憲君主制となり、オスマン帝国からフランス領アルジェリアを奪った。一時的な第二共和政を経て、第二帝政が順につづいた。19世紀中ごろはパリ改造が行われたりレオン・フーコーが地球の自転を証明したりして、フランスは生活と科学の両面で近代化をとげた。普仏戦争で成立した第三共和政は1940年まで存続する。パリ・コミューンを鎮圧後、アドルフ・ティエールが40億フラン超の国債を発行して、フランス銀行J・S・モルガン・アンド・カンパニーから復興資金を調達した。19世紀および20世紀初頭、世界第2位の植民地帝国を有した[1]。オスマン帝国に対する債権国として、19世紀末からはオスマン債務管理局の運営に参加した。

第一次世界大戦において、フランスは三国協商の参加国としてドイツ帝国等の中央同盟国と戦った。第二次世界大戦では連合国に属したが、1940年にナチス・ドイツにより占領された。1944年の解放後、第四共和政が設立された。翌年フランス国立行政学院が設立され、出身者が会計検査院、財務監督官、国務院(内閣法制局兼最高行政裁判所)等で活躍するようになった。検査院出身者らが支配する官僚制は民衆からエナ帝国と呼ばれた。アルジェリア戦争を経てシャルル・ド・ゴール第五共和政を樹立した。1950年代には原子力産業へ積極的に進出した。技術は軍事利用もされている。原子力部門における主要な会社には、パリバ系のINDATOMや、ロスチャイルドパリ連合銀行[2]系のCOFINATOME[3]、パリ連合銀行・アルストムシュナイダーエレクトリック・トムソン=ヒューストン(現ゼネラル・エレクトリック)他多数合弁のFramatome(現アレヴァ)などがある[4][5]。1960年代にアフリカの植民地を次々に独立させながら、北アフリカ諸国からCFAフラン圏にわたって金融・エネルギー面での利権を守った(新植民地主義)。1960年代から1970年代にかけてフランスへ外資の波が押し寄せた(詳細)。オイルショック以降、フランスの政治はコアビタシオンでねじれるようになり、ドゴールのときのように再びソ連西ドイツを相手として頻繁に交渉した。

フランソワ・ミッテラン大統領が指導するフランスは、1980-81年に大企業群を国有化し、補償金を捻出するときに国家債務を増加させた。1982-83年のフランス版金融ビッグバンでは、国債その他特定種類の証券市場に特化した証券化が行われた。国家債務のGDPに対する割合は、1980年20%であったものが1990年35%になった。[6]

フランスは欧州連合の歴史的創立国の一つであり[7]、特に隣国ドイツとの経済的・社会的統合を推進している。金融政策は欧州中央銀行で決定する。ジャック・シラク大統領のとき、パリクラブではユーロ債のリスケジュールがさかんに行われた。ナポレオンの時代から使用されていたフランス・フランは、1999年ヨーロッパ通貨統合にフランスが参加したので、2002年始め完全にユーロへ切り替わった。イラク戦争でフランスは、ドイツ・ロシアと戦争に反対する立場をとった(2月の共同宣言)。1990年代から債務を累積させていた年金制度が2003年に改革された。2005年、国民投票で欧州憲法が批准を否決された。年金制度改革は2010年夏にも実施された。公債の2/3を保有する機関投資家の、国家財政に対する信頼を回復する意図が指摘されている[8]

国名

エッフェル塔パリ、およびフランスのシンボルで、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造された。

正式名称はフランス語で、République françaiseレピュブリク・フランセーズ)。通称、Franceフラーンス)。略称、FR

日本語の表記は、フランス共和国。通称、フランス。また、漢字による当て字で、仏蘭西(旧字体:佛蘭西)、法蘭西(中国語表記由来)などと表記することもあり、)と略されることが多い。英語表記はFrance、国民・形容詞はFrench

国名の France は、11世紀の『ローランの歌』においてまでは遡って存在が資料的に確認できるが、そこで意味されている Franceフランク王国のことである。一方で987年に始まるフランス王国[9] に、France という名前が用いられているが、これは後代がそのように名付けているのであって、その時代に France という国名の存在を認定できるわけではない。また中世のフランス王REX FRANCUS と署名している。France は中世ヨーロッパに存在したフランク王国に由来すると言われる。その証左に、歴代フランス王の代数もフランク王国の王から数えている(ルイ1世ルイ16世を参照)。作家の佐藤賢一は、ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク中フランク東フランクに3分割され、中フランクは消滅し、東フランクは神聖ローマ皇帝を称したため、フランク王を名乗るものは西フランク王のみとなり、フランクだけで西フランクを指すようになった、と説明している[10]ドイツ語では、直訳すればフランク王国となる Frankreichフランクライヒを未だにフランスの呼称として用いている。これと区別するために、ドイツ語でフランク王国は Frankenreichフランケンライヒと呼んでいる。多くの言語ではこのフランク王国由来の呼称を用いている。

歴史

フランスの歴史は現代世界史の幹である。全ての海は地中海へ通じている。ブルボン朝最盛期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政治・経済・文化に絶大な影響力を持った。フランス語は外交の舞台での共通語となった。現在は国連事務局作業言語である。フランスは17世紀以降1960年代まで、大英帝国に次ぐ広大な海外植民地帝国を有した。1919年から1939年、フランスの面積は最大となり(12,347,000km2)、世界の陸地の8.6%を占めた。

ローマ帝国の支配

現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀まではマッシリア(現マルセイユ)などの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を除くと、ケルト人が住む土地であり、古代ローマ人はこの地をガリア(ゴール)と呼んでいた。ゴールに住むケルト人はドルイドを軸に自然を信仰する独自の文化体系を持っていたが、政治的には統一されていなかった。

紀元前219年に始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴ帝国の将軍ハンニバル南フランスを抜けてローマ共和国の本拠地だったイタリア半島へ侵攻したが、ゴールには大きな影響を及ぼさなかった。

『ユリウス・カエサルの足元に武器を放るヴェルサンジェトリクス』

その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされた。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍カエサル紀元前58年にゴール北部に侵攻した(ガリア戦争)。ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの属州とした。ゴールは幾つかの属州に分割された。そしてラティフンディウムがつくられた。

ローマの平和の下でケルト人のラテン化が進み、ガロ・ローマ文化が成立した。

360年にゴール北部の都市ルテティアパリと改名された。

5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、ガリアを占領して諸王国を建国した。

フランク王国の再編

476年西ローマ帝国が滅びるとゲルマン人の一部族であるフランク族クローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めた。508年にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族はキリスト教とラテン文化を受け入れた。メロヴィング朝の後はピピン3世カロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝トゥール・ポワティエ間の戦いで破り[11]、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させた。

シャルルマーニュ(カール大帝)はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ねて現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュの下でヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンスが興った。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられた。シャルルマーニュの没後、フランク王国は三つに分裂した(西フランク王国中フランク王国東フランク王国)。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの見解によると、これらはそれぞれ現在のフランス・イタリアドイツの基礎となった。また、この時期に古フランス語の形成が始まった。

909年クリュニー修道院が創建された。後にモーゲージ関係史料を多数残した。933年、アルル王国が成立した。西フランク王国はロテール3世のときに群雄割拠し、987年パリを神聖ローマ帝国に攻められるほど不安定であった。 987年、西フランク王国が断絶し、パリ伯ユーグ・カペーフランス王に選出されてフランス王国が成立した。カペー家に始まるカペー朝、そしてヴァロワ朝ブルボン朝は、戦争と家領相続を通じて次第に国を統一していった。カペー朝の場合、ロベール2世がブルゴーニュを攻め、アンリ1世が二度も国際結婚した。ルイ7世は一回多かったが、最初の妻アリエノール・ダキテーヌヨーロッパの祖母と呼ばれている。フィリップ2世は三度目の結婚でバイエルン貴族と姻戚関係となった。

1209年アルビジョア十字軍が開始され、異端とされたオクシタニア(現在の南フランス)のカタリ派を殲滅した。その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた[12]。南仏オック語圏は、後にスペイン交易で栄えユグノーを台頭させる。1223年に即位したルイ8世は、西フランク王家だったカロリング家の血を引くとされ、第一次バロン戦争へ介入してマグナ・カルタ制定のきっかけをつくった。ルイ9世第2次バロン戦争で諸侯を調停している。フィリップ4世は1284年からナバラ王国で王となり、翌年フランスでも即位して新たな財源を次々と獲得した(フランドル支配・アナーニ事件アヴィニョン捕囚テンプル騎士団解散・三部会)。黒死病の大流行が起こる直前の1337年からフランスはイングランドとの百年戦争1337年 - 1453年)を戦っている[13]

ジャンヌ・ダルクの活躍する一方でヴァロワ=ブルゴーニュ家が断絶した。戦争を通じて強化された王権は、1492年11月3日に賠償金を払ってイングランド勢力を大陸から退かせた(Peace of Étaples)。同年10月28日クリストファー・コロンブスキューバに着いていた。そこでフランスは翌1493年1月19日アラゴン連合王国とバルセロナ条約(Treaty of Barcelona or Treaty of Narbonne)を結び、ルシヨンサルダーニャをアラゴンに返して、フランスのイタリア侵攻に関し中立を約束させた。同年5月、フランス王シャルル8世が神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世を相手にブルゴーニュ継承戦争の講和としてサンリス条約(Treaty of Senlis)を結んだ。吸収したブルゴーニュ公国を安定させ、ネーデルラント17州のうちアルトワ伯国とフランドル伯国に飛び地や諸権利を維持したのである。1492-93年の動きは、つまるところアメリカを開拓する準備であった。ネーデルラントからアキテーヌにかけて港が使えるようにしたフランスであったが、1494年トルデシリャス条約へ国益を反映させることができなかった。

ユグノーと絶対王政

1494年シャルル8世イタリア戦争1494年 - 1559年)で苦戦する中、オスマン帝国からカピチュレーションをとりつけた。1534年ジャック・カルティエガスペ半島に十字架を建て、ヌーベルフランスを宣言した。イタリア戦争は1559年のカトー・カンブレジ条約に結実した。このときスペインのフェリペ2世がフランス王アンリ2世の娘エリザベートと結婚した。フランス内政がスペインの干渉を受けてカトリック政策を推進したので、1562年宗教・金融摩擦からユグノー戦争が30年以上も続いた。1571年スペインはレパントの海戦に勝利し、カピチュレーションの仮想敵国となった。スペインは1581年からポルトガル同君連合となって英葡永久同盟に背いた。ユグノーと結んだイギリスは、1588年アルマダの海戦で内戦の原因スペインを破った。1596年、フランスはイギリス・オランダと同盟した。1598年ナントの勅令を発して内戦に終止符を打った。1618年からの三十年戦争でユグノーが優位となった。オスマン帝国がユグノーに厚いベトレン・ガーボルを支援した。1629年リシュリューがユグノーと和解したので、それまで続いていた英仏戦争について1632年講和が実現した。1631年、ベールヴァルデ条約を結んでスウェーデンを戦線に向ける一方、フランスはサヴォワのスペイン軍を攻撃していた。1635年、ようやくフランス本体が三十年戦争にユグノー側で参戦した。

ユグノーは1556年南極フランス英語版(現ブラジルグアナバラ湾周辺)を、1581年にオランダを、1608年にケベック(Province de Québec)を、1612年に赤道フランス英語版(現ブラジルマラニョン州サン・ルイス周辺)をそれぞれ建設していた。南極フランスも赤道フランスもポルトガルに併合された。また、ユグノーは他国の市民として各地に移り住んだ。三十年戦争でアムステルダム銀行に悪貨が押し寄せ、オランダユグノーは銀行貨幣保持者として損害を受けていた。フランス国内では1569-1650年のシュリールイ13世マザランの治世で48人のユグノーが要職を占め、二人の財務総監バルテルミ・エルヴァルト英語版フランス語版(Barthélemy Hervart, Barthélemy Herwarth)とジャン=バティスト・コルベールの活躍した1650-80年も31人のユグノーが登用されていた[14]

「太陽王」ルイ14世

1643年に即位したルイ14世はスペインの制海権と金融力を事実上継承した。1665年に現存するガラスメーカーのサンゴバンが設立された。1666年から数年間、イギリスの外交姿勢がゆれた。ネーデルラント継承戦争ドーヴァーの密約の陰で、ロンドン大火の翌年にオランダがロンドンに迫り、1668年イギリス・オランダ・スウェーデンが対仏同盟を組んだ。このときスウェーデンは国立銀行を用意していた。1673年フランス東インド会社ポンディシェリを取得した。1685年には黒人法フランス語版英語版を制定、アシエント制度を解体した。さらにナントの勅令を廃止した。国内外のユグノーが怒り狂って行動した。1688年名誉革命により英蘭の同君連合が1702年まで続いた。そしてこの間にイングランド銀行ができた。スペイン・フランス・オスマン枢軸を叩き潰すべくつくられた、このヨーロッパシステムこそ列強のはじまりである。1701年からのスペイン継承戦争で、イギリスがジブラルタルという地中海のチョークポイントを占領した。まだスエズ運河は存在しなかった。なお、この戦争でサヴォイア家シチリア王国の王位を得た。これがきっかけで近代にフランスはイタリアの債権国となる。

1715年に即位したルイ15世のとき、王朝は目に見えて衰退した。1716年国立銀行を設立したが、数年後ミシシッピ計画もろとも破綻した。1733年、セント・クロイ島デンマークに売却した。1746年、イギリス東インド会社からポンディシェリを守ろうとカーナティック戦争で敗北した。それでもフランスはアメリカアフリカアジアに広大な海外領土を獲得していた。1748年、シャルル・ド・モンテスキュー法の精神を発表した。1756年からの七年戦争がフランスの孤立を際立たせた。1762年という局面で、プロイセンとロシアの間にサンクトペテルブルク条約が結ばれた。両国はサンクトペテルブルクが十分開発されてから、オスマン帝国の版図を精力的に削っていた。そしてこの年ジャン=ジャック・ルソー社会契約論を発表した。1763年パリ条約北米植民地戦争フレンチ・インディアン戦争が終結した。ヌーベルフランスイギリスによる植民地時代に移った。もっとも当地の一般的な交換手段はスペインドルであった。1769年フランス東インド会社からフランス領インドフランス語版英語版が成立した。特に重要だったカリブ海の植民地のサン=ドマングにおいては、奴隷貿易によって導入された黒人奴隷を酷使したサトウキビコーヒープランテーションが築かれ、莫大な歳入がボルドーを通じてフランスにもたらされた。

ルイ16世は先代らのツケを払う立場となった。1781年、ジャック・ネッケルが財政支出状態を暴露して財務総監を辞職した。最近ジェイコブ・ソールの著した『帳簿の世界史』という本で偉業あつかいされている。1787年、パリ外国宣教会ピニョー・ド・ベーヌは、阮福暎に働きかけて、フランスの支援のもとに西山朝と戦わせた(フランスのグエン・アインへの支援ベトナム語版英語版)。

共和制と帝政

アルプスを越えるナポレオンジャック=ルイ・ダヴィッド

1789年フランス革命が起きて王政は倒れた。1791年ハイチ革命が勃発。1793年ルイ16世マリー・アントワネットが処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となった[15]。1795年から総裁政府がヨーロッパシステムへの迎合政策をとった。

1799年ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握って第1統領となった。ナポレオンは前年からエジプト・シリア戦役をたたかっていたが、そこでオスマン帝国はヨーロッパシステムに組みこまれかけた。1800年フランス銀行を創立した。ナポレオンは償却金庫の準備金で政府紙幣を発行し、この新しい通貨で国家債務を返済することにした。やがて皇帝に即位して第一帝政1804年-1814年)を開いた。ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパシステムを圧倒し(ライン同盟結成)、彼の一族が新たに作られた国々の王位に即いた。この戦争で数百万人が犠牲となった[16]1803年フランス領ルイジアナアメリカ売却1804年に革命が終わり、ハイチ帝国が一応の独立を果した。1808年5月、ナポレオンはユダヤ人の市民権を時限制限した。この年、対外貿易額が極度に減少した。1809年に教皇領を、翌年にオランダを併合した。1811年オーストリアが破産し、マリア・ルイーザとの政略結婚が無力となった。フランスは恐慌に陥った。欧州の資金が第六次第七次対仏大同盟につぎこまれた。1815年、ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れた。

フランスは王政復古したが、王の権力は憲法に制約された。1817年にロチルドらが公債を引き受けた。翌年にかけてフランス財政は間接税の徴収額がうなぎのぼりとなり、つまりオランダ化していった。その上で1818年アーヘン会議が催され、地中海の勢力均衡と金融保障を維持する欧州列強としてフランスが認められた。以来、各国の憲法は地中海覇権を制限しているが、宗教・銀行による国際金融を権力として制限できずに現代へ至る。1822年アンセルム・ペイアンテンサイ由来の砂糖を活性炭で白くする工法を発明。オーストリア帝国で活用された。1830年7月革命立憲君主制7月王政が立てられた。1830年フランス領北アフリカアルジェリアチュニジアモロッコ)が成立した。1831年、ベルギー王が擁立され、ランベール銀行が創立された。このベルギーを1839年にアーヘン会議の五列強が永世中立保障した。1848年2月革命第二共和政となった。1851年12月2日のクーデターフランス語版英語版が起きて、1852年12月2日にルイ・ナポレオン(ナポレオン3世、ナポレオン・ボナパルトの甥)が第二帝政を開いた。ナポレオン3世はボナパルティズム的手法[17]で内政を固めた。軍事外交は大西洋を避けて行われた。1858年プロンビエールの密約を結び、やがて経済的にもイタリアを支配した。そして中国インドシナ半島メキシコ日本などへ積極的に出兵した(アロー戦争コーチシナ戦争英語版メキシコ出兵下関戦争)。その結果オセアニアをふくめた東アジア貿易での銀貨による支払いが倍増したので、1865年にラテン通貨同盟を結成して銀を投機から保護した。1869年、スエズ運河を開通させた。1870年普仏戦争に敗北しルイ・ナポレオンは退位した。パリ・コミューンパトリス・ド・マクマオンドイツ帝国軍の支援で鎮圧した。そしてアドルフ・ティエール第三共和政を打ち立て、フランス銀行J・S・モルガン・アンド・カンパニーの融資でパリを復興させた。

1875年、フランス東インド会社の残務整理がおわってインドシナ銀行が設立された。1881年にオスマン債務管理局が設置され、ヨーロッパシステムの執念が実を結んだ。フランスはトンキン戦争英語版1882年)と清仏戦争1884年 - 1885年)に勝利した。ここにフランス領インドシナ1887年 - 1954年)が成立した。国内ではブーランジェ将軍事件1886年 - 1889年)が起きた。1890年、フランス銀行とロシア政府がベアリングス銀行の救済に参加した[18]。ベアリング融資先のアルゼンチンとも関係が生まれた。1893年シャム仏泰戦争英語版。普仏戦争後のアルザス=ロレーヌの喪失と、50億フランという高額な賠償金を発端とする反独運動からドレフュス事件1894年)が勃発。アフリカ分割の時代には、1895年フランス領西アフリカモーリタニアセネガルマリ共和国ギニアコートジボワールニジェールブルキナファソベナン)が成立した。1894年露仏同盟を締結した。ソシエテ・ジェネラルなどがシベリア鉄道露清銀行へ出資した。フランスはグレートゲームの裏方であった。ファショダ事件1898年)は融和に向かい、日露戦争1904年 - 1905年)は露清銀行の支配率を高めるのに必要な規模に収まった。三国協商は参加国の民衆がもつナショナリズムを封じた。1905年、フランスがモロッコ進出しドイツが反発した(第一次モロッコ事件)。1910年フランス領赤道アフリカガボンコンゴ共和国中央アフリカ共和国チャド)が成立した。1911年、第二次モロッコ事件でフランスはイギリスとベルギーの利益を代表しドイツと対立した。1913年、アルザスロレーヌ地方(エルザス州・ロートリンゲン州)でツァーベルン事件が起こった。

世界大戦と植民地戦争

フランスは第一次世界大戦第二次世界大戦の主戦場となっている。第一次世界大戦では140万人が犠牲となっており[19]、この時は領土の一部が占領されただけにもかかわらず、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの犠牲を出した。

1916年5月16日にイギリス・フランス・ロシア間でオスマン帝国領の分割を約した秘密協定「サイクス・ピコ協定」を締結した。1917年からオスマン帝国OETAを設置して3年間占領した。1917年10月、ロシア革命中のボリシェヴィキがサイクス・ピコ協定を暴露した。1918年11月8日ウッドロウ・ウィルソン米大統領の支援でアルザス=ロレーヌ共和国fr)が出来たが、11日後にフランス軍が占領・解体・併合した。1919年1月にパリ講和会議ファイサル1世がアラブ地域の独立をフランスに求めたが拒否した。1920年3月8日ファイサル1世シリア・アラブ王国英語版として独立すると、サン・レモ会議英語版(同年4月19日 - 4月26日)でフランスとイギリスの委任統治範囲を決定した。7月24日フランス・シリア戦争英語版が始まり、フランス委任統治領シリアとして占領した。8月10日、オスマン帝国とセーヴル条約を締結した。5-10月はキリキアをめぐりソ連の支援を受けるアタテュルク率いるアンカラ政府英語版トルコ・フランス戦争英語版をたたかって負けた。1923年1月、ベルギーとルール地方を保障占領した。翌年のドーズ案から国際決済銀行の創設が構想され、それがヤング案で1930年に実現すると、フランスは1981年までずっと総支配人を輩出し続けた。

アルザス=ロレーヌ圏やコーカサスは国際金融家の投資対象であった。もはや利権はナショナリズムで分割できなくなっていた。1935年ストレーザ戦線の早々たる瓦解が時代を告げていた。1936年から人民戦線政府によって様々な改革が試行されたが、ヨーロッパシステムはおろか、200家族を封じることすらできなかった。

第二次世界大戦ではドイツ電撃戦に敗れた。第三共和政は崩壊し、フィリップ・ペタンを国家元首とするヴィシー政権が成立した。ヴィシー政権は、ベルギー国立銀行に預託されていたルクセンブルクの資産を差し押さえ、ナチスに引き渡した。フランス本国はドイツによって北部、後に全土が占領された。一方でシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス連合国についた。1944年にフランス共和国臨時政府が帰還し、全土を奪還した。

戦後、第三のそれと変わらないフランス第四共和政が成立した。1946年フランス委任統治領シリアからシリア共和国英語版が独立した。フランスはCFAフランを利権とし、また列強としてアフリカの鉱業へ共同参加した。1951年、欧州石炭鉄鋼共同体西ドイツと結成した。東南アジアはインドネシア独立戦争の終結から欧州列強の衰退が見え出した。海底ケーブルの中継点を華僑・地元民が握っていた。フランスはインドシナ支配権を回復するため第一次インドシナ戦争に臨み、1954年ディエンビエンフーの戦い(3月 - 5月)でベトミンに大敗を喫した。11月1日フランス領インド英語版を返還したが(ポンディシェリ連邦直轄領)、その同日にアルジェリア戦争へ突入した。アルジェリア植民地の維持の是非と、植民者の帰還[20]を巡って国論が割れ、内戦になりかけた。1956年にはモロッコチュニジアが独立を達成した。この脱植民地化時代、フランス領インドシナマグリブのみならず、ブラックアフリカの植民地においても独立運動が進んだ。モロッコで起きたイフニ戦争英語版1957年 - 1958年6月30日)では、戦略上スペインのフランコ体制を支持した。

1958年6月1日、ド・ゴールが第四共和制の首相となった。1959年1月8日に強力な大統領権限を含んだ第五共和政が成立した。第五共和政初代大統領となったド・ゴールは国内の統一を維持しながら戦争終結へ踏み出した。1958年10月2日ギニア独立を嚆矢として、アフリカの年こと1960年にほぼすべてのアフリカ植民地が独立した。第二次世界大戦後の冷戦構造の中でフランスは自由主義陣営(西側)に属し、北大西洋条約機構の原加盟国でもある。しかしド・ゴールはヨーロッパの自主性を主張してアメリカと距離を置いた独自路線を取った。その米ソと並ぶ第三極を目指した政治姿勢はド・ゴール主義と呼ばれ、核兵器保有もその一環である。1960年にはトゥアレグが居住するサハラ砂漠核実験を強行した。1962年にアルジェリア戦争の和平交渉を妥結し、アルジェリアは独立した。このエヴィアン協定で軍事基地の使用を認めさせ、またサハラ石油利権の半分を確保し、入植者の財産も保証させた。1966年、フランスは北大西洋条約機構を正式脱退した。

1964年、フランスは中華人民共和国を承認した。ベトナム戦争の間に英仏が中国・オーストラリア経由で東南アジアの金融利権を取り戻した。ブルネイ財政の投資信託に独立前から携わり、オフショア市場を次々と開設し、アジア通貨危機をグローバル化させた。そしてクリアストリーム事件が起きた。ルクセンブルクが注目され、多くの人がモルガンとロチルドを知るようになった。

政治

フランソワ・オランド前大統領
カズヌーヴ首相

1958年10月にフランスの憲法が制定されて、半大統領制共和制となった。

直接選挙で選ばれる大統領(任期5年、2002年以前は7年)には、シャルル・ド・ゴールのときから首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられている。これは、立法府である議会より行政権の方が強い体制である。

2012年5月6日CEST)に行われた大統領選挙では社会党フランソワ・オランドが現職のニコラ・サルコジを破って当選し、同15日に第7代大統領に就任した。

また、大統領が任命する首相は、大統領にも議会にも責任を負っており、共に行政権を持つ(半大統領制)。このため、大統領の所属政党と議会の多数派勢力が異なる場合、大統領自身が所属していない議会多数派の人物を首相に任命することがある。この状態をコアビタシオンと呼ぶ。こうした場合、大統領が外交を、首相が内政を担当するのが慣例となっているが両者が対立し政権が不安定になることもある。

議会は二院制を採用し、上院に当たる元老院と、下院にあたるフランス国民議会がある。元老院は間接選挙で選出され、任期は6年で3年ごとに半数を改選される。国民議会は直接選挙で選出され、投票に際して小選挙区制二回投票制が定められている。優先権は国民議会にあり、元老院は諮問機関としての色彩が強い。

主要政党としては、国民戦線(極右・移民排斥)、国民運動連合(保守・右派)、フランス民主連合(中道・若干右寄り)、社会党(中道左派・社会民主主義)、フランス共産党(左派)がある。また、以下は議席を持たないが、反資本主義新党(極左)、労働者の闘争(極左・トロツキスト政党)も存在する。

歴史ある中央集権、門地によるエリート、それらが織り成す官僚主義がフランスの政界を支配している。スウェーデンには遠く及ばないが、労働人口に対する公務員の比率は21.6%に達する[21]。世界でも屈指の強固さを持つ官僚主義に裏打ちされたその社会構造は、しばしば批判的な意味をこめて『官僚天国』『役人王国』などと形容される[22]

警察・情報機関