おかざきし ウィキデータを編集
岡崎市
Okazaki Montage.jpg
Flag of Okazaki, Aichi.svg Emblem of Okazaki, Aichi.svg
岡崎市旗
1962年 (昭和37年)
4月1日制定
岡崎市章
1962年 (昭和37年)
4月1日制定
日本の旗 日本
地方 中部地方東海地方
都道府県 愛知県
市町村コード 23202-5
法人番号 3000020232025 ウィキデータを編集
面積 387.20km2
総人口 384,149[編集]
推計人口、2021年6月1日)
人口密度 992人/km2
隣接自治体 豊川市豊田市安城市西尾市蒲郡市新城市額田郡幸田町
市の木 ミカワクロマツ
市の花 フジサクラ
市の鳥 ハクセキレイ
岡崎市役所
市長 中根康浩
所在地 444-8601
愛知県岡崎市十王町二丁目9番地
北緯34度57分15.6秒 東経137度10分27.7秒 / 北緯34.954333度 東経137.174361度 / 34.954333; 137.174361 (岡崎市)座標: 北緯34度57分15.6秒 東経137度10分27.7秒 / 北緯34.954333度 東経137.174361度 / 34.954333; 137.174361 (岡崎市)
Okazaki-City-Hall-5.jpg
市庁舎位置
外部リンク 公式ウェブサイト

岡崎市位置図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

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岡崎市中心部(康生地区)
乙川に架かる殿橋

岡崎市(おかざきし)は、愛知県のほぼ中央に位置する中核市中枢中核都市に指定されている。

徳川家康の生誕地や八丁味噌の産地として知られる[1]

概要

研究教育施設や史跡が多く、市の規模に比して文教都市の色が濃い。中世鎌倉街道江戸時代東海道宿場町および城下町として栄えた。廃藩置県の際に一時存在した額田県の県庁所在地であり、岡崎城がその庁舎となっていた[2]

足利氏族である細川氏仁木氏戸崎氏のほか、江戸幕府を開いた徳川家康の生誕地でもある。伝統地場産業には八丁味噌花火、石製品などが知られる。

中心部は旧額田郡で、一部に旧碧海郡の地域も含まれる。

現在は名古屋衛星都市であり[3]、昼間人口比率は93.9%である[4]。ただし、岡崎市には愛知県の西三河総合庁舎など西三河地区を管轄する行政機関が集積している[5]

また三菱自動車工業の岡崎製作所を持つ、県内有数の工業都市[6]でもある。

市名の発音

共通語では「おざき」と発音されるが、当市民をはじめとした地元民は、「川崎」と同じように「おかざき」と平板に発音する。人名()の場合は「おざき」と発音して区別する。岡崎が舞台となったNHK連続テレビ小説純情きらり』や大河ドラマ徳川家康』の中でも、放映開始当初は「おざき」と発音していたが、途中から平板な発音に改められた。2016年にはNHKにおいて平板な発音が「地元放送局アクセント」として正式に許容されるようになった[7]

地理

当市は愛知県の中央部にあり、中央高地に連なる美濃三河高原岡崎平野の接点に位置する。中京圏の中心都市名古屋市から約35キロメートルの距離にあり、市内を東西に国道1号、南北に国道248号及び国道473号が通っている[8][9]。また東名高速道路岡崎インターチェンジや、新東名高速道路岡崎東インターチェンジといった広域交通網の拠点のほか、主要地方道等の愛知県道も多くあり、市内各所で渋滞が発生している。鉄道は市内を東西に抜けるJR東海道線及び名鉄名古屋本線と、岡崎駅から豊田市方面へ結び、名鉄三河線や、愛知高速交通東部丘陵線、JR中央線と接続する愛知環状鉄道線の計3路線、16駅が設置されている。名鉄の東岡崎駅周辺が市内中心部であり、JRの岡崎駅は中心部から離れた場所に位置している。

面積は387.24平方キロメートルで豊田市、新城市に次ぎ愛知県内3位。太平洋側気候で、特に平野部は温暖で、冬でも雪が降ることはほとんどない[10][9]。また、市内に活断層や推定活断層は見つかっていない[11]

中央アルプス大川入山に発する矢作川が市内を南北に流れ、東西に流れる乙川など、市内に20本程流れる河川の全てが矢作川の支流である。市内にはこの豊富な水を利用した大規模工場や水田地帯が多くある。多数の河川により形成された沖積平野上に市の中心市街があり、市の東部は美濃三河高原を構成する山地となっている。最高峰は標高789mの本宮山であるが、平野部にも丘陵が点在しており、市内の標高差が700メートル以上ある変化に富んだ地形となっている。市域の約60%が森林であり、その豊かな自然環境から、自然公園法に基づき南部の桑谷山周辺が三河湾国定公園に、東部の本宮山及び巴山周辺が本宮山県立自然公園にそれぞれ指定されている[12]。また、市の中心部には岡崎城があり、城を中心とした岡崎公園は桜の名所として有名である。

岡崎市中心部周辺の空中写真。市街地の西を矢作川が南流する。1987年撮影の26枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

気候

1981年から2010年の30年の平年値で[13]、年平均気温は15.2℃、平均日最高気温は32.3℃、平均日最低気温は-0.8℃、年間降水量は1452mmである[13]

岡崎市の気象観測極値[14]
要素 観測値 観測年月日
最高気温 39.3℃ 2018年平成30年)7月23日
最低気温 -7.6℃ 1999年(平成11年)2月4日
日降水量 263.5mm 2008年(平成20年)8月29日
時間降水量 146.5mm 2008年(平成20年)8月29日
岡崎市(1981年 - 2010年)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 17.2
(63)
21.6
(70.9)
24.6
(76.3)
29.5
(85.1)
32.8
(91)
36.1
(97)
39.3
(102.7)
38.8
(101.8)
37.8
(100)
31.9
(89.4)
26.1
(79)
23.1
(73.6)
39.3
(102.7)
平均最高気温 °C°F 9.0
(48.2)
10.0
(50)
13.7
(56.7)
19.5
(67.1)
23.8
(74.8)
26.9
(80.4)
30.7
(87.3)
32.3
(90.1)
28.7
(83.7)
22.9
(73.2)
17.2
(63)
11.7
(53.1)
20.5
(68.9)
日平均気温 °C°F 4.0
(39.2)
4.7
(40.5)
8.3
(46.9)
13.8
(56.8)
18.3
(64.9)
22.0
(71.6)
25.9
(78.6)
27.0
(80.6)
23.6
(74.5)
17.4
(63.3)
11.5
(52.7)
6.2
(43.2)
15.2
(59.4)
平均最低気温 °C°F −0.8
(30.6)
−0.2
(31.6)
2.9
(37.2)
8.1
(46.6)
13.1
(55.6)
17.9
(64.2)
22.1
(71.8)
23.0
(73.4)
19.6
(67.3)
12.6
(54.7)
6.3
(43.3)
1.2
(34.2)
10.5
(50.9)
最低気温記録 °C°F −7.6
(18.3)
−7.6
(18.3)
−4.7
(23.5)
−1.9
(28.6)
3.1
(37.6)
8.9
(48)
15.1
(59.2)
14.8
(58.6)
7.8
(46)
2.3
(36.1)
−1.7
(28.9)
−6.5
(20.3)
−7.6
(18.3)
降水量 mm (inch) 49.1
(1.933)
58.0
(2.283)
117.0
(4.606)
123.0
(4.843)
148.2
(5.835)
191.3
(7.531)
158.9
(6.256)
128.1
(5.043)
214.5
(8.445)
136.1
(5.358)
82.5
(3.248)
45.4
(1.787)
1,452
(57.165)
平均月間日照時間 163.0 159.0 184.6 188.4 175.3 128.0 151.7 203.2 152.7 157.6 160.1 166.9 1,992.7
出典1:気象庁[15]
出典2:気象庁[16]

市内の町名

住宅地形成

隣接する豊田市にはトヨタ自動車の中枢機能があり、当市周辺にはトヨタ自動車関連企業が多いため、近年は住宅地を次々と造成しベッドタウンとしての性格が強くなりつつある。

人口

Demography23202.svg
岡崎市と全国の年齢別人口分布(2005年) 岡崎市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 岡崎市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性

岡崎市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より


1920年の人口は約3万8500人で、名古屋市(約43万人)、豊橋市(約6万5000人)に次ぐ愛知県第3位だった。「平成の大合併」では、岡崎市は人口の少ない中山間地域である額田地区の併合にとどまった一方、豊田市が複数の町村と合併し、大きく拡大した。その結果、2016年2月15日に公表された国勢調査結果では、名古屋市、豊田市に次いで、愛知県第3位の人口となった[17]

2021年の人口は約38万4000人であったが、2030年まで増加傾向が続くとの推計がなされている[18][17]。人口の分布としては、市域の4割を占める東部の山間地帯にあたる額田地区(旧額田郡額田町)の人口が8,551人と少なく、平野部に人口が集中している。

隣接する自治体

愛知県の旗 愛知県

歴史

原始・古代

矢作川や乙川流域の肥大な平野部に位置し、温暖な気候のこの地域には、旧石器時代から人々が生活していた[19]。仁木八幡宮遺跡や美合の五本松遺跡等が旧石器時代の遺跡である。また額田地区の西牧野遺跡は旧石器時代から江戸時代にかけての複合遺跡である。国の史跡となっている六名真宮遺跡は、縄文時代から鎌倉時代までの土器片や遺構、土器棺などが多く発掘されている複合遺跡であり、官衙跡ともいわれる[20][21][22]

古墳時代には、当初安城周辺に比して小さな勢力しか存在しなかった。のちに大きな権力を有する豪族が現れ、4世紀後半には比較的大きな帆立貝形古墳である於新造古墳が西阿知和に作られ、4世紀末には、直径100メートル以上の、当時の三河地方では最大級となる甲山第1号墳が六供に作られた[23]。また景行天皇皇子である五十狭城入彦皇子墓として宮内庁から治定されている和志山古墳などの前方後円墳も現れ、ヤマト王権勢力下となっていたことが伺われる。同じく景行天皇皇子であるヤマトタケル東夷征伐に関わる伝承も、矢作神社の由緒など、市内に多く伝わる。飛鳥時代に入ると、6世紀に物部守屋の子・真福が願主となり三河最古寺院真福寺が築かれ[24]、7世紀には物部氏氏寺とされる巨大古代寺院北野廃寺が建立された。また同時期に岩津古墳群も作られた[20][25]702年(大宝2年)には、持統天皇壬申の乱の功労をねぎらうため村積山を訪れたが、同山山頂にも物部氏建立と伝わる村積神社が鎮座する[26]

8世紀中頃に、新城(仁木)郷、鴨田郷、位賀(伊賀)郷、額田郷、麻津郷、六名郷、大野郷、駅家郷(山綱)の額田八郷及び碧海郡の駅家郷(宇頭)や谷部郷(本郷)、鷲取郷(北野)、河内郷(上和田下和田)、碧海郷(青野)などができた。また927年成立の延喜式では、三河国三として山綱駅家や宇頭の鳥捕駅などが挙げられている[20][27][28][29][30][31]

中世

古代の物部氏に代わり、中世になると藤原氏の勢力が当地でも伸長した。11世紀の平安時代後期に藤原南家藤原季綱が三河守になると、一部の領土等を譲り受けた兄弟の藤原季兼が岡崎に移り住み、開発領主として荘園開発を進め勢力を伸ばした。額田冠者を名乗った季兼の子藤原季範の三女由良御前は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の母であり、季範の養女(実孫)は、足利氏宗家初代当主足利義康の妻である[32][33][34][35]

鎌倉時代には三河は関東御分国となり、三河守を務めた、季範の養子で頼朝の弟の源範頼が、上地八幡宮を創建した。鎌倉街道沿いの明大寺の地には矢作東宿(矢作宿)が設置され栄えた。また、滝山寺は初代将軍源頼朝の従兄弟が住職を務めるなどし、幕府の庇護を受けた。13世紀に藤原季範の玄孫にあたる足利氏宗家第三代足利義氏が、承久の乱恩賞として額田郡を領有し、鎌倉幕府の三河守護等として矢作東宿に拠点を構えて以降、足利氏や、足利氏系氏族、足利氏家臣などが代々三河守護を務めた。足利氏系の細川氏及び仁木氏が現在の市内細川町及び仁木町にそれぞれ置かれたほか、吉良氏一色氏今川氏といった足利氏支流が西三河に分立されて足利氏の第二の拠点となった。1335年中先代の乱の混乱の中足利直義が甥の千寿王成良親王とともに矢作に逃れ、1336年矢作川の戦いでは、三河の足利一族が矢作東宿に集まった[35]

室町時代になると幕府御料所として栄え、多くの奉公衆が置かれた。また、義氏により本堂が建立された滝山寺や、将軍足利義満により建立された天恩寺等が幕府の庇護を受けた。幕府を二分する観応の擾乱が起きると、三河の足利一族の間でも争いがなされた。三河守護を務めていた高氏一族は乱でほぼ滅亡し、乱後に将軍足利尊氏から菅生郷の寄進を受けた高氏出身の尼僧明阿により、一族の菩提所として現籠田町総持尼寺が開かれ、門前町が発展した。特に15世紀の室町時代中期から大きな発展を見せ、三河守護仁木氏の守護代だった西郷氏が明大寺や龍頭山(現岡崎城)に城や砦を築くとともに、矢作川に北野から矢作にわたる堤防を作り、幾筋にも分流していた矢作川を、一筋の流れにまとめた[20][36][37][38][35]

戦国・安土桃山時代

室町時代後期頃になると、六代将軍足利義教により三河守護一色義貫が殺され、代わって細川氏が守護に就いたものの、他地に先駆け内戦状態となった。

岩津城を本拠とした国人領主松平氏第三代松平信光は、保久城主山下氏を滅ぼしたのち、井ノ口の砦を拠点として発生した額田郡一揆を幕府政所執事伊勢貞親被官として平定し力を伸ばした。応仁の乱では、三河への復権を狙う一色氏を、三河守護細川成之とともに破り、戦国時代に岡崎城や安祥城を獲得し、南部まで勢力を伸ばした。

その後三河守護が置かれない状態となり、信光の後は、当初鴨田に分立されていた四代松平親忠が、井田野挙母城中条氏らを破り、鴨田の館跡に大樹寺を建立するなどした。五代松平長親は、三河に侵攻してきた今川氏親家臣の北条早雲を井田野で破ったとされる[35]

1524年(大永4年)、松平宗家七代松平清康が、山中城岡崎松平家を攻略し、安城岡崎を兼領する。そして明大寺の岡崎城から龍頭山の砦に拠点を移し、1531年(享禄4年)には龍頭山の砦を整備・拡張し、岡崎城(別名、竜城、竜ヶ城)とした。清康の死後、松平氏が今川氏の庇護下に入ると、市域は今川と織田の抗争の前線となり(小豆坂の戦い)、多くの城が作られた。

桶狭間の戦い今川義元が戦死した後、第九代松平元康は、大樹寺で住職に諭されたのち、生誕の地岡崎城に戻って旧家臣団を再編成し、やがて今川氏から独立、徳川家康と改名する。以後織田信長の盟友として勢力を拡大した。1564年(永禄7年)には、針崎町勝鬘寺等を拠点に起きた三河一向一揆を平定した[35]武田信玄の侵攻に備えるため、1570年(元亀元年)に家康の拠点が浜松城に移ったのちも、岡崎城は長男松平信康(徳川信康)が城主を務めるなどし、長篠の戦いでは、岡崎城から出発した家康らが、片寄の天恩寺を経て長篠城に向かった。また、本能寺の変に伴う伊賀越えの際には、畿内から逃れた家康が岡崎城に帰還した。

1590年(天正18年)、家康が関東移封により多くの三河武士とともに江戸に移ると、豊臣家臣・田中吉政が岡崎城に入った。吉政は家康に対する抑えとして城を拡張し、石垣や城壁などを用いた近世城郭にふさわしいものに整備したが、秀吉の死後家康に接近し、関ヶ原の戦いでは家康側についた。また、城下町の整備も積極的に行われ、岡崎の郊外を通っていた東海道が岡崎城下町の中心を通るように変更され、現在の岡崎城の原型が造られた。

近世

当時、日本最長の矢作橋

江戸時代に入ると、岡崎藩が立藩され、徳川家康誕生の地として別格の扱いを受けるようになった。家康の死に際しては、大樹寺の住職が立ち会い、死後大樹寺に位牌が納められた。第3代将軍の徳川家光は家康への尊敬心が強かったとされ、滝山東照宮の創建、伊賀八幡宮及び六所神社の改築などを行い、現在いずれも国の重要文化財となっている。東海道沿線には岡崎宿藤川宿の2宿が置かれ、宿場町が栄えた。また、「五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」と謡われているように、矢作川と乙川の合流地点にある岡崎は水運の要衝であり、矢作川には当時としては日本最長の矢作橋が架けられる程であった。

岡崎藩初代藩主の本多康重は、東海道の整備、城下町の建設などに尽力し、「岡崎の27曲がり」といわれる多数のクランク状の道が整備された。これは、普段の生活では影響は無い曲がり角が、敵軍の急襲の際には進攻の妨げとなるように設計されたものである。また、江戸中期には矢作川沿いの農村で綿作が盛んに行なわれるようになり、三河木綿が特産品として生産されるようになった。

歴代岡崎藩主は全て名門譜代大名から選ばれ、老中を務めた水野忠之松平康福本多忠民など、江戸幕府の要職者を輩出した。歴代藩主が幕閣に入ったことや臨時課役による出費で、岡崎藩の財政は悪く、第6代藩主の水野忠辰が幽閉されるなど度々藩政の混乱を招いた[39]幕末に岡崎藩主を務めた本多忠民は、徳川家康の側近徳川四天王であった岡崎出身の本多忠勝本多氏宗家第15代であったが、戊辰戦争で徳川方には付かず明治新政府軍に与したため、脱藩浪士との対立が起きた。最後の藩主となった次の本多忠直は、明治維新後岡崎藩知事を務めた。

岡崎の地は岡崎藩の他にも、南部には三河中島藩や、大岡越前として有名な大岡忠相から始まる西大平藩が、北部には大給松平家が支配した奥殿藩がそれぞれ置かれ、奥殿藩第8代藩主の松平乗謨は老中や陸軍総裁を務めた。また、藩の他に、直轄領や幕府官僚の知行、徳川家菩提寺の大樹寺領を始めとした多数の寺社領が配置され、徳川家康出身地として広義の幕府領として扱われた[40][41]

近現代

昭和初期の本町通り
岡崎空襲後の岡崎市街
岡崎市中心市街地

明治の世になると、廃藩置県により岡崎藩が岡崎県となり、岡崎県、次いで額田県の県庁が置かれた。8世紀から伝わる伝統の三河木綿を引き継いだ水車動力のガラ紡、官営愛知紡績所が操業し、国鉄東海道本線名鉄岡崎市内線西尾線名古屋本線挙母線が開通し、岡崎の近代化を一層促進した。岡崎は西三河の中心都市として栄え、西三河中から学生が集まる愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、愛知第二師範学校(現・愛知教育大学)、岡崎町立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)なども置かれた[42]

1916年(大正5年)7月1日に市制を施行し、愛知県3番目、全国では67番目の市として岡崎市が誕生した。太平洋戦争時には岡崎海軍航空隊が置かれたことなどから、1945年(昭和20年)7月20日に空襲を受け、市街地の大部分が焼失した(岡崎空襲[20][43]。市内を走る路面電車の車庫が燃えたため、急遽京都から車両を調達したこともあった。また、資材供出のために西尾線は休止された。太平洋戦争末期には、全国4番目の高等師範学校として岡崎高等師範学校(現名古屋大学教育学部)が設置された。

戦後、休止中の西尾線のうち岡崎駅前 - 福岡町間が福岡線として再開したが、モータリゼーションの流れに押され1962年に名鉄岡崎市内線、挙母線とともに廃線となった。その後、国鉄岡多線が開通し、トヨタ自動車の自動車輸送やユニチカ岡崎工場向けの原料輸送が行われた。

1970年(昭和45年)に三菱自動車工業が北野町に大規模な開発センター兼工場を設置するなど、当市にも工業化の波が押し寄せてきた。それに伴い、康生地区への大型商業施設の進出も激化した。1971年(昭和46年)4月10日には「岡崎ショッピングセンター・レオ」(核店舗は松坂屋岡崎店)が、1972年(昭和47年)10月5日には「セントラルパークビル・セルビ」が、1973年(昭和48年)4月には「名鉄サンリバー」が完成。1977年(昭和52年)7月5日には「岡崎シビコ」(核店舗はジャスコ岡崎店)が開店した[44]。その後、商業の中心地は康生から移り分散したものの、今日にいたる間に西三河地方屈指の商圏が形成され、同地方随一の商業都市として発展した。

市名の由来

岡崎という地名は、もともとは中世に明大寺町にあったとされる明大寺城や矢作宿が、竜美ヶ丘のある陵の出にあったことから名付けられたものとされる。その後、西郷氏により明大寺から菅生郷に城が移され、岡崎という地名が拡張されて用いられるようになったものと考えられる[45][33]。初めて岡崎という地名が確認できるのは、1484年作成の上宮寺「門徒次第之事」にある「オカサキ」との記述である。『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年-1531年)以来の名號にして、其以前は菅生郷なり」、と記載されているため、1531年(享禄4年)に松平清康が龍頭山砦を岡崎城と命名した以降、使われていると思われる。

年表

古代