ルーマニア
România
ルーマニアの国旗 ルーマニアの国章
国旗 (国章)
国の標語:なし
国歌Deșteaptă-te române!(ルーマニア語)
目覚めよ、ルーマニア人!
ルーマニアの位置
公用語 ルーマニア語
首都 ブカレスト
最大の都市 ブカレスト
政府
大統領 クラウス・ヨハニス
首相 ルドビク・オルバン
面積
総計 238,391km278位
水面積率 3%
人口
総計(2016年 19,760,000人(?位
人口密度 83人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 6,286億[1]ルーマニア・レウ
GDP(MER
合計(2013年 1,889億[1]ドル(54位
GDP(PPP
合計(2013年3,865億[1]ドル(47位
1人あたり 19,397[1]ドル
独立連合公国の成立
1859年2月5日
オスマン帝国の宗主権喪失
1877年5月9日
通貨 ルーマニア・レウRON
時間帯 UTC +2(DST:+3)
ISO 3166-1 RO / ROU
ccTLD .ro
国際電話番号 40

ルーマニア: România)は、東ヨーロッパ、ヨーロッパの南東部に位置する共和制国家。南西にセルビア、北西にハンガリー、北にウクライナ、北東にモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面している。首都ブカレストである。国の中央をほぼ逆L字のようにカルパティア山脈が通り、山脈に囲まれた北西部の平原のトランシルヴァニア、ブルガリアに接するワラキア、モルドバに接するモルダヴィア、黒海に面するドブロジャの4つの地方に分かれている。

ルーマニアの住民は、紀元前からこの地方に住んでいたトラキア系のダキア人と、2世紀ごろにこの地方を征服したローマ人、7世紀から8世紀ごろに侵入したスラブ人9世紀から10世紀に侵入したマジャール人、そのほかにトルコ人ゲルマン人などの混血や同化によって、重層的複合的に形成されたなどとされる複合民族 româniロムニルーマニア人)が約9割を占める(なお、români(ルーマニア人)の起源については諸説ある)。そして少数のマジャール系のセーケイ人ロマ人(≒ジプシー[注釈 1]なども住んでいる。

なおルーマニアというのは言語的には公用語がラテン語起源の(つまりロマンス諸語の)ルーマニア語で、宗教的には「東方教会」系のルーマニア正教会が多数派である。それに対し、ポーランド(ヨーロッパの北東部で、ルーマニアの北西方向に位置する国)のほうは同じ「東欧」と言っても、言語的にはスラヴ語派に属するポーランド語がおもに話されており、宗教的には「西方教会」のカトリック教会が支配的である。つまり、ルーマニアとポーランドは、東欧において、言語的にも宗教的にも好対照の存在となっている。

国名

正式名称はルーマニア語România [romɨˈni.a] ( 音声ファイル)。カタカナのおおまかな発音は「ロムニア」。

国名の由来(語源)は、ラテン語で「ローマ人ローマ市民)の土地」という意味の表現。

ハンガリー語の表記は Románia [romaːniɒ](ロマーニア)。

かつて、英語では Rumania、ドイツ語では Rumania[注釈 2]フランス語では Roumania[注釈 3] と表記するなど、現地の発音とはひとつめの母音からすでにずれた表記が流通していた。近年では、現地の表記に沿う方向で修正される動きもあり、たとえば英語での公式表記は Romania となったが、英語はロマンス諸語に表記だけを似せても発音はひどく異なる「 [roʊˈmeɪniə] ( 音声ファイル)」となり、あまり参考にならない。

日本語表記

日本語の表記は、昔の英語式の表記に影響を受けた「ルーマニア」となっている。漢字表記羅馬尼亜羅馬尼亞)で、[注釈 4]と略される。中国語も同じく「羅馬尼亞」と表記する。

独立してからの日本語での正式名称は、以下のように変遷している。

現在では政体を指す「共和国」は含まない国名が正式名称となっており、「ルーマニア共和国」という表記は誤りである。

歴史

古代ダキア

古代にはゲタイ人古代ギリシア語: Γέται)と呼ばれる民族が居住していた。紀元前513年、イストロス河(古代ギリシア語: Ἴστρος、現・ドナウ川)の南でゲタイ人の部族連合が、対スキタイ戦役中のペルシアダレイオス1世に敗れた(ヘロドトス『歴史』4巻93)。

約600年後、ダキイ人ラテン語: Daci)は、ローマ帝国への侵攻に怒ったローマ皇帝トラヤヌスの2度の遠征(101年 - 106年)に敗れ、ローマ帝国の領土となった。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなった。現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。国歌の歌詞にトラヤヌスが登場するのは、こうした経緯からである[2]

238年から258年にかけて、ゴート人カルピイ人バルカン半島まで遠征した。ローマ帝国はドナウ川南まで後退し、以前の属領上モエシアの一部に新しく属領ダキアを再編した。

271年、かつてのダキアにゴート人の王国が建てられ、4世紀終わりまで続いたのち、フン人の帝国に併呑された。中央アジア出身の遊牧民族が入れ替わりルーマニアを支配した。ゲピド人アヴァールトランシルヴァニア8世紀まで支配した。その後はブルガール人がルーマニアを領土に収め、その支配は1000年まで続いた。このころの史料には、ペチェネグ人クマ人ウゼ人への言及も見られる。その後、13世紀から14世紀にはバサラブ1世によるワラキア公国、ドラゴシュによるモルダヴィア公国の成立が続いた。

中世にはワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国があった。完全な独立ではなく、オスマン帝国ハプスブルク家の支配下にあった。ワラキアとモルダヴィアは15世紀から16世紀にかけてオスマン帝国の属国であった。モルダヴィアは1812年東部のベッサラビアロシア帝国割譲した(パリ条約により1920年再合併)。北東部は1775年オーストリア帝国領土となり、南東部のブジャクはオスマン帝国領であった[3]

トランシルヴァニアは11世紀ハンガリー王国の一部となり、王位継承により1310年以降アンジュー家、のちにハプスブルク家領となったが、1526年にオスマン帝国の属国となった(オスマン帝国領ハンガリー)。18世紀には再びハプスブルク家のハンガリー王国領となり、第一次世界大戦の終わる1918年までその状態が続いた。

ルーマニア国土の変遷(1859年 - 2010年)。濃い緑がその時代の領土、薄い緑がルーマニアが領有したことのある地域。

1859年にワラキアとモルダヴィアの公主が統一され、1861年、オスマン帝国宗主下の自治国として連合公国が成立した(ルーマニア公国)。1877年には露土戦争に乗じて完全な独立を果たすため、独立宣言を行った。1878年ベルリン会議で国際的に承認され、ルーマニア王国が成立。第一次世界大戦でトランシルヴァニアを併合した。同じ1918年ベッサラビアを回復したが、これは1940年に再びソビエト連邦に占領され、最終的に割譲することとなる(現在はモルドバ共和国、ウクライナ)。

1940年第二次世界大戦が始まると、ソ連はベッサラビアなど、ルーマニアの一部を占領した。国民は列強の領土割譲に対して無為無策であった国王カロル2世を批判し、退位させた。ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦した。この参戦により、ソ連が占領した地域を回復した。しかし、ドイツ敗退により再度ソ連に侵攻され、1944年8月の政変で独裁体制を敷いていたイオン・アントネスク元帥ら親ドイツ派を逮捕して連合国側につき、国内のドイツ軍を壊滅させたあとにチェコスロバキアまで戦線を拡大し、対ドイツ戦を続けた。

戦後はベッサラビアとブコヴィナをソ連に割譲させられ、ソ連軍の圧力により社会主義政権が樹立した。王制を廃止し、1947年ルーマニア人民共和国が成立した(1965年にルーマニア社会主義共和国に改称)。しかし、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権のもと、次第に他の東側諸国とは一線を画す「自主独立路線」を唱え始め西側との結びつきも強めた。1989年ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権が打倒され(「ルーマニア革命」)、民主化された。

2007年1月1日に欧州連合(EU)に加盟した。加盟に際しては、「改革が不十分である」として欧州理事会によって再審査されたが、「加盟後も改革を続行する」として承認された。

政治

2007年の欧州連合の拡大。黄色で表示されている国が新たに加盟したルーマニアとブルガリア。

現在の政体は大統領国家元首とする共和制国家であり、国民から直接選挙で選ばれる大統領議会から選出される首相が行政を行う半大統領制を採用している。

大統領は任期が5年である(2004年までは任期4年)。立法権二院制の議会に属し、下院代議院)は定数332人、上院元老院)は定数137人で両院とも任期は4年。司法権は最高裁判所に属している。

2004年には北大西洋条約機構(NATO)に参加。2007年1月に欧州連合に加盟した。2006年6月30日、ルーマニア最高国防評議会議長を兼任するバセスク大統領は、タリチェアヌ首相が29日イラク駐留部隊の年内撤退計画を発表したが、同評議会が同計画を拒否したことを明らかにした。同大統領は熱烈な親米政治家として知られ、外交政策がある日突然変わってはならないとタリチェアヌ首相を批判した。

2007年2月、選挙制度改革を進めようとする大統領と野党が対立。4月19日、権力乱用を理由に大統領の職務停止案の投票が議会で行われ、賛成多数で可決された。4月20日、ルーマニア憲法裁判所英語版はバセスク大統領の職務停止を決定。バカロイウ上院議長が大統領代行に就任した。1か月後の5月20日にバセスクの弾劾の可否を問う国民投票が行われたが、結果は弾劾の否決であり、バセスクは大統領職に復帰した。大統領が議会から弾劾されたのも、大統領が国民投票で弾劾の可否を問われたのも、弾劾が否決されて大統領が留任したのも、ルーマニア史上初のことであった。2016年2月、コメルサントはヨハニス政権下の同国が隣国モルドバの政治危機に乗じて両国の統合を目指し、そのための働きかけを強めていると報じた[4]

2017年、ルーマニア反政府運動英語版が起きた。

なお、ルーマニア国内では旧王家が「王室」を称して公的活動を積極的に展開している。旧王家の家督は「ルーマニア王冠守護者」の称号と「陛下」の敬称を自称し、ルーマニア社会では広範に認められている。現在の家督はマルガレータ・ア・ロムニエイ。2018年10月29日、旧王家を軸とする国家的価値推進機関「国王ミハイ1世」の創設に関する法案が下院を通過した[5][6]。この法案には、特権を付与して「王室」を制度化するものであるとする違憲論もある。

軍事

2010年2月4日、アメリカのクローリー国務次官補(広報担当)は、ルーマニア政府が地上発射型迎撃ミサイルSM-3イージス・アショア)の配備に同意したことを明らかにした。これは、オバマ政権が進めているイラン弾道ミサイルの脅威に対処するための新たな欧州ミサイル防衛(SD)計画に参加したことになる。アメリカは南欧に広がったことを歓迎している。昨年10月には、ポーランド政府が新MD計画に参加する方針を表明している[7]

国際関係