国家総動員法
日本国政府国章(準)
日本の法令
通称・略称 なし
法令番号 昭和13年4月1日法律第55号
種類 行政手続法
効力 廃止
主な内容 戦時統制経済の導入
第20回総選挙衆議院
第1次近衛内閣
関連法令 戦時緊急措置法電力管理法など
条文リンク 官報
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国家総動員法(こっかそうどういんほう)は、1938年昭和13年)第1次近衛内閣によって第73帝国議会に提出され、制定された法律大東亜戦争(日中戦争)の長期化による総力戦の遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。

田中義一内閣による1929年(昭和4年)「総動員計画設定処務要綱案」から発展した法律である[1]

1945年(昭和20年)の日本の降伏による大東亜戦争第二次世界大戦)敗戦によって名目を失い、同年12月20日に公布された「国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律」(昭和20年法律第44号)により1946年(昭和21年)4月1日から廃止された。

総動員法整備への道程

軍需工業動員法

国家総動員法成立を報じる新聞
1938年(昭和13年)

日本国内においては、日英同盟により連合国の一国として参戦した第一次世界大戦の戦訓より、戦争における勝利は国力の全てを軍需へ注ぎ込み、国家が「総力戦体制」をとることが必須であるという認識が広まっていた。日本国内での国家総動員体制への法整備は、軍需品管理案に始まる[2]。これは、旧日本陸軍シベリア出兵に備える必要性から作られたもので、陸軍省軍務局軍事課と兵器局銃砲課で検討を加えた後、海軍省・法制局と折衝を重ね、1918年(大正7年)2月18日に成案化され、その後「軍需工業動員法案」として閣議決定された[3]。同年3月4日に、第40帝国議会へ提出され、衆議院を3月20日に通過、貴族院で3月24日に可決され、全22条からなる軍需工業動員法として4月17日に公布され、20日後の5月7日により施行された[4]。この法律は、戦時に必要物資を徴発するのではなく、平時において、戦時に必要な物資を予想し、戦時に対応できるよう不足分について諸工業に保護奨励を与え、戦時には政府がこれらを管理、使用、収用、徴用することを定めたものである[4]

軍需工業動員法は原敬から「一夜作りのものにて不備杜撰」と酷評された[4]ように、未消化な法律だったが総力戦準備を目的とした調査・立法・実施のための機関が政府内に設置された意義は大きかった[5]

法案成立後、軍需工業動員法を施行するために、内閣管理下に「軍需局」が設置された[6]。(軍需局官制(1918年(大正7年)6月1日勅令第178号)に基く。)[6]。総裁は首相、軍需次官は陸海軍次官が兼任、その下に局長、書記官2名、技師2名、属・技手10名、その他に参与(関係各省庁からの勅任官から首相の奏請によって内閣が任命)、事務官(関係各省庁の高等官から首相の奏請によって内閣が任命)からなった[6]。また、同年6月6日、陸軍省内に「兵器局工政課」を新設した[7]。工政課の最大の業務は、毎年度策定される陸軍軍需工業動員計画の策定だった[7]。 これは、「軍需工業動員法」の施行に合わせて、軍需工業の調査と実施を掌管するために陸軍内に作られたもので、軍需局と連携して活動を始めた[7]

その後寺内正毅内閣から原敬内閣に代わると、1918年(大正7年)10月1日には軍需工業動員法の朝鮮台湾樺太関東州南満州鉄道付属地への施行拡大[8]、翌1919年(大正8年)1月13日には、軍需工業動員ニ関スル工場事業場臨時調査ノ件(大正8年1月13日閣令第1号)の制定による工場事業所の従業員数、生産能力の調査が行われ[9]、1919年(大正8年)12月15日には、同法の第11、12、13、16条を根拠にした軍需調査令(大正8年勅令第495号)が制定された[7]

国勢院設置と廃止

予想される物資の必要量を戦時にまかなえるよう、平時に工業力を準備するためには平時の国力の調査が必要である。そのために作られたのが国勢院である。1920年(大正9年)5月15日、「国勢院官制」(勅令第139号)が公布され、国勢院が設置された[10]。国勢院は、内閣軍需局と内閣統計局を統合した機関で、政府関係機関を整備強化したものである[10]。首相の管理下にあり、専任の総裁の下に、部長、書記官、事務官、統計官、技師、統計官補、技手などで構成された[10]。しかし、その後の世界的な軍縮の機運や、日本国内の第一次世界大戦後の不況に伴う緊縮財政が原因となって、1922年(大正11年)10月30日、勅令第461号により国勢院は廃止された[11]この廃止により、軍需物資の取得統制のための中心機関が失われたことから、国勢院に代わるものとして、陸海軍は合議により、翌1923年(大正12年)に軍需工業動員協定委員会を設けた[12]

その後数年は、総動員体制を統括するための中心的組織は作られなかったが、1926年(昭和元年)になると、帝国議会で国防論議が高まりを見せたため、同年4月22日に政府は「国家総動員機関設置準備委員会ニ関スル件」を閣議決定し、機関設置の検討に入った[13]。一方、政府の動きとは別に陸軍でも総動員体制への準備が進んでいた。同年10月1日に、陸軍省内に整備局が設置され、以前の兵器局工政課とほぼ同じ業務を行うことになった[14]

資源局

前年に設置された国家総動員機関設置準備委員会での議論の結果、内閣資源局が、1927年(昭和2年)5月26日に設置された[15]。資源局は、総動員資源の統制・運用を準備することを目的とした機関である[15]。第一次世界大戦以後、日本陸軍が調査・研究してきた国家総動員思想を制度的に保障した機関として、資源局の設置は重要な意味を持っている[15]

資源局の設置に伴い、同年7月18日には資源審議会が設置された[16]。資源審議会は、資源局の関連業務に関する内閣諮問機関である[16]。この後、資源局は資源調査法の策定(法律第53号、昭和4年4月12日公布)、総動員計画設定処務要綱の策定(同年6月18日閣議決定)などを実施[17]、この要綱に基づいて、総動員基本計画綱領、暫定期間計画設定処務規程、暫定期間計画設定ニ関スル方針、暫定期間計画設定ニ関スル指示事項を作成し、総動員計画への本格的な準備が始まった[18]。更に、内閣審議会の設立(昭和10年5月10日、勅令第118号)、内閣調査局の設立(昭和10年5月10日、勅令第119号)、情報委員会の設立(昭和11年7月1日、勅令第138号)などが続いた[19]

企画院

内閣資源局は、その後の1937年(昭和12年)10月25日に企画庁(企画庁の元は内閣調査局)と統合して企画院へ改組された[20]。ここに誕生した企画院は、電力国家管理・国家総動員政策などの総合国策企画官庁としての機能を併せ持った強大な機関だった[20]

このような歴史的背景のもとで、国家総動員法は、支那事変日中戦争)の長期化予想に伴い、総動員体制を保障する為の基本法として現れてきた。

法律制定の背景と影響

支那事変の激化に伴い、当時の日本経済では中国で活動する大軍の需要を平時の経済状態のままで満たすことが出来なくなっていたため、経済の戦時体制化が急務であった。

史上初めて国民総動員体制を採用したのは、フランス革命戦争期のフランスであった[21]。日本語での「国家総動員」という言葉は、「総動員」という戦争計画を前提とする軍事用語と、ドイツ国防軍陸軍参謀次長のエーリヒ・ルーデンドルフが指導した「ドイツ戦争経済」からヒントを得て、1921年(大正10年)におけるバーデン=バーデンの密約組の永田鉄山が造語したものだとされている。のちの1935年(昭和10年)、ルーデンドルフ自ら『国家総力戦論』を著したのを受けて、第二次世界大戦敗戦後に岡村寧次が永田や東條英機の言動から、この国家総動員体制に対して後知恵で「総力戦体制」と名付けた。但し、徴兵制と総動員の概念は、非職業軍人(徴兵された大衆)でも多くの役割を担える歩兵主体から、通信兵・砲兵・衛生兵・工兵・空兵といった(平時からスペシャリストとして訓練を受けている)職業軍人でなければ役割を担うのが難しい特殊兵科要員に軍の需要が移り替わっていたため、空疎化しつつあったが、永田はこの種の近代化を理解していなかった。この種の近代化を主唱したのは、山岡重厚山下奉文などの「皇道派」であったとされている[22]

概要は、企業に対し、国家が需要を提供し生産に集中させ、それを法律によって強制することで、生産効率を上昇させ、軍需物資の増産を達成し、また、国家が生産の円滑化に責任を持つことで企業の倒産を防ぐことを目的とした。

成立後の1938年(昭和13年)8月には、第6条により労働者の雇用、解雇、賃金、労働時間などが統制され、他の条項も全面的に発動された。物資動員計画では、重要物資は軍需、官需、輸出需要、民需と区別して配当された。しかし、軍需が優先され、民需は最低限まで切り詰められた。例えば、鉄鋼、銅、亜鉛、鉛、ゴム、羊毛などの民需使用は禁止された[23]

しかし、この法案は総動員体制の樹立を助けた一方で、社会主義的であり、ソ連計画経済の影響を受けていた。のちに、この法案を成立させた第一次近衛内閣の後に首相となった平沼騏一郎を中心とした右翼反共主義者の重鎮により、企画院において秘密裡にマルクス主義の研究がなされていたとして、企画院事件が引き起こされた。

また、戦後産業政策に見られるように経済官僚が産業を統制する規制型経済構造を構築した契機となったことから、大政翼賛会の成立した年であった1940年(昭和15年)にちなんで「1940年体制」[24]国民学校令が発布され、帝国国策遂行要綱が作られた年であった1941年(昭和16年)にちなんで「昭和十六年体制」[25]という言葉も存在する。