北里 柴三郎
Kitasato Shibasaburo.jpg
北里柴三郎医学博士
生誕 (1853-01-29) 1853年1月29日
日の丸 日本嘉永期)肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町
死没 (1931-06-13) 1931年6月13日(78歳没)
日本の旗 日本 東京府東京市麻布区
脳溢血
国籍 日の丸 日本
研究分野 細菌学
研究機関 ベルリン大学コッホ研究室
伝染病研究所
慶應義塾大学医学部
出身校 東京医学校
博士課程
指導教員
ロベルト・コッホ
博士課程
指導学生
エミール・フォン・ベーリング
主な業績 破傷風菌純粋培養
血清療法の発見
ジフテリアと破傷風の毒素に対する抗血清開発
ジフテリア抗血清の製造開発
腺ペストの病原菌共同発見
プロジェクト:人物伝
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北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、1853年1月29日嘉永5年12月20日) - 1931年昭和6年)6月13日)は、日本の医学者・細菌学者・教育者実業家。「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。

貴族院議員を務め、位階勲等従二位勲一等男爵医学博士、私立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現・東京大学医科学研究所附属病院)創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名のうちの1人)[1]、私立北里研究所、北里研究所病院(現・学校法人北里研究所)創立者兼初代所長ならびに北里大学学祖、慶應義塾大学医学科(現・慶應義塾大学医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長、テルモ株式会社の設立者である[2]

名字の正しい読みは「きたざと」であり、子孫や出生地の小国町、北里柴三郎記念館などでの発音は「きたざと」である[3]、学校法人北里研究所(北里大学)、紙幣デザインに選ばれた際の財務省の発表、それを受けたテレビ局などでは「きたさと」と濁らず発音している[3]。これは北里が留学先のドイツで「きたざと」と呼んでもらう為に、ドイツ語で「ざ」と発音する「sa」を使い、「Kitasato」と署名したところ、英語圏では「きたさと」と発音され、一般的となっていった為である[3][4][5]

人物

出生から

破傷風菌に関する論文原稿(明治22年)
コッホと思われる書き込みが認められる
東大医科研・近代医科学記念館
内務省より発令された東京種痘製造所長への辞令(明治32年)
東大医科研・近代医科学記念館
「伝染病研究ノ基礎ヲ確立スルニ付テノ意見」(大正2年)
東大医科研・近代医科学記念館
「伝染病研究所」の外観を模した近代医科学記念館(東京大学医科学研究所

北里柴三郎は肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まれた。父の惟保(これのぶ、1829年 - 1902年)は庄屋を務め、温厚篤実、几帳面な性格であった。母の貞(てい、1829年 - 1897年)は豊後森藩士加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁いでからは庄屋を切りもりした。柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼した。闊達な性質で、柴三郎の指導者としての性格は母親譲りであろうとされる[6]。柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ、漢学者の伯父から四書五経を教わった。帰宅後は母の実家に預けられ、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。その後、久留島藩で武道を習いたいと申し出たが、他藩のため許可されず、実家に帰って父に熊本に遊学を願い出た。

1869年(明治2年)、柴三郎は細川藩の藩校時習館に入寮したが翌年7月に廃止され、熊本医学校に入学した。そこで柴三郎は教師のマンスフェルトに出会い、医学の世界を教えられ、これをきっかけに医学の道に目覚めることになった。マンスフェルトから特別に語学を教った柴三郎は短期間で語学を習得し、2年目からはマンスフェルトの通訳を務めるようになった。マンスフェルト、職員、生徒の集合写真にはマンスフェルトの横に柴三郎が写っている[7]

柴三郎は1875年明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが、在学中よく教授の論文に口を出していた為、大学側と仲が悪く、何度も留年した。1883年(明治16年)には、医学士となった。在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた。演説原稿が残っている[8]。卒業時の成績は26名中8位であった[9]。その後、長與專齋が局長であった内務省衛生局へ就職した。

留学時代

柴三郎は同郷で東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)よりドイツのベルリン大学へ留学した。そこで、コッホに師事し大きな業績を上げた。1887年(明治20年)、石黒忠悳陸軍省医務局長はベルリンを訪問、柴三郎にペッテンコーファー研究室に移るように指示したが、コッホと面会し、北里柴三郎という人物の期待の大きさを目のあたりにした石黒は、異動命令を撤回した[12]1889年(明治22年)、柴三郎は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す破傷風菌純粋培養法に成功した。翌年の1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させた。さらに血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。

1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル委員会や(選考にあたった)カロリンスカ研究所が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したとみなしたこと[注 1]、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因として挙げられている[13]。柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠は見つかっていない[13][注 2]

論文がきっかけで北里柴三郎は欧米各国の研究所、大学から多くの招きのオファーを受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであると、柴三郎はこれらを固辞して1892年(明治25年)に日本に帰国した。

帰国後

北里柴三郎はドイツ滞在中に、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判した為、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」の烙印を押され、母校の東大医学部と対立する形になってしまった。それは単に東大を敵に回すことだけでなく柴三郎自身の研究者生命も危うくすることを意味していた。日本に帰国した柴三郎は自分の希望する研究ができると思っていたが、実際は北里の思う通りには行かなかった。東大と対立した柴三郎を研究者として暖かく受け入れてくれる研究所はどこもなく、学界に大きな力と人脈を持つ東大を恐れて誰も援助する者もいなかった。研究者・北里柴三郎はまさに孤立無援の状態であり、これが東大の恩師を敵に回した者の厳しい現実だった。そんな時、この北里柴三郎の危機的状況を静かに目撃していた福澤諭吉は海外で大きな快挙を成し遂げたのにそれにふさわしい研究環境が用意されない日本の状況を深く失望して、福沢諭吉の全面協力、多大な資金援助により北里柴三郎の為の「私立伝染病研究所」を設立することにした。そして、北里柴三郎は福沢に感謝して、そこの初代所長となった。その後、私立伝染病研究所は国から寄付を受けて内務省管轄の「国立伝染病研究所」(現・東京大学医科学研究所)となり、北里は伝染病予防と細菌学に取り組むことになった。1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという大きな業績を上げた[14]

かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)に政府は所長の北里柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如、文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。これには長年の東大の教授陣と北里柴三郎との個人的な対立が背景にあるといわれている。その伝染病研究所は青山胤通(東京帝国大学医科大学校長)が所長を兼任することになるが、北里柴三郎はこの決定に猛反発し、その時もまだ東大を憎悪していた為、すぐに所長を辞任した。そして、新たに私費を投じて「私立北里研究所」(現・学校法人北里研究所北里大学の母体)を設立した。そこで新たに、狂犬病インフルエンザ赤痢発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。

福沢諭吉の死後の1917年(大正6年)、北里柴三郎は福沢諭吉による長年の多大なる恩義に報いる為、「慶應義塾大学医学部」を創設し、初代医学部長、付属病院長となった。新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力した。

また明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目し合うなどばらばらの状況であったが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として「大日本医師会」が誕生した。その後、1923年(大正12年)に医師法に基づく日本医師会となり、柴三郎は初代会長としてその運営にあたった。

経歴

北里の墓(青山霊園
  • 1894年(明治27年)- 2月、伝染病研究所を芝区愛宕町に移転、ジフテリア抗血清の製造、これによる治療を開始する。5月には日本政府により香港へ調査派遣され、6月、感染症である腺ペストの病原菌を共同発見した[14]。ほぼ同時に、アレクサンダー・イェルサン英語版もペスト菌を発見した[14]。最初、ペスト菌はpasteurella pestis(パスツレラ ペスティス)と呼ばれていたが、今ではYersinia pestis(エルシニア ペスティス)と呼ばれている。
  • 1899年(明治32年)- 3月、伝染病研究所が国立(内務省)に移管される。4月、所長に就任する。
  • 1901年(明治34年)- 第1回ノーベル生理学・医学賞の公式候補に選ばれる[17]
  • 1906年(明治39年) - 4月、日本連合医学会会頭。9月、帝国学士院会員に任命される。
  • 1908年(明治41年)- 6月、恩師コッホ夫妻を迎える。
  • 1913年(大正2年)- 日本結核予防協会を設立、副会頭に就任する。
  • 1914年(大正3年)- 伝染病研究所が内務省から文部省に移管され東京帝国大学に合併される際、移管に反対して所長を辞任する。この時、志賀潔をはじめとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出した。「伝研騒動」といわれる。11月5日に私費を投じて「北里研究所」を設立、初代所長に就任する。
  • 1915年(大正4年)- 「恩賜財団済生会芝病院」(現・東京都済生会中央病院)設立とともに初代院長となる。
  • 1916年(大正5年)- 11月、府県の医師会を統合して大日本医師会を設立、会長に就任する。
  • 1917年(大正6年)-「慶應義塾大学医学部」の創立に尽力し初代学部長となる(医学科であったが1920年(大正9年)に医学部と改称)。
  • 1923年(大正12年)- 「日本医師会」を創設。初代会長に就任する。
  • 1924年(大正13年)- 2月、男爵叙爵。
  • 1928年(昭和3年)- 5月、医学部長を辞任、顧問就任。
  • 位階
    勲章等
    外国勲章佩用允許
    • 1909年(明治42年)8月20日 - プロイセン王国:星章赤鷲第二等勲章[18]
    • 1910年(明治43年)12月24日 - ノルウェー王国:サンオラフ第二等甲級勲章[18]
    • 1914年(大正3年)5月14日 -

      妻の乕(とら、1867 - 1926)は松尾臣善の次女。1883年に結婚し、6人の子(3男3女)を育てる[32]。長男・俊太郎(1895 - )は法科、次男・善次郎(1897 - )は理科に進んで成業し、末男・良四郎(1907 - )は工学に進んで実業家となる[32]。長女・安子(1893 - )は学習院女学部を出て渡辺銕蔵の妻となる。長男の俊太郎は土木・鉄道技術者の杉浦宗三郎 の三女・てる子と結婚し一児をもうけたが、三井物産在職中の1925年に9歳年下の22歳の赤坂芸妓・琴寿と中禅寺湖心中未遂(芸妓は水死)を起こし[33][34]、てる子と離婚後、1927年に横浜の絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚した[35](前妻てる子は大蔵官僚で日本長期信用銀行初代頭取の原邦道と再婚[36])。

      柴三郎には庶子も複数あり、柴崎ナカとの間に文太郎(1918 - )、武次郎(1922 - 、のち生物学者)、三村こおとの間にトミ(1915 - )、陽子(1918 - )、正十郎(1921 - )をもうけた[37][38][39]

      弟の北里裟袈男は帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)の大株主であり常務取締役、弥生無尽会社顧問で、妻は柴三郎の妻の妹[40][41][42]。妹のいくは神官の蔵原惟暁の妻となり、その息子に詩人の蔵原伸二郎。別の妹しうは、惟暁の弟で政治家の蔵原惟郭の妻で、その息子に評論家の蔵原惟人明治製菓の会長を務め、最高顧問となった北里一郎は孫にあたる[3]

      ほかの子孫には熊本県議会議長を務めた北里達之助がいる[要出典]

      医道論

      以下は北里研究所誌より[43]

      • 北里は1877年ごろから同盟社という学生結社を組織し、社会活動を志すなら雄弁でなければならないと、毎週土曜に演説会を開き切磋琢磨していた。1878年4月は「医道論」を書き、予防医学を力説した。原稿が残っている。
        • 昔の人は医は仁術とか大医は国を治めるとかいいことをいう。医の真の目的は大衆に健康を保たせ国を豊かに発展させることにある。ところが医者という地位について勉強せず、自分の生計を目当てに病気を治すことで満足する者がいる。今から医学に入る者は大いに奮発勉励し、この悪弊を捨て医道の真意を理解しなければいけない。
        • ついで、医学生、開業医に向かい、現状を批判、昨年のコレラの流行を引用、悲憤慷慨し、予防医学の大切さを訴えている。最後に自作の七言絶句で決意を披歴している。

      北里とハンセン病

      • 第1回国際ハンセン病学会は1897年(明治30年)にベルリンで行われた。日本からは土肥慶蔵が出席、北里は出席はせず、日本のハンセン病事情を誌上発表している[44]。第2回ハンセン病学会は1909年にノルウェーベルゲンで開催され、北里は招待されて出席した。集合写真では、北里はハンセンの隣に座っている。北里は日本におけるハンセン病(Die Lepra in Japan)と言う題で発表した。前半で日本の現状、草津での疫学調査、鼻腔内感染者の考察、後半はオランウータンを使った感染実験、ネズミのハンセン病類症(鼠らい)とその細菌学的研究を述べている。
      • 北里は伝染病研究所を創立してまもなく、ハンセン病の研究を開始している。これは私立らい療養所である目黒の慰廃園から専門医の派遣を要請されて行ったものである。一種の免疫療法剤である「レプリン」を開発したが、あまり有効ではなかった。『日本らい史』には、約3年間に180名を治療、全治4名、全治に近いもの3名、死亡2名、その他は快方に向かいつつあるとあるが、ハンセン病の自然治癒を薬剤効果と間違えたと考えられるという文献を引用している[45][注 5]
      • 来日した

        邦文業績

        以下は北里研究所誌より[47][注 6]

        • 「蒼蠅ハ病毒伝染ノ媒介者」大日本私立衛生学雑誌7号、pp.14-17(1883)
        • 「妊娠ヲ鑑別する新法」 中外医事新報96号、pp.1-2(1884)
        • 「肝蛭(肝臓ジストマ)ノ発生スル理由」 中外医事新報99号、pp.1-3(1884)
        • 「痰中にあるコグ氏(コッホ)黴菌試験法」 中外医事新報122号、pp.1-5、123号、pp.8-13(1885)
        • 「鶏虎列刺(トリコレラ)菌発見 (緒方正規、北里柴三郎共著) 官報561号、pp.15-16(1885)
        • 「衛生上飲料水簡易試験法」 大日本私立衛生会雑誌29号、pp.44-59(1885)
        • 「赤痢菌探究」東京医事新誌409号、pp.155-158、410号、pp.189-192(1885)
        • 「長崎県下虎列刺病原ノ談」 大日本私立衛生会雑誌31号、pp.14-26(1885)
        • 「第8回コッホ記念講演開會の辞」細菌學雑誌316号、pp.54-55(1922)
        • 「微生物ノ研究及應用」北里柴三郎記念室史料34号(1918、北里研究所)
        • 「學問の神聖と獨立」三田評論211号、pp.15-19(1915)
        • 「結核のツベルクリン療法に就て」細菌學雑誌199号、pp.331-345(1912)
        • 「万國學藝會議状況」細菌學雑誌108号、p.630(1904)
        • 癩(らい)病に関する研究」傳染病研究所一覧(明治32年1月)pp.78-80(1899、傳染病研究所)
        • 「論説」細菌學雑誌25号、pp.1-4(1897)
        • 「惡性水腫菌、ラウシュブラント菌(鳴疽菌)、破傷風菌、インフルエンザ菌」傳染病研究講義、pp.26-119(1896、傳染病研究所)
        • 「インフルエンザ菌」傳染病研究講義、pp.115-119(1896、南江堂)
        • 「實布垤里亞(ジフテリア)及虎列刺(コレラ)病治療成績報告」細菌學雑誌1号、pp.3-56(1895)
        • 「事業の成績 實布垤里亜・破傷風」傳染病研究所一覧、pp.11-25(1895、傳染病研究所)
        • 「癩病」傳染病研究所一覧、pp.21-22(1895、傳染病研究所)
        • 「ペスト菌ニ就テ」細菌学雑誌13号、pp.923-938(1895)
        • 「ペスト病の原因調査 第1報報告」官報3326号、3327号、pp.367-368、pp.5-7(1894)
        • 「ペスト病の原因取調に就て」大日本私立衛生會雑誌135号、pp.634-673(1894)
        • 「ペスト病ノ原因調査第一報告」東京醫(医)學會雑誌8号、pp.698-707(1894)
        • 「ペスト病調査復命書」官報3327号、pp.5-7(1894)
        • 「ペスト病調査復命書」官報3326号、pp.367-368(1894)
        • 「傳染病研究所設立の必要」大日本私立衛生會雑誌110号、pp.501-509(1892)
        • 「論説」細菌學雑誌25号、pp.787-790(1887)
        • 「赤痢菌原因探究」東京醫事新誌410号、pp.189-192(1886)
        • 「赤痢菌原因探究」東京醫事新誌409号、pp.155-158(1885)
        • 「長崎縣下虎列刺病原ノ談」大日本私立衛生會雑誌31号、pp.14-26(1885)
        • 「医道論」北里柴三郎記念室史料2(1878、北里研究所)
        • 「傳染病研究所ノ内務省所管ナラサルヘカラサル事」北里柴三郎論説集、pp.1219-1224
        • 「結核豫防の急務」(1925年4月28日、第1回結核予防デーに東京放送局より放送)、社團法人東京放送局編『ラヂオ講演集 第一輯』日本ラジオ協會、pp47-49(1925)

        ドイツ留学中の業績

        以下は北里研究所誌より[48]

        • 日本のコレラ(ドイツ語)Dtsch.med.Wschr.,13:921-922,1887.
        • チフス、コレラ菌の酸、アルカリ培地での様態(ドイツ語)Z. Hyg., 3:404-426,1888.
        • 敗血中のらせん菌の純培養と重層らせん菌(ドイツ語)Cbl. Bakt. Parasit.3,73-75, 1888.
        • コレラ菌の乾燥及び熱にたいする抵抗性(ドイツ語)Z. Hyg., 5, 134-140, 1889.
        • 人糞中コレラ菌の様態(ドイツ語)Z. Hyg., 5, 487-490, 1889.
        • 乳汁中コレラ菌の様態(ドイツ語), Z. Hyg., 5, 491-496, 1889.
        • 人工培養で他種の病原、非病原菌に対するコレラ菌の様態(ドイツ語)Z. Hyg., 6, 1-10, 1889.
        • コレラ菌の乾燥および熱にたいする抵抗性 追加報告(ドイツ語)Z. Hyg., 6, 11-12, 1889.
        • 気腫疽菌培養試験(ドイツ語)Z. Hyg., 6:105-116, 1889.
        • 破傷風の病原菌(ドイツ語)Ztsch. med. Wschr. 15:635-636, 1889.
        • 破傷風菌(ドイツ語)Z. Hyg. 7:225-234, 1889.
        • チフス類似菌に対比し、チフス菌のインドール反応は陰性(ドイツ語)Z. Hyg. 7:515-520, 1889.
        • 麝香菌(ドイツ語)Cbl. Bakt. Parasit. 5: 365-369, 1889.
        • 嫌気性菌の新知見(ドイツ語)Z. Hyg., 8:41-47, 1889.
        • 気腫疽菌の固形培地での発育(ドイツ語)Z. Hyg., 8:55-61, 1890.
        • 土壌中の深度と炭疽菌芽胞形成性の調査(ドイツ語)Z. Hyg., 8:198-200, 1890.
        • 嫌気性菌の新知見 第2報 破傷風菌(ワイル共著)(ドイツ語)Z. Hyg., 8:404-411, 1890.
        • 動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立(ベーリング共著)(ドイツ語)Dtsch. med. Wschr. 16:1113-1114, 1890.
          • Ueber das Zustandekommen der Diphtherie-Immunität und der Tetanus-Immunität bei Tieren Dr. Behring und Dr. Kitasato , Deutsche Medicinische Wochenshrift 49, 4. December 1890.[49]
        • 嫌気性菌の新知見 第3報(ワイル共著)(ドイツ語)H. Hyg. 9: 97-102, 1890.
        • 破傷風毒素に関する実験的研究(ドイツ語)Z. Hyg. 10:267-305, 1891.
        • インフルエンザ菌とその培養法(ドイツ語)Dtsch. med. Wschr. 18:28, 1892.
        • 喀痰中の結核菌とその他病原菌の純粋培養(ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskrh. 11: 441-444, 1892.
        • 免疫と抗毒性について(ブリーゲル、ワッセルマン共著)(ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskr. 12: 137-182, 1892.
        • 破傷風動物の治療実験(ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskr. 12: 256-260, 1892.
        • 結核モルモットのツベルクリン療法(ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskr. 12:321-327, 1892.

        帰国後に論文になったもの(欧文論文のみ)

        以下は北里研究所誌より[50]

        • 香港のペスト(ラウソンによる速報)(英語)Lancet, 1894 (ii), August 11:325,1894.
        • 腺ペスト菌(英語)1894 (ii) August 25:428-430,1894.
        • ペスト(中川愛咲共著)(英語)Twentieth Century Practice, vol.7, Infectious Diseases, p.325-352, New York, William Wood & Co., Boston, 1898.
        • 明治32年11月から明治33年1月までの神戸、大阪のペスト流行調査報国(高木友枝、志賀潔、守屋伍造共著)(ドイツ語)内務省衛生局報 1900年 1-104, 1900.
        • 和牛と結核(牛結核)との関係(ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskr. 48:471-484, 1904.
        • 和牛と結核(牛結核)との関係(英語)Medicine & Technology, Vol.6, 137-148, Miffilin & Co. Boston, 1906.
        • 日本のペスト撲滅対策(英語)Philippines J. Sci. 1: 465-481, 1906.
        • 日本のペスト撲滅対策(英語)New York Med. J. 84: 1-29, 1906.
        • 日本のハンセン病(ドイツ語)Zeitschr. Hyg. Infectionskrh. 63:507-516, 1909.
        • 日本の結核病(ドイツ語)Zeitschr. Hyg. Infectionskrh. 63:517-520, 1909.
        • 日本のペスト(ドイツ語)Zeitschr. Hyg. Infectionskrh. 64:279-284, 1909.
        • 日本のペスト予防(英語)Reports of the International Plague Conference, Bureau of Printing, Manila, 244-247, 1912.
        • ペストについて(ドイツ語)Berliner klinische Wschr. 41:1881-1884, 1913.

        栄誉一覧

        以下は北里研究所誌より[51]