フランス共和国
République française
フランスの国旗 フランスの紋章
国旗 国章に準じる紋章
国の標語:Liberté, Égalité, Fraternité
(フランス語: 自由、平等、友愛
国歌La Marseillaise(フランス語)
ラ・マルセイエーズ
フランスの位置
公用語 フランス語
首都 パリ
最大の都市 パリ
政府
大統領 エマニュエル・マクロン
首相 ジャン・カステックス
元老院議長ジェラール・ラルシェ
国民議会議長リシャール・フェラン
面積
総計 551,500km251位[1]
水面積率 0.2%
人口
総計(2020年 62,814,233人(21位[1]
人口密度 113人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2012年 2兆0377億[2]ユーロ (€)
GDP(MER
合計(2012年 2兆5804億[2]ドル(5位
GDP(PPP
合計(2012年2兆2525億[2]ドル(8位
1人あたり 35,519[2]ドル
建国
西フランク王国カロリング朝時代)843年8月10日[1]
フランス王国カペー朝成立以後)987年
フランス第一共和政1792年8月10日
フランス第五共和政(現行)1958年10月4日
通貨 ユーロ (€)(EUR[注 1][注 2]
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 FR / FRA
ccTLD .fr
国際電話番号 33
  1. ^ a b c CIA World Factbook/France
  2. ^ a b c d IMF>Data and Statistics>World Economic Outlook Databases>By Countrise>France

この表のデータは本土のみで、海外県・属領を含まない。

フランス共和国(フランスきょうわこく、: République française)、通称フランス: France)は、西ヨーロッパカリブ太平洋、およびインド洋に位置する共和制国家。首都はパリ

フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。この他世界各地に海外地域および領土を有する。

国名

エッフェル塔パリ、およびフランスのシンボルで、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造された。

正式名称はフランス語で、République françaiseレピュブリク・フランセーズ)。通称、Franceフランス)。略称、FR

日本語の表記は、フランス共和国。通称、フランス。また、漢字による当て字で、仏蘭西(旧字体:佛蘭西)、法蘭西(中国語表記由来)などと表記することもあり、)と略されることが多い。英語表記はFrance、国民・形容詞はFrench

国名の France は、11世紀の『ローランの歌』においてまではさかのぼって存在が資料的に確認できるが、そこで意味されている Franceフランク王国のことである。一方で987年に始まるフランス王国[1] に、France という名前が用いられているが、これは後代がそのように名づけているのであって、その時代に France という国名の存在を認定できるわけではない。また中世のフランス王REX FRANCUS と署名している。France は中世ヨーロッパに存在したフランク王国に由来すると言われる。その証左に、歴代フランス王の代数もフランク王国の王から数えている(ルイ1世ルイ16世を参照)。作家の佐藤賢一は、ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク中フランク東フランクに3分割され、中フランクは消滅し、東フランクは神聖ローマ皇帝を称したため、フランク王を名乗るものは西フランク王のみとなり、フランクだけで西フランクを指すようになった、と説明している[2]ドイツ語では、直訳すればフランク王国となる Frankreichフランクライヒを未だにフランスの呼称として用いている。これと区別するために、ドイツ語でフランク王国は Frankenreichフランケンライヒと呼んでいる。多くの言語ではこのフランク王国由来の呼称を用いている[注 3]

フランスの歴史は現代世界史の幹である。ブルボン朝最盛期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政治・経済・文化に絶大な影響力を持った。フランス語は外交の舞台での共通語となった。現在は国連事務局作業言語である。フランスは17世紀以降1960年代まで、大英帝国に次ぐ広大な海外植民地帝国を有した。1919年から1939年、フランスの面積は最大となり(12,347,000km2)、世界の陸地の8.6%を占めた。

ローマ帝国の支配

現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀まではマッシリア(現・マルセイユ)などの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を除くと、ケルト人が住む土地であり、古代ローマ人はこの地をガリア(ゴール)と呼んでいた。ゴールに住むケルト人はドルイドを軸に自然を信仰する独自の文化体系を持っていたが、政治的には統一されていなかった。

紀元前219年に始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴ帝国の将軍ハンニバル南フランスを抜けてローマ共和国の本拠地だったイタリア半島へ侵攻したが、ゴールには大きな影響を及ぼさなかった。

『ユリウス・カエサルの足元に武器を放るヴェルサンジェトリクス』

その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされた。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍・カエサル紀元前58年にゴール北部に侵攻した(ガリア戦争)。ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの属州とした。ゴールはいくつかの属州に分割された。そしてラティフンディウムが作られた。

ローマの平和の下でケルト人のラテン化が進み、ガロ・ローマ文化が成立した。

360年にゴール北部の都市・ルテティアパリと改名された。

5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、ガリアを占領して諸王国を建国した。

フランク王国とフランスの成立

476年西ローマ帝国が滅びると、ゲルマン人の一部族であるフランク族クローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めた。508年にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族はキリスト教とラテン文化を受け入れた。メロヴィング朝のあとはピピン3世カロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝トゥール・ポワティエ間の戦いで破り、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させた。

シャルルマーニュ(カール大帝)はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ね、現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュのもとでヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンスが興った。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられた。シャルルマーニュの没後、フランク王国は3つに分裂した(西フランク王国中フランク王国東フランク王国)。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの見解によると、これらはそれぞれ現在のフランス・イタリアドイツの基礎となった。また、この時期に古フランス語の形成が始まった。

987年、西フランク王国が断絶し、パリ伯ユーグ・カペーフランス王に選出されてフランス王国が成立した。カペー家に始まるカペー朝、そしてヴァロワ朝ブルボン朝は、戦争と家領相続を通じて次第に国を統一していった。 1209年アルビジョア十字軍が開始され、異端とされたオクシタニア(現・南フランス)のカタリ派を殲滅した。その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた[3]1337年から、フランスはイングランドとの百年戦争1337年 - 1453年)を戦っている[4]

絶対王政

1534年ジャック・カルティエガスペ半島十字架を建て、ヌーベルフランスを宣言した。1562年、宗教摩擦からユグノー戦争が30年以上も続いたが、1598年、ナントの勅令を発して内戦に終止符を打った。

「太陽王」ルイ14世

1643年ルイ14世が即位した。1673年フランス東インド会社ポンディシェリを取得した。1685年にはフォンテーヌブローの勅令によりナントの勅令を廃止した。

1748年、シャルル・ド・モンテスキューが『法の精神』を発表した。1762年、ジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』を発表した。フランスはアメリカアフリカアジアに広大な海外領土を獲得していたが、1756年からの七年戦争でフランスは孤立し、1763年パリ条約北米植民地戦争フレンチ・インディアン戦争が終結し、ヌーベルフランスイギリスによる植民地時代に移った。1769年フランス東インド会社からフランス領インドフランス語版英語版が成立した。特に重要だったカリブ海の植民地のサン=ドマングにおいては、奴隷貿易によって導入された黒人奴隷を酷使したサトウキビコーヒープランテーションが築かれ、莫大な歳入がフランスにもたらされた。

共和制と帝政

アルプスを越えるナポレオンジャック=ルイ・ダヴィッド

1789年フランス革命が起きて王政は倒れた。1791年ハイチ革命が勃発。1793年ルイ16世マリー・アントワネットが処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となった[5]

1799年ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握って第1統領となった。やがてナポレオンは皇帝に即位して第一帝政1804年 - 1814年)を開き、ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパを圧倒し、この戦争で数百万人が犠牲となった[6]1803年フランス領ルイジアナアメリカ売却1804年ハイチ革命が終わり、ハイチ帝国が一応の独立を果した。1815年、ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れた。

フランスは王政復古したが、王の権力は憲法に制約された。1848年2月革命第二共和政となった。1851年12月2日のクーデターフランス語版英語版が起き、1852年12月2日にルイ・ナポレオン(ナポレオン3世、ナポレオン・ボナパルトの甥)が第二帝政を開いた。ナポレオン3世はボナパルティズム的手法[注 4]で内政を固めた。中国インドシナ半島メキシコ日本などへ積極的に出兵した(アロー戦争コーチシナ戦争英語版メキシコ出兵下関戦争)。1870年普仏戦争に敗北しルイ・ナポレオンは退位した。パリ・コミューンは鎮圧され、第三共和政が打ち立てられた。

フランスはトンキン戦争英語版1882年)と清仏戦争1884年 - 1885年)に勝利した。ここにフランス領インドシナ1887年 - 1954年)が成立した。国内ではブーランジェ将軍事件1886年 - 1889年)が起きた。1893年シャム仏泰戦争英語版1894年にはドレフュス事件が勃発した。アフリカ分割の時代には、1895年フランス領西アフリカモーリタニアセネガルマリ共和国ギニアコートジボワールニジェールブルキナファソベナン)が成立した。1894年露仏同盟を締結した。1905年、フランスがモロッコに進出しドイツが反発した(第一次モロッコ事件)。1910年フランス領赤道アフリカガボンコンゴ共和国中央アフリカ共和国チャド)が成立した。1913年、アルザスロレーヌ地方(エルザス州・ロートリンゲン州)でツァーベルン事件が起こった。

世界大戦と植民地戦争

フランスは第一次世界大戦第二次世界大戦の主戦場となっている。第一次世界大戦では140万人が犠牲となっており[7]、このときは領土の一部が占領されただけにもかかわらず、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの犠牲を出した。

第二次世界大戦ではドイツ電撃戦に敗れた。第三共和政は崩壊し、フィリップ・ペタンを国家元首とするヴィシー政権が成立した。フランス本国はドイツによって北部、のちに全土が占領された。一方でシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス連合国についた。1944年にフランス共和国臨時政府が帰還し、全土を奪還した。

戦後、第三のそれと変わらないフランス第四共和政が成立した。1946年フランス委任統治領シリアからシリア共和国英語版が独立した。1951年、欧州石炭鉄鋼共同体西ドイツと結成した。フランスはインドシナ支配権を回復するため第一次インドシナ戦争に臨み、1954年ディエンビエンフーの戦い(3 - 5月)でベトミンに大敗を喫した。11月1日フランス領インド英語版を返還したが(ポンディシェリ連邦直轄領)、その同日にアルジェリア戦争へ突入した。アルジェリア植民地の維持の是非と、植民者の帰還[8]をめぐって国論が割れ、内戦になりかけた。1956年にはモロッコチュニジアが独立を達成した。この脱植民地化時代、フランス領インドシナマグリブのみならず、ブラックアフリカの植民地においても独立運動が進んだ。

1958年6月1日、ド・ゴールが第四共和制の首相となった。1959年1月8日に強力な大統領権限を含んだ第五共和政が成立した。第五共和政初代大統領となったド・ゴールは、国内の統一を維持しながら戦争終結へ踏み出した。1958年10月2日ギニア独立を嚆矢として、アフリカの年こと1960年にほぼすべてのアフリカ植民地が独立した。第二次世界大戦後の冷戦構造のなかでフランスは自由主義陣営(西側)に属し、北大西洋条約機構の原加盟国でもある。しかしド・ゴールはヨーロッパの自主性を主張してアメリカと距離を置いた独自路線をとった。その米ソと並ぶ第三極を目指した政治姿勢はド・ゴール主義と呼ばれ、核兵器保有もその一環である。1960年にはトゥアレグが居住するサハラ砂漠核実験を強行した。1962年にアルジェリア戦争の和平交渉を妥結し、アルジェリアは独立した。1966年、フランスは北大西洋条約機構を正式脱退した。

政治

大統領 エマニュエル・マクロン
首相 ジャン・カステックス

1958年10月にフランスの憲法が制定され、半大統領制共和制となった。

直接選挙で選ばれる大統領(任期5年、2002年以前は7年)には、シャルル・ド・ゴールのときから首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられている。これは、立法府である議会より行政権の方が強い体制である。

また、大統領が任命する首相は、大統領にも議会にも責任を負っており、ともに行政権を持つ(半大統領制)。このため、大統領の所属政党と議会の多数派勢力が異なる場合、大統領自身が所属していない議会多数派の人物を首相に任命することがある。この状態をコアビタシオンと呼ぶ。こうした場合、大統領が外交を、首相が内政を担当するのが慣例となっているが、両者が対立し政権が不安定になることもある。

議会は二院制を採用し、上院にあたる元老院と、下院にあたる国民議会がある。元老院は間接選挙で選出され、任期は6年で3年ごとに半数を改選される。国民議会は直接選挙で選出され、投票に際して小選挙区制二回投票制が定められている。優先権は国民議会にあり、元老院は諮問機関としての色彩が強い。

主要政党としては、共和国前進(中道)、共和党(中道右派)、国民連合(極右)、社会党(中道左派)、労働者の闘争(極左)がある。

歴史ある中央集権官僚主義はフランスの政治体制を代表してきた。スウェーデンには遠く及ばないが、労働人口に対する公務員の比率は21.6%に達する[9]。世界でも屈指の強固さを持つ官僚主義に裏打ちされたその社会構造は、しばしば批判的な意味をこめて「官僚天国」「役人王国」などと形容される[10]

地方政治の現場においては、市町村長職こそフランス国籍保有者に限定されているが、市町村議員に関しては欧州連合諸国の出身者に地方議員の被選挙権を認めている。2020年1月時点で、約50万人いる地方議員うち外国人議員数は2500人近くとなっていた。しかし一方で2020年2月にイギリスの欧州連合離脱があり、フランス国内で活動してきたイギリス人議員が被選挙権を喪失。その数は約3分の1に相当する757人にのぼった[11]

警察・情報機関