南アフリカ共和国
南アフリカの国旗 Coat of arms of South Africa (heraldic).svg
国旗 国章
国の標語:!ke e: ǀxarra ǁke
カム語: 様々な人々が一致協力する)
国歌南アフリカの国歌[注 1]
南アフリカの国歌
南アフリカの位置
公用語 アフリカーンス語英語バントゥー諸語9言語[注 2]
首都 プレトリア行政府
ケープタウン立法府
ブルームフォンテーン司法府
最大の都市 ヨハネスブルグ(2011年)[2][注 3]
政府
大統領 シリル・ラマポーザ
副大統領英語版 デビッド・マブザ英語版
全国州評議会議長タンディ・モディセ
国民議会議長バレカ・ムベテ
面積
総計 122万(日本の約3.2倍)[3]km224位
水面積率 極僅か
人口
総計(2016年 55,653,654人(26位[2]
人口密度 41人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2018年 4兆8,739億[4]ランド
GDP(MER
合計(2018年 3,681億[4]ドル(34位
GDP(PPP
合計(2018年7,897億[4]ドル(29位
1人あたり 13,629[4]ドル
建国
南アフリカ連邦成立1910年5月31日
ウェストミンスター憲章1931年12月11日
連邦地位法英語版施行1934年8月22日
イギリス連邦脱退1961年5月31日
マンデラ政権成立
イギリス連邦再加盟
1994年5月10日
通貨 ランドZAR
時間帯 UTC +2(DST:なし)
ISO 3166-1 ZA / ZAF
ccTLD .za
国際電話番号 27
  1. ^ 1997年以前は、南アフリカの呼び声
  2. ^ バントゥー諸語9言語とは、ズールー語コサ語スワジ語南ンデベレ語ソト語北ソト語ツォンガ語ツワナ語ヴェンダ語をさす。
  3. ^ 2000年以降の自治体再編により、ヨハネスブルグが、それまで最大都市であったダーバンの人口を超えた。

南アフリカ共和国(みなみアフリカきょうわこく、アフリカーンス語: Republiek van Suid-Afrika, : Republic of South Africa )、通称南アフリカは、アフリカ大陸最南端に位置する共和制国家

イギリス連邦加盟国のひとつ。東にエスワティニ(旧・スワジランド)、モザンビーク、北にジンバブエボツワナ、西にナミビアと国境を接し、レソトを四方から囲んでいる。南アフリカは首都機能をプレトリア(行政府)、ケープタウン(立法府)、ブルームフォンテーン(司法府)に分散させているが、各国の大使館はプレトリアに置いていることから国を代表する首都はプレトリアと認知されている。

概要

かつては有色人種に対する人種差別で知られ、それはアパルトヘイトと呼ばれる1994年までの合法的な政策によるものであった。金やダイヤモンドの世界的産地であり、民主化後の経済発展も注目されている。アフリカ最大の経済大国であり、アフリカ唯一のG20参加国である。2010年GDPは3,544億ドル(約30兆円)であり[5]神奈川県とほぼ同じ経済規模である[6]。従来のBRICsブラジルBrazil)、ロシアRussia)、インドIndia)、中国China)、南アフリカ(South Africa)を表す。また、BRICSからロシアを除いて南アフリカを加えたIBSACIndia, Brazil, South Africa, China)という用語が、G7イギリスによって提唱されたこともある[注釈 1]。一方で後天性免疫不全症候群(AIDS)の蔓延、教育水準の低い非白人の極端な貧困、平時にもかかわらず1日の他殺による死者数が戦争中レベルなど治安が毎年悪化しているなど、懸念材料も多い[7]

国名

11の公用語を採用しており、公用語によって正式名称も異なる。

独立後、イギリス連邦を脱退する1961年までは「南アフリカ連邦」と呼ばれていた

歴史

紀元前数千年ごろから、狩猟民族サン人(ブッシュマン)と同系統で牧畜民族のコイコイ人(ホッテントット:吸着音でわけのわからない言葉を話す者の意)が居住するようになった。また、300年 - 900年代に現在のカメルーンに相当する赤道付近に居住していたバントゥー系諸民族が南下し、現在の南アフリカに定住した。

ヨーロッパで大航海時代が始まった15世紀末の1488年に、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達した。

1652年オランダ東インド会社ヤン・ファン・リーベックがこの地に到来し、喜望峰を中継基地とした。喜望峰は航海上の重要な拠点として注目されたうえ、気候も比較的ヨーロッパに似ていたためである。以後、オランダ人移民は増加し、ケープ植民地が成立した。この植民地にて形成されたボーア人(Boer:アフリカーンス語読みでブール人とも呼ばれるが、以下ボーア人で統一)の勢力拡大とともに、コイ人サン人などの先住アフリカ人との争いも起きた。一方で先住アフリカ人とボーア人、またオランダ領東インドから奴隷として連れてきたインドネシア系諸民族とボーア人の混血も進み、のちにカラードと呼ばれることになる民族集団が生まれた。

18世紀末にはダイヤモンドの鉱脈を狙ってイギリス人が到来した。ボーア人とイギリス人は対立し、フランス革命戦争中の1795年イギリスウィリアム・ベレスフォード英語版将軍がケープタウンを占領した。

第二次ボーア戦争1899年 - 1902年)に際してのイギリスの強制収容所に送られたボーア人の女性と子ども。イギリスによって建設されたこの強制収容所は、20世紀の世界各国で建設された強制収容所の先駆となった

ナポレオン戦争終結後、19世紀初頭にケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人が多数移住した。イギリスの植民地になり英語公用語となり、同国の司法制度が持ち込まれるなどイギリスの影響が強まった。イギリス人の増加とともに英語を解さないボーア人は二等国民として差別され、自らをアフリカーナーと呼ぶようになった(以下ボーア人をアフリカーナーとする)。1834年12月1日にイギリスが統治するケープ植民地内で奴隷労働が廃止されると、奴隷制に頼っていたアフリカーナーの農業主はこの奴隷制度廃止措置に反発し、1830年代から1840年代にかけてイギリスの統治が及ばない北東部の奥地へ大移動を開始した(グレート・トレック)。アフリカーナーはバントゥー系のズールー人ンデベレ人スワジ人ツワナ人など先住アフリカ人諸民族と戦いながら内陸部へと進み、ナタール共和国(1839年建国)や、トランスヴァール共和国(1852年建国)、オレンジ自由国(1854年建国)などのボーア諸共和国を建国した。しかし、セシル・ローズに代表されるように南アフリカ全土を領有することを求めたイギリスとの対立から2度にわたるボーア戦争に発展し、第一次ボーア戦争ではアフリカーナーの両国がイギリスを退けたが、第二次ボーア戦争1899年 - 1902年)では敗北し、それらもすべてイギリスの手に落ちた。アフリカーナーのみならず、独立していた先住アフリカ人諸民族のアフリカーナーとイギリス人双方に対する抵抗も続いたが、1879年ズールー戦争のように抵抗した民族はすべて敗れ、南アフリカはほぼ完全にイギリスに支配された。

1910年5月31日に、ケープ州、ナタール州、トランスヴァール州、オレンジ州の4州からなる南アフリカ連邦として統合され、イギリス帝国内のドミニオン(自治領)としてアフリカーナーの自治を確立した。翌1911年には、鉱山における白人黒人間の職種区分と人数比を全国的規模で統一することを目的とした、白人労働者保護のための最初の人種主義法である「鉱山・労働法」が制定された。それからも人種差別法の制定は続いた。

1931年にはウェストミンスター憲章が採択され、南アフリカ連邦は外交権をはじめイギリスと同格の主権を獲得。1934年にはイギリス国会で南アフリカ連邦地位法が可決され、正式に主権国家として規定された。1939年に第二次世界大戦が勃発すると、南アフリカ連邦は連合国の一員として参戦した。

アパルトヘイト時代の人種隔離についての規定が表記されたビーチの看板

1948年にアフリカーナーの農民や都市の貧しい白人を基盤とする国民党が政権を握り、ダニエル・フランソワ・マランが首相に就任すると、国民党はアパルトヘイト政策(人種隔離政策)を本格的に推進していった。国際連合の抗議やアフリカ人民評議会などの団体の抵抗にもかかわらず、国民党はアパルトヘイト政策をやめることはなかった[注釈 2]。国際関係としては、反共主義を押し出し、自由主義陣営として朝鮮戦争に軍を派遣した。

1958年にマランに続いてヘンドリック・フルウールトが首相に就任すると、南アフリカは1960年代から1980年代にかけて強固なアパルトヘイト政策を敷いた。他方、国内では人種平等を求める黒人系のアフリカ民族会議(ANC)による民族解放運動が進み、ゲリラ戦が行われた。1960年シャープビル虐殺事件をきっかけに、1961年にはイギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、イギリス連邦から脱退し、立憲君主制に代えて共和制を採用して新たに国名を南アフリカ共和国と定めた。一方で、日本人は白人でないにもかかわらず白人であるかのように扱われる名誉白人として認められ、日本は南アフリカ政府や南アフリカ企業と深いつながりを持つことになった。また、世界的に脱植民地化時代に突入していたにもかからず、このように露骨な人種主義政策をとり続けたために、域内のアフリカの新興独立国から国際的に孤立したため[注釈 3]、同様に域内で孤立していた白人国家ローデシアや、アフリカにおける植民地帝国の維持を続けるポルトガル、そして強固に反共政策をとっていた中華民国台湾)や、汎アラブ主義の波に対抗していたイスラエルとの結びつきを深めた。

ロベン島にある刑務所。刑務所は反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕された政治犯の強制収容所として使われ、ネルソン・マンデラウォルター・シスールロバート・ソブクウェらが収監された。ロベン島は1999年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された

1966年にフルウールトが暗殺されたあと、バルタザール・フォルスターが次代の首相に就任した。フォルスター政権成立に前後して同年8月より占領していたナミビアでも独立を目指すSWAPOによるナミビア独立戦争1966年 - 1990年)が始まった。

1974年植民地戦争によって疲弊したポルトガルでカーネーション革命が勃発し、エスタード・ノーヴォ体制が崩壊して左派政権が誕生して植民地の放棄を打ち出すと、近隣の旧ポルトガル植民地だったアンゴラモザンビーク社会主義国として新たなスタートを切り、両国は南アフリカとローデシアの白人支配に対するブラックアフリカ諸国の最前線であるフロントライン諸国英語版となった。南アフリカとローデシアは強行に国内を引き締める一方、両国に対して直接、間接の軍事介入を行い、両国を苦しめた。さらに国内でも、1976年にソウェト蜂起が勃発し、この黒人蜂起に対するフォルスター首相の対応は国際的な批判を浴びてさらに国内では政治スキャンダルで追い込まれて辞することになり、軍事介入を主導してきた強硬派で国防相だったP・W・ボータが後継の首相に就任した。

1980年、ローデシアはローデシア紛争の末に白人政権が崩壊して新たに黒人国家ジンバブエが成立し、反共のための戦いから脱落した。一方、南アフリカ防衛軍による直接介入が行われていたアンゴラでも、キューバやブラックアフリカ諸国に支援されたアンゴラ政府軍の抵抗が続き、戦争は泥沼の様相を呈していた。国内でも1980年代にはボータは首相職を廃止して大統領に就任して強権を振るい、反体制運動も激しくなり、さらにそれまでの反共的姿勢から南アフリカを優遇していた西側諸国からも国際的に経済制裁を受け、南アフリカ内外で反アパルトヘイト運動が高まった。1988年には第二次世界大戦後のアフリカで最も大規模な戦いの1つだったクイト・クアナヴァレの戦い英語版でアンゴラ=キューバ連合軍に敗北し、この戦いをきっかけに南アフリカはキューバ軍のアンゴラからの撤退と引き換えに占領していたナミビアの独立を認めた。軍事介入の失敗により、アパルトヘイト体制は風前の灯火となっていた。

このような情勢の悪化から辞任したボータ大統領の後任であるデ・クラーク大統領は冷戦の終結した1990年代に入ると、アパルトヘイト関連法の廃止、人種主義法の全廃を決定するとの英断を下した。また、同時に1970年代から1980年代にかけて6発の核兵器を密かに製造・配備をしていたが、核拡散防止条約加盟前にすべて破棄していたことを1993年に発表した。

1994年4月に同国史上初の全人種参加の総選挙が実施され、アフリカ民族会議(ANC)が勝利し、ネルソン・マンデラ議長が大統領に就任した。副大統領にANCのターボ・ムベキと国民党党首のデ・クラーク元大統領が就任した。アパルトヘイト廃止に伴いイギリス連邦と国連に復帰し、アフリカ統一機構(OAU)に加盟した。マンデラ政権成立後、新しい憲法を作るための制憲議会が始まり、1996年には新憲法が採択されたが国民党は政権から離脱した。

アパルトヘイトが撤廃された21世紀になっても依然として人種間失業率格差が解消されないでいた理由は、アパルトヘイトが教育水準格差をも生み出していたことがもっとも大きな要因と考えられる。アパルトヘイト撤廃によって即日雇用平等の権利を得たとしても、当時の労働人口の中心となる青年層はすでに教育水準の差が確定してしまっており、アパルトヘイト時代に教育を受ける機会を得られなかった国民は、炭坑労働者など、雇用が不安定な業種にしか職を求めることができなかった。さらに、鉱山は商品市況によって炭鉱労働者の雇用または解雇を頻繁に行うこともあり、黒人の失業率は白人のそれと比べて非常に高い統計結果が出てしまうのである。しかし、撤廃後12年以上が経過し、教育を受ける世代が一巡したことで、白人・黒人間の失業率格差は縮小しつつある。また政府は、単純労働者からIT技術者の育成など技術労働者へ教育プログラムなどを用意し、国民のスキルアップに努めている。今後、失業率の問題は、人種失業率格差から、数十あると言われる各部族間格差を縮小させるような政策が期待されているが、犯罪率も高く、多くの過激派組織も活動している点は否定できない。また、事実上パスポートなしで移民を受け入れる政策をとってからは、特に隣国のひとつであるジンバブエからの移民が急増し、国内に住む黒人の失業率が増加する結果となり、大規模な移民排斥運動も起こり始めている[8]。さらに、黒人への優遇政策によりこれまで要職に就いていた白人が押し出される格好になり、白人の失業率が上昇することになった[9]

政治

アフリカでも数少ない複数政党制が機能する民主主義国家のひとつである。議会は両院制で、いずれも任期5年の全国州評議会(90名、上院)国民議会(400名、下院)で構成され、元首たる大統領は国民議会の議決により選出される。

複都制を採用しており、立法府はケープタウン市都市圏、行政府はツワネ都市圏(プレトリア)、司法府はブルームフォンテーンに置かれている。

立法

議会議事堂(ケープタウン)

アパルトヘイト撤廃後に6度の総選挙が実施され、反アパルトヘイト闘争を主導したアフリカ民族会議(ANC)が2004年総選挙の時は、7割近い得票で圧勝していたが、次回以降の選挙では経済停滞と高失業率を背景に得票率が低下し[10]2019年総選挙では57.50%と、6割を切っている。
アフリカーナーリベラル派に支持基盤を持つ民主同盟(DA)、アフリカ民族会議(ANC)の青年同盟のリーダーであったジュリアス・マレマがANCを離脱して2013年7月に立ち上げた経済的解放の闘士(EFF)、クワズールー・ナタール州を地盤とするインカタ自由党(IFP)が続くが、全議席の約6割をANCが占めている。しかし、憲法改正の際、国会議員の3分の2以上の賛成が必要となるため、憲法改正させるためにアフリカ民族会議が他党との協力をしなければならなくなる可能性が高くなる[10]。また得票率低下が今後進んでいった場合、ANCは少数与党として政権運営をするか、他党と連立しなければならない状況になる可能性も高くなる。

南アフリカ議会の会派構成
政党名 全国州評議会
(上院)
国民議会
(下院)
常任議員 特別議員
アフリカ民族会議 (ANC) 29 25 230
民主同盟 (DA) 13 7 84
経済的解放の闘士 (EFF) 9 2 44
インカタ自由党 (IFP) 1 1 14
自由戦線プラス(FF Plus) 2 1 10
アフリカ・キリスト教民主党(ACDP) 0 0 4
統一民主運動(UDM) 0 0 2
アフリカ変革運動 0 0 2
グッド 0 0 2
アフリカ独立会議(AIC) 0 0 2
国民会議(COPE) 0 0 2
国民自由党 (IFP) 0 0 2
パンアフリカニスト会議(PAC) 0 0 1
アル・ジャマア(ALJAMA) 0 0 1
54 36 400

行政

行政府庁舎、ユニオンハウスプレトリア

行政の中心地はプレトリア(ツワネ市都市圏)である。大統領は行政府の首長を兼務し、内閣を組織する。

司法

1994年に設置された憲法裁判所のほか、最高裁判所を筆頭とする三審制司法制度である。司法府はブルームフォンテーンに置かれている。

警察

南アフリカの警察組織・警備会社は後述の犯罪問題により、強力な武装化をしている場合が多い[要出典]。たとえば、拳銃やライフル、スタンガンや時には手榴弾(俗語でパイナップル)を所持している場合がある。また、南アフリカで活動する警備会社は9,000以上で、働く警備員の数は40万人と、警察官や国防軍の兵士よりも多いとされている[11]

軍事

南アフリカ国防軍(South African National Defence Force, SANDF)は陸軍海軍空軍の三軍と南アフリカ総合医療部隊から構成される。

かつて冷戦時代に存在した南アフリカ防衛軍South African Defence Force, SADF)は、アパルトヘイト体制維持のために国内のアフリカ民族会議(ANC)や占領していたナミビア南西アフリカ人民機構(SWAPO)のゲリラとの非正規戦、およびアンゴラ社会主義政権とアンゴラに介入したキューバ軍との戦いに従事していた。現在の南アフリカ国防軍は、アパルトヘイト体制崩壊後の1994年に再編成されたものである。

民間軍事会社

アパルトヘイト終了後の軍縮などにより、南アフリカ国内外にて不正規戦や秘密工作を行った軍人達が(特にアンゴラの元難民である黒人兵士達はアフリカ民族会議の圧力により、軍基地跡地の貧しい地域に居住することを余儀なくされた)大量に職を失った。南アフリカ国防軍不正規戦部隊の出身である元軍人らがエグゼクティブ・アウトカムズという民間軍事会社を設立し、冷戦終了後内戦が勃発したアンゴラシエラレオネなどで戦い、同社が解散したあとは、赤道ギニアにてエグゼクティブ・アウトカムズの元社員らがクーデター未遂を起こして逮捕された。

ほかにも、南アフリカ国防軍出身者はイラク戦争でもイギリスの民間軍事会社に警備要員として雇用されており、ハート・セキュリティ社に所蔵している元南アフリカ警察出身のGrey Branfield(銃撃戦により死亡)と元自衛官の日本人と一緒に勤務していた4人の警備要員(全員銃撃戦により死亡)、エリニュス社に所属している南西アフリカ警察不正規戦部隊出身のFrançois Strydom(自爆テロにより死亡)と秘密警察出身のDeon Gouws(同じ自爆テロにより負傷)など、1,000人程度が確認されている。

国際関係

南アフリカ共和国が外交使節を派遣している諸国の一覧図

冷戦中の南アフリカ共和国は人種主義に基づくアパルトヘイト体制維持を掲げたため、ブラックアフリカをはじめとする国際社会から孤立し、わずかにイスラエル中華民国台湾)などが友好国として存在するのみだった。しかし、南部アフリカにおける反共の砦と自らを規定していたため、実際は軍事面において西側諸国との友好関係も保っていた。このような反共政策を背景にしてアンゴラ内戦1974年 - 2002年)に直接介入したり、モザンビーク内戦1977年 - 1992年)でのモザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)支援を通して周辺の社会主義黒人政権に不安定工作を発動したが、世界的な反アパルトヘイトキャンペーンと東側諸国の勢力低下により強硬政策は頓挫した。そのため、アンゴラ、モザンビーク両国に干渉することをやめ、1990年にはアンゴラからのキューバ軍の撤退と引き換えに占領していたナミビアの独立を認めた。

フレデリック・ウィレム・デクラークがアパルトヘイト体制を葬ったあと、1994年にネルソン・マンデラを首班としたANC政権が成立すると同時に、南アフリカ共和国はアフリカ統一機構(OAU)に加盟し、国際社会に合流した。

日本との関係

  • 在留日本人数 - 1,505人(2017年10月現在)[12]
  • 在日南アフリカ人数 - 918人(2018年6月現在)[13]

在留邦人数は1997年10月には3,517名いたが、現在では2分の1以下となっている。ヨハネスブルクには日本人学校もある。また、ごく少数だが、永住者日系人も存在する。

ケープ植民地入植者にはオランダ人ヤン・ファン・リーベックによって、長崎の出島から連れてこられたハポンと呼ばれる日本人家族が含まれていたという説もある[14]

公式記録として残る南アフリカに初めて入国した日本人は、慶応2年(1865年)1月にケープタウンに立ち寄った幕府のロシア派遣留学生ら6名で、移住者としては、1898年(明治31年)入植の古谷駒平らが最初期にあたる(在南アフリカ日本人参照)。

地方行政区画

主要都市

主要な都市はプレトリア(首都)、ケープタウン(首都)、ブルームフォンテーン(首都)、ヨハネスブルグダーバンソウェトポート・エリザベスがある。

地理

南アフリカ共和国の地図
地形図
衛星写真、白い空洞の部分はレソト王国

アフリカ大陸の最南端に位置し、ナミビアボツワナジンバブエモザンビークエスワティニと国境を接し、レソトを囲んでいる。南西部は南大西洋に面し、南部から東部にかけてはインド洋に面するため2,500キロという長い海岸線を有する。海岸平野は狭く、国土の全体が高地になる。内陸はカルーと呼ばれる広大な平坦地で、人口は少ない。北西部はナミブ砂漠の延長部である。東部にはドラケンスバーグ山脈が連なる。国の最高地点はレソトとの国境にあるマハディ山(標高3,450メートル)である。

気候

夏期は10月から3月、冬期は5月から8月である。地域による差はあるが、1年を通じて気候は比較的温暖で日照時間が長い。

しかし、海岸部以外は高地なため同緯度の国に比べやや気温は低い。国全体の平均気温は、冬が0 - 15度、夏が20 - 40度と差が大きい。内陸高地の冬の気温は0度以下になることもあり、ドラケンスバーグ山脈のような高い山の山頂では降雪もある。東部の海岸は高度も低く、暖流モザンビーク海流が流れているために暖かい。西部の海岸は寒流ベンゲラ海流の影響を受けて気温はそれほど上がらない。

雨季は11月から3月。東と西で雨の降り方が大きく違う。東部は季節風の影響で夏に雨が降るが、南西の海岸はいわゆる地中海性気候で、移動性低気圧により冬に雨が多い。降雨量は東側から西側にいくにしたがって少なくなる。

内陸部は高原地帯であるためそれほど暑くはならない。

動植物

南アフリカには特色ある生物種からなる生態系が形成されている。植物は多様な環境に適応したベンケイソウ科トウダイグサ科ハマミズナ科多肉植物やトランスヴァール地方に花畑を形成するガーベラユリオプスデージーなどキク科の植物、あるいはエリカクンシランなどは珍奇な姿や美しい花から園芸植物として世界中で栽培されている。南アフリカの国土は全世界のわずか2%ほどにすぎないが、世界の植物の10%近く、約2万4,000種類の原産国となっている。また、脊椎動物の約7%、昆虫の約5.5%、海洋生物の約15%にとっての生息地ともなっている[15]


経済

初期の銀行業はスタンダード銀行バークレイズに支配されていた。1987年時点では、ヨハネスブルク証券取引所に上場していた全企業の83%を、SanlamOld Mutualアングロ・アメリカンRembrandt Group の4財閥が支配していた[16]

2012年にはマリカナ鉱山における労使対立が起こった。IMFの統計によると、2018年のGDPは3,681億ドルである。1人あたりのGDPは6,353ドルで、アフリカ全体(データの無いソマリア除く)ではボツワナに次いで6位に位置する。購買力平価ではそれぞれ7,897億ドル、1万3,629ドルとなる[4]。しかし、2014年時点のジニ係数は63(世界銀行調べ)と、世界でもっとも格差が大きい国のひとつである[17]

主要産業

農業果樹穀類栽培牧畜が主体である。同国はアフリカ大陸で最大のトウモロコシ生産国であり、2009 - 2010年度には400万トンの生産過剰となっている。また、南アフリカの砂糖サトウキビ)は世界金融危機の出端から年に十数%の割合で高騰していった。

伝統的な作物としての果物にはグアバアボカドがあり、これらは南アの重要な生産物となっている。現在はパンなどの主食用として小麦もつくっている。

最近ではマカダミアの栽培に力を入れており、毎年約4,000ヘクタールが新たに植林されている。その背景には中国での旺盛な需要があり、生産量は1996年の3,000トンから2015年には4万トンを超えるまでになっている[18]

酒造ワインを手がけており、ワイン作りはケープタウン付近で特に盛んで輸出もされている。

メリノ種羊毛オーストラリアに次ぐ生産量を誇る。皮革用の牝羊も飼われているが、最高級品は胎児を取り出して剥ぐため、愛護団体などから批判を受けている。

鉱業生産物はダイヤモンドプラチナウラン鉄鉱石石炭クロムマンガン石綿。豊富な鉱物資源を誇り、特に金は世界の産出量の半分を占める。この豊富な産金力を背景にクルーガーランド金貨を発行していたが、現在は限定品としてのみわずかに販売されている。石油の産出はない。

工業食品製鉄化学繊維自動車などの分野で盛んである。

近年、ダイムラー・クライスラー(現・ダイムラー)社がダーバン市内に自動車製造工場を建設。メルセデス・ベンツの、特に右ハンドル仕様を製造している。これらの車両は南アフリカ向けのみならず、多くが輸出に割り振られている。またBMWフォルクスワーゲン日産自動車なども輸出拠点として同国に工場を置いている。なお、これらの拠点は東海岸のポートエリザベスに多く存在している。

GDP成長率は2010年に3.0%、2015年に1.5%[19]と低成長ながら堅調な成長が続いている。JSEは世界的な証券取引所である。

アパルトヘイト廃止後に電力需要が急増したにもかかわらず、発電所の建設が10年以上行われなかったため、2007年ごろから電力不足が問題となっている。2008年1月には南アフリカ電力公社(Eskom)は計画停電を実施し、当時資源高により好調だったプラチナ鉱山操業が制限される事態となり、金やプラチナの相場を高騰させた。これを解消するためEskomは近隣諸国からの送電や発電所の増設を計画しているが、電力不足は2015年ごろまでは解消されない見込みである。

2010年8月、公務員ストが発生した。労組側(COSATU)は、公務員賃金の8.6%引き上げと住宅手当1,000ランド(約1万円)の新設の要求であった。政府側の最終回答はそれぞれ7%、700ランドにとどまっている。

失業が大きな問題となっており、2011年の国勢調査では失業率は29.8%であった[20]。その後、持ち直す局面もあったが、2019年第3・四半期の失業率は29.1%となっている[21]

交通

ビクトリア&アルフレッド・ウォーター・フロントはテーブル湾に面した港で、ショッピング・センター、レストラン、ホテルなどが集まるケープタウンの新しい観光スポットである

道路