中部電力株式会社
種類 株式会社
略称 中電
本社所在地 日本の旗 日本
愛知県岡崎市籠田町16番地
設立 1930年(昭和5年)2月19日
解散 1937年(昭和12年)8月31日
東邦電力と合併)
業種 電気
事業内容 電気供給事業
代表者 藍川清成(会長)
杉浦英一(社長)
公称資本金 4635万円
払込資本金 3864万9000円
株式数 旧株:41万3600株(額面50円払込済)
新株:51万3400株(35円払込)
総資産 5693万7千円
収入 502万3千円
支出 322万5千円
純利益 179万7千円
配当率 年率8.0%
株主数 3418人
主要株主 東邦電力 (29.5%)、岡崎証券 (6.9%)、妻木電気 (5.4%)、杉浦商店 (3.6%)
決算期 3月末・9月末(年2回)
特記事項:資本金以下は1936年9月期決算による[1]
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中部電力株式会社(ちゅうぶでんりょくかぶしきがいしゃ)は、昭和初期に存在した日本の電力会社である。愛知県岡崎市に本社を置き、愛知県三河地方を中心に電気を供給した。

1930年(昭和5年)設立。1897年(明治30年)に開業した岡崎の電力会社岡崎電灯株式会社(岡崎電燈、おかざきでんとう)と東邦電力の事業の一部、それに岐阜県に存在した同名の中部電力(旧・多治見電灯所)を統合し、愛知・岐阜・静岡の3県に供給区域を広げた。1937年(昭和12年)に東邦電力と合併して消滅した。

1951年発足の中部電力の管内に存在した事業者であるが直接的な繋がりはない。同社と区別するためにしばしば「中部電力(岡崎)」と表記される。

概要

中部電力株式会社(以下、必要に応じて「中部電力(岡崎)」と記す)は、愛知県岡崎市に本社を置き、愛知県東部の三河地方静岡県西部の遠州地方岐阜県南東部の東濃地方へと電気を供給した電力会社である。1930年に設立され、同年8月、岡崎市を中心に西三河に供給した岡崎電灯、豊橋市を中心に東三河と静岡県遠州地方に供給した東邦電力豊橋営業所(旧・豊橋電気)、岐阜県東濃地方に供給した多治見の中部電力(旧・多治見電灯所。以下「中部電力(多治見)」と記す)の3つを統合した。

前身のうち岡崎電灯は、岡崎の実業家らによって設立され、1897年(明治30年)に開業した。1907年(明治40年)には合資会社から株式会社に改組し、西三河一帯へと供給区域を拡大。1920年代には供給区域外の東三河や遠州地方にも進出した。その勢力は岐阜県にも及び、1924年(大正13年)には多治見電灯所と提携して同社を基に中部電力(多治見)を設立している。この岡崎電灯と、中京地方を地盤とする大手事業者の東邦電力との間には、1920年代を通じて合併への動きがあったが、1930年になって電力の受給関係が生じたことから進展し、両社の事業再編の結果中部電力(岡崎)の成立をみた。

中部電力(岡崎)成立後、同社は東邦電力との連携をより緊密化し、最終的に7年後の1937年(昭和12年)8月に東邦電力へと吸収合併された。その東邦電力も1942年(昭和17年)に解散しており、中部電力(岡崎)が供給していた地域はその後の再編を経て1951年(昭和26年)以降中部電力の営業区域の一部となっている。

岡崎電灯の沿革

以下、岡崎電灯の沿革について、中部電力(岡崎)との合併に至る経緯を除いて記述する。

合資会社設立と創業者

日本で最初の電気事業者である東京電灯1886年(明治19年)に開業してから4年目の1889年(明治22年)、愛知県名古屋市において名古屋電灯が開業して中部地方でも電気の普及が緒に就いた。愛知県内では豊橋市の豊橋電灯(後の豊橋電気)が1894年(明治27年)に開業してこれに続いた。

豊橋電灯の事業に参加していた人物に、大岡正(おおおか まさし、1855 - 1909年)という電気技師がいた[2]。大岡は1895年(明治28年)、愛知県の岡崎を訪れ、地元有力者に対して岡崎でも電気事業を起業しないかと勧誘して回った[3]。この勧誘に応じて立ち上がったのが、杉浦銀蔵・田中功平・近藤重三郎の3名であった[3]。この3名が岡崎電灯の創業者である[2]

岩津発電所(2005年撮影)。建屋は建設当初からのものではない。

創業者のうち杉浦銀蔵(2代目、1847 - 1899年)は籠田町にて呉服商「沢津屋」を営み、家業以外にも1880年代以降桑園や織布工場の経営、洋風瓦の製造などを手がけていた[2]。田中功平(1845 - 1916年)は籠田町にて旅館「丸藤旅館」を経営し、こちらも雲母採掘業など新規事業に手を出していた[2]。近藤重三郎(1852 - 1910年)は岡崎で味噌醤油醸造業「伊勢屋」を営むとともに政界とも繋がりを持った人物である[2]。この3名の出資により1896年(明治29年)、資本金3万円で「岡崎電灯合資会社」が設立される[3]。設立に際し、電気事業に理解がない時代のことで融資に応ずる者がいないため、3名は家財や土地を売り払って3万円を調達したという[3]

水力発電所を建設する適地を物色した結果、郡界川矢作川水系巴川支流)の上流部、奥殿村日影(現・岡崎市日影町)に落差が60尺(約18メートル)あり水量も豊富な地点を発見、ここに発電所を建設することとなった[4]。工事中も資金繰りや技術面につき問題があったが、1897年(明治30年)7月、アメリカペルトン水車三吉電機工場製50キロワット発電機各1台を備えた岩津発電所が完成[4]。発電所から籠田町の杉浦銀蔵宅まで4里(約16キロメートル)の間に配電線を引き、屋敷の回りを見物客が取り囲む中で電灯の点灯試験に成功した[3]。試験成功を受けて500灯以上の供給申し込みがあり、同年7月25日に岡崎電灯は開業式を開くに至った[3]。発電力が小さいためこの程度の需要で十分であったが、当時は10灯1灯あたり月額58銭という電灯料金であり、従来の照明に比べて贅沢品であった[5]

株式会社化

1910年代後半における矢作川水系の発電所位置図。
岡崎電灯が建設したのは、岩津(1897年)・東大見(1911年)・賀茂(1914年)・足助(1919年)の4か所。
工事中の発電所(1910年)

開業に至った岡崎電灯は市内へ配電線をさらに延長する必要があったが、資金不足は続いており、創業者3名のうち田中功平・近藤重三郎は杉浦銀蔵に対して向こう6年半経営を委任するとして岡崎電灯から一旦退いた[6]。委任経営は1898年(明治31年)1月より始まるが[5]、杉浦としても資金がないので、岡崎有数の資産家である早川休右衛門に支援を要請[6]。早川の後援を得ると市内全域への配電線の延長が可能となり、翌1899年(明治32年)には供給灯数が1,300灯に達して発電所の増設が必要となった[6]。各地からの見学者も増え、鳥取県の有力者が視察後に地元電気事業の共同発起を申し込むこともあったという[6]。1899年10月に杉浦銀蔵が死去すると養継嗣が襲名(3代目)してそのまま経営を継承し、家業の呉服商を廃業して専念した[6]

1900年(明治33年)に発電所の増設が完成すると岡崎市付近と発電所付近に供給を拡大[6]。特に製糸・製布業者からの申し込みが多く、拡張した供給力もやがて消化して1906年(明治39年)には供給灯数2,600灯を数えた[6]。電灯需要の一方で動力用電力の需要は小さく、1898年に岡崎の米屋が水車のかわりに電動精米機を取り付けて使用したのが最初の事例である[6]

岡崎電灯の水力発電事業成功を受けて岡崎以外でも電気事業を起業しようという動きがあり、同じ三河地方の西加茂郡では同地の今井磯一郎に岡崎電灯関係者(杉浦・田中・近藤の3名と大岡正)が加わって1901年3月に三河電力株式会社を設立、矢作川支流の田代川(西加茂郡小原村)に発電所を建設することとなった[7]。本社は岡崎の岡崎電灯社内に置かれた[7]。翌1902年(明治35年)9月、小原発電所(出力200キロワット)が完成し、東春日井郡瀬戸町(現・瀬戸市)への供給が開始された[7]。同社は後に名古屋市へと進出して東海電気へと改称し、既存の名古屋電灯に対して競争を仕掛けるが、1907年(明治40年)6月名古屋電灯に吸収されている[8]

一方岡崎電灯は、日露戦争後の好況に乗じて事業の拡大を図り、1907年7月、資本金3万円の合資会社から資本金50万円の株式会社組織として「岡崎電灯株式会社」に改組した[5]。取締役には杉浦銀蔵・田中功平・近藤重三郎、監査役には早川休右衛門らが就任[5]1909年(明治42年)には巴川支流神越川に水利権を得て、周到な準備の下に東大見発電所(出力500キロワット)を着工[9]。工事は京都帝国大学を卒業したばかりの高石弁治が主任として担当した[9]。同発電所が1911年(明治44年)3月に竣工すると三河一帯への供給を図り、西三河の東加茂・西加茂・碧海幡豆宝飯の各郡に供給区域を獲得する[9]。さらに知多郡への進出も狙ったが、半田方面は地元有力者(知多電灯)に供給が許可されたため東浦村(現・東浦町)のみの供給に留まった[10]

1908年(明治41年)2月、巴川上流部に旧東海電気が建設していた巴川発電所(出力750キロワット)が名古屋電灯の手により完成し、名古屋方面への送電が開始された[7][11]。同社はさらに神越川で賀茂発電所(出力450キロワット)の建設を計画したが、この水利権を1911年7月に岡崎電灯へと譲渡している[7]。水利権を譲り受けた岡崎電灯では、需要増加により再び供給力が不足するようになったことから1913年(大正2年)に資本金を倍額の100万円とし、翌1914年(大正3年)に賀茂発電所を建設した[9]

電力不足

賀茂発電所が完成した当時は第一次世界大戦が勃発した頃で商工界があまり振るわず、電気の需要も見込みどおりではなく営業成績は良好とはいえなかったので、発電所を建設しすぎたという声もあった[12]。ところが間もなく大戦景気が訪れると三河地方でも三河木綿をはじめ諸商工業が活況を呈するようになり、電灯・電力ともに需要が急増し始める[12]1915年(大正4年)末には電灯供給数約3万5000灯、電力供給約950馬力に増加し、電灯・電力需要ともに前年末よりも1.2倍増となった[12]。この需要増加に応ずるため1915年より新水力発電所(足助発電所、出力1,565キロワット)の建設に着手するが、水力発電所の建設には長期間を要するためとりあえず岡崎市八帖町火力発電所(岡崎発電所、出力600キロワット)を着工[12]。発電所建設資金として1918年(大正7年)8月に資本金を210万円へと増資している[12]

岡崎発電所はアメリカ・ウェスティングハウス・エレクトリックに注文していた設備が大戦の影響で到着が遅れたため予定より遅い1918年秋の発電開始となった[12]。翌1919年(大正8年)秋には足助発電所も完成している[12]。2つの発電所の新設により発電力は1,075キロワットから3,240キロワットに上昇したが[13]、1919年下期には電灯供給数約7万1300灯、電力供給約1900馬力に達し、供給力不足は続いた[12]。1919年から翌1920年(大正9年)にかけてが需要増加のピークで、連日動力用電力の供給申し込みが殺到するものの供給力の制約から抽選にて需要家を決定するという状況に陥ってしまう[5]。そのため被供給権に1馬力あたり200円前後の権利がついて需要者間で闇転売される、という事態まで発生した[5]

足助発電所の完成に先立つ1916年(大正5年)2月、巴川上流部に巴川発電所(出力1,500キロワット、前述の名古屋電灯巴川発電所とは別)が完成していた[14]。ただしこれは静岡県浜松市などを供給区域とする日英水電の発電所で、その発生電力は地元西三河ではなく浜松へと送電された[14]。大戦勃発後は浜松でも電力不足が生じており、日英水電は新たな電源を求めて西三河へと進出してきたのであった[14]。また矢作川の上流部や上村川では福澤桃介(当時名古屋電灯社長)のグループが水利権を獲得し、これを開発すべく1919年3月に矢作水力を設立した[15]。同社は1920年12月に下村発電所(出力4,200キロワット)を完成させたのを皮切りに、順次矢作川水系での電源開発を進めていく[16]。当初の計画では名古屋方面の工場へと電力を供給する計画であったが、電力不足に悩む西三河地方に着目し、同地方の工業動力用電力供給に参入、1921年(大正10年)1月に岡崎市や蒲郡方面にて電力供給区域を設定した[17]。これにより日清紡績岡崎工場をはじめとする岡崎周辺の工場や蒲郡方面の織布工場が矢作水力の需要家となった[17]

矢作水力という競合会社の出現に、供給力不足の岡崎電灯は不利な条件で同社からの電力購入を契約せざるを得なくなった[10]。受電は1921年秋より620キロワットで開始[18]。これに加え、名古屋電灯から先に買収していた小原発電所を325キロワットの発電所に改修した[18]。同年下期には電灯供給数約12万5000灯、電力供給約5300馬力という供給成績を挙げるが供給力不足は依然続いており、翌1922年(大正11年)1月天竜川に発電所を持つ天竜川水力電気(直後に東邦電力へ合併)から1000キロワットの受電を開始し、同年春には大浜火力発電所の建設に着手するとともに岡崎火力発電所の増設(600キロワット)を完成させた[18]

経営面では、1920年4月に碧海郡の碧海電気(詳細後述)を合併し資本金を232万円とした上で、同年10月に一挙に500万円へと増資した[12]。翌1921年には副業として経営していた植林・製材・電柱製作などの事業を分離し岡崎殖産を設立[18]。1922年1月には幡豆郡の平坂電気(詳細後述)を合併して515万円に増資し、同年秋倍額の1050万円へと増資している[5]

供給の広域化

碧南市の石川鋳造構内に残る旧大浜火力発電所建屋(2019年撮影)

1924年(大正13年)1月、岡崎電灯は5番目の水力発電所として百月(どうづき)発電所の建設に着手し、同年2月には建設中の大浜火力発電所(出力4,000キロワット)を竣工させた[18]。ここに至りようやく供給力不足は解消し、逆に余力を生ずるようになる[18]。そして大口供給先を開拓するという経営方針を打ち出し、供給区域外の地域に進出して1月より渥美電鉄、6月より三河セメント(渥美郡)への供給を開始、東三河への進出を果たした[18]。また岐阜県にも進出し、多治見の電気事業者多治見電灯所(合名会社)と提携、同社を基礎として資本金200万円の中部電力(多治見)を設立した[18]。岡崎電灯は同社の株式の半数を握っており、翌1925年(大正14年)には同社への電力供給も開始している[18]

岡崎電灯はほかの電力会社が負荷率の低さから供給を渋る電気鉄道への電力供給を積極的に行った[18]。渥美電鉄以外にも1925年6月三河鉄道、7月豊橋電気軌道、9月豊川鉄道鳳来寺鉄道[18]、さらに1926年(大正15年)春より碧海電気鉄道と供給開始が続いた[19]。電灯供給についても積極化し、秋にははじめての高燭化(燭光数の高い明るい電灯への変更)の勧誘を実施、一気に供給燭光数30万燭の増加をみた[18]。1925年下期の時点で、電灯供給数は約21万4200灯、電力供給は約1万1200馬力に及んだ[18]

1926年3月、百月発電所(出力5,280キロワット)が完成し、1927年(昭和2年)5月には大浜火力発電所の増設(出力6,000キロワット追加)も竣工した[19]。また1923年に株式の半数を持って水窪川(静岡県)開発のために水窪川水力電気という発電会社を設立していたが[20]、同社からの受電が1928年(昭和3年)2月より始まった[19]。これらにより供給力不足の懸念は消滅し、営業方面への集中が可能となった[19]。なお、水窪川水力電気は岡崎電灯への電力供給に際し、豊橋市郊外の玉川変電所(1927年7月設置)構内に自社変電所を設置し、西渡発電所から同変電所まで77キロボルト送電線を架設、変電所で33キロボルトに降圧して岡崎電灯へ送電した[21]

1926年10月、浜松の日清紡績北浜工場への供給を開始し、県境を越えて静岡県へと進出した[19]。浜松方面は当時東邦電力傘下の東京電力(旧・早川電力、早川電力時代に日英水電を吸収)がほぼ供給を独占していたが、日清紡績に水窪川水力電気の株式を引き受けてもらい岡崎電灯経由で送電するという提携が成立したため供給が可能となった[19]。次いで1928年3月には同じ浜松方面の遠州電気鉄道への供給も開始している[19]。また電灯の高燭化勧誘を継続し、1927年春2度目の勧誘により50万燭増加、1928年春には3度目の運動により70万燭増加という好成績を挙げた[19]

1927年(昭和2年)1月、岡崎殖産の合併とともに増資し資本金を2300万円とした[18]。供給実績は1930年上期の時点で電灯供給数約26万7900灯・電力供給2万馬力以上であった[19]

中部電力(岡崎)の展開

以下、岡崎電灯との合併の経緯を含めた中部電力(岡崎)の沿革について記述する。

東邦電力の成立

東邦電力社長松永安左エ門

明治後期から昭和初期にかけて岡崎市とその周辺にて岡崎電灯が独立して電気事業を経営している間に、周辺地域では事業の再編が進んでいた。

愛知県東部の豊橋市では、岡崎電灯の開業に先立つ1894年(明治27年)に豊橋電気(旧・豊橋電灯)が開業し、宝飯郡渥美郡など豊橋周辺へ順次供給区域を拡大していた[22]。また静岡県浜名郡のうち浜名湖以西の地域(2010年以降の湖西市域に相当)に供給する西遠電気を合併し、供給は静岡県西部にも及んでいた[23]1921年(大正10年)4月、豊橋電気は名古屋電灯と合併し、同社豊橋営業所となった[24]

豊橋電気を合併した名古屋電灯というのは、1889年(明治22年)、愛知県名古屋市にて開業した電力会社である[25]岐阜県長良川発電所や木曽川発電所(後の八百津発電所)を建設するなど順次事業を拡大し[26]、1920年代に入ると周辺事業者の合併を推進、豊橋電気を含む愛知県や岐阜県の事業者6社を立て続けに合併した[27]。さらに1921年10月には名古屋電灯と奈良県関西水力電気の合併が成立し関西電気が発足する[28]。この関西電気も引き続き周辺事業者の合併を推進し、1922年(大正10年)5月には九州地方の電力会社九州電灯鉄道を合併[29]。同年6月、社名を東邦電力株式会社とした[30]

成立の過程で東邦電力は天竜川に発電所を構える天竜川水力電気を合併し[29]浜松方面における日本楽器製造(現・ヤマハ)や繊維会社などへの電力供給を引き継いでいる[31]。この浜松周辺における事業も東邦電力豊橋営業所の管轄であった[32]

岡崎電灯統合への動き

1930年代後半における矢作川水系の発電所位置図。

周辺地域における電気事業再編の結果、岡崎電灯の供給区域は東邦電力の名古屋・豊橋両区域の間に挟まれる形となった[33]。東邦電力側から見ると、送電や経営の面でこの地域の整理は懸案であった[33]。一方岡崎電灯側でも、一部の重役から孤立した状況に対して不満の声が上がっていた[34]1925年(大正14年)11月、東邦電力との合併を支持する岡崎電灯取締役中村慶助が、両社の間で合併仮契約の調印を済ませたと発表する[35]。その内容は、合併に際して岡崎電灯の株主に対し同社株式1株につき東邦電力株式を1.3株の割合で交付する、というものである[35]。しかし社長の杉浦銀蔵らは合併不可論を唱え、同社重役会議にて投票の結果反対多数で合併せずと決まった[35]

東邦電力は豊橋区域において、長篠発電所をはじめとする豊川の発電所(3か所、出力計2,050キロワット)と他事業者の受電電力を電源として供給しており、名古屋区域とは別個の電力系統であった[31]。1925年に東京電力(旧・早川電力)への送電を目的として名古屋火力発電所(名古屋市)から浜松変電所へと至る浜松送電線(70キロボルト送電線)が架設[36]されたのち、1927年(昭和2年)8月途中に豊橋変電所が新設されて豊橋区域と名古屋区域の連系が成立した[31]。一方で、東邦電力名古屋・豊橋両区域と岡崎電灯区域を連系するのは、東邦電力側が電気の周波数を60ヘルツとしているのに対し岡崎電灯区域が50ヘルツに設定していたことで、技術的な困難があった[33]

越戸発電所取水用の越戸ダム(2005年撮影)

矢作川本流において、東邦電力系列の三河水力電気が建設していた越戸発電所(出力7,500キロワット)が1929年(昭和4年)12月より運転を開始した[37]。同発電所建設中の同年4月[33]、東邦電力と岡崎電灯の間で、東邦電力が越戸発電所から受電する電力のうち4,600キロワットを岡崎電灯が受電する、という電力受給契約が成立[38]。次いで、岡崎電灯が周波数を東邦電力と同じ60ヘルツに統一した上で最大1万キロワットの電力を融通する、という電力融通契約も締結された[33]。周波数変換工事は1929年春より順次行われ、越戸発電所からの送電開始(1930年3月)を挟んで1931年(昭和6年)春までにすべて完了した[38]

東邦電力・岡崎電灯の間で電力受給・融通契約が締結されるなど連系が深まり両社の関係が緊密化すると、再び三河地方における事業統一の機運が生じ、両社で統合への交渉が行われることとなった[33]

中部電力の成立過程

三河地方の電気事業を統一するにあたり、単純に東邦電力が岡崎電灯を合併する、反対に東邦電力が豊橋区域を岡崎電灯へ譲渡する、という方法も検討されたが、新会社「中部電力株式会社」を設立して東邦電力豊橋区域を統合し岡崎電灯を合併する、という中間的な方法を採ることに決まった[33]

新会社・中部電力は15名の株主による資本金1300万円の出資によって設立され1930年(昭和5年)2月19日に創立総会が開催された[33]。中部電力の本店は岡崎市で、東邦電力から松永安左エ門や宮川竹馬らが役員に入った[33]。次いで翌20日、中部電力と岡崎電灯の間で合併契約が締結される[33]。合併に際して中部電力を存続会社とし、岡崎電灯は解散するものとされた[33]。この合併により中部電力は資本金を2645万円増資(新資本金3945万円)して新規発行株式を岡崎電灯株主に対して同社株式1株につき1.15株の割合で交付することとなった[33]。合併契約は同年3月12日に株主総会にて承認[39]。同日東邦電力でも株主総会が開かれ、豊橋営業所管内における電気事業一切の中部電力への譲渡が決定した[33]。譲渡資産の金額は906万円余りである[33]

1930年4月7日、中部電力はさらに中部電力(多治見)の合併を株主総会にて決定した[38]。この合併により中部電力は資本金を440万円増資(新資本金4385万円)して新規発行株式を中部電力(多治見)の株主に対して同社株式1株につき2.2株の割合で交付することとなった[38]。同社は岐阜県土岐郡多治見町(現・多治見市)にあり、土岐郡や可児郡恵那郡に供給区域を広げていた[38]。多治見の雑貨商加藤嘉平とその弟乙三郎(先代)が1906年(明治39年)に創業した電気事業が起源で、合名会社多治見電灯所となった後[40]、多治見電灯所を基礎として岡崎電灯が資本参加して1924年資本金200万円の中部電力(多治見)に改組[18]。合併当時は岡崎電灯社長の杉浦銀蔵が同社社長でもあった[38]

中部電力・岡崎電灯の合併期日は契約上1930年7月1日付とされていたが、当局からの合併認可が7月31日にずれ込んだため[39]、両社の合併と東邦電力豊橋営業所管内事業の統合は8月1日に実施された[41]。中部電力(多治見)の合併は8月25日に行われている[41]。同日付で中部電力にて合併報告総会が開催され、中部電力の新重役が決定[39]。社長に杉浦銀蔵、副社長に高石弁治、常務に杉浦英一がそれぞれ就任した[41]。杉浦銀蔵は岡崎電灯社長、高石は同社副社長で[42]、杉浦英一は東邦電力豊橋営業所長であった[39]

発足後の中部電力

明知川発電所(2008年)

発足直後の時点で、中部電力は愛知・静岡・岐阜3県の104市町村を供給区域とし、水力発電所14か所(出力計1万4624キロワット)、火力発電所2か所(同1万1200キロワット)と受電電力を電源として、約46万3800灯の電灯と約2万7500キロワットの電力を供給していた[38]。発足後の中部電力は供給区域の拡張および需要開拓に努め[38]、水力電源の増強にも注力した[43]

中部電力時代に完成した発電所としては、1934年(昭和9年)11月に運転を開始した阿摺(あすり)発電所(出力4,000キロワット)、翌1935年(昭和10年)7月に運転を開始した明知川発電所(明智川発電所、出力1,000キロワット)がある[44][45]。さらに、1934年2月に水窪川水力電気を合併し、1936年(昭和11年)2月には天竜電気を合併した[43]。前者は西渡発電所(出力2,400キロワット)、後者は気田発電所(出力2,437キロワット)を運転し、いずれも中部電力へ電力を供給していた[38]。また1934年12月には伊藤専一の個人事業を譲り受けている[38]

受電電力の増強としては、第二富士電力(富士電力の傍系会社、1936年3月同社が吸収)からの受電開始が挙げられる。第二富士電力は大井川にて湯山発電所を建設した発電会社で、中部電力は建設中の段階で同社と電力受給契約を締結し、出力全部を受電するとともに自社で発電所から自社変電所まで送電線を建設することとなった[46]。1935年3月に湯山発電所は出力2万4000キロワットで竣工し、同時に中部電力への供給が開始された[46]。湯山発電所からは、西渡発電所に至る約43キロメートルの間に77キロボルト送電線が架設され、既存送電線によってさらに豊橋市郊外の玉川変電所へ送電された[21]。また年内に玉川変電所から岡崎市の八帖変電所へ至る送電線の77キロボルト昇圧工事が実施され、岡崎方面への送電も行われた[21]

上記のように増強された電源に対して、電力の供給先としては、1934年時点では日本レイヨン岡崎工場(現・ユニチカ岡崎事業所)、日清レイヨン岡崎工場(後の日清紡績美合工場)、内外綿安城工場などと契約していた[47]

経営面では、1930年8月より社長を務めていた杉浦銀蔵が1933年(昭和8年)11月に退任し、中西四郎が後継社長に就任した[42]。中西は元逓信省電気局長で、前身岡崎電灯の顧問を1929年より務めていた[19]。翌1934年10月、中西に代わって副社長の高石弁治が社長に昇格し、あわせて藍川清成名古屋鉄道社長)が会長に就任[42]。1936年12月には高石に代わって杉浦英一が社長となった[42]

東邦電力への合併

会長に就任した藍川清成

中部電力は設立以来東邦電力と緊密な関係を保ち、技術面では電力の受給地点が6か所となって両社はほとんど同一の電力系統を形成した[48]。また発足当初は岡崎電灯が発展した会社という色彩が強かったが、次第に東邦電力の影響力が強くなっていったという[5]。そして1937年(昭和12年)5月13日、両社は合併契約を締結するに至った[48]。東邦電力が中部電力の合併に踏み切った背景には、当時具体化されつつあった電力国家管理政策に対抗する思惑があった。

東邦電力を経営する松永安左エ門は、1920年代から電力業界の統制を訴えていた人物であった[49]。その主たる主張は、技術面では広大な地域の発電所を送電線で連系し発電力の過不足を調整するという「超電力連系」と、建設費が水力発電に比して安い火力発電を活用して供給を補うという「水火併用」であり、経営面では全国を数ブロックに分割し一つの地域には一つの事業者が独占的に供給する「一区域一会社主義」というものであった[49]。これらの主張はただちに現実化するものではないため、まずは周辺地域の事業者と送電連系し供給力を相互補給する「電力プール」の形成を優先し、主張の具体化を始めた[49]。中部電力の設立や、それに前後して行われた合同電気との提携、九州での送電連系はその一環である[49]

松永の経営面におけるもう一つの主張が、政府の規制強化とあわせた民有民営のままでの業界統制である[49]。業界の自主統制が進展するならば、豊富で低廉な電気を供給する上では民営の方が有利であると訴えていた[43]。松永の主張に対し、時代が昭和に入ると電力国営論が台頭し1936年3月に広田弘毅内閣が発足すると逓信大臣頼母木桂吉の下で逓信省が電力国家管理政策を主導するようになる[50]。民間電力会社に発送電設備を出資させて特殊会社を新設し、同社を通じて政府自ら発送電事業を経営する、という「民有国営」の方向で国家管理政策は具体化され、10月には「電力国策要綱」が閣議決定されるところまで進んだ[50]。内閣総辞職により成立しなかったが、翌1937年1月には関連法案が帝国議会へと上程された[50]

この電力国家管理政策の動きに対抗するため、松永は業界の自主統制を具体化する必要に迫られた[43]。そこで従来からの主張である「一区域一会社主義」を実現させるため、東邦電力による周辺事業者の自主統合を始める[43]。その中で1937年に、東邦電力は合同電気と中部電力の2社を相次いで吸収したのであった[43]

合併実施とその後

1937年5月に締結された東邦電力と中部電力の合併契約による合併条件は以下の通り[48]

  • 存続会社を東邦電力とし、中部電力は合併により解散する。
  • 東邦電力は資本金を3300万円増資し、額面50円全額払込済株式66万株(払込金額計3300万円)を発行する。
  • 東邦電力は新規発行の上記株式を中部電力の株主に対して交付する。その割合は中部電力の株式1株につき1株。
  • 東邦電力は中部電力の株式を26万7000株保有するが、これに対しては東邦電力新株を割り当てず消却する。
  • 合併期日は8月31日とする。

両社の合併は契約どおり1937年8月31日付で実行に移され[51]、ここに中部電力は消滅した。合併時、中部電力の資本金は4635万円(全額払込済み)であった[48]

電力国家管理政策実現への動きは合併成立後に進展し、1938年(昭和13年)に「電力管理法」と関連法が公布・施行されるに至る[50]。これにより、既存の電気事業者から火力発電所と主要送電線を出資させて国策会社「日本発送電株式会社」を設立、同社を通じて電気事業を政府が管理する、という体制が1939年(昭和14年)4月1日をもってスタートした[50]。その後さらなる国家管理の強化が提唱され、1940年(昭和15年)7月、水力発電設備を含む主力発送電設備を日本発送電に帰属させて国家管理を強化するとともに、全国を数地区に分割して一つ地区につき一つの国策配電会社を設立する、という方針が決定する[52]。これに基づいて日本発送電への発送電設備出資が1941年(昭和16年)10月1日と翌1942年(昭和17年)4月1日に実行に移され、配電統制令に基づく国策配電会社9社の設立も1942年4月1日に実施された[52]

電力国家管理政策に関連して、東邦電力は1939年4月・1941年10月・1942年4月の3度にわたって日本発送電へと設備を出資[53]。さらに1942年4月には、配電会社9社のうち中部配電関西配電四国配電九州配電の4社に対しても設備を出資した[53]。この際、旧中部電力に関連する発電所や供給区域は日本発送電ないし中部配電に引き継がれている。各社に設備を出資して電気事業を喪失した東邦電力は1942年4月1日をもって解散、消滅した[53]

業績推移表

1930年度より1936年度までの各年度の収入・支出・純利益と配当率の推移は下表の通りである[54]決算期は3月末と9月末。収支のほか電灯・電力の供給実績も併記したが、このうち供給電力の単位については馬力キロワット (kW) が混在している。

年度 収入
(千円)
支出
(千円)
純利益
(千円)
配当率
(%)
取付電灯数
(灯)
供給電力
1930下 2,293 1,236 1,057 10.0 463,813 15,557馬力
15,944kW
1931上 3,352 1,940 1,411 9.0 460,451 30,771馬力
1931下 3,218 1,886 1,332 9.0 456,383 36,764馬力
1932上 3,269 1,990 1,279 8.5 460,232 37,220馬力
1932下 3,235 2,053 1,181 8.0 461,022 36,759馬力
1933上 3,370 2,172 1,198 8.0 478,717 34,565kW
1933下 3,485 2,290 1,195 8.0 470,536 46,943馬力
1934上 3,873 2,571 1,301 8.0 466,045 48,947馬力
1934下 3,893 2,527 1,365 8.0 477,327 55,196馬力
1935上 4,164 2,704 1,460 8.0 482,277 62,644馬力
1935下 4,402 2,804 1,597 8.0 492,176 71,587馬力
1936上 4,842 3,112 1,730 8.0 499,158 73,275馬力
1936下 5,023 3,225 1,797 8.0 510,511 78,722馬力

被合併会社の沿革

岡崎電灯および中部電力(岡崎)が合併した電力会社のうち、中部電力(多治見)以外の4社、碧海電気・平坂電気・水窪川水力電気・天竜電気の4社について以下に詳述する。

碧海電気株式会社
愛知県碧海郡では、岡崎電灯の手によって1911年(明治44年)1月より安城町(現・安城市)、翌年2月より刈谷町(現・刈谷市)・知立町(現・知立市)と順次電気の供給が開始されていったが[55][56][57]、岡崎から離れた南西部の地域、大浜町棚尾村新川町(現・碧南市)ならびに高浜町(現・高浜市)の一部は岡崎電灯ではなく碧海電気の供給区域に含まれた[58][59]。同社は1911年12月大浜町に資本金20万円で設立され[60]、翌1912年8月4日付で開業した[58]。開業当初は大浜町に吸入式ガス機関を原動機とする出力67.5キロワットの内燃力(ガス力)発電所を設置していたが[58](大浜発電所、廃止時期不詳[61])、1919年末時点では岡崎電灯からの受電200キロワットのみを電源とする[59]。また当初の代表者は才賀藤吉であった[58]
1920年(大正9年)4月に岡崎電灯へ合併された[12]
平坂電気株式会社
愛知県幡豆郡では、岡崎電灯により1911年12月より西尾町(現・西尾市)で電気の供給が始まるが[62]、西部の平坂(へいさか)村および寺津村(現・西尾市)は初め平坂電気の供給区域に含まれた[58][59]。同社は1912年9月16日、幡豆郡内の資産家が資本金10万円を出資して平坂村に設立[63]。翌1913年(大正2年)4月5日に供給を開始し、20日開業式を挙行した[63]。碧海電気と同様、吸入式ガス機関を原動機とする出力20.9キロワットの平坂発電所を平坂村大字楠村に設置していたが[58](発電所廃止時期不詳[61])、1919年末時点では岡崎電灯からの受電30キロワットのみを電源とする[59]
1922年(大正11年)1月に岡崎電灯へ合併された[5]
水窪川水力電気株式会社
渥美の豊橋電気で専務を務める今西卓が岡崎電灯へ話を持ち込んだ天竜川水系水窪川(静岡県)の共同開発に関し、その開発会社として岡崎電灯の半額出資で1923年(大正12年)に設立された[20]。資本金は300万円[38][64]。豊橋電気社長の武田賢治が社長を兼ね、今西卓が専務を務める[64]。本社を東京市京橋区(現・東京都中央区)に、支社を豊橋市に構えた[65]
水窪川の西渡発電所は静岡県磐田郡山香村(現・浜松市天竜区)に建設[64]。用地買収の難航から着工が遅れたため1928年(昭和3年)1月末になってようやく竣工する[64]。出力は2,400キロワットで[38]、発生電力は地元配電分を除き岡崎電灯へ送電された[65]
1934年(昭和9年)2月、中部電力(岡崎)へ合併された[43]
天竜電気株式会社
1923年7月、幡豆郡横須賀村(現・西尾市)に設立[66]。同村の有力者榊原信一郎が社長を務める[66]。資本金は150万円[38]。静岡県周智郡気多村(現・浜松市天竜区)にあった旧王子製紙気田工場の水力設備を村から引き取り[67]、これらを改修して工場跡に気田発電所を建設し1925年(大正14年)1月に開業した[66]。出力は516キロワットで、岡崎電灯を中心に犬居村と気多村の村営電気事業へ送電した[66]
工場跡の発電所は洪水被害が多発したことから、1929年(昭和4年)6月、取水堰・発電所を変更した新発電所を新設した[66]。新しい気田発電所の出力は2,437キロワットである[66]

岡崎電灯