三沢 光晴
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プロフィール
リングネーム 三沢 光晴
タイガーマスク(2代目)
カミカゼ・ミサワ[† 1]
リオン[† 2]
本名 三澤 光晴
ニックネーム 方舟の盟主
ノアの象徴
ミスター三冠
アンタッチャブル
エルボーの貴公子
超世代軍の旗手
ガラスのエース[† 3]
身長 185cm
体重 110kg
誕生日 (1962-06-18) 1962年6月18日
死亡日 (2009-06-13) 2009年6月13日(46歳没)
出身地 北海道夕張市生まれ[5]
埼玉県越谷市育ち[5]
所属 プロレスリング・ノア
スポーツ歴 レスリング
器械体操
トレーナー ジャイアント馬場
ジャンボ鶴田
ザ・デストロイヤー
ドリー・ファンク・ジュニア
デビュー 1981年8月21日
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三沢 光晴(みさわ みつはる、1962年6月18日 - 2009年6月13日)は、日本プロレスラー。本名:三澤 光晴(読み同じ)。1981年全日本プロレスにてデビュー。同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年プロレスリング・ノアを旗揚げ。選手兼社長として同団体を牽引した。

生涯

少年時代

1962年6月18日北海道夕張市に生まれる。父親は北海道炭礦汽船に勤務していたが、三沢が生まれて間もなく夕張炭鉱が閉山同然の状態となったため、一家は埼玉県越谷市へ転居した[6]

三沢は子供のころから体が大きく、小学校時代に越谷市が開催した走り幅跳びの大会で優勝するなど、運動神経が良かった[7]。中学校では器械体操部に入部。三沢は自著の中で、器械体操を経験したことがプロレスの飛び技に生きていると述べている[8]

中学2年の時、テレビで全日本プロレス中継を見て「観るよりやるほうが絶対におもしろい」と直感した[9] 三沢はプロレスラーを志すようになる。三沢は中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任の教師と母親にレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、足利工業大学附属高等学校に特待生として進学した。レスリング部に入部した[10][† 4] 三沢は高校の3年間を学校の寮で過ごし、ハードな練習[† 5]に明け暮れる日々を送った。休みは大晦日正月三が日のみであった[12]。三沢は3年の時に国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが、本人にとってレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった[† 6]

なお、三沢は高校2年時に寮を抜け出して全日本プロレスの事務所を訪れ、入門を志願したことがある。この時はジャンボ鶴田に高校を卒業してから来るよう諭され、断念している[14]

全日本プロレス入門

高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入団。同年8月21日に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎[† 7]でデビューした。入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった[16]。三沢の1年前に入団したターザン後藤によると三沢は受身を覚えるのが早く、瞬く間に自身と同じレベルに達したという[17]。もともと全日本プロレスではジャイアント馬場以下、ジャンボ鶴田、タイガー戸口天龍源一郎ロッキー羽田桜田一男などの大型レスラーが重視される傾向にあったが、若手レスラーの指導に当たっていた佐藤昭雄の後押しを受けて頭角を現すようになる[18]。ちなみに、当時の全日本プロレス練習生の月給は5万円であったが、三沢だけは特別に7万円貰っていた。

タイガーマスク(2代目)として活躍

1984年春、三沢は越中詩郎とともにメキシコへ遠征に出た[† 8]。数か月が経ったある日、三沢は馬場に国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、飛び乗れると答えたところ帰国するよう命じられた[20]。帰国後、三沢は馬場に2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける[† 9]。三沢は初代タイガーマスク(佐山聡)のファンから二番煎じ扱いされるのではと抵抗を感じたが、すでに2代目タイガーマスクとしてデビュー戦のスケジュールは組まれていた[22]

同年8月26日、田園コロシアムでのラ・フィエラ[† 10]で2代目タイガーマスクとしてデビュー。当初はジュニアヘビー級戦線で活躍し、1985年8月31日に小林邦昭を破ってNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得[25] したが、同年10月にヘビー級に転向[26][27]1986年にはアメリカに遠征し、4月19日にNWAジム・クロケット・プロモーションズルイジアナ州ニューオーリンズスーパードームで開催したタッグチーム・トーナメント "Crockett Cup" に御大のジャイアント馬場と組んで参戦、シード出場した2回戦でジミー・ガービン&ブラック・バートを破るも、準々決勝でロニー・ガービン&マグナムTA戦で惜しくも敗退した[28][29]。4月20日にはミネソタ州ミネアポリスメトロドームで開催されたAWAの "WrestleRock 86" に出場、AWA世界ライトヘビー級王者バック・ズモフから勝利を収めた[30]1988年1月2日には後楽園ホールにて、カート・ヘニングが保持していたAWA世界ヘビー級王座に挑戦している[31]

タイガーマスク時代の三沢は、初代タイガーマスク(佐山聡)が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要に迫られた[32][33]。これでは、三沢が本来目指すプロレスを前面に出せない(渕正信によると、三沢には「もっと寝技をやりたい」という願望があった)ことを意味し、三沢はそのことに苦しんだ[32][33]。空中技を多用したことで三沢の膝には負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた[† 11][† 12][36][37]。1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会に参戦し、天龍源一郎とタッグを組み、長州力&ジョージ高野組と対戦。同年4月13日には日米レスリングサミットに出場し、ブレット・ハートとシングルマッチで対戦している。

全日本プロレス中継のアナウンサーを務めた倉持隆夫は、三沢にはアメリカのプロレス界ではマスクマンは負け役で地位が低いという意識があり、取材の際には本名で呼びかけないとまともな受け答えをしてもらえなかったと回顧している[38]。倉持はタイガーマスク時代の三沢を「劇画のヒーローになったのだから、もっと劇画の世界のように、奇想天外な、自由奔放な発言をして、メディアを煙に巻くぐらいの話をすればいいのに、根が真面目な三沢青年は、最後までマスクマンレスラーになれなかったのだ」と評している[39]。タイガーマスクとなった三沢は自己主張を強く行わなかったため、「口の重い虎戦士」と呼ばれた[39]

なお、全日本プロレスは「タイガーマスクは1年に1つ新しい技を開発する」と宣伝していたため、三沢がタイガーマスク時代に開発した技の名前には「タイガー・スープレックス84」といった具合に開発年がついている[40]。ちなみに三沢は2代目タイガーマスクとして活動していた最中の1988年5月に結婚したが、その際に記者会見で正体を明かし、その上で2代目タイガーマスクとしての活動は続行させるという、覆面レスラーとしては異例の行動に出ている[36]

超世代軍とプロレス四天王の中心として活躍

1990年春、天龍源一郎が全日本プロレスを退団し、SWSへ移籍したことで、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。この騒動により、全日本プロレスは天龍対鶴田という当時の黄金カードを失うことになった。騒動の最中の5月14日、「マスクマンが上を狙うのは限界がある」[41]と感じた三沢は、試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ、「三沢光晴」に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた[42][43]。三沢は川田利明小橋健太らと共に超世代軍を結成[44][45][46]。1990年6月8日に「全日の『強さ』の象徴だった」[47] ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992年8月22日にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍した[45][46]。超世代軍とジャンボ鶴田を中心とする鶴田軍との世代抗争は全日本プロレスの新たな名物カードとなった[48]。とくに超世代軍は高い人気を獲得し、全日本プロレスに大きな収益をもたらした。永源遙曰く、超世代軍の人気は初代タイガーマスクを凌ぐほどであった[49]。三沢はこの時期にエルボーフェイスロックといった必殺技を習得した[50]

1992年7月にジャンボ鶴田が内臓疾患により長期休養を余儀なくされたことにより超世代軍と鶴田軍の抗争は終わりを告げ[51][52][53]、同時に三沢は全日本プロレスの実質的なエースとなった[47]。超世代軍の活動は1993年に川田が離脱したことで区切りを迎え(正式に解散したのは1998年)、それ以降は小橋・川田・田上明とともにプロレス四天王(後に秋山準が加わり「五強」と呼ばれた)の一人として全日本プロレスの中心を担った[51][52][53]。三沢は1992年8月から1999年10月にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得、21度防衛[† 13][54]1994年3月5日には全日本プロレスの象徴的存在であったジャイアント馬場からタッグマッチでフォール勝ちし、名実ともに同団体を代表するレスラーとなった[55]

超世代軍が結成された当時、馬場は凶器攻撃、流血、リングアウト・反則・ギブアップによる決着のないマッチよりも、3カウントフォールによってのみ決着するプロレスを理想とするようになり、三沢たち超世代軍のレスラーは馬場の理想を具現化すべく、大技をカウント2.9で返し続ける激しい試合を行うようになった[56]。プロレス四天王の時代になると、三沢たちは次第に考案者である馬場の想像すら凌駕する激しい試合を繰り広げるようになった。三沢が川田と対戦した1997年6月6日の三冠統一ヘビー級王座のタイトルマッチは、馬場が「あまりにもすごい」と涙したほど激しい試合として知られる[57]。三沢自身は小橋健太との戦いを「極限の力を見せることができる」戦いとして認識しており[58]、両者の試合の激しさは三沢自身が死の恐怖を感じることがあったほどであった[59]。このような、大技を連発するプロレスは四天王プロレスと呼ばれた[60]。レフェリーとして三沢の試合を裁いた和田京平によると、試合中の三沢はどんなに攻撃を受けても音をあげず、「大丈夫か?」と問いかけると「大丈夫」と答えて試合を続ける意思表示をしたという[61][† 14]

全日本プロレスの社長に就任

全日本プロレスではジャイアント馬場の妻である馬場元子が会社の運営について大きな発言権を有し、試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が続いていた。仲田龍(全日本プロレスのリングアナウンサー。後にプロレスリング・ノア統括本部長)によると1996年に三沢は、元子に反発を覚えるレスラーや社員を代表する形で、元子本人に「周囲の人間の声に耳を傾けた方がよい」という内容の忠告をした。それをきっかけに三沢は元子と対立するようになり、1998年には馬場に対し所属レスラーを代表して「元子さんには現場を退いてもらえないでしょうか」と直談判するなど、対立を深めていった[63][64]

1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢[65] はレスラーの支持を受けて後継の社長に就任した。ただし馬場の死後約3カ月間もの間紛糾した末の人事であった。三沢は就任時に「いいものは採り入れて、今までとは違う新しい風を吹き入れてやっていきたい」と抱負を語ったものの、全日本プロレスの株式は三沢ではなく馬場元子が保有しており、何をするにも自分に断りを入れるよう要求する元子の前に思うように会社を運営することができなかった[66][67][68]。和田京平によると元子は三沢が決めたマッチメイクに対して必ず反対意見を出した[69]。また仲田龍曰く、三沢には馬場の運営方針を100%受け継ぐことが求められ、新たな試みを行うことは一切禁じられた[70]。後に三沢はこうした環境が「オレのやろうとすることが、尊敬する馬場さんが作り上げたプロレスを汚すと言われ、更に全日本らしくないと非難されるなら、俺の方から身を引く」と全日本プロレス退団を決意する原因になったと語っている[71]。さらに三沢によると、経営に関する不透明な部分を目にするうちに全日本プロレスに対する不信感が募ってプロレスそのものに愛想が尽きかねない心境になり、そうなる前に退団した方がいいと思うようになった[71]

プロレスリング・ノア設立 - 最期

2000年5月28日、臨時取締役会において三沢は社長を解任された。これを受けて6月13日、三沢は定例役員会において取締役退任を申し出た。これをもって三沢は全日本プロレスを退団することになった[72]。三沢はすでに退団後に新団体を設立する構想を抱いており、6月16日に記者会見を開いて新団体設立を宣言した。三沢の当初の構想は居酒屋を経営しながら5人の新人を育成し、3試合ほどの小さな興行を催すというものであったが、三沢以外に9人いた取締役のうち5人が三沢に追随して退任するなど社内から三沢の行動に同調する者が続出[73]、全日本プロレスを退団して新団体に参加するレスラーは練習生を含め26人にのぼった[74]。一方、全日本プロレスへの残留を表明した選手は川田利明、渕正信の2人に、留学生扱いだった太陽ケアを含めた3人だけだった[75][† 15]。予想より多くの選手が新団体への参加を表明したため三沢は資金繰りに苦しみ[76]、自身の保険を解約し、さらに自宅を担保に金を借り入れて選手たちの給料にあてた[77]。三沢はこの事実を公にすることを嫌っていたが、死後、徳光和夫によってテレビ番組で公表された[78]

7月4日、新団体の名称は「プロレスリング・ノア」(由来は『創世記』に登場するノアの方舟)に決まったことが発表され[79]8月5日ディファ有明で旗揚げ戦が行われた。旗揚げ戦のチケットはわずか20分で完売し[80]、前日夜の時点で当日券を求める100人以上のファンが列をなし、前売券も完売した[80]。当日は三沢の指示で急遽会場外の駐車場に大型ビジョンを設置し、チケットが手に入らなかったファンのために無料で視聴できるサービスを展開した[80]。ディファ有明は三沢と行動をともにした仲田龍と関係の深い施設で、プロレスリング・ノアの事務所と道場もここに置かれた[81]

なお、三沢には全日本退団後に、全日本プロレスが主催しない興行に出場する契約があり、三沢は興行主への配慮から7月に全日本プロレスの大会に4日間出場している。13日に愛媛国際貿易センターで行われた試合では観客から「裏切り者」と罵声を浴びせられた[82]。これに対し三沢は「オレの人生をその人が保証してくれるのか」と怒りを露わにした[83]

2009年5月6日、日本武道館にて第2回「グローバル・タッグ・リーグ戦」のタッグパートナーである潮崎豪(右)と握手を交わす三沢光晴(左)。

仲田龍いわく、ノア旗揚げ後の三沢の体調は常に悪く、思うように練習ができない日々が続いた[84]。しかし、三沢はノア旗揚げ以降1度も試合を欠場せず[85]GHCヘビー級王座を3度(初代、5代、11代)、また小川良成とのコンビでGHCタッグ王座を2度(2代、8代)獲得。2007年にはGHCヘビー級王者として防衛を続け、それまで縁のなかったプロレス大賞MVPに当時史上最年長(45歳)で選出された。また2009年5月6日には潮崎豪とのコンビで第2回「グローバル・タッグ・リーグ戦」の優勝を果たした。

晩年の三沢は頸椎に骨棘と呼ばれる棘状の軟骨が増殖して下を向くことも後ろを振り向くことも困難になり[86]、右目に原因不明の視力障害が起こるなど体力面の不安が深刻化。さらに肩、腰、膝にも慢性的な痛みを抱えていた[87][88]秋山準によると三沢は後ろに手が回らなくなっていたといい、セカンドロープに上る時は一度エプロンサイドに出て外から上っていたと述べている[89]。元付き人の丸藤正道は振り向く時は首が回らないから身体ごと振り向いていたといい[90]、巡業中のバスで寝ているときも「普通の人が座って寝ている時の、息を吸って吐いての首の動きとはちょっと違って苦しそうだった」と述べている[91]。頚部は歯を磨いたり、ガウンの襟の部分が当たったり[92]、寝返りを打つ[93] だけで痛みが走る状態にあった。近しい周囲には「辞めたい」「引退したい」と漏らすようになり[86]、休養をとるよう勧める声もあったが、それに対し三沢は次のように反論した[94]

地方に行くとタイガーマスクだった三沢、超世代軍で鶴田と戦っていた三沢、つまりテレビのプロレス中継が充実していた頃の三沢光晴を観に来てくれるお客さんがいるんだよ。そういう人たちが、1年に1回しか地元に来ないプロレスの興行を観に来て、俺が出てなかったらどう思う? — 徳光2010、203頁。

2009年6月9日、東京スポーツの取材に応じた三沢は「もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。」と打ち明けている[87][† 16]。それから4日後の6月13日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)で行われたGHCタッグ選手権試合に挑戦者として出場(【王者チーム】バイソン・スミス齋藤彰俊 vs 【挑戦者チーム】三沢&潮崎豪)。試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥った。リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された[87][96][97][98][95][99][100]。46歳没。三沢が意識を失う前にレフェリーの西永秀一が「動けるか?」と問い掛けた際に、「だめだ、動けねぇ」と応じたのが最後の言葉となった[101]

6月14日広島県警察広島中央警察署は、三沢の遺体を検視した結果、死因をバックドロップによって頭部を強打したことによる頸髄離断(けいずいりだん)であると発表した[102]

週刊ゴング元編集長の小佐野景浩や日本の複数のプロレス団体でリングドクターを務める林督元は、三沢が受けたバックドロップ自体は危険なものではなく受け身もとれており、三沢の死は事故であったという見解を示している[103]。一方でプロレス関係者やファンの中には三沢の死は過激な試合を繰り返したことで蓄積したダメージによって引き起こされたものであり[104]、「頭から落とす四天王プロレスの帰着点」であると捉える者もいた[105]。また、前田日明は「不運な事故ではない」と明言し[106]、「三沢が落ちた瞬間に、全身がバッと青ざめた」という証言を伝えている[107]

死後

6月19日に東京・中野区宝仙寺にて密葬が行われ、200人が参列した[108]法名は「慈晴院雄道日光」[109]。遺影には「リングの上の栄光の瞬間や社長としてのスーツ姿ではなく、2000年に1度だけ参戦した耐久レースにおいてレーシングスーツを着て笑っている写真」が家族の意向で選出となった。日刊スポーツは「トップレスラーとしてプロレス団体社長として家族として責任を背負い続けてきたので、最後くらいは解放させてあげたい」という家族の配慮があったと報道した[110]。7月4日ディファ有明にて献花式「三沢光晴お別れ会 〜DEPARTURE〜」が開催され、会場にはプロレス関係者や徹夜組のファンなどを含めて約26,000人が参列した[111][112]。会場に詰め掛けたファンが作った列は最寄りの有明テニスの森駅から始まり、市場前駅を通過し、次の新豊洲駅のさらにその先まで3kmもの列をなした[112]。かつて全日本プロレスのファンであったルポライター泉直樹は、この現象について以下のように述べている。

そこまで多くのファンが集まったことに私は驚いた。そのうちの何割かは私と同じようにすでにプロレスから遠ざかっているはずだ。そうでなければ、2万5000人ものファンが会場に駆けつけるはずもない。だが、あの当時の会場の熱狂的な雰囲気を覚えている者からすれば、これだけの人数が三沢との別れを惜しむのも当然、という思いもあった。 プロレスから離れた元ファンが大挙して駆けつけたのは、プロレスから離れた者として「自分が見放したから、今回のような事故が起こった」という罪の意識があったのかもしれない。その感情はもちろん、私自身の中にもあった。 — 泉2010、23頁。

三沢の後任の社長には田上明が就任し、2009年秋には三沢光晴追悼興行として「GREAT VOYAGE '09 in TOKYO」が9月27日に[113]、「GREAT VOYAGE '09 in OSAKA」が10月3日に[114] 行われた。

三沢の死の翌日(6月14日)には、大阪プロレスでもレフェリーテッド・タナベが試合終了直後に急性心筋梗塞を発症し、翌日死亡している。プロレス界で立て続けに発生した2件の問題を受け、6月18日に行われた自民党文部科学部会・文教制度調査会の合同会議において、再発防止策や選手の健康管理について意見交換が行われ、プロレス関係者からNOAH・仲田龍取締役、新日本・菅林直樹社長、全日本・武藤敬司社長が、自民党からは同部会長の衆議院議員馳浩が出席した[115]。仲田は、会議終了後「レフェリーや対戦相手は、戦いながら相手の状況を観察してもらう技術を身に付けてほしい」と再発防止を強調した[116]

年表

主な試合

1981年
  • 8月21日 - 埼玉・浦和競馬場正門前特設リングにて同期の越中詩郎を相手にプロレスデビュー。
  • 10月 - シングル戦初勝利。
1983年
1984年

(同年7月極秘帰国し、2代目タイガーマスクに変身)

1985年
1986年
  • 3月13日 - 日本武道館でのジャパンプロレスとの全面対抗戦で長州力と唯一のシングル対決。長州のサソリ固め返しを披露するなど奮闘するも、リキラリアットでフォール負け。
  • 3月 - 後楽園ホール大会のリング上でヘビー級転向を正式に表明する。この時すでに保持しており防衛戦を行っていなかったNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を返上する(同年7月にこの王座は世界ジュニアヘビー級王座に改称される)。
  • 10月 - 猛虎七番勝負が始まる。1988年3月までに7戦が行われ3勝4敗の成績に終わる。
1987年
1988年
  • 5月10日に現夫人と結婚。同時にタイガーマスクの正体を公表する。
  • 6月 - 仲野信市高木功高野俊二田上明と共に決起軍を結成。
  • 9月 - 試合中の怪我で左膝の靭帯を切断。シリーズを数日間欠場しただけで無理をして復帰する。
1989年
  • この試合後左膝の怪我が深刻化、手術を受けるために長期欠場に入る。この間に決起軍解散(馬場の「全然、決起してない」という一喝から)
1990年

(5月14日、試合中に自らマスクを取って投げ捨て、素顔の三沢光晴に戻る。)

  • 5月17日 - 広島県立総合体育館にてアジアタッグ王座初防衛後に返上。
  • 6月8日 - 日本武道館にてジャンボ鶴田との一騎討ち。これに勝利して下の世代で初めて鶴田越えを達成。
  • 8月の強化合宿にて川田・田上・小橋・菊地毅・浅子と共に「超世代軍」結成。
  • 田上は鶴田のパートナー指名を受けて超世代軍としての活動をほとんどしないまま離脱。
1991年
  • 7月 - 石川県産業展示館にて川田をパートナーに世界タッグ王座挑戦、ゴディ&ウィリアムスを破り王座奪取。第17代王者となった。
  • 9月 - 日本武道館にて川田をパートナーに鶴田&田上明組と世界タッグ王座防衛戦。フェイスロックにより鶴田から初ギブアップ勝ちを奪う。世界最強タッグ決定リーグ戦に伴い王座返上。
1992年
  • 8月 - 日本武道館にてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第10代王者に。
  • その直後、鶴田がB型肝炎発症を理由に長期離脱。名実共に全日本のエースになる。
  • 12月 - 日本武道館にて川田をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で田上&秋山準組を下し優勝、第20代世界タッグ王者となった。
1993年
  • 1月、千葉県体育館にて世界タッグ王座防衛戦、ゴディ&ウィリアムス組に敗れ王座転落。
  • 4月、川田が超世代軍離脱を表明。いわゆる四天王プロレスが幕を開ける。
  • 12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し優勝、第24代世界タッグ王者となった。
1994年
  • 3月 - 馬場から初のピンフォール勝ち。チャンピオン・カーニバルダグ・ファーナス戦で喰らったフランケンシュタイナーが原因で歩行困難に。途中リタイアとなった。
  • 6月 - 日本武道館にてチャンピオン・カーニバル優勝者の川田利明を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛戦、タイガードライバー’91で防衛。
  • 7月 - 日本武道館にてスティーブ・ウィリアムスを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛戦、ウィリアムスの殺人バックドロップの前に敗れ王座転落。
  • 12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦でウィリアムス&エース組を下し優勝。第25代世界タッグ王者となった。
1995年
  • 1月 - 山形県体育館にて川田&田上組を下し世界タッグ王座初防衛。
  • 4月 - チャンピオン・カーニバルの試合中に川田の蹴りを浴びて左眼窩骨折の重傷。以後、試合に出続けて、日本武道館での優勝決定戦で田上に勝利して初優勝。
  • 5月 - 札幌中島体育センターにてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第14代王者に。
  • 6月 - 日本武道館にて川田&田上組に敗れ世界タッグ王座から転落。初めて川田からピンフォール負けを喫した。
  • 12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し2連覇。
1996年
  • 5月 - 札幌中島体育センターにて秋山をパートナーに川田&田上組の世界タッグ王座に挑戦。勝利し第29代王者になる。札幌中島体育センターにて田上を相手に三冠統一ヘビー級王座戦。田上の迎撃式のど輪落としに敗れ王座転落。
  • 9月 - 日本武道館にてウィリアムス&エース組に敗れ世界タッグ王座から転落。
1997年
  • 1月 - 大阪府立体育会館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、40分を越える激闘を制し王座奪取。第17代王者になる。
  • 5月、小橋が超世代軍を正式に離脱。
  • 10月21日 - 日本武道館にて小橋を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。この年のプロレス大賞・ベストバウト賞に選ばれる大激闘だった。
1998年
  • 4月 - 日本武道館のチャンピオン・カーニバル優勝決定戦で秋山を下し3年ぶりの優勝。
  • 5月 - 全日本初の東京ドーム大会開催。川田に敗れ三冠統一ヘビー級王座を失う。長く続く激闘を考慮し、馬場社長の命を受け暫く休養に入る。8月に復帰。この間自ら志願して一部試合のマッチメイクを任される。
  • 9月 - 秋山戦に敗れた小川良成に試合後寄り添い、タッグチーム「アンタッチャブル」結成。超世代軍はこれをもって消滅。
  • 10月 - 日本武道館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第20代王者に。
  • この試合でプロレス大賞・ベストバウト賞を2年連続受賞。
1999年
  • 1月 - 大阪府立体育会館大会で川田利明に垂直落下式ブレーンバスターで敗れ、王座転落。ただし、川田は右腕尺骨骨折のため直後に王座返上。
  • 5月 - 1月に死去したジャイアント馬場の引退興行として行われた東京ドーム大会にてベイダーの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第23代王者に。大会後、選手会の強い要請を受け全日本社長に就任、三沢体制が誕生する。
  • 8月 - 広島市東区スポーツセンターにてアンタッチャブルとしてノーフィアーの持つ世界&アジア両タッグに挑戦、勝利し第39代世界タッグ王者、第67代アジアタッグ王者に。この時三沢は三冠ヘビー級王座、小川は世界ジュニアヘビー級王座を保持しており、二人で全日本に存在するタイトルを総ナメにした。その後アジアタッグは即返上。
  • 10月 - 愛知県体育館にて小橋&秋山組を相手に世界タッグ王座防衛戦、王座転落。日本武道館にて三冠統一ヘビー級王座にベイダーの挑戦を受けるも、敗北し王座転落。
2000年
  • 4月 - チャンピオン・カーニバルでベイダーを裏十字固めで骨折させ、勝利。
  • 5月 - 臨時取締役会議にて代表取締役を解任。
  • 6月 - 全日本プロレスを退団、プロレスリング・ノアを設立。
  • 8月5日 - プロレスリング・ノア旗揚げ戦開催。
  • 10月 - 「アンタッチャブル」を「WAVE」に名称を変更、池田大輔丸藤正道が加わる。
  • 12月 - 有明コロシアムにて因縁のベイダーとのシングルマッチをランニングエルボーで勝利。
2001年
2002年
  • 5月2日 - 新日本との交流戦で新日本東京ドーム大会に参戦し蝶野正洋とシングルマッチで対戦、かつてのお互いの団体の主を象徴する技であるランニング・ネックブリーカー・ドロップや卍固めを掛け合う攻防を展開、30分フルタイムで引き分ける。
  • 9月23日 - 「GREAT VOYAGE 2002」日本武道館大会にて高山善廣を下しGHCヘビー級王座奪還に成功、第5代王者に返り咲く。
2003年
  • 3月1日 - 「Navigate for Evolution 2003」最終戦 日本武道館大会において、完全復帰を果たした小橋建太を相手にGHCヘビー級王座防衛戦に挑むも、小橋のバーニング・ハンマーの前に敗れる。
  • この試合は2003年度プロレス大賞ベストバウト賞を受賞。
2004年
2005年
  • 1月23日 - 最終戦 神戸大会ワールド記念ホールにおいてスコーピオ&ダグ・ウイリアムス組に敗れGHCタッグ王座を失った。
  • 9月18日 - 「2nd GREAT VOYAGE 2005」日本武道館大会において、力皇猛の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも敗北。
  • これにより1992年より続いていたシングルタイトル挑戦成功率100%の記録が途切れた。
2006年
  • 12月10日 - 「GREAT VOYAGE 2006」日本武道館大会において、丸藤正道の持つGHCヘビー級王座に挑戦。雪崩式エメラルド・フロウジョンで勝利し、第11代王者に返り咲いた。
2007年
  • 12月10日 - GHCヘビー級王座を7度防衛。プロレス大賞最優秀選手を史上最高齢で初受賞。プロレス大賞年間最高試合賞を受賞(12月2日の小橋建太復帰戦)。
2008年
  • 3月2日 - 森嶋猛のGHCヘビー級王座の挑戦を受けるが、強烈なバックドロップからフォールされて敗れ、8度目の防衛に失敗し王座陥落。
2009年
  • 5月6日 - 潮﨑豪とのコンビでグローバル・タッグ・リーグ戦で優勝した。
  • 6月13日 -

    フィニッシュホールド

    エルボー・バット(エルボー)
    右肘を相手の顔面や顎に打ちつける技。三沢を象徴する技で、士道館館長の添野義二から伝授されたといわれる。
    三沢はジュニアヘビー級からヘビー級に転向後、自分よりも体の大きな相手と渡り合うための技としてエルボーを用いるようになった。小佐野景浩は、タイガーマスクから素顔の三沢に戻った直後の1990年5月26日にタッグマッチでジャンボ鶴田を失神に追い込んだことでエルボーは三沢の代名詞となったと述べている。ランニング・エルボー応用技として走りながら繰り出すランニング・エルボーワン・ツー・エルボー左右から交互に繰り出すワン・ツー・エルボーローリング・エルボー体を旋回させながら繰り出すローリング・エルボーエルボー・スイシーダ(トペ・エルボー)リング上から場外にいる相手へ向かって飛びながら繰り出すエルボー・スイシーダ(トペ・エルボー)、胴田貫
    座っている相手めがけて(主に後頭部や側頭部)少し離れたところから倒れ込みながら[エルボー・バット]]を決める胴田貫がある。犬猿の仲といわれる川田利明 に繰り出すエルボー120%エルボーと呼ばれる。なお三沢は右肘を保護するために、テニス選手用の保護サポーターに改良を加えたものを着用していた。エルボーとは言っても、肘の尖った部分ではなく下腕部を相手の側頭部に叩き込むことが多い。ハンセンから三冠を奪取する前後から三沢のとして用いられるようになったが、その理由として(投げ技が難しい大型選手とあたる時には打撃が必要不可欠)、(肘くらいしか怪我をしていない部分がなかった)、(打った時の感覚が違った)の3つを挙げていた。ローリング式ランニング式バックハンド式マシンガン式ワンツー式、ダイビング式などバリエーションも豊富で、マウント状態になった相手に連続で叩き込むエルボーを披露したこともあった。
    ファイナル・エルボー・コンビネーション
    2001年高山戦のフィニッシュで披露した、エルボーワンツー式エルボーローリング式エルボーランニング式エルボーの一連の流れを指して、ファイナル・エルボー・コンビネーションと呼ぶ(テレビゲームでの命名)。
    技の出が早く、連発も容易なため、接近戦において最大の攻撃力を発揮した。しかし自らの肘にかかる衝撃も大きく、この技の多用が原因で三沢の肘の軟骨はボロボロに砕けてしまっていた。また、常時肘部分に黒いサポーターを装着した状態で放っていた。
    エルボー・バットを得意とするレスラーは多いが、ムエタイ等と違いプロレスではあくまで繋ぎ技として使われる程度のものだった。それをフィニッシュにまで結びつく必殺技に昇華させたのは三沢が初めてであった。
    三沢のエルボーを初めて受けた選手のほとんどが(脳が揺れた)、(こんなに効くとは思わなかった)等のコメントをしている。
    2007年からは相手をマットに座らせた状態で後頭部へエルボーを叩き込む攻撃をフィニッシュ・ホールドにしている(後に同田貫と命名)。
    ローリング・エルボー(旋回式エルボー)
    相手と対面状態から素早く左回転し、腰と肩を入れて全力で叩き込むエルボー。通常のエルボーを数発叩き込み、相手の意識が朦朧としたところで使用するのがもっぱらである。基本的にこれで相手は倒れこみ、選手権試合以外ではこの技でフィニッシュになることも珍しくはない。
    ランニング・エルボー
    一定の距離をとり、走りこんで叩き込むエルボー。インパクトの瞬間は左足で踏み込み、突進力と腰の回転で叩き込む。普段からフィニッシュとして扱われる上に、自分よりもはるかに大きい超重量級が相手の時や、全ての投げ技を使い尽くした時に用いられるため、エルボーバリエーションの中では最強の威力を誇ると思われる。
    スピニング・エルボー(逆旋回式エルボー)
    ローリング・エルボーとは逆回転で右に回り、肘から上の上腕で相手の顔面に叩き込む。単体では隙があるためか、ローリング式と同じようにエルボーのコンビネーションの途中で流れるように組み込まれるのがほとんどである。なお、この技は呼び方が色々あり、バックハンド・エルボー'バックスピン・エルボースピン・エルボー逆エルボー等がある。
    マシンガン・エルボー(速射式エルボー)
    左手で相手の首を固定し、スピード重視のエルボーを連続で相手の側頭部に叩き込む。最後の一発は腰を入れて打つのが特徴。
    ワンツー・エルボー(ダブル・エルボー)
    まず通常の右エルボーを叩き込み、相手の体が左にぶれるやいなや左エルボーを叩き込み、即座に右エルボーで揺り戻す。基本的にはトップレスラーとのビッグマッチでしか使用されず、この後にローリング・エルボーが叩き込まれるのが常である。
    マウント・エルボー(馬乗り式エルボー)
    仰向けに寝ている相手の上半身の上に、相手の頭部側を、向いて馬乗りになる。その状態から相手の頭部を掴んで持ち上げ、エルボー・バットを繰り出す。連発することも多い。
    胴田貫
    胴太貫・同田貫とも。相手に見えない位置から倒れこみ式で後頭部に叩き込むエルボー。エルボーのバリエーション中一番危険度が高いため、ビッグマッチのフィニッシュとして使われる。名称の由来は、子連れ狼の主人公・拝一刀の愛刀の名から。
    120%エルボー
    見た目は全く一緒の対川田利明限定エルボーの俗称。三沢は相手によって意図的にエルボーの威力を微調節しているが、前に立っている人間が川田の場合明らかに音が異なるエルボーを叩き込むことからこう称される。なお、マシンガン・エルボーも川田が相手だと、足をアストライドポジションにとり全弾腰を入れてアッパー式打ち下ろし式を交互に織り交ぜて打ち込むようになる。このエルボーを引き出させることが三沢の本気を出させた証明ともなるため、若手時代の秋山などが試合前に宣言をしたことがある。-->
    エメラルド・フロウジョン
    相手を右肩に担ぎ上げ、相手の頭をマットに向けて逆さまに落とす技。技の名前の由来は、三沢のイメージカラーである緑色をした宝石エメラルドと、相手が滝のように激しくマットに落ちることにある。開発当初は担ぎ上げてから手を持ち替えていたが、落とすまで時間がかかるため持ち替えない方式に改良した。
    相手の両腕を決めたまま投げ捨てる変形バージョンや、
    コーナーから雪崩式で放つバージョン。
    ブレーンバスターの体勢から繰り出すバージョン。

    _ ファイヤーマンズキャリーの体勢から繰り出すバージョンもある(詳細はエメラルド・フロウジョンを参照)。

    俗称「エメフロ」。
    相手をボディスラムの体勢で右肩に抱えあげ、左手で首を、右手で腰をしっかりホールドして自分のサイドに脳天から落とす三沢光晴の決め技。
    初出の時は対秋山戦で、手のロックが反対で一度手を持ち変える必要があり、少々手間取るために現在の形に改良されたが、そのまま垂直落下になる分コチラの方が威力があるとも言われている。全日時代にはほとんど拝むことが出来なかったが、角度調整が左手の差し方で容易に出来るためかノア以降では相手の力量に合わせた形で頻繁に繰り出すようになった。
    2006年9月に入り、小川との合体式エメラルドも披露し、12月の丸藤正道戦ではフィニッシュ・ホールドとして雪崩式で繰り出した。なお雪崩式は小川との合体技としての公開が最初(前述の合体式とはまた別。小川がブレーンバスターで持ち上げ、コーナートップで待機している三沢に渡して落とす形)。
    変形エメラルド・フロウジョン
    ブレーンバスターの体勢から抱え上げてエメラルド・フロウジョンと同じ体勢で落とす。落差が増し、基本的に角度もきつくしているのでより威力は高い。
    全日本時代はタイガードライバー'91に替わる必殺技として君臨していたエメラルド・フロウジョンであったが、ノア以降は角度調整の効いたものを選手権試合問わず乱発する傾向になったため、(これが出れば試合が終わる)技とはならなくなり、選手権試合クラスでは当たり前のように返す選手が増えてきた。そんな中で登場したのが「改」であり、2003年12月に行われた越中詩郎との再会シングルマッチでフィニッシュとして繰り出した。その後もビッグマッチの時によく使用されている。
    また、2007年4月の武道館大会における佐野巧真との防衛戦では、ファイヤーマンズキャリーの体勢からエメラルド・フロウジョンに落とす新型を公開した。
    タイガー・ドライバー
    三沢が2代目タイガーマスク時代に編み出した必殺技。リバースフルネルソンの体勢から相手を持ち上げ、一旦手を離して相手を空中で回転させ、同時に自らも開脚ジャンプし、尻餅をつくように着地して相手を背中から叩きつける。若手時代に使っていたダブルアーム・スープレックスを基に考案した。
    1990年代半ばまでは絶対的なフィニッシュとして君臨し続けたが、周りの受身技術が上がり(と言うより、落とす際に両足で相手の腕をロックしなくなりしっかりと押さえ込まなくなったため)、更に高度な試合へと発展していったことから次第に中盤の継ぎ技となっていった。しかし、現在でも三沢の代名詞として存在し、三沢自身よりも体重の軽い選手を仕留めるフィニッシュ技の定番となっており、またロックしてから相手をリフトするまでの攻防は三沢の試合における定番シーンとなっていた。相手が踏ん張った際には一度クラッチを解いてから背面にエルボーや後頭部への踵蹴りを叩き込み再度チャレンジする、もしくは意表をついてダブルアーム・スープレックスに移行するパターンもある。
    派生技も多く、トップロープの上からの雪崩式で見舞うタイガー・ドライバー2001、エプロンから場外に叩きつけ断崖式タイガー・ドライバー等がある。2007年丸藤相手のGHC防衛戦では、場外鉄柵に腹部から落とすバージョンも公開した。また、小川良成とのツープラトン技として、クラッチを協力して行うダブル・タイガー・ドライバーが存在する。
    なお、初代タイガーマスクが同名の技を使用していたが、三沢のものとは全く違う(DDTフロントネックチャンスリードロップの中間のような技)。
    タイガー・ドライバー'91
    1991年1月26日、後楽園ホールでの田上明とのシングルマッチで初披露。
    ダブルアーム・スープレックスの体勢で相手を持ち上げた後に腕のロックを離さず、そのま垂直に落とすまたは落とす直前にロックを外して脳天から落とす。着地の方法も尻餅をつくように着地するのではなく膝から着地するという違いがある。元々危険度の高いタイガー・ドライバーをさらに危険にした技で、相手はほとんど受け身がとれずに脳天からマットに落下し、首に大きなダメージを受けることになる。そのため三沢は首に故障を抱えているなど相手にとって危険な場合には落とす際に腕のロックを外し、受け身をとりやすいよう工夫をするようになった。
    入り方は通常のタイガー・ドライバーと同じだが、効果としては受身の取れないパイルドライバーに近い。
    1991年1月に対田上戦で初公開、同年4月の小橋健太戦でも使用したが、あまりの危険度からすぐに封印。1994年6月の川田戦で3年ぶりにタイガー・ドライバー'91を解禁した。この試合を実況していた福澤朗アナは殺人タイガー・ドライバーと呼称している。受身が取れないまま杭を打つかのごとくリングに突き刺さるため桁違いに危険なので、相手によって出し方を変えている。その危険度から数えるほどしか使用していないため、'91の方が本当の幻の技といわれている。2004年、全日本に参戦した際の小島聡戦で約5年ぶりに封印を解いた。NOAHマットでは2005年の川田戦、2006年丸藤戦、2007年森嶋戦の3度しか使用していない。
    タイガー・スープレックス(タイガー・スープレックス'84、猛虎原爆固め)
    2代目タイガーマスク時代に習得。後から両腕をチキンウィングの体勢にとらえて、両腕を固めたまま後方に投げる。三沢以前にもタイガー・スープレックスを使うレスラーはいたが、三沢の場合両腕を固める際に相手の背中に手の平をつけず、深く固めることに特徴がある。2003年の小橋建太戦では、花道から場外マットに向け自らも落下しながら投げ捨て式のタイガー・スープレックスタイガー・スープレックス2003)を出した。
    腕がロックされているので非常に受身が取りにくい。なお、初代タイガーの佐山聡は両掌を相手の背中にベッタリつけるが、三沢以下全日本・ノア系の選手の多くは両手をクラッチする。なお、現在は両タイプも手のロックが違うのみなので、同じタイガー・スープレックスとして扱われるのが一般的である。
    タイガー・スープレックス'85
    2代目タイガーマスク時代の三沢がヒザを故障し、復帰戦の対小林邦昭戦で初公開したオリジナル技。
    背後から自らの両腕を相手の両脇に差し入れてスリーパーホールド状に相手をクラッチ、片方の下腕部だけが相手の首から後頭部に回される変形のフルネルソン状態で後方に投げる。三沢曰く、小橋建太スリーパー・スープレックスと類似点がある。
    首を深くロックされた上で投げられるため、極めて受身が取りづらい。当時は毎年オリジナルのタイガー殺法を編み出すというデビュー時についたギミックがあり、その一環として編み出された。
    当初は連続式ジャーマン・スープレックスをタイガー・スープレックス'85と呼称する予定であったが小林に返されてしまい、とっさにこの技を出した、という経緯がある。
    なお、ノアを旗揚げしてからは小橋建太戦と丸藤正道戦での2度しか出していない(丸藤戦では雪崩式で繰り出した)。
    ジャーマン・スープレックス(原爆固め)
    通常のジャーマン・スープレックスのほか、新日本プロレスに参戦していたスタイナー・ブラザーズが日本マットに持ち込んだのをきっかけに、投げ捨て式も使うようになった。
    ホールド式、投げ捨て式共に使用し、何度も自身のフィニッシュ・ホールドとしてきた技。
    自分よりも大きいジャンボ鶴田や、身長2mクラスの外人選手(ビッグ・ブーバーなど)もホールド式で見事に投げきった。
    三沢は投げ捨て式の先駆者の1人で、必殺技としての説得力が失われつつあったこの技に再び説得力を与えることとなったが、(投げ捨て式ジャーマンの先駆者はリック・スタイナーです。彼が新日本来日後にその威力に驚いた日本人選手が使い出したのが流行の最初です。)四天王プロレスの中盤に連発するようになったことから決め技としての価値は暴落した。川田利明に放った投げ捨て式の3連発が特に有名で、ベイダーを投げきることもあった。晩年は投げ捨て式をたまに使用する程度であった。
    ダイビング・ボディ・プレス
    タイガーマスク時代に使い始め、ヘビー級転向後も使い続けた技。通常ダイビング・ボディ・プレスは両手を広げたままコーナーポストから相手に向けて落下するが、三沢の場合空中で1度屈伸して身体を丸めた後、体を広げる。普通に飛ぶよりも落下速度が増すことから、タイガーマスクとしてのデビュー戦の対戦相手だったラ・フィエラが使っていたのを模倣した。
    屈伸式ダイビング・ボディ・プレス(フロッグ・スプラッシュ)
    コーナーポストから高く飛んで、空中で一度体を丸めて再度両手足を広げて繰り出すダイビング・ボディ・プレス。空中での屈伸姿勢が蛙のジャンプする様に似ているためにフロッグ・スプラシュとも呼ばれる。ノア内では丸藤正道金丸義信など数名がこの技を受け継いでいる。
    ダイビング・ネックブリーカー・ドロップ
    コーナー最上段から放つネックブリーカー・ドロップ。この技でタッグマッチながら師匠ジャイアント馬場からフォールを奪ったこともある。秘策中の秘策的存在だったが、田上明との三冠戦でノド輪落としに切り返されて逆転フォール負けを喫してしまって以降は一度も使用しなかった。まれに、タッグマッチにおいて自身が試合の権利が無い場合、パートナーを援護する目的で繰り出したり、2ndコーナーからつなぎ技として放つこともあった。
    ドロップキック
    三沢は試合の序盤に相手にドロップキックを仕掛け、その日の体調、身体のキレや疲労を量るのにも用いた。
    フェイスロック
    タイガーマスクから素顔に戻った後、1991年から使い始めた技。尻餅をついた相手の背後に立ち、左足で相手の左腕をロック、両手で相手の鼻頭を締める。
    三沢の代名詞の一つである絞め技。しりもち状態の相手の後ろに立ち、右足で相手右腕をロック、右腕下腕部の手首付近の骨の硬い部分で相手顔面の頬のツボや鼻のあたりをこすり上げるようにロック、左手で補佐しながら絞め上げる。三沢の場合はしばしば相手の鼻や口の部分を塞ぐ形で仕掛けるため、窒息効果もあるのが特徴的である。当初は拳同士を組み合わせて顔面を絞め上げる技であったため、「顔面絞め」と呼称された。泉田に指を故障させられてからは掛け方が変わり中盤で相手のスタミナを奪う繋ぎ技となってしまっているが、かつてはジャンボ鶴田から日本人初のギブアップを奪った必殺技であった。
    全日本時代にこの技を初めて喰らった渕正信が「三沢のフェイスロックは苦しいとかじゃなく、とにかく痛いんだよ。とても耐えられるもんじゃない」とその技の効果についてコメントしている。

    打撃技

    かかと落とし
    テコンドー式の正面から蹴るものではなく、前かがみにした相手のサイドから延髄を狙って前方宙返りをして踵で蹴りつける。タイガードライバーを踏ん張った相手に不意に繰り出し意表をついたりする。
    ステップキック
    背中にエルボーを叩き込むなりして相手を前のめりにさせた時、はねながら足の甲で相手の胸あたりを蹴り上げる技。その繰り出す体勢から通称“欽ちゃんキック”とも呼ばれる。
    2連発で打つことが多い。まれに3連発になることも。全日本時代(阪神・淡路大震災2日後の95年1月19日大阪大会)馬場&鶴田&三沢組 対 秋山&大森&本田組では、この蹴りを一発喰らった本田が2発目が来る前に動いてしまい、モロに顔面に入ってしまった。周囲の病院が震災直後でてんてこ舞い状態で治療が遅れたこともあり、結果的に全治3か月の大怪我を負わせることとなった。

    スープレックス系の技

    旋回式バックドロップ
    抱え式バックドロップの体勢で自ら回転しながら投げる。繋ぎ技として使用する場合が多い。

    飛び技

    フライング・ラリアット
    ロープに相手を振った後、自分も対角線ロープの反動を利用、ジャンプしながら相手の首に巻きつくようにラリアットを見舞い、横旋回しながら綺麗に着地するという技。
    三沢の身体能力ならではの技だが、試合中にかわされ古傷である右肩の脱臼を招いたこともある。
    その日の調子を見るために使用されることもある。
    エルボー・スイシーダ
    場外の相手に肘から突っ込んでいくトペ・スイシーダ
    相手が逃げたりフェイントをかけたりしてきそうな場合は瞬時に判断し、トップロープに両腕を絡め、そこを軸にしてくるっと前方回転してエプロンに着地するという回避ムーブや、ロープ下からスライディングキックで相手の顔面を蹴り上げる場合もあり、リング下の相手は対応がしづらい。さらに前者のムーブからの派生として、エプロンからのダイビングエルボーや、再び後方回転して戻って再度エルボー・スイシーダスライディングキックへ移行することもある。
    本来は当時の実況アナ若林健治が良く使っていたトペ・エルボーの方が名称としては正解だったと言えるのだが、現在の名称を全日本プロレス中継当時の解説者が最初にエルボー・スイシーダと称したためにそのまま定着している。しかし、語源のラテン語(tope)には(先端(頭))という意味もあるため、どちらも間違っていない、もしくは(頭)という意味も込めたダブルミーニングだったともいえる。
    ウルトラ・タイガー・ドロップ
    エプロンの上を走り、場外に居る相手に前方回転して背面から浴びせかかっていく技。スピード感に溢れ華やかであるが、当たり具合によっては受身を誤る危険度も高く、めったに見ることは出来ない。
    2代目タイガーマスク時代から使っており、当時はコーナートップから繰り出すことが多かった。
    猛虎七番勝負での対天龍戦では、リング内からトップロープ最上段に飛び乗り、場外にいる天龍に向かってこの技を繰り出した。
    ダイビング・ネックブリーカー・ドロップ
    ランニング・ネックブリーカー・ドロップをコーナー最上段から相手に飛びつきながら決める。かつてタッグマッチながらジャイアント馬場からフォールを奪ったこともある。セカンドコーナーからのバージョンは何度か出しているが、原型は全日本プロレス所属時代に数回しかだしていない。タイガードライバー91エメラルド・フロウジョンを上回る幻中の幻的大技。しかし、田上明との三冠戦でノド輪落しに切り返されてフォール負けして以来フィニッシュとしては影を潜めている。なお、付き人であった太田一平に直伝している。

    関節技

    裏十字固め
    相手がうつ伏せの状態にしてかける腕ひしぎ十字固め。三沢の場合は技をかけているときは自身が仰向けの状態になり、相手が逃げようとすると決める方向を変えて脱出できないようにする。2000年チャンピオン・カーニバル松本大会でベイダーの肘関節を破壊した技である。なお、この時期は三沢の全日本離脱・ノア設立の直前の時期であり、しばらく後、ベイダーは「骨折させられた恨みを晴らす」として全日本からノアに参戦リングを移した。
    リバースネルソン・デスロック
    フロントからのインディアン・デスロック(リバース・インディアンデスロック)を極めた状態でリバースフルネルソンを仕掛ける。タイガーマスク時代から使用していたが、1995年チャンピオン・カーニバルで前年にフランケンシュタイナーで首を負傷させられたD・ファーナスとの開幕戦ではこの技でギブアップを奪った。また同シリーズで、川田に顔面骨折をさせられた2日後の秋山準戦ではスタンディング式で固めギブアップを奪った。この後にもノアの旗揚げ戦(秋山・小橋vs三沢・田上 60分3本勝負)で1本目にフロントネックロックで失神させられた三沢が2本目に秋山にこの技を出している。
    キャメルクラッチ
    三沢の場合うつぶせ状態の相手の背中に自分が前転し、そのままこの技に入る。
    フェイスロックと合わせて使う場合が多い。

    返し技

    受身の天才と称される三沢は、その一方で相手の技のタイミング、試合の流れを瞬時に読み、繰り出される返し技にも定評があった。晩年はあまり見られなくなったが、全日本プロレス時代には散見された。プロレスゲームでもこれらの切り返しが収録されているものもある。

    今まで行った切り返しは主に以下の通りである。

    相手がフォールにきた瞬間の狙ってブリッジで体を反転し逆に自分が上の体勢になってフォール。これでジャンボ鶴田から初フォールを奪った。
    秋山準のエクスプロイダーを側転で返す。
    田上明のエプロンからの断崖式のノド輪落としをバック転で切り返す。
    ウラカン・ラナ
    飛びつき後方回転エビ固め。タイガーマスク時代は直接飛びついて行っていたが、素顔になってからは特にパワーボム系の技を喰らいそうになったときに行う有効な返し技。また足の位置によってはヘッドシザース・ホイップに切り替えて前方に投げるケースもある。
    初披露は全日本時代、対テリー・ゴディ戦。この技で3カウント勝利を収めている。全日本時代、川田のパワーボムを度々これで返していた。2005年7月18日に行われた東京ドームメインでの川田利明戦で久々に繰り出す。2005年9月18日の力皇戦では、花道断崖パワーボムを両足で着地する形で返す。
    垂直落下式パワーボムの体勢から反動をつけて2段式ウラカン・ラナで返す。
    回転十字固め
    両手足をそれぞれ相手の左右の腕にからみつけるように飛びつき、そのまま相手を後ろに倒して両腕を極めたままエビ固めにフォールする。三沢がスタン・ハンセンとの対戦で、ラリアットをかわしてこの技の変形版(ハンセンを前に倒す)を使用してハンセンをフォールした。

    タイトル歴

    全日本プロレス
    パートナーは川田利明2回→小橋健太2回→秋山準小川良成
    パートナーは小橋健太小川良成
    パートナーはジャンボ鶴田
    パートナーは1992年が川田利明、それ以降は小橋健太
    プロレスリング・ノア
    パートナーはいずれも小川良成
    パートナーは潮﨑豪
    プロレス大賞
    • 1982年、新人賞
    • 1985年、敢闘賞
    • 1990年、殊勲賞
    • 1991年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは川田利明)
    • 1992年、特別大賞
    • 1993年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)
    • 1994年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)
    • 1995年、年間最高試合賞(川田利明&田上明 vs 三沢光晴&小橋健太)
    • 1997年、殊勲賞、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)ダブル受賞
    • 1998年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)
    • 2003年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋建太)
    • 2007年、最優秀選手、年間最高試合賞(三沢光晴&秋山準 vs 小橋建太&高山善廣)
    • 2009年、特別功労賞

    入場テーマ曲