天皇制ファシズム(てんのうせいファシズム)または日本ファシズムとは、第二次世界大戦終結までの日本の社会、体制などが「ファシズム」の一種であったとする視点による用語。1946年からの丸山眞男による日本ファシズム論(『超国家主義の論理と心理 他八篇』所収「超国家主義の論理と心理」にて述べている)などがある[1]

概要

「天皇制ファシズム」または「日本ファシズム」との表現が使用されたのは、主に第二次世界大戦終結後からである。日本ファシズム連盟は小規模な政党であった。新体制運動はヨーロッパのファシズム運動の影響を受け、大政翼賛会につながったが、天皇輔弼を掲げたもので一党独裁を掲げたものではなかった。

早稲田大学教授政治学博士の五来欣造は、1931年にイタリア、フランス、ドイツ、イギリス、ロシアを回り、1932年に「ファッショか共産主義か」という講演を行っており、1933年に講演録が発行された[2]。この講演の中で、ソ連の共産主義即ち無産階級による利己主義の失敗とイギリス、イタリア、ドイツにおける全体主義即ちファッショ(結束)の台頭を引いて、「ファッショとは階級的の利己主義に対する弾圧であって、国民経済の統一と、階級の調和を行うものであるとこう言うことができる」「ヨーロッパは無産階級の利己主義、即ち世界大戦以来、労働者の勢力、無産階級の勢力が余りに強くなって、資本を食い荒らして遂に行き詰まった。これに対して反動的に起こったものは今日のファッショ運動である。そういう意味においてファッショは、階級的利己主義に対して、国民本位の政治、即ち全体主義を主張している次第である」「階級の利益だけを計れば、国の窮乏となって、労働階級それ自身も、又遂に衣食の欠乏を来すという事実を、我等はかのロシアにおいて現実に見るのである」と述べている[2]

1932年の五・一五事件後、昭和天皇犬養毅首相の後継推薦を行う元老西園寺公望に対し、「ファッショに近き者は絶対に不可なり」と要望を述べた[3]

1932年10月、小笠原長生は著書「昭和大暗殺史」で以下のように述べた。

各国には、各国の国情に応じたファシズムが生じなくてはならぬ。即ち、我国においては、日本化したファッショが生まれる(中略)世界的に称されているファッショが、日本の武士道によってでっちあげられたものでなくてはならぬ。 — 『昭和大暗殺史』序文、芳山房、1932年10月

1946年、丸山眞男は「超国家主義の論理と心理」[4]で、「ファシズム」を「反革命のもっとも先鋭的な、もっとも戦闘的な形態」と定義して[5] 、イタリアやドイツのファシズムは議会制社会下の大衆運動による「下からのファシズム」であったが、日本のファシズムは軍部や官僚による「上からのファシズム」であったとした[1]。この「日本ファシズム論」は広く影響を与え、特に1940年代から1970年代に類似または関連した見解が多く登場した[6][7][8]

なお「ファシズム」という用語や概念の定義や範囲には多数の議論があり、学術的な合意は無い。

日本ファシズム運動の発展時期区分

第一の段階は、準備期で、ちょうど世界大戦の終わった頃から満州事変頃に至る時期を「民間における右翼運動の時代」といってよく、年代でいうと大正8年(1919年)・9年(1920年)から昭和6年(1931年)頃まで。 第二段階は、成熟期で、、満州事変前後から2・26事件に至る時期で、前期の運動が軍部勢力の一部と結託して、ファシズム運動の推進力となり、徐々に国政の中心を占めるようになる段階・過程である。また、3月事件、錦旗事件[9]血盟団事件5・15事件神兵事件士官学校事件相沢事件、そして2・26事件等に至るファッショのテロリズムが次々と勃発した時期である。年代的にいうと昭和6年(1931年)頃から昭和11年(1936年)に至る。 第三期は、日本ファシズムの完成時期で、官僚・重臣等の半封建的勢力と独占資本やブルジョア政党との間に、軍部が上からの露わな担い手として、不十分ながらも連合支配体制を作り上げた時期である。年代的にいうと昭和11年(1936年)の2・26事件以後粛軍の時代から昭和20年(1945年)8・15終戦のときまでである。 [10]

評価

第二次世界大戦終結までの日本の社会や体制を「天皇制ファシズム」または「日本ファシズム」とみなすかどうかは、肯定論と否定論が存在する。

肯定論