みやぎけん
宮城県
MatsushimaYondaikanOotakamori2.JPG
大高森から望む松島
宮城県の旗 宮城県章
宮城県旗 宮城県章
日本の旗 日本
地方 東北地方
団体コード 04000-2
ISO 3166-2:JP JP-04
面積 7,282.22km2
(境界未定部分あり)
総人口 2,296,145
推計人口、2020年5月1日)
人口密度 315人/km2
隣接都道府県 岩手県秋田県山形県福島県
県の木 ケヤキ
県の花 ミヤギノハギ
県の鳥 ガン
県の獣
県民の歌
シカ
輝く郷土
宮城県庁
知事 村井嘉浩
法人番号 8000020040002 ウィキデータを編集
所在地 980-8570
宮城県仙台市青葉区本町3丁目8番1号
北緯38度16分6.9秒東経140度52分19.3秒
宮城県行政庁舎
外部リンク 公式ウェブサイト
宮城県の位置

宮城県行政区画図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

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宮城県(みやぎけん、: Miyagi Prefecture)は、日本東北地方に位置する広域地方公共団体都道府県)のひとつ。県庁所在地及び最大の都市は仙台市

概要

県庁所在地である仙台市の市街地。

宮城県は東北地方の南東部に位置する。県内には仙台平野が広がり、北上川阿武隈川といった大河が貫流して流域に沖積平野が発達している。東は太平洋に面し、県中部にある松島は多島海の景勝地で日本三景の一つに数えられる。西は奥羽山脈に接し、栗駒山蔵王連峰などの秀峰がそびえる。県内の気候は太平洋側気候に分類される。冬の間、県西部の山間地は多雪地域であるが、東部の平野では雪は少なく晴れの日が多い。夏季については、太平洋からの海風の影響で厳しい暑さにはなりにくい。通年で穏やかな気候の風土である[1][2]。県内人口は約230万人である(2020年5月1日の推計人口)。

現在の宮城県の領域は、古墳時代からヤマト王権の影響下にあり、雷神山古墳など多数の古墳が造営された[3]。後に陸奥国府鎮守府である多賀城が置かれた[4]。中世には大崎氏葛西氏留守氏国分氏などが割拠したが、伊達政宗米沢城から岩出山城を経て仙台城を築き、江戸時代の間は伊達氏仙台藩がここを治めた[5]。明治時代の廃藩置県に前後して、登米県石巻県胆沢県角田県仙台県などが成立し、県域の分合がたびたび行われた。1872年(明治5年)に仙台県は宮城郡由来の宮城県へ改称し、現在まで続く宮城県の領域がほぼ形作られるのは1876年(明治9年)である[6]

県内の平野部では稲作が盛んであり、ササニシキひとめぼれの産地である。中でも県北部の大崎地方の肥沃な土地は大崎耕土と呼ばれる[7][8]イチゴナシなどの果物、仙台白菜を初めとする伝統野菜も生産されている。畜産では仙台牛や宮城野豚(宮城野ポーク)といった銘柄がある[7]。また、東北地方の三陸沖は寒流である親潮と暖流である黒潮潮境で、世界的にも有数の漁場である。これに近い宮城県には多数の漁港があり、中でも気仙沼漁港石巻漁港塩釜漁港特定第3種漁港に指定されている。1県に複数の特定第3種漁港を持つ県は宮城県が唯一である。カツオサンママグロカジキなど多種の魚がこれらの港で水揚げされるほか、ワカメノリカキホタテガイホヤギンザケの養殖が県内で行われている[9]。伝統工芸としては、鳴子漆器 白石和紙堤焼切込焼仙台張子仙台平などがある[10]

地理・地域

地形図

位置・地形

阿武隈川水系白石川に映る逆さ蔵王連峰と一目千本桜(大河原町)
旧北上川と石巻市街地。
仙台平野の俯瞰。

宮城県は、北側で岩手県と、南側で福島県と、西側で山形県と、北西で秋田県と接している[1]東京都からは北へおおよそ300キロメートルの位置に当たる[11]。宮城県の総面積は約7282平方キロメートルで、これは日本の都道府県の中では16番目の広さである[1]。うち、可住地面積は約43パーセントである。

主に山形県との県境になっている宮城県西部には奥羽山脈が南北に連なっている。主な山々として県北西部に標高1627メートルの栗駒山、中西部に標高1500メートルの船形山、南西部に蔵王連峰があり、蔵王連峰の山々のうち標高1825メートルの屏風岳が宮城県の最高峰である。また、奥羽山脈の東側には丘陵地が点在する[1]。宮城県の南北には奥羽山脈のような際立つ高山帯はないが、県南部には阿武隈高地が迫り、北東部には北上高地が延びている[12]

一方、県の東側は太平洋に面している。県の北東部は、岩手県や青森県に及ぶ三陸海岸の南部に当たり、北上高地が海に落ち込んでリアス式海岸を形成する[1]。三陸海岸は牡鹿半島として太平洋に突き出し、その周辺には金華山網地島出島江島などの島々が浮かぶ[12]。牡鹿半島付近から南は仙台湾によって大きくえぐられている[8]。仙台湾沿いの大部分は平坦な砂浜海岸だが、松島付近はリアス式海岸で、多島海が広がる特色のある地形である[13]

宮城県の平野は特に南東部と北部で発達し、仙台平野と呼ばれている。ここを多数の河川が太平洋を目指して流れている。県の北部を流れる北上川は岩手県から続く川で、迫川江合川を集める。北上川は分流されていて、追波湾と石巻に注いでいる。県南部には福島県を水源とする阿武隈川が流れ、白石川を合わせて太平洋に落ちる。これらの他に、宮城県で太平洋に注ぐ河川としては、鳴瀬川七北田川名取川などがある[12]。県北部には伊豆沼や内沼、化女沼蕪栗沼などの湖沼や湿地があり、これらは国際的に重要な湿地としてラムサール条約に登録されている[14]。また、海とつながる湖沼として牡鹿半島の基部に万石浦、阿武隈川河口に鳥の海がある。

歴史

古代

雷神山古墳。写真の右が前方部で、左が後円部。

現在の宮城県の地には、古墳時代からヤマト王権の影響力が及んでおり、雷神山古墳名取市)や遠見塚古墳(仙台市)などの前方後円墳が造られた。雷神山古墳は東北地方の中では最大の古墳である。古墳時代後期には、厚葬禁止の令に従い、横穴式古墳も多く造られた。

大化元年8月、改新政府は「東国国司」8組を、今後の政治改革遂行のために人口と田地面積の調査、武器の収公などの任務を与え、現在の中部・関東から東北地方南部に臨時的に派遣した。孝徳朝(645年 - 654年)の後半に第2次使者が派遣されて国造制が評制へ転換され、の上にが設けられ、国司の前身である国宰が派遣された。この時期に道奥国(みちのおくくに)が設けられた。その領域は、国造制が施行されていた宮城県南端と福島県で、最初に置かれた評は曰理(わたり)、伊具(いぐ)、宇多(うだ)、行方(なめかた)、標葉(しめは)、信夫(しのぶ)、安積(あさか)、岩背(盤瀨;いわせ)、白河、会津の10評。菊多(きくた)、安達(あだち)、耶麻(やま)郡は後に分置された郡で、石城(磐城)評ははじめ常陸国の管轄であった。この10評のうち行方、会津評を除く8評が国造のクニであって、行方評は分割・新置された評。曰理・伊具評が宮城県南端、宇多評以下が福島県域である。道奥国の表記は、後に陸奥国(みちのおくくに)と改められた[35]

多賀城政庁跡。

最初の陸奥国府と推定される官衙郡山遺跡)は、現在の仙台市太白区郡山(旧名取郡)に設置された。養老8年/神亀元年(724年)には、多賀城(旧宮城郡)が設置され、現在の宮城県中南部は奥六郡日高見国)と対峙する軍事・政治の拠点化が進んだ。又、陸奥国分寺国分尼寺が、現在の仙台市若林区木下周辺(旧宮城郡)に設置された。後に多賀城は、現在の仙台市宮城野区岩切(旧宮城郡)に移転したと考えられているが、遺構は発見されていない。

奈良時代末期から平安時代初期、仙台平野北部・三陸沿岸の蝦夷がたびたび大和朝廷の拠点を襲撃し、三十八年戦争が勃発した。伊治(コレハル、栗原?)を拠点とするアザマロは当初大和朝廷側に帰属し多賀城に出仕していたが、蝦夷への差別に怒って反乱を起こし多賀城を滅ぼした。これをきっかけに胆沢[要曖昧さ回避]アテルイモレによる抵抗戦争が起こった。11世紀半ば北上平野俘囚奥州安倍氏が仙台平野に影響力を拡大し、多賀城の国司と対立した。安倍氏討伐の命を受けた源頼義が下向しても仙台平野の郡司らは中立を守り、苦戦した朝廷軍は仙北の俘囚主清原氏の参戦でようやく安倍氏を滅ぼすことができた。その後12世紀、奥州藤原氏の時代になると、奥州の軍事警察権が平泉に遷り、仙台平野は中央勢力の荘園と在地勢力の自治が混在するようになった。奥州藤原氏の行政権の程度については諸説がある。

中世

鎌倉時代には、奥州藤原氏追討の恩賞により、葛西氏などの関東地方の有力氏族や武士たちが守護地頭として現在の宮城県域に多く入植した。多賀城の留守所長官として陸奥国留守職に任ぜられたのが伊沢家景で、家景の子孫が留守氏を名乗るようになり、代々、陸奥国留守職に任ぜられた。

室町時代に入ると、南北朝の争いが起こったが、足利一族の斯波氏奥州探題を称して多賀城に入ると、争いは次第に沈静化していった。斯波氏の傍流である大崎氏奥州管領職に就いた。元中9年(1392年)に奥羽両国が鎌倉府直轄支配下に置かれ、大崎氏の奥州管領権は大きく制約を受けた。大崎氏は応永7年(1400年)に奥州探題となった。

戦国時代から江戸時代まで

仙台藩祖である伊達政宗の肖像画。

戦国時代になると、南東北奥羽山脈西側に連なる盆地群に拠点を置く武将たちの勢力が強くなり、大崎氏の権勢は衰退し、最終的に伊達郡信夫郡福島盆地)と置賜郡米沢盆地)を本拠地とする伊達氏の軍門に下った。伊達氏は源頼朝奥州合戦で功を立てて伊達郡に封じられた関東武士の末裔で、鎌倉時代から伊達郡を中心に勢力を拡大した。

安土桃山時代戦国大名伊達政宗常陸国佐竹義重会津地方の蘆名氏らに勝利し、領土を拡大した。しかし、政宗は豊臣秀吉に服属し、秀吉の奥州仕置によって、征服した会津地方などを奪い取られた。政宗は、奥州仕置によって取り潰された葛西氏大崎氏の旧臣を扇動して、葛西大崎一揆を起こさせたが、この一揆扇動は蒲生氏郷に露見し、政宗は秀吉から一揆の鎮圧を命じられた。政宗は佐沼城から秀吉の家臣・木村吉清を救出して、一揆を鎮圧した。戦後、秀吉は政宗の領地を、それまでの山形県南部、福島県、宮城県南部から、宮城県および岩手県南部へと北へ追いやった。政宗は玉造郡の岩出山城を居城として新しい領地の統治に当たった。秀吉の死後、政宗は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の会津征伐で家康に協力した。

伊達政宗は、豊臣氏徳川氏との緊張関係を考慮して、天然の地形が防御に適した青葉山に居城として仙台城を構えた。慶長5年12月24日(1601年1月28日)に城の縄張りを始め、「千代(せんだい)」を「仙臺(仙台)」に改めて、城下町の建設も開始した。伊達氏は伊達郡から置賜郡(米沢)、岩出山、仙台と家臣団や寺社、職人集団を引き連れて移動したため、仙台城下の町や寺社、旧家、職人の家系には、伊達郡を起源とするものが少なくなかった。城下町では冬季の乾燥や季節風対策として、防火林防風林防雪林の植樹が奨励された。四ツ谷用水の開削もあって、仙台は多くの居住者を涵養できるようになり、62万石の仙台藩の藩経済を背景に、仙台城下は奥州一の都会となった。江戸中期には実石高は100万石を超え、港町である石巻江戸(東京都区部)との交易で栄えた。家老の片倉氏は代々白石城(現宮城県白石市)を居城とし、家臣や一族を一国一城令にもかかわらず「要害」と言う特有の制度化で藩内を治めさせた。要害としては涌谷城、岩出山城、金山城、岩沼城、角田城、丸森城、寺池城、佐沼城、宮沢城、高清水城、不動堂城、川崎城、平沢城、船岡城、亘理城、坂本城、岩ケ崎城、滝野館、石森城、米谷城、武田館、宮崎館、宮崎城、千石城、大窪城、吉岡城、宮床館、村田城などがあった。

伊達政宗はスペイン帝国との太平洋貿易を企図し、仙台領内で洋式大型帆船・サン・ファン・バウティスタ号を建造。慶長18年(1613年)、家臣・支倉常長を使節とする慶長遣欧使節団をスペイン王国およびローマ法王庁バチカン)へ派遣した。使節派遣の目的は、スペイン王国との通商にとどまらず、倒幕のためのスペインとの軍事同盟であったともいわれている。支倉常長はスペイン国王およびローマ法王に謁見した。しかし、徳川幕府が日本国内でキリスト教徒を大弾圧したため、目的は達成されなかった。

伊達氏は代々「陸奥守」を称し、初代仙台藩祖・伊達政宗以来、東北の雄藩であった。仙台藩は幕末に、幕府の命令で北海道の警護を担当した。このとき会津藩庄内藩などの東北諸藩も北海道の警護を担当した。仙台藩の警衛地と領地は北海道の約3分の1を占めた。

仙台藩は、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年)の戊辰戦争の際に、奥羽越列藩同盟の盟主となった。仙台藩は孝明天皇の弟(明治天皇の叔父)・輪王寺宮(のちの北白川宮)を擁立し、輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させ、仙台藩主・伊達慶邦征夷大将軍に就任する予定であったといわれる。しかし奥羽越列藩同盟は薩摩藩と長州藩を主力とする明治新政府軍に敗れ、仙台藩は石高を28万石にまで減らされた。このとき、秩禄が減って困窮した家臣団を救うために、仙台藩は蝦夷地(北海道)への入植を行った。仙台藩は明治新政府と共同で札幌市を開拓したほか、単独で伊達市[注釈 3]などを開拓した。こうして仙台藩は北海道開拓の歴史上に功績を残した。

近現代

明治政府が誕生すると、日本は中央集権体制の下に組み込まれたが、東北地方支配の政治的拠点とされた仙台市を中心に発展が始まった。

仙台藩を前身とする仙台県廃藩置県後も存続し、旧領である登米県角田県の編入、宮城県への改称、磐前県(現福島県浜通り)、磐井県(現岩手県南部)との管轄区域の変更を経て、現在の県域が確定した。

仙台には、富国強兵政策によって大日本帝国陸軍第二師団が置かれ、また第二帝国大学東北帝国大学)を初めとした高等教育機関が設立された。

一方で、仙台湾の大半が砂浜で臨海工業の適地がなかったため、殖産興業時代から高度経済成長に至るまで、宮城県では第二次産業が発展しなかった。ただし、石巻湾に石巻工業港、仙台湾に仙台港(いずれも掘り込み式)が造られ、工業集積はある程度進んだ。

高度経済成長期頃から、第二次産業から第三次産業への転換が進むと、東北自動車道仙台バイパスの建設、および広大な流通団地の建設によって、仙台は東北地方の卸売り商業の中心地、そして支店経済都市として人口が激増し、その他の県内拠点都市も発展した。その後、東北新幹線の開業やモータリゼーション、仙台市の政令指定都市化、バブル景気の影響から、仙台市とその周辺が特に発展して「仙台都市圏」の一極集中が進んだ。

年表