1959年の世界の様子(色分け)
(ワインレッド = ワルシャワ条約 (WT) 加盟国
朱色 = ソ連の他の同盟国(東側諸国)
青紺色 = 北大西洋条約 (NATO) 加盟国
空色 = アメリカの他の同盟国(西側諸国)
緑 = 植民地
灰色 = 非同盟諸国
冷戦の多様化―1980年の世界(色分け)
(ワインレッド = ワルシャワ条約機構加盟国 (WTO)
赤 = 同条約加盟国以外の東側諸国
朱色 = 共産主義国家以外のソ連よりの諸国
紺 = 北大西洋条約機構 (NATO) 加盟国
青 = 同条約加盟国以外の西側諸国
空色 = 非同盟諸国永世中立国
赤い点 = 反資ゲリラ運動発生地域
青い点 = 反共ゲリラ運動発生地域
アメリカは1945年から1992年の間に公式で計1,054回の核実験を実施した

冷戦(れいせん、: Cold War: Холодная война)もしくは冷たい戦争(つめたいせんそう)は、第二次世界大戦後の世界を二分した西側諸国アメリカを盟主とする資本主義自由主義陣営と、東側諸国ソ連を盟主とする共産主義社会主義陣営との対立構造。米ソ冷戦東西冷戦とも呼ばれる。

冷戦
戦争:冷戦
年月日:1945年~1989年
場所アジア中東ヨーロッパ北アメリカなど
結果:マルタ会談により終結
交戦勢力
西側諸国

(下記参照)

東側諸国

(下記参照)

冷戦

語源

1945年から1989年までの44年間続き、アメリカ合衆国ソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力火力)で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。「冷戦」という語は、ジョージ・オーウェルジェームズ・バーナムの理論を評した時に使っており[1][2][3]、後にバーナード・バルークも使い[4]、アメリカの政治評論家ウォルター・リップマン1947年に上梓した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。

各陣営とも構成国の利害損得が完全に一致していたわけではなく、個別の政策外交関係では協力しないこともあったなど、イデオロギーを概念とした包括的な同盟・協力関係である。

概要

冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営東ヨーロッパに集まっていたことから「東側」、対するアメリカ合衆国を盟主とした資本主義陣営西ヨーロッパに集まっていたことから「西側」と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく、宇宙開発航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。又、冷戦の対立構造の中で西ヨーロッパは統合が進み、欧州共同体の結成へ向かった。ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったため、「ヤルタからマルタへ」ということもいわれる。

ヨーロッパのみならず、アジア中東南アメリカなどでも、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているがために経済的、人的な情報の交流が少なく、冷戦勃発当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「鉄のカーテン」と表現した。

アメリカ陣営とソ連のどちらにも与しない国家は「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営の思惑の中で翻弄された。しかし、こうした両陣営の思惑を逆手に取り、両陣営を天秤に乗せることで多額の援助を引き出す「援助外交」も活発に行われた。また、この米ソ両陣営の対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(といっても有名無実である国も多かった)。なお、経済発展が進んだ開発途上国が「第三世界」と呼ばれ、経済発展が遅れている開発途上国は「第四世界」と呼ばれることもある。

この冷戦時代の世界は、

  1. 秩序が長きに亘って固定されており、変化が少ない
  2. 「質より量」が重視される大量生産社会
  3. 核すなわち原子力がものをいうテクノロジー

の3点に特徴付けられる。最終的には1991年に東側諸国の盟主であったソビエト連邦が消滅したことにより、日米西欧をはじめとする西側陣営の勝利に終わった。冷戦が終わると、リーマン・クライシスが引き金となった2008年世界金融危機までは、米国が唯一の超大国として君臨していた。しかし、2008年以後の世界は、冷戦体制や米国一極体制によって抑えられてきた民族紛争や地域紛争が続発し、かつ冷戦体制や米国一極体制に基づく価値観が破綻を見せ、変化が多くなって流動性を増している。

冷戦の展開

起源(1945年-)

ヤルタ会談

冷戦の始まりは、そのイデオロギー的側面に注目するならばロシア革命にまでさかのぼることができるが、超大国の対立という構図はヤルタ体制に求められる。主に欧州の分割を扱った、1945年2月のフランクリン・ルーズベルト(アメリカ)、ヨシフ・スターリン(ソ連)、ウィンストン・チャーチルイギリス)によるヤルタ会談が、第二次世界大戦後の世界の行方を決定した。7月のポツダム会談でさらに相互不信は深まっていった。

1946年モスクワのアメリカ大使館に勤務していたジョージ・ケナンの「長文電報」はジェームズ・フォレスタル海軍長官を通じて、トルーマン政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「反共封じ込め政策」につながった。

戦争によって大きな損害を蒙っていた欧州諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。特にフランスイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシャおよびトルコ防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」であり、全体主義自由主義の二つの生活様式というマニ教世界観が顕在化した。さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、孤立主義から脱却することになった。

東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニアブルガリアハンガリースロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドン亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義に至る多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。他方、ユーゴスラビアアルバニアにおける共産党体制の成立において、ソ連の主導というよりも、戦中のパルチザン闘争に見られる土着勢力による内発的要因が大きかった。この点が、1948年のユーゴ・ソ連論争の遠因ともなり、共産圏からユーゴスラビアが追放され、自主管理社会主義や非同盟主義外交という独自路線を歩むことになった。

枢軸国の中心であったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4分割して占領統治した。占領行政の方式や賠償問題などでソ連と米英仏の対立が深まり、1949年、西側占領地域にはドイツ連邦共和国西ドイツ)、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立する。

ポーランド問題

ヤルタ会談の焦点の一つがポーランド問題であった。米英にとって、第二次世界大戦に参戦した直接的理由がナチス・ドイツポーランド侵攻であり、ソ連にとって安全保障の観点から自国に友好的な政権がポーランドに樹立されることが望まれていた。いみじくもスターリンミロヴァン・ジラスに述べたように、ポーランド問題とは、領土問題であると同時に政権問題という位相を含んでいた点で、第二次世界大戦の性格を如実に表象していた。

またポーランドがソ連軍によって解放されたことで、戦後のポーランド政治に対して、ソ連の影響力が大きくなる要因となった(敵国から解放した国家が占領において主導権を握るという「イタリア方式」がここでも作用していた)。ヤルタ会談で、米英はスターリンにポーランドでの自由選挙の実施を求め、同意を取り付けたが、スターリンが語ったとされるように、米英にとって「名誉の問題」である一方で、ソ連にとってポーランド問題とは「安全保障上の死活的問題」であったため、スターリンは強硬な姿勢を採った。

ルーズベルトの死後大統領に就任したトルーマンは、こうしたヤルタでの取り決めをソ連が反故にしていることを知り、国連創設会議のため訪米中のソ連の外相ヴャチェスラフ・モロトフに対し抗議した。その後、アメリカとソ連は、対立するようになる(選挙が決まるまでの過程は、ヤルタ会談の「ポーランド問題」を参照のこと)。

ベルリン問題

ドイツの首都ベルリンは、その国土同様、4国で分割された。その結果ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中にのように位置することになった。冷戦対立が強まる中、ソ連は西側地区における通貨改革への対抗措置として、1948年西ベルリンへ繋がる鉄道道路を封鎖した(ベルリン封鎖)。これに対抗するため、西側連合国は物資の空輸を行って、ベルリン封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。

冷戦のグローバル化(1949年-1955年)

冷戦は地球の反対側でも米ソが向き合うため、周辺のアジアにも強い影響を与えた。中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する中国国民党とソ連の支援する中国共産党内戦を繰り広げたが、中国共産党が勝利し1949年に共産主義の中華人民共和国を建国。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでソ連の同盟国となった。一方、アメリカの支援を打ち切られた中国国民党は台湾島に逃れた。また、中華人民共和国は朝鮮戦争に出兵することで、アメリカと直接対立して台湾海峡も冷戦構造に組み入られた。すでにモンゴルではソ連の支援の下で共産主義のモンゴル人民共和国1924年に成立していたが、戦後になって米英仏等が承認した。

朝鮮戦争で戦う国連軍

日本が統治していた朝鮮半島は、ヤルタ会談によって北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中華人民共和国の中国人民解放軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。

フランス領インドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、アメリカ合衆国は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、アメリカ合衆国の傀儡の軍事政権が統治する南ベトナムを建国した。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス1949年独立)、カンボジア1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。

ジョセフ・マッカーシー上院議員

これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、1951年8月に旧植民地フィリピン米比相互防衛条約、9月に一国占領していた旧敵国日本と日米安全保障条約、同月にイギリス連邦オーストラリアニュージーランド太平洋安全保障条約 (ANZUS)、朝鮮戦争後の1953年8月に韓国と米韓相互防衛条約1954年中華民国米華相互防衛条約を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版NATOといえる東南アジア条約機構(SEATO)を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカをオブザーバーとした中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。

このように冷戦が進む中、1950年代前半のアメリカにおいては、上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務めるジョセフ・マッカーシー上院議員が、政府やアメリカ軍内部の共産主義者を炙り出すことを口実とした活動、いわゆる「赤狩り」旋風を起こし、多くの無実の政府高官や軍の将官だけでなく、チャールズ・チャップリンのような外国の著名人でさえ共産主義者のレッテルを貼られ解雇、もしくは国外追放された。

1950年代にアメリカの総生産は世界の約4割、金と外貨の保有は約5割に上り、名実共に世界の盟主となっていた。このようなアメリカを中心とするアジア太平洋の同盟は、戦禍を蒙らずに一人勝ちできたアメリカ経済によって支えられていた。

主な出来事

東西陣営の主な国

資本主義陣営(西側)

南北アメリカ
アジア
ヨーロッパ
オセアニア
中東
アフリカ
  • セネガルの旗 セネガル
  • リベリアの旗 リベリア
  • モロッコの旗 モロッコ
  •  ケニア
  • ザイールの旗 ザイール(現在はコンゴ民主共和国
  • ナミビアの旗 ナミビア
  • ボツワナの旗 ボツワナ
  • アジア
    ヨーロッパ
    中東
    アフリカ
    • リビアの旗 リビア(社会主義人民リビア・アラブ国)→現国名リビア2011年より民主化)
    • コンゴ人民共和国の旗 コンゴ人民共和国(現在はコンゴ共和国
    • Flag of Ethiopia (1987–1991).svg エチオピア人民民主共和国
    • アンゴラの旗 アンゴラ
    • モザンビークの旗 モザンビーク
    • ベナンの旗 ベナン人民共和国(現在はベナン共和国
      • 孤立化
        • アルバニアの旗 アルバニア - 当初ソ連寄りであったがスターリン主義がフルシチョフによって批判されたことから決別し、毛沢東主義の中華人民共和国寄りとなる。しかし、文化大革命後に同国が改革開放路線に舵を切ったことから中国からも決別。その後はソ連・中国両方から距離を置いた(ホッジャ主義)。
          •  キューバ(1959年の革命以前は資本主義陣営(西側)、1959年の革命以後は共産主義陣営(東側))
          • ニカラグアの旗 ニカラグア(1979年の革命以前は資本主義陣営(西側)、1979年の革命以後は共産主義陣営(東側))
          • イラクの旗 イラク
          • Flag of Ethiopia (1897-1936; 1941-1974).svg エチオピア帝国エチオピアの旗 エチオピア
          • Flag of Laos (1952-1975).svg ラオス王国ラオスの旗 ラオス
          • Flag of the Khmer Republic.svg クメール共和国Flag of Democratic Kampuchea.svg 民主カンプチア
          • 南ベトナムの旗 ベトナム共和国 ベトナム(旧南ベトナム
            •  インドネシア[20]
            •  エジプト
            • ソマリアの旗 ソマリア - オガデン紛争以降のバーレ政権。
            • スーダンの旗スーダンの旗 スーダン - ヌメイリ政権時代。
                • 経済的対立
                  • 西側 = 対共産圏輸出統制委員会 (COCOM)、欧州共同体 (EC)、欧州自由貿易協定 (EFTA)、欧州通貨協定 (EME)、経済協力開発機構 (OECD)
                  • 東側 =

                    冷戦は、それがグローバルな戦後国際政治に大きな影響を与えたことから起源、展開、終焉に対して様々な解釈が示され、論争を呼んできた。以下では、学術的な冷戦史研究の中で行われた論争について説明する[22]

                    冷戦起源論を巡る論争

                    冷戦史研究では様々な争点が存在したが、特に大きな争点を形成したのは、「冷戦はいつ、なぜ生じたのか」という冷戦の起源を巡る論争だった。この論争は、西側陣営最大の当事国である米国の学界を中心として活発になされることとなった。

                    冷戦起源論争は二つの特徴を有していたといえる。第一に、冷戦起源論争は第二次世界大戦などの起源を巡る学術論争と異なり、それが同時代的に継続している状況の起源を論じるものであったため、ベトナム戦争を典型として、研究が発表された当時の出来事や問題関心に強く影響されたものになった。第二に、その論争が米国学界を中心に展開されたことや、資料公開ペースのスピードなどから、特に米国に分析の重点を置いたものとなった点である。そして、一般に研究学派は伝統学派/正統学派、修正主義学派、ポスト修正主義学派に大別されている[23]

                    伝統学派/正統学派 (Traditionalist / Orthodox) は1950年代から60年代にかけて研究を発表した学派であり、この学派に分類される研究者の議論は冷戦の起源をソ連の拡張的・侵略的な行動に求めるという特徴を有していた[24]。伝統学派はソ連がヤルタ会談で合意されたポーランド自由選挙を実施しなかったこと、東欧各国に対して共産党政権を樹立する動きを示したことなどの一連の行動が西側に警戒感を生み出し、マーシャル・プランNATO結成などの西側陣営強化はこれに対する防御的な行動としてなされたとする解釈を示した。

                    以上のような解釈はノーマン・グレーブナー (Norman A. Graebner) のCold War Diplomacy (1962)、ルイス・ハレー (Louis J. Halle) の『歴史としての冷戦』(1967)、ハーバート・ファイスFrom Trust to Terror (1970) などに代表されるものであったが、これはトルーマン政権の国務長官を務め、冷戦政策を展開したディーン・アチソンの回顧録の記述とも重なるものだった。その意味で伝統学派は、戦後米国の外交政策を擁護するニュアンスも帯びていたと評されている[25]

                    続いて1960年代より登場した修正主義学派 (Revisionist) は、伝統学派の解釈と真っ向から対立し、冷戦の発生はソ連の行動よりも米国側の行動により大きな原因があったとする解釈を提示した。修正主義学派の最大の特徴は、経済的要因を重視する点にあった。1958年に『アメリカ外交の悲劇』を発表し、後に自らの勤務したウィスコンシン大学マディソン校で「ウィスコンシン学派」といわれる後進たちを育成したことで知られるウィリアム・A・ウィリアムズは、同書で建国以来米国指導者層が海外に市場を求める必要があるという「門戸開放」イデオロギーを奉じていたことに最大の原因があったとする主張を展開した。ウィリアムズは、第二次世界大戦で大きな被害を受けたソ連が伝統学派の考えるような脅威ではなかったと指摘した。そして、冷戦は米国が門戸開放イデオロギーのもと東欧地域の市場開放を執拗に要求し、ソ連に対して非妥協的態度を貫いたこと、これにソ連が反発したことによってもたらされたものであったとして、米国により大きな責任があったとする解釈を示した。ウィリアムズのテーゼは、彼が育成した外交史家である ウォルター・ラフィーバーAmerica, Russia, and the Cold War (1967)、ロイド・ガードナーArchitects of Illusion (1970) などによってより精緻に検討されることとなる[26]

                    また、修正主義学派の研究はウィリアムズの研究にとどまらず、よりラディカルな展開も示した。ガブリエル・コルコとジョイス・コルコ (Joyce Kolko) は、The Limits of Power (1972) において、米国の対外政策のすべては資本主義体制の防衛を目的としており、世界規模で革命運動を弾圧するものであったとするマルクス主義に親和的な解釈を主張することとなった[27]。これらの研究は、ベトナム戦争の泥沼化により、従来の米国外交のあり方に対する不信が強まっていた60年代の時代状況下で、強い支持を受けることになった。当然ながらこれらの主張は、伝統学派からの反発と論争を巻き起こすこととなる。伝統学派からは修正主義学派の分析の実証性の乏しさ、経済要因の過大評価、米国の行動のみを実質的に分析している分析の偏重などが批判されることとなった[28]

                    伝統学派・修正主義学派に続くポスト修正主義学派 (Post-Revisionist) は、先行する学派の議論の抱える問題点を克服し、さらにこの頃徐々に公開が進んだ西側政府の公文書を活用することで、歴史研究としての実証性を増す形で議論を展開することとなった。その先駆的著作とされているのが、ジョン・ルイス・ギャディスThe United States and the Origins of the Cold War (1972) である。ギャディスは一次資料に依拠した上で、正統学派の重視する安全保障要因、修正主義学派の重視する経済要因を同時に取り入れつつ、さらに国際政治構造、国内政治要因、政策決定プロセス(官僚政治)の影響などを盛り込んだ分析を提示した[29]

                    ギャディスは、各国の疲弊によって「力の真空」が生じていたヨーロッパにおいて、米ソ両国が対峙するという状況下が生まれたこと、対峙の緊張の中で米ソが様々な要因から相手の行動・思惑に対する誤解を重ねたことが(本来両者の想定しなかった)冷戦を生んだとする解釈を示し、米ソいずれかの行動に冷戦発生の責任を求める過去の議論を排する主張を展開した[30]。ギャディスによるこのような新しい解釈は、ブルース・クニホルム (Bruce Kuniholm) のThe Origins of the Cold War in the Near East (1980)、ウィリアム・トーブマンStalin's American Policy (1982) などにも継承され、彼らの研究は「ポスト修正主義学派」として広く受け入れられることとなった[31]。 また、米国で進んだポスト修正主義学派の研究に対して、ヨーロッパにおける研究も呼応する動きを示した。ノルウェーのゲア・ルンデスタッドは、大戦後のヨーロッパの政治指導者たちがソ連の影響力を相殺するべく、ヨーロッパで米国がより積極的な役割を果たすことを希望していたと論じ、戦後の米国はいわばヨーロッパに「招かれた帝国 (Empire by Invitation)」であったとする解釈を示した[32]

                    ソ連崩壊後の冷戦起源論争

                    冷戦の終結とソ連邦の崩壊により、過去西側で閲覧することが不可能だった東側文書の開示が進むこととなった。これは各種の研究・資料収集プロジェクトの始動をもたらすとともに、冷戦起源を巡る論争において伝統学派的な解釈の復活という、新しい展開を生むこととなった。開示された東側の資料群をもとに発表されたヴォイチェフ・マストニーの『冷戦とは何だったのか』(1996年)、ヴラディスラヴ・ズボクとコンスタンティン・プレシャコフ (Constantine Pleshakov) による Inside the Kremlin's Cold War (1996) は、ソ連中枢の情勢認識や政策決定を明らかにすることとなった。これらの著書は、ソ連がマルクス・レーニン主義のイデオロギーに基づき、自発的・主体的にヨーロッパへの拡張を図っていたとする解釈を示した[33]。その他、90年代には様々な資料を活用したドミトリー・ヴォルコゴーノフによるスターリンの伝記研究も発表され、スターリンのパラノイア的性質を指摘する書物として注目を浴びることとなった[34]

                    このような研究進展の影響を受けた典型ともいえるのが、ポスト修正主義学派の旗手であったギャディスの冷戦起源解釈の変化である。ギャディスは東側についての研究の進展を受けて、1997年に発表した『歴史としての冷戦』では、冷戦の起源を米ソ双方のパーセンプション・ギャップや、国際政治構造に見出す過去の解釈から、イデオロギーが冷戦におよぼした影響を重視し、ソ連の政治体制とスターリンという指導者が冷戦の発生により多くの責任を負っているとする解釈へと転じた[35]。しかし、このギャディスの解釈変化の要因としては、ソ連の実態が明らかになったことだけでなく、東側陣営の崩壊と西側陣営の「勝利」が明らかになった時期に発表されたという要因も無視できないことから、その解釈が後知恵的であるとして賛否を呼ぶことともなった[36]

                    米ソ冷戦史の相対化

                    冷戦史研究は、米国学界でその主要な論争が戦われてきたこともあり、主要な分析対象は米ソ関係であり、活用される資料の多くは米国政府の公文書であった。このような冷戦史研究の動きに対し、1978年にイギリスのドナルド・キャメロン・ワット公開書簡で冷戦史研究の資料的偏重を指摘し、英国公文書などを活用して研究を深化させる必要を訴えた[37]。このような提言を反映する形で、イギリスではヴィクター・ロスウェル (Victor Rothwell) の Britain and the Cold War (1982)、アン・デイトン (Anne Deighton) の The Impposible Peace (1990) など、冷戦の発生に対してイギリスの果たした役割を分析する研究なども現れ、冷戦の発生にはソ連の脅威を米国より早く意識し行動したイギリス政府の果たした役割が少なくなかったことを明らかにした[38]

                    イギリスを一つの典型として、他国についても「自国と冷戦(および冷戦に果たした役割)」について考察した研究も進められている。1998年よりノースカロライナ大学出版局 (University of North Carolina Press) が刊行している冷戦史研究のシリーズである The New Cold War History では、フランス、ソ連、中国、東西ドイツなど、様々な国家と冷戦の関係を考察した研究書が刊行されている[39]

                    研究領域の拡大

                    冷戦終結を受けて米国でも安全保障に関わる各種の資料公開が進んだことで、冷戦期の安全保障やインテリジェンスなどについて新たに研究が進展している。一例としては、米英による暗号解読プロジェクトであったベノナの関係資料開示による諜報戦の実体解明が挙げられる。ジョン・ハインズ (John E. Haynes) とハーヴェイ・クレア (Harvey Klehr) の Venona (2000) は、冷戦期に米国内で活発な諜報活動が展開されていたことを明らかにした。また、ケネス・オズグッド (Kenneth Osgood) は Total Cold War (2006) において、USIACIA などの資料を活用し、アイゼンハワー政権の展開していた(日本も対象に含む)宣伝・情報戦の実態を解明することとなった[40]

                    コーポラティズム