大隈 重信
おおくま しげのぶ
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生年月日 1838年3月11日
天保9年2月16日
出生地 日本の旗 日本 肥前国佐賀城下会所小路
(現・佐賀県佐賀市水ヶ江)
没年月日 (1922-01-10) 1922年1月10日(83歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府東京市牛込区早稲田
出身校 弘道館(佐賀藩校)
前職 公務員佐賀藩士)
所属政党立憲改進党→)
無所属→)
(立憲改進党→)
進歩党→)
憲政党→)
憲政本党
称号 従一位
大勲位菊花章頸飾
侯爵
配偶者 大隈美登
大隈綾子
子女 大隈熊子(長女)
親族 大隈彦兵衛(五世祖父)
大隈嘉一郎(高祖父)
大隈政辰(曾祖父)
大隈満辰(祖父)
大隈信保(父)
大隈信常(養子・養嗣子)
大隈英麿(婿養子・養嗣子)
三枝七四郎(義父)
三枝守富(義兄)
大隈信幸(養孫)
サイン OkumaS kao.png

内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1914年4月16日 - 1916年10月9日
天皇 大正天皇

日本の旗 日本
第8代 内閣総理大臣
内閣 第1次大隈内閣
在任期間 1898年6月30日 - 1898年11月8日
天皇 明治天皇

日本の旗 第29代 外務大臣
内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1915年8月10日 - 1915年10月13日

日本の旗 第14代 外務大臣
在任期間 1898年6月30日 - 1898年11月8日

日本の旗 第12代 外務大臣
在任期間 1896年9月22日 - 1897年11月6日

その他の職歴
日本の旗 第32代 内務大臣
(1915年7月30日 - 1915年8月10日)
日本の旗 第30代 外務大臣
(1914年4月16日 - 1915年1月17日
日本の旗 第13代 農商務大臣
(1897年3月29日 - 1897年11月6日)
日本の旗 第4代 大蔵卿
1873年10月25日 - 1880年2月28日
日本の旗 貴族院議員
1916年7月14日 - 1922年1月10日)
日本の旗 第7代 外務大臣
1888年2月1日 - 1889年12月24日
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大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日天保9年2月16日〉- 1922年大正11年〉1月10日)は、日本武士佐賀藩士)、政治家教育者位階勲等爵位従一位大勲位侯爵菅原[1]

参議大蔵卿内閣総理大臣(第817代)、外務大臣(第34101328代)、農商務大臣第11代内務大臣(第3032代)、枢密顧問官貴族院議員。

佐賀藩の上士の家に生まれ、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府に抜擢され、参議大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。大正3年(1914年)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、対華21カ条要求などに関与した。また早稲田大学1882年東京専門学校として設立)の創設者であり、初代総長を勤めた。早稲田大学学内では「大隈老侯」と現在でも呼ばれる。

生涯

生い立ち

佐賀県佐賀市に現存する大隈重信の生家(国の史跡に指定)
佐賀藩士時代の大隈

天保9年(1838年)2月16日、佐賀城下会所小路(現・佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。

重信は7歳で藩校弘道館に入学し、『朱子学』中心の儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。このころ、枝吉神陽から国学を学び、枝吉が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣江藤新平らと参加した。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任したが、実際には講義は殆ど行わず、議論や藩からの命を受けて各地で交渉を行うなどの仕事をしている[2]

大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するにはいたらなかった。慶応元年(1865年)、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導にあたった。またフルベッキに英学を学んだ。 このとき新約聖書アメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けた。また京都と長崎を往来し、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島とともに将軍徳川慶喜大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛のうえ佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。謹慎後、大隈は鍋島直正の前に召され、積極行動を呼びかけたが容れられなかった[3]

明治維新時の活躍

慶応4年[注釈 1]1868年)、幕府役人が去った長崎の管理を行うために、藩命を受けて長崎に赴任した[3]。12月18日には前任の小松清廉の推挙により、外国官副知事に就任している[4]

新政府での活動

壮年期の大隈重信

明治2年(1869年)1月10日、再び参与に任じられ、1月12日からは会計官御用掛に任ぜられた[5]

3月30日には会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定、版籍奉還への実務にも携わった。4月17日には外国官副知事を免ぜられたが、それ以降もパークスとの交渉には大隈があたっている[6]。7月8日の二官六省制度の設立以降は大蔵大輔となった。7月22日には民部大輔に転じ、8月11日の大蔵・民部両省の合併に基づき双方の大輔を兼ねた[7]。この頃大隈邸には伊藤博文や井上馨、前島密渋沢栄一といった若手官僚が集まり、寝起きするようになった。このため大隈邸は「築地梁山泊」と称された[8]。強大な権限を持つ大蔵省の実力者として、地租改正などの改革にあたるとともに、殖産興業政策を推進した。官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の建設などに尽くした。しかしこれは急進的な改革を嫌う副島種臣や佐々木高行広沢真臣といった保守派や、民力休養を考える大久保利通らの嫌うところとなった。

明治4年6月25日、大久保主導の制度改革で参議と少輔以上が免官となり、新参議となった木戸と西郷隆盛によって新たな人事が行われることになった。大隈はこの日参議と大蔵大輔を免ぜられ、6月29日に大蔵大輔に再任された。しかし7月14日には参議に任ぜられ、大蔵大輔は免ぜられた[9]。11月12日に岩倉使節団が出国すると、大隈は留守政府において三条・西郷らの信任を得て、勢力を拡大し、大蔵大輔となっていた井上馨と対立するようになる[10]1873年(明治6年)5月に井上が辞職すると、大蔵省事務総裁を兼ねて大蔵省の実権を手にした。5月26日には大蔵卿の大久保が帰国したが、その後も実権を握り続けた[11]

一方でウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受け、博覧会事務局を設置。大隈が総裁、佐野常民が副総裁を務め、明治になって政府が初めて参加した万国博覧会となり、近代博物館の源流となった。大隈は会場に出席するため渡欧しようとしたが、政府内の同意が得られず出国しなかった[12]

明治六年政変では、当初征韓論に反対の態度を示さなかったが、10月13日以降反征韓派としての活動を始めた[13]。征韓派は失脚し、佐賀藩の先輩であった江藤新平・副島種臣と袂を分かった。政変後の10月25日には参議兼大蔵卿になった[14]。また大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出している。

大久保政権下の活動

明治7年(1876年)1月26日には三条より、大久保とともに台湾問題の担当を命ぜられ、積極的に出兵方針を推し進めることになる[15]。大隈は出兵を命ぜられた西郷従道とともに長崎に向かったが、その間にイギリスとアメリカから抗議があったため、出兵を一時見合わせる方針となった。ところが西郷は独断で出兵を行い、政府も追認せざるを得なくなった。5月23日には左大臣となっていた島津久光が、大隈とその腹心である吉田清成の免職を要求した。大隈は病気を理由に辞表を提出したものの、台湾問題の最中に担当者である大隈を辞職させることもできず、久光の意見は却下された[16]

明治8年(1875年)1月4日には「収入支出ノ源流ヲ清マシ理財会計ノ根本ヲ立ツルノ議」という意見書を三条宛に提出し、条約改正の実現と、間接税の重視と内需の拡大、官営事業の払い下げなどを主張している[17]。2月11日の大阪会議の開催については全く知らされておらず、大隈を嫌うようになっていた木戸の復帰は、大隈の権力基盤を及びやかすこととなる[18]。この頃から大隈は体調を崩したとして出仕せず、三条・岩倉・大久保らは大隈の大蔵卿からの解任を検討しているものの、後任候補の伊藤が受けなかったことや、大隈以上の財政家がいないことを理由に大隈を慰留して続投させた[19]

伊藤政権下の大隈

明治11年(1878年)5月14日に大久保が紀尾井坂の変によって暗殺されると、政府の主導権は伊藤に移った[20]

大隈は、会計検査院創設のための建議を行っており、会計検査院は明治13年(1880年)3月に設立された。明治14年(1881年)には、正確な統計の必要性を感じ統計院の設立を建議・設立し、自ら初代院長となった。

明治13年(1880年)2月28日、参議の各省卿兼任が解かれ、大隈も会計担当参議となった[21]

明治十四年政変

その頃自由民権運動の盛り上がりにより、各参議も立憲政体についての意見書を提出する動きがあったが、大隈はこれになかなか応じなかった。明治14年(1881年)1月には伊藤・井上・黒田清隆とともに熱海の温泉宿で立憲政体について語り合ったが結論は出なかった[22]。3月、大隈は意見書[注釈 2]を提出するが、それは2年後に国会を開き、イギリス流の政党内閣とするという急進的なものであり、しかも伊藤ら他の内閣閣員には内密にしてほしいという条件が付けられていた[23]。7月にこの意見書の内容を知った伊藤は驚愕し、大隈は「実現できるような見込みのものではない」と弁明したが[24]、伊藤は抗議のため出勤しなくなり、大隈は7月4日に謝罪することとなる[25]

7月26日、自由民権派の『東京横浜毎日新聞』が北海道開拓使による五代友厚への格安での払い下げを報道し、世論が沸騰した[26]。参議の間ではこの件をリークしたのが大隈であるという観測が広がり、孤立を深めることとなった[26][注釈 3]。大隈が自らを排除する動きが進んでいたのを知ったのは10月3日のことであり、10月11日には払い下げの中止と、明治23年(1890年)の国会開設、そして大隈の罷免が奏上され、裁可された。これは同日中に伊藤と西郷従道によって伝えられ、大隈も受諾した[27]。10月12日に大隈の辞任が公表されると、小野梓ら大隈系の官僚や農商務卿河野敏鎌、駅逓総監前島密らは辞職した。また大隈派官僚とつながりがあるものも罷免された[28]

立憲改進党の設立

野に下った大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄犬養毅矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)4月には立憲改進党を結成、その党首となった。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した[29]。明治20年(1887年)、伯爵に叙され、12月には正三位にのぼっている[30]

外務大臣

遭難事件で右脚を失った大隈が使用した義足(佐賀市・大隈記念館)

明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した[31]。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった[32]。明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した[33]。同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が「官吏は日本国籍保持者に限る」とした大日本帝国憲法に違反する[注釈 4]という指摘が陸奥宗光駐米公使より行われた[34]。大隈は裁判所構成法の附則から違憲ではないと主張するが、井上毅法制局長官からも同様の指摘が行われた。山田顕義法務大臣は外国人裁判官に日本国籍を取らせる帰化法を提案し、伊藤枢密院議長、井上馨農商務大臣もこれに同意して条約改正交渉の施行を遅らせるよう求めた[34]

明治22年(1889年10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった[35][注釈 5]。大隈の治療は、池田謙斎を主治医とし、手術は佐藤進高木兼寛橋本綱常エルヴィン・フォン・ベルツの執刀で行われた[35]。翌10月19日、東京に在留していた薩長出身の閣僚すべてが条約改正延期を合意し、黒田首相も条約改正延期を上奏、10月23日に大隈以外の閣僚と黒田の辞表を取りまとめて提出した[37]。大隈は病状が回復した12月14日付で辞表を提出し、12月24日に裁可、大臣の前官礼遇を受けるとともに同日に枢密顧問官に任ぜられた[37]

その後大きな活動は見せなかったが、裏面で改進党系運動に関与しており、明治24年(1891年)11月12日には政党に関わったとして枢密顧問官を辞職することとなっている[38]。12月28日には立憲改進党に再入党し、代議総会の会長という事実上の党首職についた[39]

明治29年(1896年)3月1日には立憲改進党は対外硬派の諸政党と合同し、旧進歩党を結成した。大隈は新党において中心的存在とされたものの進歩党には党首職はなく、8ヶ月たってから設置された5人の総務委員のうち大隈派と呼べるのは尾崎行雄と犬養毅にとどまり、内訌を抱えたままの存在であった[40]。4月22日から5月17日には、長崎赴任以来28年間帰省していなかった佐賀に戻り、大規模な演説会などを催している[41]

松隈内閣

ブラックタイを着用した大隈

6月、伊藤博文首相は大隈と松方を入閣させて、実業家層の支持を得るとともに、内務大臣となっていた板垣の自由党勢力を抑えることを考慮するようになった。板垣は反対したが、松方は入閣に際し大隈の入閣を条件とした。[42]元老会議は松方を推薦し、9月18日、第2次松方内閣(「松隈内閣」と呼ばれる)が発足した。


明治30年(1897年)3月29日には足尾銅山鉱毒事件で批判を受けていた榎本武揚農商務大臣が辞職し、大隈は農商務相を兼ねることとなった[43]。10月、松方首相が地租の増徴を図る方針をとると、大隈と進歩党はこれに反対し、10月31日に大隈は辞表を提出した[44]。松方内閣は12月25日に倒れ、後継首相は伊藤博文となった。伊藤は大隈に農商務大臣、板垣に法務大臣の地位を提示して入閣を求めたが、進歩党は大隈を内務大臣とし、更に重要大臣のポストを三つ要求するなど強気の対応を行った[45]。板垣の入閣も行われず、第3次伊藤内閣は政党の支援を得られない形となった。

隈板内閣

アカデミックドレスを着用した大隈

明治31年(1898年)3月の第5回衆議院議員総選挙で進歩党は第一党となったが、過半数を抑えることはできなかった[46]。6月22日、進歩党は板垣退助の率いる自由党と合同して憲政党を結成した[47]。6月24日、伊藤首相は大隈と板垣に政権を委ねるよう上奏するが、明治天皇は伊藤内閣が存続し、大隈と板垣が入閣するものと勘違いして裁可を行った[48]。明治天皇は勘違いに気がついたが、6月27日に大隈と板垣二人に対して組閣の大命が降下した[49]。板垣が内務大臣の地位を望んだため、大隈が内閣総理大臣兼外相となり、6月30日に大隈内閣が発足した[50]。陸海軍大臣を除く大臣はすべて憲政党員であり、進歩党系からは大隈の他に松田正久大蔵大臣、大東義徹法務大臣、尾崎行雄文部大臣、大石正巳農商務大臣が入閣し、旧自由党系からは板垣を含む3人の大臣が入閣する、日本初の政党内閣であった[50]。大隈と板垣が主導する体制であったため、「隈板内閣」と呼ばれる。しかし、明治天皇も過去の経緯から大隈に対して不信感を持っていたほか、外務大臣職をはじめとするポストの配分を巡って旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じているなど前途は多難であった[51]。特に旧自由党の星亨は駐米公使を辞任して帰国し、野合に過ぎない憲政党内閣では本格的な政党内閣とならないとみており、倒閣にむけて動き出すことになる[52]

このような不安定な情勢であったため、内閣は成果をほとんど挙げられなかった。

10月22日、大隈と尾崎に不信感を持っていた天皇は、辞任の是非を問うこともなく大隈に勅使を派遣し、尾崎に辞表を提出させるよう命じた[53]。大隈は進歩党系で閣僚を補充しようとしたが、天皇は大隈と板垣に対して大命を下していたことからこれを認めなかった[54]。すでに各新聞からも内閣は見放されており、10月31日に大隈らは辞表を提出した[55]

憲政本党総理

11月3日、旧進歩党は憲政本党を結成した[56]。大隈は党の中心的人物であったが、内紛のため党首を置くことはできなかった[56]。明治32年(1899年)8月、伊藤は旧自由党派とともに立憲政友会を結成した[57]。このとき、大隈の側近であった尾崎行雄は脱党し、政友会に参加している[57]。明治33年(1900年)12月18日、大隈は憲政本党の党首である総理に就任した[58]。しかし憲政本党は政友会に押されて振るわず、翌年3月までに33名の議員が離脱した[58]。また桂園時代には裏面で桂太郎首相と連携しようと動いたが、与党にもなりきれなかった[59]。 明治35年(1902年)には伊藤と大隈が会談し、憲政本党と立憲政友会の合同、大隈の蔵相就任も噂されたが幻に終わった[60]

議員の中からは党体制の改革を求める声が高まった。明治39年(1906年)3月には東北地方選出の議員が執行部の公選制を要求し、裏面で大隈の引退ないし元老化を求める動きが活発となった[61]。11月には大隈側近の犬養毅が院内総務に選出されず、大石のみが選ばれ、改革派の伸長が示された[62]。改革派は児玉源太郎清浦奎吾大浦兼武ら外部から党首を迎え、桂太郎首相に接近しようとする動きも見せていた[62]。このため大隈は明治40年(1907年)1月20日の党大会で、憲政本党の総理を辞任することを発表した[62]

在野活動

和服を着用した大隈

憲政本党総理を辞して後の大隈は、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。

明治41年(1908年)11月22日に戸塚球場で開催された米大リーグ選抜チーム:リーチ・オール・アメリカンチーム 対 早稲田大学野球部の国際親善試合[63]における大隈重信の始球式は日本野球史上、記録に残っている最古の始球式とされている。大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者にして総長であり、かつ内閣総理大臣を務めた大政治家である大隈の投球をボール球にしては失礼になってしまうと考え、早稲田大学の1番打者で当時の主将だった山脇正治がわざと空振りをしてストライクにした[64]。これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった[65]

また新聞等で政治評論を行うことも継続した。明治43年(1910年)2月には憲政本党議員に招待され、事実上の党復帰を果たした[66]。この年以降、大隈は大規模な遊説旅行を行い、政治活動再開への動きを見せていた[66]

第二次大隈内閣

大正3年(1914年)にはシーメンス事件山本権兵衛首相が辞職すると、大隈が首相候補として大きくクローズアップされることとなる。元老山縣が最初に推した徳川家達が辞退すると、元老井上馨の秘書望月小太郎は大隈と接触し、立憲同志会の加藤高明を協力させたうえで、大隈に組閣する気がないかと打診した[67]。4月10日の元老会議で山縣は大隈を推薦し、井上、大山巌、松方正義も同意した[68]。この日、井上から組閣の打診を受けた大隈は、加藤高明を首相としてはどうかと返答したが断られ、結局自らが首相となることを承諾している[69]

4月16日、76歳で2度目の内閣を組織した。再び首相に就任するまでの16年というブランクは歴代最長記録である。大隈は首相と内務大臣を兼ねた[70]。大隈内閣は成立後まもなく、従来薩摩閥が握っていた警視総監に非薩摩閥の伊沢多喜男を就け、また19人の知事と29人の道府県部長を移動させるなど地方人事も大幅な変更を行った[71]。更に海軍でも薩摩閥の有力者を閑職においやり、山本権兵衛・斎藤実といった大物を予備役に編入するなどの粛軍を行った[72]。また文政一元化の名のもとに内務省の所管であった伝染病研究所の文部省移管を強行、北里柴三郎所長以下部長・研究員は抗議し、全員辞職した(伝染病研究所移管事件)。大正5年(1916年)には、伝染病研究所は東京帝国大学医学部附置研究所となり、野に下った北里の北里研究所としのぎを削ることになった[73]

12月には二個師団増設問題に反対する政友会と国民党が法案を否決し、大隈は12月25日に衆議院解散に踏み切った[74]。当時、日露戦争以来の不況に国民が苦しんでおり、政友会や藩閥、軍に対する不信も高まっていた[75]。大隈は組閣まもなくから選挙を意識して元老と協議し、また資金集めも重ねてきた[76]。更に大きな武器となったのが大隈個人の人気だった。大隈は全国を鉄道で大規模な遊説旅行を行い、駅ごとに演説を行った[77]。さらに大隈は同志会と中正会に続く第三の与党として、組閣以来全国に成立していた大隈伯後援会を利用した[78]。こうして大正4年(1915年)3月25日に行われた第12回衆議院議員総選挙は大隈与党が65%を占める大勝利となった[79]

対華21カ条要求

1月18日には、中華民国政府に対し、権益の継続や譲渡などを求める対華21カ条要求を行った。大隈や井上馨は膠州湾租借地の返還の代償として満州に権益を得ることは考えていたものの、列強にも利権を提供して軋轢を防ぐ事を考えていた[80]。しかし加藤外相は陸軍などの強硬な意見をすべて要求に盛り込み、元老との最終的な協議もしないまま中華民国側に提示した[81]。しかし日本人を中華民国政府の官吏として登用させる第5号は、他の要求とは異なり希望条項とされたものの、中国の内政を支配しかねないものであり、加藤外相は同盟国イギリスにも秘匿していた上に、中華民国側にもこれを公表しないように求めていた[82]。しかし中華民国からのリークでイギリスとアメリカが知ることとなり、第5号は削除を行うこととなる[83][84]

5月9日、中華民国政府は主要な要求を受諾したものの、列強の不信を買い、中国の反植民地運動を高める結果となった[85]。大隈は加藤を後継者として考えており、また外交からも離れて久しかったため、加藤の行動を黙認することになった[86]

改造内閣

大正天皇の即位大礼における大隈重信・綾子夫妻

7月下旬、大浦兼武内相が二個師団増設問題の決議の際、野党議員を買収したという疑惑が明らかになった(大浦事件[87]。大隈は、大浦による買収工作を知らなかったと平沼騏一郎検事総長に告げているが、その様子を平沼は「狡い」と表現している[88]。7月30日に大浦は辞任し、大隈も監督責任を取るとして辞表を提出したが、これは天皇から留任の沙汰が下ると計算してものであった[87]。大隈の想像通り、大隈に好意を持っていた大正天皇は元老に諮ることなく辞表を却下した[89][注釈 6]。内閣基盤が弱いと感じていた加藤外相を始めとするほとんどの閣僚が辞任するべきと訴えていた[87]。しかし元老らは大正天皇の即位大礼を目前として政変は望ましくないと強く慰留し、また大隈も政権継続の強い意志を持っていたため、8月10日には自身が外務大臣を兼任した改造内閣を発足させた[91]。11月10日には即位大礼が行われたが、義足の身でありながら猛練習を積んだ大隈は、階段上り下りを伴う儀式を遂行した[92]

後継首相をめぐる暗闘

大正5年(1916年)1月12日、大隈が乗車していた馬車に福田和五郎らの一味8人が爆弾を投げる事件が発生しているが、不発だったために事なきを得ている[93]。6月24日、大隈は大正天皇に辞意を示し、後継に加藤と寺内正毅大将を推薦し、隈板内閣のような両者共同の内閣を作ろうとした[94]。しかしこれは寺内に拒否され、山縣も西園寺公望や政友会とともに単独の寺内内閣を作るために運動を開始する[95]

9月26日、大隈は辞意を内奏し、後継者として加藤を指名した[96]。しかし山縣の運動により、大正天皇は元老への諮問を行い、山縣・松方・大山の三元老と西園寺は寺内を一致して推薦し、寺内内閣が成立した[97]

退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。

「準元老」

首相を退任した大隈は、同志会・中正会・大隈伯後援会を合同させた政党の総裁就任を依頼されたが断っている[98]。以降は演説などは行わず、新聞上での評論活動を主な活動としている。大正7年(1918年)9月19日には、寺内首相の後継首相について天皇から下問があり、大隈は西園寺公望を推薦した。しかし西園寺が辞退したため、加藤高明を推薦した。しかし山縣・松方・西園寺が原敬を奏薦したため、原が首相となった[99]。山縣はなおも大隈を元老に加えることを模索していたが、大隈自身が元老集団に入りたがらなかったことと、松方と西園寺が反対したため正式な元老とならなかった[100]。しかしこの頃の新聞報道では大隈を元老視したり、「準元老」として扱った報道も見られる[101]

死去と「国民葬」

護国寺内 大隈重信墓

大隈は大正10年(1921年)9月4日から風邪気味となって静養を始めたが、腎臓炎膀胱カタルを併発して衰弱していった[102]。この頃から早稲田大学や憲政会など関係の深い者らにより大隈の顕彰運動が盛んとなり、「国葬」実現や公爵への陞爵、位階・勲等の陞叙を目指して、当時の高橋内閣や元老など政府関係者への工作や、大隈系新聞紙上での顕彰が展開されたが、すでに大勲位菊花章頸飾の授与が決定されていたため、元老である山縣、西園寺、松方、そして宮内大臣の一木喜徳郎も公爵陞爵は過分であると判断した[103]。大正11年(1922年)1月10日4時38分、大隈は早稲田の私邸で死去した[104]。死因は腹部の萎縮腎と発表された[104]。享年85。

しかし死去当日、大隈の側近で前衆議院議員であった市島謙吉が、「世界的デモクラシーの政治家である大隈」は、「国民葬」の礼を持って送ることがふさわしいと発表した[105]。大隈家は同日、東京市に対して日比谷公園を告別式場として貸与することを申請し、認められている[105]日比谷公園で「国民葬」が挙行された[106]。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列し、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。大隈・憲政会系の新聞である『報知新聞』は100万人が沿道に並んだと報じている[107]。その後、6時50分より東京都文京区護国寺にある大隈家墓所で埋葬式が行われ、7時30分に墓標が建てられ、埋葬された[108]。また大阪市札幌市京城北京などの各都市でも告別式が行われている[108]。佐賀市の龍泰寺にも大隈の墓所はある。

人物

政策

大隈は民間投資を重視する、いわゆる「小さな政府」論の支持者であった[109]

人物像