昭和天皇 | |
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![]() 1935年(昭和10年)撮影 | |
即位礼 |
即位礼紫宸殿の儀 1928年(昭和3年)11月10日 於 京都御所 |
大嘗祭 |
1928年(昭和3年) 11月14日・15日 於 仙洞御所大嘗宮 |
元号 | 昭和: 1926年12月25日 - 1989年1月7日 |
内閣総理大臣 | |
先代 | 大正天皇 |
次代 | 明仁 |
天皇 | 大正天皇 |
内閣総理大臣 | |
誕生 |
1901年(明治34年)4月29日 22時10分 ![]() 青山御所 |
崩御 |
1989年(昭和64年)1月7日 午前6時33分 (宝算87) ![]() 吹上御所 |
大喪儀 |
葬場殿の儀 大喪の礼 1989年(平成元年)2月24日 於 新宿御苑葬場殿 |
陵所 |
武蔵野陵 (東京都八王子市長房町) |
追号 |
昭和天皇(しょうわてんのう) 1989年(平成元年) 1月31日[1]追号勅定 |
諱 |
裕仁(ひろひと) 1901年(明治34年)5月5日命名 |
別称 | 昭和帝(しょうわてい) |
称号 | 迪宮(みちのみや) |
印 | 若竹(わかたけ) |
元服 | 1919年(大正8年)5月7日 |
父親 | 大正天皇 |
母親 | 貞明皇后 |
皇后 |
香淳皇后(良子女王) 1924年(大正13年)1月26日 結婚 |
子女 | |
皇嗣 | 皇太子明仁親王[注釈 2] |
皇居 | 宮城・皇居 |
栄典 | 大勲位 |
学歴 | 東宮御学問所修了 |
副業 | 生物学者 |
親署 |
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昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇[注釈 3](在位:1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)[2]。お印は若竹(わかたけ)。
1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りに渡って、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政宮となった。
60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した[3]。
1901年(明治34年)4月29日に大正天皇(当時:皇太子嘉仁親王)の第一皇子(皇男子)として誕生する。母は、貞明皇后。
弟に、秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)、高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)、三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)の3人がいる。
1916年(大正5年)に立太子。1921年(大正10年)に日本の皇太子として初めて欧州を歴訪[4](皇太子裕仁親王の欧州訪問)。帰国後に、摂政に就任。
1924年(大正13年)に、久邇宮邦彦王第一女子の良子女王(香淳皇后)と結婚。
東久邇成子(照宮成子内親王)、久宮祐子内親王、鷹司和子(孝宮和子内親王)、池田厚子(順宮厚子内親王)、明仁(継宮明仁親王、第125代天皇・上皇)、常陸宮正仁親王(義宮正仁親王)、島津貴子(清宮貴子内親王)の2男5女、皇子女7人をもうける。
皇太子時代は、日本の皇太子として初めてイギリスやフランス、ベルギーなどをお召艦で訪問する。
1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大正天皇の崩御に伴い皇位継承、第124代天皇として践祚する[4]。
大日本帝国憲法下において「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬(第4条)」と規定された立憲君主たる地位にあった。歴史学者の多くは、「戦前の昭和天皇は憲法上最高決定権を有していたものの、実際には政府が決定した方針を承認するのみだった」と指摘している[4]。
一方で、軍事・外交においては、しばしば独自の判断を示すこともあり、二・二六事件における反乱軍鎮圧や、第二次世界大戦の日本の降伏において、連合国に対するポツダム宣言受諾決定などに関与した[5]。
1945年(昭和20年)8月に、ラジオでいわゆる玉音放送を行って国民に終戦を宣言した[4]。1946年(昭和21年)には、いわゆる「人間宣言」(新日本建設ニ関スル詔書)を発して神格化を否定[4]。占領期にはダグラス・マッカーサーとの会見などを通じて独自の政治的影響力を発揮した[5]。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法では、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴(第1条)」である天皇(象徴天皇制)であり「国政に関する権能を有しない(第4条)」とされている。また、昭和天皇は生物学研究者でもあり、『相模湾産後鰓類図譜』などを著した[4]。
1971年(昭和46年)には天皇として初めてイギリスやオランダ、アメリカ合衆国を訪問し、1975年(昭和50年)には同じく天皇として初めてアメリカを訪問した(いずれの外国訪問に香淳皇后同伴)[4]。
1989年(昭和64年)1月7日に崩御。これに伴い、長男の皇太子明仁親王が皇位を継承し第125代天皇に即位した[4]。昭和天皇は、継体天皇以降の歴代天皇の中では在位期間が最も長く(62年及び14日間)、最も長寿(宝算87)であった。
2021年(令和3年)現在、皇室典範の定めるところにより皇位継承権を有する3人の親王(秋篠宮文仁親王、悠仁親王、常陸宮正仁親王[注釈 4])の最近共通祖先[注釈 5]たる天皇にあたる(詳細は「皇位継承順位」を参照)。
昭和天皇は1901年(明治34年)4月29日(午後10時10分)、東京府東京市赤坂区青山(現:東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の第三皇男子で皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と皇太子嘉仁親王妃節子(後の貞明皇后)の第一男子として誕生した。身長は1尺6寸8分(約51センチメートル)、体重800匁(3,000グラム)であった。 皇室典範の規定による「皇孫」の誕生であった[6]。
祖父の明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補複数を挙げさせた。
出生7日目(5月5日)に明治天皇が「称号を迪宮(みちのみや)・諱を裕仁(ひろひと)」と命名している。皇族身位は、親王。
他の候補に称号は「謙宮」、諱は「雍仁」「穆仁」があった。
同じ日には宮中賢所、皇霊殿、神殿において「御命名の祭典」が営まれ、続いて豊明殿にて祝宴も催され出席している皇族・大臣らが唱えた「万歳」が宮中祝宴において唱えられた初めての「万歳」と言われている[8][注釈 12]。
生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。1904年(明治37年)11月9日、川村の死去を受け弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に住居を移転した。1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には学習院初等科に入学し、学習院院長乃木希典(陸軍大将)に教育された。また、幼少時の養育係の一人には足立たか(のち、鈴木姓。鈴木貫太郎夫人)もいた。
1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、旧皇室典範の規定により皇太子となる[6]。大正と改元されたあとの同年(大正元年)9月9日、「皇族身位令」の定めにより11歳で陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ住居を移転する。1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。1915年(大正4年)10月、14歳で陸海軍中尉に昇任した。1916年(大正5年)10月には15歳で陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所で立太子礼を行い正式に皇太子となった。
1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一女子、良子女王が皇太子妃に内定。1919年(大正8年)4月29日に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われるとともに、帝国議会貴族院皇族議員となった。1920年(大正9年)10月に19歳で陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。
大正天皇の病状悪化のなかで、3月3日から9月3日まで、軍艦「香取」でイギリスをはじめ、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアのヨーロッパ5か国を歴訪した。1921年5月9日、イギリス国王ジョージ5世から「名誉陸軍大将(Honorary General)」に任命された[9]。同年11月25日、20歳で摂政に就任し[10]、摂政宮(せっしょうみや)と称した(2021年〈令和3年〉1月現在、日本史上最後の摂政である)。
1923年(大正12年)4月、戦艦「金剛」で台湾を視察する。
9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。10月1日に御学問開始。10月31日に22歳で陸海軍中佐に昇任した。12月27日に虎ノ門附近で狙撃されるが命中せず命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)、良子女王と結婚した。1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。8月、戦艦長門で樺太を視察、10月31日に23歳で陸海軍大佐に昇任した。12月、第一女子/第1子・照宮成子内親王(のちの盛厚王妃成子内親王→東久邇成子)が誕生した。
1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇の崩御を受け葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、「昭和(読み:しょうわ)」と改元[注釈 13]。なお、即位に伴い皇太子は空位となり、長弟の秩父宮雍仁親王が皇位継承順位第1位の皇嗣である状態が、7年後の1933年(昭和8年)12月23日の継宮明仁親王の誕生まで続いた。1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う[注釈 14]。同年9月10日、第二皇女/第2子・久宮祐子内親王が誕生した。同年11月9日に行われた愛知県名古屋市での名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴された(北原二等卒直訴事件)。
1928年(昭和3年)3月8日、第二皇女/第2子の久宮祐子内親王が薨去(夭折)。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所で即位の大礼を挙行。11月14 - 15日、仙洞御所内に造営した大嘗宮で大嘗祭を挙行する。1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社を参拝。9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王(のちの鷹司和子)が誕生した。
1931年(昭和6年)1月、宮内省(現宮内庁)・文部省(現文部科学省)は、正装姿の昭和天皇・香淳皇后の御真影を日本全国の公立学校および私立学校に下賜する。3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王(のちの池田厚子)が誕生する。1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。
1933年(昭和8年)12月23日、自身の5人目の子にして待望の第一皇子(皇太子)・継宮明仁親王(のちの第125代天皇、現:上皇)が誕生し、国民から盛大に歓迎祝賀される。1935年(昭和10年)4月には日本を公式訪問する満州国皇帝の溥儀(清朝最後の皇帝)を東京駅に迎えた。11月28日には第二皇子・義宮正仁親王(のちの常陸宮)が誕生した。
1928年(昭和3年)、昭和天皇の即位の礼。
1937年(昭和12年)11月30日、日中戦争(当時の呼称:支那事変)の勃発を受けて宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、自身の末子になる第五皇女・清宮貴子内親王(のちの島津貴子)が誕生する。
1941年(昭和16年)12月1日に御前会議で対イギリスおよびアメリカ開戦を決定し、12月8日に自身の名で「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」を出し、大東亜戦争が勃発する。1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月21日には御前会議を開いた。1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に香淳皇后とともに移住した。同年5月31日に御前会議において「大東亜政略指導大綱」を決定する。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、その8日後の3月18日に昭和天皇は東京都内の被災地を視察した。同年5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。連合国によるポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前会議にていわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾を決定し、終戦の詔書を出した(日本の降伏)。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日にラジオ放送において自身の臣民に終戦を伝えた(玉音放送)。この放送における「堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ」の一節は終戦を扱った報道特番などでたびたび紹介され、よく知られている。
昭和天皇は9月27日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を率いるダグラス・マッカーサーとの会見のため駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問した。11月13日に、伊勢神宮へ終戦の報告親拝を行った。また、同年には神武天皇の畝傍山陵(現在の奈良県橿原市大久保町に所在)、祖父・明治天皇の伏見桃山陵(現在の京都府京都市伏見区桃山町古城山に所在)、父・大正天皇の多摩陵(現在の東京都八王子市長房町に所在)にも親拝して終戦を報告した。
戦後、昭和天皇は1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、「天皇の神格性」や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、「新日本建設への希望」を述べた。2月19日、戦災地復興視察のため神奈川県横浜市へ行幸、以後1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した。行幸に際しては、迎える国民に向かって食事のことなど、生活に密着した数多くの質問をした。行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の「涼しくなってからでいいのでは」との反対を押し切り、「東北の農業は夏にかかっている」という理由で夏の季節時期を選ぶなど、民情を心得た選択をし、国民は敬意を新たにしたとされる[11]。
1946年(昭和21年)11月3日、昭和天皇は大日本帝国憲法第73条の規定により同憲法を改正することを示す裁可とその公布文である上諭により日本国憲法を公布した。1947年(昭和22年)5月3日、大日本帝国憲法の失効と伴い日本国憲法が施行され、昭和天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて自身の一人称として「わたくし(私)」を用いる。1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。
1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で挙行された「主権回復記念式典」で天皇退位説(当時の次期皇位継承者である長男の継宮明仁親王への譲位、当時まだ未成年であった明仁親王が成人するまでの間は、三人いた実弟のうち長弟秩父宮雍仁親王は結核を患い療養下にあったため、次弟高松宮宣仁親王が摂政を務めるというもの)を否定し、引き続き「象徴天皇」として務めていくという意思を示す。また同年には、伊勢神宮と初代・神武天皇の畝傍山陵、祖父である明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、「日本の国家主権回復」を報告した。10月16日、初めて天皇・皇后が揃って靖国神社に親拝した。
1969年(昭和44年)1月2日に皇居新宮殿にて1963年(昭和38年)以来の皇居一般参賀が行われた。長和殿のバルコニーに立った際、パチンコ玉で狙われた。昭和天皇は負傷こそなかったものの、これを機に、長和殿のバルコニーに防弾ガラスが張られることになった。犯人は映画『ゆきゆきて、神軍』の主人公奥崎謙三で、暴行の現行犯で逮捕された。
1971年(昭和46年)、昭和天皇は香淳皇后とともにイギリス・オランダなどヨーロッパ各国を歴訪し、1975年(昭和50年)に香淳皇后とともにアメリカ合衆国を訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた[12]。
1976年(昭和51年)には、「天皇陛下御在位五十年記念事業」として東京都の立川飛行場跡地に「国営昭和記念公園」が建設された。記念硬貨が12月23日(当時の皇太子明仁親王の43歳の誕生日)から発行され、発行枚数は7000万枚に上った。
1981年(昭和56年)、昭和天皇は新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には政府主催で「天皇陛下御在位六十年記念式典」が挙行され[注釈 15]、継体天皇以降の歴代天皇で在位最長を記録した。
1987年(昭和62年)4月29日、昭和天皇は天皇誕生日(旧:天長節)の祝宴・昼食会中、嘔吐症状で中座した[注釈 16]。8月以降になると吐瀉の繰り返しや、体重が減少するなど体調不良が顕著になった。検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ、「腸閉塞」と判明された。食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性があるため、9月22日に歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。12月には公務に復帰し回復したかに見えた。
手術にあたり1987年(昭和62年)9月14日の拡大侍医団会議では、「陛下の体(玉体)にメスを入れるのはいかがなものか」といういわゆる玉体論が噴出した[14]。侍従からは「輸血をしては万世一系の血脈が途絶えるのではないか?」との声もでたという。
しかし、1988年(昭和63年)になると昭和天皇の体重はさらに激減し、8月15日の全国戦没者追悼式が天皇として最後の公式行事出席となった。9月8日、那須御用邸から皇居に戻る最中、車内を映し出されたのが最後の公の姿となった。
昭和天皇は9月18日に大相撲9月場所を観戦予定だったが、高熱が続くため急遽中止となった。その翌9月19日の午後10時ごろ、大量吐血により救急車が出動、緊急輸血を行った。その後も上部消化管からの断続的出血に伴う吐血・下血を繰り返し、さらに胆道系炎症に閉塞性黄疸、尿毒症を併発、マスコミ陣もこぞって「天皇陛下ご重体」と大きく報道し、さらに日本各地では「自粛」の動きが広がった(後述)。
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇は皇居吹上御所において宝算87歳をもって崩御した[注釈 17]。死因は、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)と発表された[注釈 18]。神代を除くと、歴代の天皇で最も長寿であった。午前7時55分、藤森宮内庁長官と小渕恵三内閣官房長官(のちの内閣総理大臣)がそれぞれ会見を行い崩御を公表した。これに伴い、昭和天皇第一皇男子の皇太子明仁親王がただちに皇位継承して第125代天皇に即位した。
その直後、竹下登内閣総理大臣(当時:竹下改造内閣)が「大行天皇崩御に際しての竹下内閣総理大臣の謹話」を発表した[注釈 19]。
1989年(平成元年)1月31日、天皇明仁が勅定、在位中の元号から採り「昭和天皇」(しょうわてんのう)と追号した[15]。
同年2月24日、新宿御苑において日本国憲法・現皇室典範の下で初めての大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点あまりが副葬品としてともに納められたとされる[16]。
昭和天皇の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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昭和天皇 | 父: 大正天皇 |
祖父: 明治天皇 |
曾祖父: 孝明天皇 |
曾祖母: 中山慶子 | |||
祖母: 柳原愛子 |
曾祖父: 柳原光愛 | ||
曾祖母: 長谷川歌野 | |||
母: 貞明皇后 |
祖父: 九条道孝 |
曾祖父: 九条尚忠 | |
曾祖母: 唐橋姪子 | |||
祖母: 野間幾子 |
曾祖父: 野間頼興[20] | ||
曾祖母: 不詳 |
122 香淳皇后(良子女王)との間に2男5女の7人の子女をもうけた。うち夭折した第二皇女子(第2子)を除き、6人が成人した。 2020年(令和2年)4月1日現在、3女は故人、第四皇女子(第4子)以降の4人の子女(2男2女)は80歳以上で存命中である。
主な出来事乃木希典による教育
1912年(明治45年)7月30日の祖父・明治天皇の崩御後、同年9月13日に陸軍大将・乃木希典が同夫人乃木静子とともに殉死し波紋を呼んだ。晩年の乃木は学習院院長を務め、少年時代の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)にも影響を与えた。乃木は直接的な言葉よりも「暗示」や「感化」によって、迪宮に将来の天皇としての自覚を持たせようと試みたとされる[23]。 乃木の「雨の日も(馬車を使わずに)外套を着て徒歩で登校するように」という質実剛健の教えは迪宮に深い感銘を与え、天皇になったあとも記者会見の中で度々紹介している[24][25][26]。このように、複数回個人名を挙げたことは、極めて異例であった[27]。 鈴木孝(足立たか)の回想によれば、実際に青山御所から四谷の初等科まで徒歩で通学し、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった[28][29]。鈴木孝によれば、側近が「乃木大将の拝謁」を報告した際には「院長閣下と申し上げなきゃいけない」と注意したという[30]。 一方、乃木は皇位継承者である迪宮が常に最上位でなければならないという考えのもと、弟宮たちとは明確に区別した。また乃木の指示で、迪宮ら三親王も出席する学習院の朝礼の際には教育勅語の暗唱に続いて、生徒たちに「最高の望みは何か」と問い、「天皇陛下のために死ぬこと」と唱和させた[31]。また乃木は月に数度、院長室に迪宮を招いて皇孫としての心得や軍人時代の経験などを語り聞かせていた[32]。
1912年(大正元年)9月11日(9日など他説あり)、参内した乃木は皇太子となった裕仁親王に勉学上の注意とともに、自ら写本した『中朝事実』を与えた[28]。乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、そのただならぬ様子に皇太子は「院長閣下はどこかに行かれるのですか?」と質問したという。 9月13日、明治天皇の大喪の礼当日、乃木は殉死した。皇太子と2人の弟宮たちはその翌朝に養育掛長であった丸尾錦作から事件を知らされ、その辞世の歌にも接して涙を流した[33][34]。丸尾によると、皇太子はこの時、涙ながらに「乃木院長が死なれた」「ああ、残念である」とつぶやいた[35]。 乃木が与えた『中朝事実』が、のちに三種の神器を重要視する考え方に影響を与えたとの意見もある[36]。 宮中某重大事件詳細は「宮中某重大事件」を参照
「御婚約御変更無し」と報じる東京朝日新聞(大正10年2月11日) 1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。 しかし11月、元老・山縣有朋が「良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝がある」として婚約破棄を進言した。山縣は、西園寺公望や首相の原敬と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意思が尊重され、1921年(大正10年)2月10日に宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。 事件の責任を取って宮内大臣中村雄次郎が辞任し、山縣も枢密院議長など全官職の辞職願を提出した。しかし、同年5月に山縣の辞表は詔を以て却下された。この事件に関して、山縣はその後一言も語らなかったという。翌年2月1日、山縣は失意のうちに病気により没した。 日本の皇太子として欧州諸国を訪問詳細は「皇太子裕仁親王の欧州訪問」を参照
1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの6ヶ月間、皇太子裕仁親王はヨーロッパ各国を歴訪した。 父親の重病による摂政就任、25歳で践祚1921年(大正10年)11月25日、父親の大正天皇が重病により公務を行えるようになるほど回復することが今後不可能であると判断されたため、皇太子裕仁親王は20歳で摂政に就任した[37](2021年〈令和3年〉1月1日現在、日本史上最後の摂政である)。 1926年(大正15年/昭和元年)12月25日に大正天皇が崩御し、自身が25歳で第124代天皇に践祚する。それまでの間は、「摂政宮(せっしょうのみや)」とも呼ばれた。 関東大震災と婚礼の儀の延期1923年(大正12年)9月1日発生の関東大震災では、霞関離宮が修理中であったために箱根(震災で大きな被害を受けた)へ行啓する予定であったが、当時の内閣総理大臣加藤友三郎が急逝したことによる政治空白が発生したため、東京の宮城(皇居)に留まり命拾いをした。のちに昭和天皇はこの時を振り返り、1973年(昭和48年)9月の記者会見で「加藤が守ってくれた」と語っている[38]。 地震における東京の惨状を視察した皇太子裕仁親王(当時摂政)は大変心を痛め、自らの婚礼の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して翌年1月に延期した。 後年、1981年(昭和56年)の記者会見で、昭和天皇は関東大震災について「その惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」と述懐している[39]。また、同会見では、甚大な被害に加え、皇族にも死者が出た[注釈 20]ことから、9月1日を「慎みの日」としていることを明かしている[40]。 田中義一首相を叱責、内閣総辞職1928年(昭和3年)6月4日に起きた満州某重大事件(張作霖爆殺事件)の責任者処分に関して、内閣総理大臣の田中義一は「責任者を厳正に処罰する」と昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかったとき、昭和天皇は「それでは、前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中首相は、その後間もなく死去した)。 田中内閣時には、若い昭和天皇が政治の教育係ともいえる内大臣・牧野伸顕の指導のもと、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人や右翼・国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。昭和天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。 この事件で 昭和天皇は「その後の政治的関与について、慎重になった」という。 なお『昭和天皇独白録』には、「『辞表を出してはどうか』と昭和天皇が田中義一首相に内閣総辞職を迫った」という記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らし合わせると、そこまで踏み込んだ発言はなかった可能性もある。 昭和天皇が積極的な政治関与を行った理由について、伊藤之雄が「牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ(憲政下における明治天皇の実態とは異なる)を抱き親政を志向したため」と、原武史も「地方視察や即位後続発した直訴へ接した体験の影響による」と論じている。 「天皇機関説」事件1935年(昭和10年)、美濃部達吉の憲法学説である天皇機関説が政治問題化した天皇機関説事件について、時の当事者たる昭和天皇自身は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説でよい」と言った。昭和天皇が帝王学を受けたころには憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていた。ただ、機関説事件や一連の「国体明徴」運動をめぐって昭和天皇が具体的な行動をとった形跡はない。機関説に関しての述懐を、昭和天皇の自由主義的な性格の証左とする意見の一方、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする見解もある。 二・二六事件1936年(昭和11年)2月26日に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りもあらわに「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あるというのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当らん」と発言したとされる[41]。 このことは「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を忠実に採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して、初めて自らの意思を述べたともいえる。この天皇の意向ははっきりと日本軍首脳に伝わり、決起部隊を反乱軍として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。 このときの発言について、1945年(昭和20年)第二次世界大戦における日本の降伏による戦争終結のいわゆる“聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」「あのときはまだ若かったから」とのちに語ったといわれている。この事件との影響は不明ながら、1944年(昭和19年)に長男継宮明仁親王が満10歳になり、「皇族身位令」の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、父親たる自身の意思により、任官を取り止めさせている。また、明仁親王の教育係として、大日本帝国陸軍の軍人を就けることを、特に拒否している。 太平洋戦争(第二次世界大戦)開戦1941年(昭和16年)9月6日の御前会議で、対英米蘭戦は回避不可能なものとして決定された。 御前会議ではあくまでも発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、37年前の1904年(明治37年)に自身の祖父たる明治天皇が日露戦争開戦の際に詠んだ御製である
という短歌を詠み上げた。 また米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告の中の「豈朕カ志ナラムヤ」の一文は天皇本人が書き入れたといわれる。 なお、対米開戦直前の1941年(昭和16年)12月6日、フランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領より直接、昭和天皇宛に「平和を志向し関係改善を目指す」という親電が送られていた[42]。 しかし、この親電が東京電信局に届いたのが真珠湾攻撃の15時間半前であった。国家の命運を決めるようなこの最重要文書が、電信局で10時間も阻止されてしまう。元大日本帝国陸軍参謀本部通信課戸村盛男が「もう今さら親電を届けてもかえって現場が混乱をきたす。従って御親電は10時間以上遅らせることにした。それで陛下(昭和天皇)も決心を変更されずに済むし、敵を急襲することができると考えた」とのちに証言している。こうして、親電が肝心の昭和天皇の手元に届いたのは真珠湾攻撃のわずか20分前であった。 『昭和天皇独白録』などから、上記のような行為にも示されている通り、昭和天皇自身は「開戦には、消極的であった」といわれている。ただし、『昭和天皇独白録』はのちの敗戦後の占領軍(GHQ/SCAP)に対する弁明としての色彩が強いとする吉田裕らの指摘もある。対米英開戦後の1941年(昭和16年)12月25日には「自国日本軍の勝利」を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。 日本共産党中央委員長も務めた田中清玄がのちに転向して「天皇制(皇室)護持」を強く主張する「尊皇家」になった。敗戦後間もない1945年(昭和20年)12月21日、宮内省(のちの一時期宮内府、現在の宮内庁)から特別に招かれた昭和天皇との直接会見時の最後に、「他になにか申したいことがあるか?」と聞かれ、田中は「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対でいらっしゃった。どうしてあれをお止めになれなかったのですか?」と問い質した。それに対して昭和天皇は「私は立憲君主であって、専制君主ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。憲法の規定もそうだ」と回答している。 戦争指導開戦後から戦争中期の1943年(昭和18年)中盤にかけては、太平洋のアメリカ西海岸沿岸からインド洋のマダガスカルに至るまで、文字通り世界中で日本軍が戦果を上げていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際にいくつか指示などもしている。有名なものとして日本軍が大敗したミッドウェー海戦では敵の待ち伏せ攻撃を予測し、過去の例を出し敵の待ち伏せ攻撃に注意するよう指示したが、前線に指示は届かず結果待ち伏せ攻撃を受けて敗北を喫した例がある。 また、昭和天皇はときに軍部の戦略に容喙したこともあった。太平洋戦争時の大本営において、当時ポルトガル領であったティモール島東部占領の計画が持ち上がった(ティモール問題)。これは、同島を占領してオーストラリアを爆撃範囲に収めようとするものであった。しかし、御前会議で昭和天皇はこの計画に反対した。そのときの理由が、「アゾレス諸島のことがある」というものであった。 これは、もしティモール島攻撃によって中立国のポルトガルが連合国側として参戦した場合、イギリスやアメリカの輸送船がアゾレス諸島とイベリア半島との間にある海峡を通過することが容易となりイギリスの持久戦が長引くうえに、ドイツ軍や日本軍の潜水艦による同諸島周辺の航行が困難になるため、かえって戦況が不利になると判断したのである。この意見は御前会議でそのまま通り、1942年から1943年末にかけて行われたオーストラリアへの空襲は別の基地を使って行われた。しかし1943年には、ポルトガルの承認を受けてイギリスはアゾレス諸島の基地を占拠し、その後アゾレス諸島は連合国軍によって使用されている。 和平に向けて昭和天皇実録によると、昭和天皇が終戦の意向を最初に示したのは1944年(昭和19年)9月26日で、側近の木戸幸一内大臣に対し、「武装解除又は戦争責任者問題を除外して和平を実現できざるや、領土は如何でもよい」などと述べている[43]。 日本が連合国に対して劣勢となっていた1945年(昭和20年)1月6日に、連合国軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。このとき、木戸は陸軍・梅津美治郎参謀総長および海軍・及川古志郎軍令部総長と閣僚(当時小磯内閣、小磯國昭首相)の召集を勧めている[注釈 21]。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった[注釈 22]。 詳細は「近衛上奏文」を参照
その中で特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛元首相の上奏がある。近衛は「敗戦必至である」として、「和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだ」と提案している。昭和天皇は「近衛の言う通りの人事ができない」ことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった[45][46]。 沖縄戦での日本軍による組織的戦闘の終了について報告を受けた2日後の1945年6月22日には、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長を呼んで懇談会を開き、戦争の終結についても速やかに具体的研究を遂げるよう求め、初めて軍の最高幹部に戦争終結の意思を表明した[43]。(昭和天皇実録より) その後、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が1945年7月27日に日本に通達、広島に原爆が投下された2日後の1945年8月8日に、東郷茂徳外相に対し「なるべく速やかに戦争を終結」させたい旨を述べている[47]。(昭和天皇実録より) その翌日、長崎に原子爆弾が投下される直前の1945年8月9日午前9時37分に、ソ連軍が対日参戦したとの報告を受けると、18分後の午前9時55分に木戸幸一内大臣を呼び、鈴木貫太郎首相と戦争終結に向けて「十分に懇談」するよう指示を出した[48]。これを受け鈴木首相は、同日午前10時30分開催の最高戦争指導会議(御前会議)でポツダム宣言受諾の可否を決めたいと答えた[48]。(昭和天皇実録より) 連合国によるポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかったため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった[注釈 23]。昭和天皇は8月10日午前0時3分から始まった最後の御前会議でポツダム宣言受諾の意思を表明し[48][49]、8月15日正午、自身が音読し録音された「終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)」がラジオを通じて玉音放送として放送され、終戦となった。 のちに昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている[50][51][52]。 なお、昭和天皇がポツダム宣言の受諾を決意した時期は、広島・長崎への原爆投下時、ソ連の対日参戦時など諸説あったが、昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の伊藤之雄は「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている[48]。これに対し、歴史学者の土田宏成は「昭和天皇が終戦を決断するに至ったのは、大規模な空襲や沖縄戦、原爆投下などの惨禍に衝撃を受け、国民や国家の存続の危機を感じたことも一因と考えられる」と述べている[53]。 敗因に対する考え昭和天皇は戦後間もない1945年(昭和20年)9月9日に、栃木県の奥日光に疎開していた長男、皇太子の継宮明仁親王(現:上皇)へ送った手紙の中で、戦争の敗因について次のように書き綴っている。 「国家は多事であるが、私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 明治天皇の時には山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつた 戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」(一部抜粋)[54] 象徴天皇への転換マッカーサーとの会見写真広島を訪れ歓迎を受ける昭和天皇(1947年)。 イギリスやアメリカなどの連合国軍による占領下の1945年(昭和20年)9月27日に、天皇は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官のダグラス・マッカーサーが居住していた駐日アメリカ合衆国大使館を訪問し、初めて会見した。マッカーサーは「天皇のタバコの火を付けたとき、天皇の手が震えているのに気がついた。できるだけ天皇の気分を楽にすることに努めたが、天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが、私には、よく分かっていた」と回想している(『マッカーサー回想記』より)。 また、会見の際にマッカーサーと並んで撮影された全身写真が、2日後の29日に新聞掲載された。天皇が正装のモーニングを着用し直立不動でいるのに対し、一国の長ですらないマッカーサーが略装軍服で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は衝撃を受けた。天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやってきたと思った。ところが、天皇の口から語られた言葉は、「私は、国民が戦争遂行にあたって行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」、つまり極東国際軍事裁判(東京裁判)に被告人として臨む覚悟がある、というものだった。 さらに、マッカーサーは「私は大きい感動に揺すぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」という。(『マッカーサー回想記』) マッカーサーが略装軍服だったのは特に意識して行ったことではなく、普段からマッカーサーは公式な場において正装の軍服を着用することを行わなかったために、ハリー・S・トルーマン大統領をはじめとしたアメリカ政府内でも厳しく批判されていた。しかし、この時は上ボタンを閉め天皇を車まで見送ったという。 人間宣言詳細は「人間宣言」を参照
1946年(昭和21年)1月1日に、新日本建設に関する詔書(正式名称:新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ、通称:人間宣言)が官報により発布された。「戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであること」を明確にするため、詔書の冒頭においてかつて自身の祖父である明治天皇が発した「五箇条の御誓文」を掲げている[55][56]。 このことを後年振り返り、1977年(昭和52年)8月23日の昭和天皇の会見によると、「日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書のおもな目的であった」といった趣旨のようなことを発言している[55][57][58]。 この詔書は、「人間宣言」と呼ばれている。しかし、人間宣言はわずか数行で詔書の6分の1しかない。その数行も事実確認をするのみで、特に何かを放棄しているわけではない[59]。 天皇イメージの転換戦前の昭和天皇は一般国民との接触はほとんどなく、公開される写真、映像も大礼服や軍服姿がほとんどで現人神、大元帥という立場を非常に強調していた。 ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述がなく、非常に微妙な立場に追い込まれた。そのため、政府や宮内省などは天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却するとともに、巡幸という形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げようと苦慮した。具体的に、第1回国会の開会式、伊勢神宮への終戦報告の親拝時には、海軍の軍衣から階級章を除いたような「天皇御服」と呼ばれる服装を着用した。 さらに、連合国による占領下では礼服としてモーニング、平服としては背広を着用してソフト路線を強く打ち出した。また、いわゆる「人間宣言」でGHQの天皇制(皇室)擁護派に近づくとともに、一人称として「朕」を用いるのが伝統であったのを一般人同様に「私」を用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わすなど、日本の歴史上もっとも天皇と庶民が触れ合う期間を創出した。 スポーツ観戦相撲詳細は「天覧相撲」を参照
昭和天皇は皇太子時代から大変な好角家であり、皇太子時代には当時の角界に下賜金を与えて幕内優勝力士のために摂政宮賜盃を作らせている。即位に伴い、摂政宮賜盃は天皇賜盃と改名された。観戦することも多く、戦前戦後合わせて51回も国技館に天覧相撲に赴いている。 特に戦後は1955年(昭和30年)以降、病臥する1987年(昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間、富士桜、霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取組には身を乗り出して観戦したといわれ、皇居でテレビ観戦する際にも大いに楽しんだという。上述の贔屓の力士と同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との取組は、しばしば天覧相撲の日に組まれた。昭和天皇はのちに「少年時代に相撲をやって手を覚えたため、観戦時も手を知っているから非常に面白い」と語った[60]。 武道詳細は「昭和天覧試合」を参照
1929年(昭和4年)、1934年(昭和9年)、1940年(昭和15年)に皇居内(済寧館)で開催された剣道、柔道、弓道の天覧試合は、武道史上最大の催事となった。この試合を「昭和天覧試合」という。 野球詳細は「天覧試合#プロ野球」を参照
1959年(昭和34年)には、天覧試合としてプロ野球の巨人対阪神戦、いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては、当時の大映社長の永田雅一がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲、野球の振興に与えた影響は計り知れないといえる。この後、昭和天皇のプロ野球観戦は行われなかったが1966年(昭和41年)11月8日の日米野球ドジャース戦を観戦している。 靖国神社親拝![]() 昭和天皇 靖国神社親拝(1934年)。 「靖国神社問題#天皇の親拝」も参照
昭和天皇は終戦直後から1975年(昭和50年)まで、以下のように靖國神社に親拝していたが1975年(昭和50年)を最後に行わなくなった[61]。ただし、例大祭(春と秋の年に2回)に際しては勅使の発遣を行っている。
昭和天皇が靖国神社親拝を行わなくなった理由については左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀が憲法違反であるとする一部野党議員の攻撃など、様々に推測されてきたが近年『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことに対して不満であったことを原因とする見方が、歴史学界では定説となっている。ただし、合祀後も勅使の発遣は継続されている。なお天皇の親拝が途絶えたあとも、高松宮および三笠宮一族は参拝を継続している[62]。 「崩御」前後記帳1988年(昭和63年)以降、各地に昭和天皇の病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にも上り、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。 設置された各地の記帳所は以下の通り。
市民の動き
外遊外国訪問は生涯に3回であった。 皇太子時代詳細は「皇太子裕仁親王の欧州訪問」を参照
皇太子時代の1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの間、イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の訪欧[注釈 38]であり、国内には反対意見も根強かったが、山縣有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。 裕仁親王の出発は新聞で大々的に報じられた。お召し艦には戦艦香取が用いられ、横浜を出発し那覇、香港、シンガポール、コロンボ、スエズ、カイロ、ジブラルタルと航海し、2か月後の5月9日にポーツマスに着き、同日イギリスの首都ロンドンに到着する。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世や首相デビッド・ロイド・ジョージらと会見した。その夜に、バッキンガム宮殿で晩餐会が開かれジョージ5世とコノート公らと会談した。この夜をジョージ5世は、「慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いた」と語っている。翌10日にはウィンザー宮殿にて王太子エドワードと会い、その後も連日に晩餐会が開かれた。ロンドンでは、大英博物館、ロンドン塔、イングランド銀行、ロイド海上保険、オックスフォード大学、陸軍大学、海軍大学などを見学し、ニューオックスフォード劇場とデリー劇場で観劇なども楽しんだ[89]。ケンブリッジ大学ではタンナー教授の「英国王室とその国民との関係」の講義を聴き、また名誉法学博士の学位を授与された[90]。19日から20日にかけては、スコットランドのエディンバラを訪問し、エディンバラ大学でもまた名誉法学博士号を授与された。また、第8代アソール公ジョン・ステュアート=マレーの居城に3日間滞在したが、アソール公夫妻が舞踏会でそれぞれ農家の人々と手を組んで踊っている様子などを見て、「アソール公のような簡素な生活をすれば、ボルシェビキなどの勃興は起こるものではない」と感嘆したという[90]。 イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見したほか、各国で公式晩餐会に出席したり第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れたりした。 戦後の1970年(昭和45年)9月16日、那須御用邸にて昭和が史上最長の元号になったことにちなみ最も印象深い思い出を聞かれた際、大戦前後を例外にして、「自由を味わうことができた」として、この外遊を挙げた[91]。 天皇時代一覧
欧州訪問![]() 10月8日、オランダに到着した昭和天皇・香淳皇后。 1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7か国を香淳皇后同伴で訪問した。なおこの際はお召し艦を使用した前回(皇太子時代の欧州訪問)と違い、日本のフラッグキャリアである日本航空のダグラス DC-8の特別機を使用した。 訪問先には数えられていないが、この時、経由地として1971年(昭和46年)9月27日(現地時間9月26日)に米国アラスカ州のアンカレッジに立ち寄っており、エルメンドルフ空軍基地に到着した飛行機から降りたのが、歴代天皇で初めて外国の地を踏んだ瞬間となった。そこで、ワシントンD.C.のホワイトハウスから訪れたアメリカ合衆国大統領のリチャード・ニクソンとパット同夫人(ファーストレディー)の歓迎を受け、同基地内のアラスカ地区軍司令官邸でニクソン大統領と会談、実質的にアメリカ合衆国も訪問した。 なお、この昭和天皇とニクソン大統領との会談は当初の予定になく、欧州歴訪のための給油にアメリカに立ち寄るだけの予定であったのだが、アメリカ側の要望で急遽、会談が決定した。日本側は要望を受け入れたものの、外務大臣福田赳夫(第3次佐藤栄作改造内閣)は会談を推進する牛場信彦駐米大使に「わが方としては迷惑千万である。先方の認識を是正されたい」とする公電を送っている。これは当時、「天皇陛下との会談をニクソン大統領の訪中で悪化した日米関係を修復するのに利用しようとしているのではないか」と福田外相が懸念し、象徴天皇制の前提が揺らぐ可能性を憂慮したためである[93][94]。 当初の訪問地であり、王室同士の交流も深いデンマークやベルギーでは国を挙げて温かく歓迎された。休養をかねての非公式訪問となったフランス[95]では、当時イギリスを追われ事実上同国に亡命していた旧知のウィンザー公と隠棲先で50年ぶりに再会して歓談。ウィンザー公と肩を組んでカメラにおさまった姿が公側近により目撃されている[96]。 しかし、第二次世界大戦当時に植民地支配していたビルマやシンガポール、インドネシアなどにおける戦いにおいて日本軍に敗退し、捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは抗議運動を受けることもあった。特に日本軍に敗退したことをきっかけにアジアにおける植民地を完全に失い国力が大きく低下したオランダにおいては、この昭和天皇のことを恨む退役軍人を中心とした右翼勢力から生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいものであった。 こうした抗議や反発について、昭和天皇は帰国後11月12日の記者会見で事前に報告を受けており驚かなかったとした上で、各国からの「歓迎は無視できないと思います」とした[97]。また、3年後に金婚を迎えたことに伴う記者会見で、皇后とともに、50年で一番楽しかった思い出として、この訪欧を挙げた[98]。 アメリカ合衆国訪問1975年(昭和50年)には、当時の米大統領であるジェラルド・R・フォードの招待によって9月30日から10月14日まで14日間に亘ってアメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の即位後の訪米は史上初の出来事である[注釈 39]。 この時も日本航空のダグラスDC-8型機を利用し、このときはアメリカ陸海空軍に加え海兵隊、沿岸警備隊の5軍をもって観閲儀仗を行っている。訪米に前後し、日本国内では反米的な左翼組織東アジア反日武装戦線などによるテロが相次いだ。 昭和天皇はウィリアムズバーグに到着したあと、2週間にわたってアメリカに滞在し訪米前の予想を覆してワシントンD.C.やロサンゼルスなど、訪問先各地で大歓迎を受けた。10月2日のフォードとの公式会見、10月3日のアーリントン国立墓地に眠る無名戦士の墓への献花、10月4日のニューヨークでのロックフェラー邸訪問とアメリカのマスコミは連日大々的に報道し、新聞紙面のトップは昭和天皇の写真で埋まった(在米日本大使館の職員たちは、その写真をスクラップして壁に張り出したという。)。ニューヨーク訪問時には、真珠湾攻撃の生き残りで構成される「パールハーバー生存者協会」が「天皇歓迎決議」を採択している。訪米中は学者らしく、植物園などでのエピソードが多かった。 ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、「戦後アメリカが日本の再建に協力したことへの感謝の辞」などが読み上げられた。ロサンゼルス滞在時にはディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの隣で微笑む写真も新聞の紙面を飾り、同地ではミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。帰国当日に二種類の記念切手・切手シートが発行され、この訪米が一大事業であったことを物語っている。昭和天皇の外遊は、この訪米が最後のものであった。 なお、訪米に前後して天皇・皇后の公式な記者会見が行われたことも画期的となった。 行幸![]() 皇太子時代、台湾台南第一中学校行啓(1923年(大正12年))。 「昭和天皇の戦後の巡幸都道府県一覧」を参照
戦前、皇太子時代から盛んに国内各地に行啓、行幸した。1923年(大正12年)には台湾(台湾行啓)に、1925年(大正14年)には南樺太にも行啓している。 戦後は1946年(昭和21年)2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた。このときの巡幸では、常磐炭田[99]や三井三池炭鉱の地下1,000メートルもの地底深くや満州からの引揚者が入植した浅間山麓開拓地などにも赴いている。開拓地までの道路は当時整備されておらず、約2キロメートルの道のりを徒歩で村まで赴いた。1947年(昭和22年)には原爆投下後初めて広島に行幸し、「家が建ったね」と復興に安堵する言葉を口にした。 同年9月に襲来したカスリーン台風の被災地には「現地の人々に迷惑をかけてはいけない」として、お忍びで視察を行い、避難所を訪れて激励を行った[100]。 そのほか、行幸先での逸話、御製も非常に多い(天覧の大杉のエピソード参照)。なお、当時の宮内次官・加藤進の話によれば、昭和天皇が東京大空襲直後に東京・下町を視察した際、被害の甚大さに大きな衝撃を受けたことが、のちの全国巡幸の主要な動機の一つになったのではないかと推測している[101]。 また、昭和天皇は1964年(昭和39年)の東京オリンピック、1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック、バブル経済前夜の1985年(昭和60年)の国際科学技術博覧会(つくば博)の開会式にも出席している。特に、敗戦から立ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には大きな影響を与えたとみられている。 昭和天皇は全国46都道府県を巡幸するも、沖縄県の巡幸だけは沖縄が第二次世界大戦終結後も長らくアメリカ軍の占領下であったうえ、返還後も1975年(昭和50年)の長男・皇太子明仁親王訪沖の際にひめゆりの塔事件が発生したこともあり、ついに果たすことができなかった。病臥した1987年(昭和62年)秋にも沖縄海邦国体への出席が予定されていたが、自ら訪沖することが不可能と判明したため皇太子明仁親王を名代として派遣し、お言葉を伝えた。これに関して「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを 」との御製が伝わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した明仁親王は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりして詣りました」と手にしたお言葉をおし頂き、真摯にこれを代読した。 その死の床にあっても、「もう、ダメか」と自身の病状よりも沖縄巡幸を行えなかったことを嘆いていた[102]。 逸話幼少・皇太子時代
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