明仁
2016年(平成28年)1月27日 撮影
フィリピンマラカニアン宮殿にて

即位礼 即位礼正殿の儀
1990年平成2年)11月12日
皇居 宮殿
大嘗祭 大嘗宮の儀
1990年(平成2年)
11月22日23日
於 皇居 東御苑大嘗宮
元号
内閣総理大臣
先代 昭和天皇
次代 徳仁

誕生 1933年昭和8年)12月23日
午前6時39分(86歳)
日本の旗 日本東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区千代田)
宮城内産殿
明仁あきひと
1933年(昭和8年)12月29日
命名
称号 繼宮つぐのみや
えい
元服 1952年(昭和27年)11月10日
父親 昭和天皇
母親 香淳皇后
皇后 美智子(旧姓名:正田 美智子)
1959年(昭和34年)4月10日 結婚
(→皇太子妃
(→皇后
(→上皇后
子女
皇嗣 皇太子徳仁親王
皇居 皇居 御所
東京都千代田区千代田1-1
栄典
学歴
副業 魚類学者
親署 明仁の親署

日本の憲政史上初めて譲位し、上皇となった。天皇の譲位による皇位継承光格天皇以来202年ぶりのことである。
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称号: 上皇
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敬称 陛下
His Majesty the Emperor Emeritus
皇室
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天皇 徳仁
皇后 雅子






束帯姿の明仁。袍は黄櫨染御袍、冠は立纓御冠
即位礼正殿の儀にて高御座に立つ第125代天皇明仁
1990年(平成2年)11月12日

明仁あきひと1933年昭和8年〉12月23日 - )は、日本の第125代天皇(在位: 1989年〈昭和64年〉1月7日 - 2019年平成31年〉4月30日[注釈 2]上皇(在位: 2019年令和元年〉5月1日 - )。称号繼宮つぐのみや[4]お印えい[5]敬称陛下[6]勲等大勲位菊花章頸飾

昭和天皇香淳皇后の第1皇男子[注釈 3]。皇子女に徳仁(第126代天皇)、秋篠宮文仁親王皇嗣)、黒田清子がいる。

父帝・昭和天皇の崩御を受けて、日本国憲法及び現皇室典範下で初めて皇位を継承し、元号法及び元号を改める政令(昭和64年政令第1号)に基づき翌日より「平成」と改元された[7]。また、天皇退位特例法に基づき、憲政史上初めて譲位した[注釈 4][8][9]

現在の住居は、東京都港区にある仙洞仮御所(高輪皇族邸)。

人物

皇室の一員として

正装の天皇明仁
皇居宮殿表御座所で公務を行う
2003年(平成15年)2月 撮影

1933年(昭和8年)12月23日東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区)宮城(現・皇居)内の産殿にて、昭和天皇香淳皇后の(2男5女のうち)第5子かつ第1皇男子として誕生。

姉に東久邇成子(照宮成子内親王)、久宮祐子内親王鷹司和子(孝宮和子内親王)、池田厚子(順宮厚子内親王)、弟に常陸宮正仁親王(義宮正仁親王)、妹に島津貴子(清宮貴子内親王)がいる。

1952年(昭和27年)に皇室典範に基づき18歳で成年[10]。1959年(昭和34年)に正田美智子と成婚し、浩宮徳仁親王(第1子/長男、第126代天皇)、礼宮文仁親王(第2子/次男、現:秋篠宮当主、皇嗣)、紀宮清子内親王(第3子/長女、結婚により皇籍離脱。現:黒田清子)の二男一女の3人の子女をもうける。

1989年(昭和64年)1月7日に実父である昭和天皇崩御[11] に伴い皇位継承し、第125代天皇に即位[12][13]

天皇在位中は高齢となっても、年間約1,000件の書類に目を通して署名・捺印し、各種行事に約200回出席し(いずれも平成23年/2011年度[14])、20件近くの宮中祭祀や祭儀を執り行うなど精力的に活動していた[15]。しかし、2015年(平成27年)に施設訪問の一部を皇太子徳仁親王・同妃雅子(当時)および秋篠宮文仁親王・同妃紀子に引き継いだ [16][17]

天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行により、2019年平成31年)4月30日限りで退位5月1日0時に皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位し、明仁は上皇となる。譲位に伴う皇位継承が行われたのは、光格天皇から仁孝天皇への譲位以来202年ぶりである。明仁は、歴代天皇の中で最初に譲位した皇極天皇(斉明天皇として重祚)[注釈 5]より数えて、59人目である。譲位時の年齢は85歳であり、歴代天皇の中で最高齢で譲位した。

上皇である明仁は、天皇や皇族とともに皇室を構成している[18]。存命中の男性皇室構成員としては最年長であり[19]、退位特例法により、皇位継承権を有しない唯一の(天皇以外の)男性皇室構成員となった。

科学者として

魚類学者としても知られ、ハゼ分類学的研究者であった。日本魚類学会に属して自ら研究して書いた論文28編(2018年時点)を同学会誌に発表[20]。1992年(平成4年)には『Science』誌に「"Early cultivators of science in Japan"(邦訳例:日本における科学の早期開拓者たち)」という題で寄稿した[21]。また2000年(平成12年)、2008年(平成20年)、2016年(平成28年)には、日本国外の雑誌『Gene』に第一著者として論文が掲載されている[22][23][24]

魚類学における業績は各国で評価され、学界において以下に記述する役職に就いている。

この他にも1998年(平成10年)には英国ロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞、2007年(平成19年)の欧州5か国訪問ではスウェーデンウプサラ大学名誉学員に列せられた。また長年のハゼの分類学的研究に対する貢献を称え、新種のハゼの一種の命名に、1992年(平成4年)には Platygobiopsis akihito[25]、2005年(平成17年)には Exyrias akihito[26]、2007年(平成19年)にはハゼの新属にアキヒト属 (Akihito) と[27]、彼の名を織り込んだ献名がなされた。また2020年には、南日本に生息するオキナワハゼ属の新種を発見した。新種発見は2003年以来17年ぶりであり、退位後初めての研究成果でもある。[28]

皇族および天皇としての国際親善とは別に、魚類研究での外国との交流もあり、皇太子時代に問い合わせに応答した中国の魚類学者に年賀状を毎年送っている[29]

民族学者である梅棹忠夫は、1971年(昭和46年)8月26日の仲間内の食事会にて「この前、皇太子殿下(=明仁親王)にご進講に行った。皇太子殿下の植物学に対する造詣はたいしたもの。立派に東大京大教授が務まる。としてはどうか知らないが、学者としては一流だ。」と述べている[30]

発見したハゼ

  • キマダラハゼ:Astrabe flavimaculata Akihito et Meguro[31]
  • シマシロクラハゼ:Astrabe fasciata Akihito et Meguro
  • ヒメトサカハゼ:Cristatogobius aurimaculatus Akihito et Meguro
  • コンジキハゼ:Glossogobius aureus Akihito et Meguro
  • クロオビハゼ:Myersina nigrivirgata Akihito et Meguro
  • ミツボシゴマハゼ:Pandaka trimaculata Akihito et Meguro

来歴

幼少時代

1934年(昭和9年)、誕生翌年に母親の香淳皇后に抱かれる継宮明仁親王(当時)

1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、宮城(現、皇居)内の産殿にて誕生。昭和天皇香淳皇后の(両親夫妻の間にもうけられた2男5女・7人の子女のうち)第5子にして初の皇子(第一皇男子)であった。

称号「継宮」(つぐのみや)、名前「明仁」(あきひと)。

これは父、昭和天皇による命名で、いずれも明治3年1月3日(1870年2月3日)の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅大教宣布』より「…立極垂統、列皇相承、之述之…宜治教以宣揚惟神之大道也…(「極(皇位)」を立て「統(皇統)」を垂れ、列皇(歴代天皇)は相承し、之を継ぎ之を述べ…よろしく治教を明らかにし以て「惟神(かんながら)」の大道を宣揚すべき也)」に出典を求め、命名されたものである。

お印の「榮(えい)」は文字で、「草花が盛んに茂る様子」を意味する[5]

昭和天皇の子女として4人続けて女子の誕生を経た後の次期皇位継承者になる男子の誕生ということもあって、国内の沸き立ち方は並々ならぬものがあり、北原白秋作詞、中山晋平作曲で奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』まで作られた。

1936年(昭和11年)3月29日、皇室の伝統的慣習に基づき、将来の天皇になるべくして皇太子明仁親王は満2歳で両親の元を離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって養育される。当初は週に一度の日曜日には宮中に参内して両親と面会する機会もあったが、1か月を過ぎる頃から日曜日も東宮仮御所で過ごすようになった[32]

1940年(昭和15年)に学習院初等科に入学。学習院就学時代は山梨勝之進院長の下で教育を受け、内舎人、信国鉄蔵を師として剣道を練成した。

1941年(昭和16年)12月8日、自身の学習院初等科2年次在学時に、日米開戦。学習院初等科5年次の1944年(昭和19年)、第二次世界大戦の戦火の拡大により、初めは栃木県日光市田母澤御用邸に、後に奥日光、湯元の南間ホテルに疎開。当地で翌1945年(昭和20年)8月15日に、他の疎開児童らとは別室にてラジオでの父帝による玉音放送を聴き、終戦を迎えた。終戦後に帰京。

1946年(昭和21年)10月から1950年(昭和25年)12月まで、父、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ばせる」という新しい皇太子への教育方針に従い、アメリカ合衆国の著名な女性の児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。1949年(昭和22年)6月27日には、ヴァイニングとともにGHQの設置された第一生命館を訪問して連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと面会した。このときマッカーサーは「殿下は落ち着いて、まことに魅力的なお方だった」と好印象を持ったといわれる[33]。また、西洋で流行していたボードゲームのリバーシ(現在のオセロ)を与えられ、父、昭和天皇とたびたび対戦して知恵を磨いた[34]

1950年(昭和25年)、学習院高等科2年の際に馬術部の主将となる[35]

1951年(昭和26年)10月、学習院高等科の修学旅行に参加。学友とは前半別行程で、20日夜に青森行きの夜行準急列車で出発。青森県内を回った後の26日、岩手県平泉で修学旅行に合流、29日に帰京した[36]

成年以降

1952年(昭和27年)11月10日、皇居、表北ノ間で立太子の礼と皇太子明仁親王の成年式が挙行された。同日、大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。

1953年(昭和28年)3月30日から同年10月12日までの半年余りにわたり、人生初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ合衆国カナダを歴訪。同年6月2日エリザベス2世英国女王(1952年2月6日:父のジョージ6世国王の崩御により即位)の戴冠式へ父帝、昭和天皇名代として各国王族らと共に参列。この時の地位は皇太子であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行った。後年、2007年(平成19年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行っている。しかしこの外遊の結果(皇太子という身分とはいえ特別待遇されることはなく)、学習院大学の単位が不足して進級できずやむを得ず中途退学したものの、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学業を継続する[37]

欧米訪問からの帰国直後の同年12月に、結核の感染を診断される。この時、ストレプトマイシンなどの特効薬が発見されており、それの投与による治療を受け、1957年(昭和32年)までにほぼ治癒した。このことは長らく公にされていなかったが、2009年(平成21年)3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした[38][39]

1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れていた長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢会テニスコートでのテニストーナメントで日清製粉グループ会長(当時)であった正田英三郎の長女、正田美智子と出会い、テニスを通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に『女ともだち』と題した彼女の写真を出品した。しかし、「皇太子が積極的に正田美智子との結婚を考えている」ということが分かると、皇室内外からの反対もあった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の著作『入江相政日記』には、「『東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん』と母、香淳皇后秩父宮妃勢津子高松宮妃喜久子の両親王妃と共に昭和天皇に訴えた」という内容の記述がある。

1959年(昭和34年)1月14日に納采の儀が、同年4月10日に皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀が執り行われた。明治以降では初の皇族、華族以外からの皇太子妃(将来の皇后)であり、また成婚に至る過程が報道されたこともあって、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が起る。成婚のパレードは盛大に行われ、多数の国民から祝福を受けた。2人の成婚の様子を生中継放送で視聴するために、当時高価であったテレビも一般家庭に普及し始めた。また婚礼を祝して『祝典行進曲』が作曲された。同年7月15日に、皇太子妃美智子の第一子懐妊が発表された。

1960年(昭和35年)2月23日に第1子、第一男子浩宮徳仁親王(ひろのみや なるひと)が誕生。3月には妹、清宮貴子内親王が、明仁親王の学友だった島津久永と結婚した。同年9月22日から同年10月7日にかけて、妃美智子を伴って夫妻で日米修好100周年記念のためアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。

1965年(昭和40年)11月30日、第2子、第二男子礼宮文仁親王(あやのみや ふみひと)が誕生。1969年(昭和44年)4月18日、第3子、第一女子紀宮清子内親王(のりのみや さやこ)が誕生。

沖縄県訪問に際して

沖縄県祖国復帰沖縄返還)が実現して3年後の1975年(昭和50年)、沖縄国際海洋博覧会に際し、父、昭和天皇も大正期の皇太子時代に行啓した沖縄県に立太子後、初めて訪問。海洋博の写真を収めた書籍『海 その望ましい未来』、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に親覧した皇太子および同妃の姿が収録される[注釈 6]

この沖縄県訪問については複数の事件もあった。同年7月17日、皇太子妃美智子を伴い夫妻でひめゆりの塔に献花のため訪問したところ、その場に潜んでいた過激派2人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟のメンバー)から火炎瓶1本を投げつけられる(ひめゆりの塔事件)。同日夜、皇太子は「沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ。」と県民の心情を思う異例の談話を発表している。

なお、この皇太子夫妻訪沖については同事件の犯人の所属する組織など以外にも、各種政治団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会や、全日本学生自治会総連合(全学連)・県学連などによる1000人単位のデモなどを行ったほか、沖縄入りした皇太子および同妃の自動車に空き瓶などを投げつけるなどのテロ(犯人は公務執行妨害で逮捕)に及んだが[40]、皇太子および同妃に怪我などはなく、つつがなく予定を終了した。皇太子は当時より沖縄に関心をよせ 琉歌を研究し、琉歌8首を発表している[41]

1976年(昭和51年)1月18日の海洋博閉会式にも揃って出席している。

1987年(昭和62年)にも、沖縄海邦国体を前に病臥した父・昭和天皇(昭和天皇が在位中の天皇として史上初めて沖縄を訪問する予定だった)の名代として沖縄を訪問し、同年10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇のことばを代読した。当時の西銘順治沖縄県知事は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う。」と談話を発表した。

天皇即位以降

1989年(昭和64年)1月7日、父・昭和天皇の崩御を受け、直ちに歴代3位の年長となる55歳で第125代天皇に即位[注釈 7](現行の皇室典範により、「践祚〈せんそ〉」と「即位〈そくい〉」が統合されたため、従前の「践祚」に相当)。同日、皇位継承の儀式(剣璽等承継の儀)を執り行い、翌8日、元号法に基づき「平成」に改元された。9日に執り行われた即位後朝見の儀では「国民とともに日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」との「おことば」を発した[42]

諒闇が明けた1990年(平成2年)の即位の礼に際して、京都御所京都府京都市上京区)から皇居東京都千代田区)へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行われ、同年11月12日に中心儀式である即位礼正殿の儀が執り行われた。祖父の大正天皇及び父の昭和天皇とも即位の礼を京都御所で挙行しており(即位礼紫宸殿の儀)、関東東京都)の地で即位した初めての天皇となる。同日、即位の礼「祝賀御列の儀」としてオープンカーでのパレードが行われ、皇居から赤坂御所までの4.7kmの道のりを、約12万人の市民が埋め尽くし平成時代(1989年1月8日 – 2019年4月30日)の天皇と皇后を祝福した。同年11月22日・23日、皇居内で大嘗祭が執り行われた。

1992年(平成4年)10月、中華人民共和国政府の招待で同国を訪問する[43]日中関係史中国大陸に渡ったのは歴代天皇で初の出来事であり[44]、生前の昭和天皇が希望していたことであったが[45]、当時の中国外交部長外務大臣)だった銭其琛は回顧録で「天皇訪中は六四天安門事件での西側諸国の対中制裁の突破口という側面もあった」と明かしている[46]

1999年(平成11年)に即位10周年を迎え、同年11月20日に「御即位十年をお祝いする国民祭典」が開催され、同日夜には二重橋で祝賀の声に応えた。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。

1993年(平成5年)には、父の昭和天皇が実現できなかった沖縄県行幸を自身の在位中で果たした。この折には皇后美智子(当時)とともに、予定になかったひめゆり学徒隊の慰霊碑への訪問を行った。2003年(平成15年)までに、47都道府県の日本全国の巡幸を達成した。

2009年(平成21年)11月12日、政府主催の「御在位二十年記念式典」・民間主催の「御即位二十年をお祝いする国民祭典」が執り行われた。

2009年(平成21年)12月15日、習近平中華人民共和国副主席(後の中国最高指導者)と会見。この会見の申請が、慣例の1か月前を切って行われたことから騒動となり、羽毛田信吾宮内庁長官が記者会見で政府・民主党政権・鳩山由紀夫内閣を批判する発言を行った(天皇特例会見)。

2011年(平成23年)3月16日、東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の発生とそれに伴う被害に鑑み、国民および被災者に対し異例のビデオメッセージを放送した[47]

譲位の意向

2016年(平成28年)1月2日
一般参賀
2019年(平成31年)4月30日
退位礼正殿の儀

2016年(平成28年)7月13日、NHKや『毎日新聞』が、天皇の位を生前に皇太子(次期皇位継承者)に譲る「生前退位譲位)」の意向を、宮内庁関係者に示したと一斉に報道[48][49]。諸報道によれば、天皇として「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」と考えており、「数年内の譲位を望んでいる」とされ[48][49]、「天皇自身が広く内外に『お気持ち』を表わす方向で、調整が進められている」とされた[48][49]。しかし、宮内庁の山本信一郎次長(当時、現・宮内庁長官)は、報道を受け、各社の取材に対して「そうした事実は一切ない。陛下は憲法上のお立場から、皇室典範や皇室の制度に関する発言は差し控えてこられた。」と報道内容を否定した[50]。8月8日、約11分間のビデオを通じて、自ら個人の「お気持ち」を『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば』として表明。自身が即位後、日々、天皇として望ましい在り方を模索して今日に至ったが、高齢になったため、全身全霊で象徴としての務めを果たしていくことが難しくなってきたと案じていることへの国民の理解を求めた[51][52]

2017年(平成29年)12月1日開催の皇室会議において、天皇退位の日が2019年(平成31年)4月30日に決定した。同8日、政府は同日付での退位を閣議決定した(第4次安倍内閣[53][54]

2019年(平成31年)2月24日、政府主催の「天皇陛下御在位三十年記念式典」が、皇后美智子との成婚60周年を迎えた同年4月10日には「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」が開催された。

在位中の2019年(平成31年)4月1日、元号法に基づき新元号「令和」が公表され、元号を改める政令に署名し、公布した[55]。なお、新元号が政府より事前発表されるにあたり、この影響で日本の情報システム業界では新規案件で元号を使用した機能の受注については、新規元号発表までは見合わせるか、西暦のみか、2018年(平成30年)までとするかで動きが分かれた。カレンダー業界は印刷発行と販売に多大なる影響が出ることを危惧していた[56][57]

退位の日である2019年(平成31年)4月30日の午後5時から、国事行為として退位礼正殿の儀が皇居宮殿正殿松の間で行われ、これが天皇としての最後の公務となった。

天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定により、明仁はこの日を以って退位し、翌5月1日午前0時に上皇となり、自身の第1皇男子である皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位した。同時に元号法の規定により、「平成」から「令和」に改元された。これにより2019年は、「平成31年(1月1日-4月30日)」と「令和元年(5月1日-12月31日)」という2つの元号が存在することとなった。

上皇として

天皇の退位等に関する皇室典範特例法第三条
前条の規定により退位した天皇は、上皇(読み:じょうこう)とする。
上皇敬称は、陛下とする。
上皇身分に関する事項の登録、喪儀及び陵墓については、天皇の例による。
上皇に関しては、前二項に規定する事項を除き、皇室典範(第2条、第28条第2項及び第3項並びに第30条第2項を除く。)に定める事項については、皇族の例による。

2017年(平成29年)6月9日の国会参議院本会議での議決により『天皇の退位等に関する皇室典範特例法』が成立し、7日後の16日に公布された。2019年(平成31年)4月30日に同法が完全に施行され、天皇の地位と職務は全て皇太子徳仁親王へと引き継がれた。明仁は、1868年(慶応4年/明治元年)の一世一元の制制定後、かつ憲政史上初めて譲位した天皇となった[注釈 8]

天皇退位特例法施行にともない、宮内庁には上皇と上皇后家政機関として「上皇職」が設置された。

上皇は公的な場に姿を見せることはなく、上皇后の美智子とともに私的な日本各地への訪問や芸術鑑賞などで日々を過ごす。 その中でも週一回は、皇居内の生物学研究所へ通い、魚類の研究を続けている[58]

86歳となった同年12月23日は、前年まで天皇誕生日(祝日)であったが、退位後は平日となり、翌年2020年(令和2年)より第126代天皇・徳仁の誕生日である2月23日が新たな天皇誕生日となった。

2020年(令和2年)1月2日、妻の上皇后美智子、天皇徳仁と皇后雅子および他の皇族らと共に、皇居での新年一般参賀に参加。退位後に初めて公の場で姿を見せた。

宮内庁は同年1月30日、上皇が29日午後6時半ごろ、私的外出ののち吹上仙洞御所に戻って約1時間後に倒れたと発表した。意識はしばらくして戻り、翌30日に宮内庁病院で頭部MRI検査と専門医による診察を受けたが、症状の原因となる所見は見られず、当面は経過観察を続けるとした。また同庁によると、上皇が倒れた際に上皇后が非常ブザーで侍医を呼んだ。上皇はいびきのような息づかいだったが、侍医の診察開始から間もなく意識を回復したという。夕食を取らずにそのまま就寝した。30日朝は通常通り朝食をとったという。2019年(令和元年)7月には脳貧血のため立っていられず、かがみ込む症状があった。宮内庁は、上皇の最近の体調に問題はなかったとし、仙洞仮御所(旧:高輪皇族邸)への引越準備に加え、ハゼ科魚類の研究や上皇后との日課の散策、読書などをして静かに過ごしているという[59]

同年3月31日に、上皇后と共に仮住居である仙洞仮御所(高輪皇族邸)に引っ越す。

喪儀及び陵墓の格式については、天皇と同様としている。従って、上皇の崩御に当たっては大喪の礼が執行され、天皇陵が造営されることになっている。

年譜

  • 1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、宮城(現・皇居)内産殿にて誕生。昭和天皇、香淳皇后第5子にして初の皇子(第1皇男子)。
  • 1940年(昭和15年)に学習院初等科に入学。
  • 1944年(昭和19年)、第二次世界大戦の戦火の拡大により疎開。
  • 1952年(昭和27年)11月10日、皇居仮宮殿表北ノ間にて立太子の礼並びに成年式。同日、大勲位に叙され、菊花大綬章を授与される。
  • 1959年(昭和34年)
    • 1月14日、正田美智子との納采の儀(婚約)。
    • 4月10日、皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀。
  • 1960年(昭和35年)2月23日に第1子、第1皇男子浩宮徳仁親王誕生。
  • 1965年(昭和40年)11月30日、第2子、第2皇男子礼宮文仁親王誕生。
  • 1969年(昭和44年)4月18日、第3子、第1皇女子紀宮清子内親王誕生。
  • 1975年(昭和50年)、沖縄県訪問。沖縄国際海洋博覧会に出席。ひめゆりの塔事件起こる。
  • 1989年(昭和64年/平成元年)
    • 1月7日午前6時33分、昭和天皇崩御。直ちに第125代天皇に即位。即位の礼最初の儀式・剣璽等承継の儀に臨む。「昭和」最後の日。
    • 1月8日、「平成」に改元。
    • 1月9日、即位後朝見の儀。即位後初めて「おことば」を発する。
    • 2月24日、昭和天皇斂葬の儀。新宿御苑において国葬・大喪の礼に臨む。
  • 1990年(平成2年)
    • 11月12日、皇居宮殿正殿にて即位の礼の中心的儀式・即位礼正殿の儀挙行。祝賀御列の儀。
    • 11月22日・23日、大嘗祭の中心的儀式・大嘗宮の儀斎行。

1991年(平成3年)2月23日(31歳)、皇太子徳仁親王の立太子の礼挙行。

  • 1992年(平成4年)10月、中華人民共和国訪問。
  • 1999年(平成11年)、在位10年を迎える。11月20日、「御即位十年をお祝いする国民祭典」開催。
  • 2000年(平成12年)
    • 6月16日、香淳皇后崩御。
    • 7月25日、皇淳皇后斂葬の儀。
  • 2005年(平成17年)11月12日、紀宮清子内親王と黒田慶樹が結婚。内親王皇籍離脱(黒田清子)。
  • 2009年(平成21年)、在位20年を迎える。11月12日、政府主催の「御在位二十年記念式典」・民間主催の「御即位二十年をお祝いする国民祭典」開催。
  • 2011年(平成23年)3月16日、東日本大震災に関し、ビデオメッセージを放送。
  • 2016年(平成28年)
  • 2017年(平成29年)
    • 6月9日、天皇退位特例法成立。6月16日、公布。
    • 12月1日、皇室会議において、退位の日が2019年(平成31年)4月30日に決定。
  • 2019年(平成31年/令和元年)
    • 在位30年を迎える。2月24日、政府主催の「天皇陛下御在位三十年記念式典」が、美智子との成婚60周年を迎えた同年4月10日には「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」が開催された。
    • 4月1日、新元号「令和」公表。元号を改める政令公布。
    • 4月30日、皇居宮殿正殿にて退位の礼挙行。天皇退位特例法が施行され、この日限り退位。「平成」最後の日。
    • 5月1日午前0時、皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位。「令和」に改元。明仁は上皇となる。
  • 2020年(令和2年)1月2日、退位後初めて一般参賀に姿を見せる。

逸話

1938年(昭和13年)10月、三輪車を漕ぐ幼少期の皇太子明仁親王(当時)

青年以降、皇太子時代

皇太子時代のMGM撮影所見学、1953年(昭和28年)