破壊された石仏。川崎市麻生区黒川。
岐阜県東白川村役場脇にある「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」。苗木藩の廃仏毀釈時に4つに割られて庭石などにされたのち、廃仏毀釈後に破片を集め修復されたもの。中央に割った時の跡が残る

廃仏毀釈廢佛毀釋排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院仏像・経巻(経文巻物)を破毀(破棄)し、仏教を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。中国においては3世紀以来廃仏の動きが強く、韓愈以後の朱子学派の廃仏論が大きな影響力をもった。とりわけ中国仏教史においては三武一宗の法難が有名である[1]。日本においては江戸時代から儒学の興隆でしばしば起きるようになったが、とりわけ明治初期に神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で、多年にわたり仏教に虐げられてきたと考えていた神職者や民衆が起こした一連の動きを指すことが多い。各地で仏像・経巻・仏具の焼却や除去が行なわれたが、この事件が仏教覚醒の好機ともなり、日本近代仏教は廃仏毀釈をてことして形成されていった[1]

明治期以前の廃仏運動

仏教が日本に伝来した当初は『日本書紀』の欽明天皇敏達天皇用明天皇の各天皇記をもとにすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われたが、仏教が浸透していくことによってこのような動きは見られなくなった。戦国時代および安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。

江戸時代前期においては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まり、影響を受けた池田光政保科正之などの諸大名が、その領内において仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った[2]

徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏も規模が大きく、領内の半分の寺が廃された[3]

江戸時代後期の廃仏運動

光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した[3]。幕末期に新政府を形成することになった人々は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた[2][4]

また同時期に勃興した国学においても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。中でも平田派は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与することになった[4]

明治期の神仏分離と廃仏毀釈

大政奉還後に成立した新政府によって慶応4年3月13日1868年4月5日)に発せられた太政官布告[5](通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日1870年2月3日)に出された詔書大教宣布[6]などの政策[7]を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。

日本政府の神仏分離令や大教宣布はあくまでも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈運動(廃仏運動)が全国的に発生した。特に長年仏教に虐げられてきたと考えていた神職者たちは各地で仏教を排撃し、仏像、経巻、仏具の焼却や除去を行なった[1]

浄土真宗の信仰が強い三河国愛知県東部)や越前国福井県北部)では廃仏の動きに反発する護法一揆が発生しているが、それを除けば全体として大きな反抗もなく、明治4年(1871年)頃には終息した[8]。同年正月5日1871年2月23日)付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。

出羽三山については、明治7年(1874年)以降に廃仏毀釈が始まる[9]

伊勢国三重県)では、伊勢神宮のお膝元という事もあって激しい廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった慶光院など100ヶ所以上が廃寺となった。特に、神宮がある宇治山田(現:伊勢市)は、1868(明治元)年11月から翌1869年(明治2)年3月までのわずか4ヶ月間で、196の寺が廃寺となった。これは宇治山田に存在した寺院の4分の3が整理されたことになる[10]

奈良興福寺でも食堂が明治8年(1875年)に破壊され、現在は国宝に指定されている興福寺五重塔も、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円[11]で売りに出され、薪にされようとしていた。また大阪住吉大社の神宮寺の二つの塔をもつ大伽藍は、明治6年(1873年)にほとんどが壊された。大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる内山永久寺に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。

廃仏毀釈がもっとも徹底された薩摩藩では、藩内寺院1616寺すべてが消え、僧侶2964人すべてが還俗させられた。廃仏毀釈の主たる目的は、寺院の撞鐘、仏像、什器などから得られる金属で、天保通宝を密かに偽造し軍備の拡充を図った[12]。小西孝司によれば2019年(令和元年)9月時点で鹿児島県内には『宗教年鑑』平成30年版の引用で481寺あるが、国宝や重要文化財の仏像は1点もないとしている[13]。なお文藝春秋と小西の記事では廃仏毀釈時の寺院の数が異なる(小西は1066としているが、いつの年月の時点かは記していない)。

美濃国岐阜県)の苗木藩東白川村)では、明治初期に徹底した廃仏毀釈が行われ、藩内寺院17の寺すべてが廃寺となり、仏教の要素を含むものはことごとく廃却させられた。東白川村では、現在でも仏教徒はほとんど存在せず、葬式は神葬祭で実施されるのが通例である[14]

一方、尾張国(愛知県西部)では津島神社の神宮寺であった宝寿院が、仏教に関わる物品を神社から買い取ることで存続している[15]

廃仏毀釈の徹底度に、地域により大きな差があったのは、主に国学の普及の度合いの差による。平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が、仏教の排斥につながった。廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。

神仏分離がこれほど激しい廃仏毀釈に至った原因であるが, ➀廃仏思想を背景とするもの ②江戸幕府の間接統治のシステムとしての寺請制度下において管理・統制の実行者として与えられた特権に安住した仏教界への神官・庶民の反感 ③地方官が寺院財産の収公を狙ってのこと など、様々な社会的・政治的理由も窺える。 日本政府は廃仏毀釈などの行為に対して「社人僧侶共粗暴の行為勿らしむ」ことと、「神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではない」との注意を改めて喚起した。 また一方でこれらの廃仏運動は、藩政時代の特権を寺院が喪失したことによって仏教界へ変革を促し、伝統仏教の近代化に結びついたとする意見もある。[1]

尾鍋輝彦は、近代国家形成期における国家と宗教の問題として、同時期にドイツ帝国首相オットー・フォン・ビスマルクが行った文化闘争との類似性を指摘している[8]

被害を受けた寺社

廃仏毀釈による主な廃寺