昭和天皇
昭和天皇
1935年(昭和10年)撮影

在位期間
1926年12月25日 - 1989年1月7日
大正15年/昭和元年12月25日 - 昭和64年1月7日
即位礼 即位礼紫宸殿の儀
1928年(昭和3年)11月10日
京都御所
大嘗祭 1928年(昭和3年)
11月14日15日
仙洞御所大嘗宮
元号 昭和: 1926年12月25日 - 1989年1月7日
内閣総理大臣
先代 大正天皇
次代 明仁

在位期間
1921年11月25日 - 1926年12月25日
大正10年11月25日 - 大正15年/昭和元年12月25日
天皇 大正天皇
内閣総理大臣

誕生 1901年明治34年)4月29日
22時10分
日本の旗 日本 東京府東京市赤坂区
青山御所
崩御 1989年(昭和64年)1月7日
午前6時33分
(宝算87)
日本の旗 日本 東京都千代田区千代田
吹上御所
大喪儀 葬場殿の儀
大喪の礼
1989年平成元年)2月24日
新宿御苑葬場殿
陵所 武蔵野陵
東京都八王子市長房町
追号 昭和天皇(しょうわてんのう)
1989年平成元年)
1月31日[1]追号勅定
裕仁(ひろひと)
1901年(明治34年)5月5日命名
別称 昭和帝(しょうわてい)
称号 迪宮(みちのみや)
若竹(わかたけ)
元服 1919年(大正8年)5月7日
父親 大正天皇
母親 貞明皇后
皇后 香淳皇后(良子女王)
1924年(大正13年)1月26日
結婚
子女
皇嗣

秩父宮雍仁親王[注釈 1]

皇太子明仁親王[注釈 2]
皇居 宮城・皇居
栄典 大勲位
学歴 東宮御学問所修了
副業 生物学者
親署 昭和天皇の親署
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束帯姿の昭和天皇。袍は黄櫨染御袍、冠は立纓御冠

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年明治34年〉4月29日 - 1989年昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇[注釈 3](在位:1926年大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。裕仁(ひろひと)、御称号迪宮(みちのみや)[2]お印若竹(わかたけ)。

1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りに渡って、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政宮となった。

60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した[3]

人物

1901年(明治34年)4月29日に大正天皇(当時:皇太子嘉仁親王)の第一皇子(皇男子)として誕生する。母は、貞明皇后

弟に、秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)、高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)、三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)の3人がいる。

1916年(大正5年)に立太子。1921年(大正10年)に日本の皇太子として初めて欧州を歴訪[4]皇太子裕仁親王の欧州訪問)。帰国後に、摂政に就任。

1924年(大正13年)に、久邇宮邦彦王第一女子の良子女王(香淳皇后)と結婚。

東久邇成子(照宮成子内親王)、久宮祐子内親王鷹司和子(孝宮和子内親王)、池田厚子(順宮厚子内親王)、明仁(継宮明仁親王、第125代天皇・上皇)、常陸宮正仁親王(義宮正仁親王)、島津貴子(清宮貴子内親王)の2男5女、皇子女7人をもうける。

皇太子時代は、日本の皇太子として初めてイギリスフランスベルギーなどをお召艦で訪問する。

1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大正天皇の崩御に伴い皇位継承、第124代天皇として践祚する[4]

大日本帝国憲法下において「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬(第4条)」と規定された立憲君主たる地位にあった。歴史学者の多くは、「戦前の昭和天皇は憲法上最高決定権を有していたものの、実際には政府が決定した方針を承認するのみだった」と指摘している[4]

一方で、軍事外交においては、しばしば独自の判断を示すこともあり、二・二六事件における反乱軍鎮圧や、第二次世界大戦の日本の降伏において、連合国に対するポツダム宣言受諾決定などに関与した[5]

1945年(昭和20年)8月に、ラジオでいわゆる玉音放送を行って国民に終戦を宣言した[4]1946年(昭和21年)には、いわゆる「人間宣言」(新日本建設ニ関スル詔書)を発して神格化を否定[4]占領期にはダグラス・マッカーサーとの会見などを通じて独自の政治的影響力を発揮した[5]

1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法では、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴第1条)」である天皇(象徴天皇制)であり「国政に関する権能を有しない(第4条)」とされている。また、昭和天皇は生物学研究者でもあり、『相模湾産後鰓類図譜』などを著した[4]

1971年(昭和46年)には天皇として初めてイギリスやオランダアメリカ合衆国を訪問し、1975年(昭和50年)には同じく天皇として初めてアメリカを訪問した(いずれの外国訪問に香淳皇后同伴)[4]

1989年(昭和64年)1月7日に崩御。これに伴い、長男の皇太子明仁親王が皇位を継承し第125代天皇に即位した[4]。昭和天皇は、継体天皇以降の歴代天皇の中では在位期間が最も長く(62年及び14日間)、最も長寿(宝算87)であった。

2021年令和3年)現在、皇室典範の定めるところにより皇位継承権を有する3人の親王秋篠宮文仁親王悠仁親王常陸宮正仁親王[注釈 4])の最近共通祖先[注釈 5]たる天皇にあたる(詳細は「皇位継承順位」を参照)。

生涯

幼少時代

旭日旗を持つ幼いころの迪宮裕仁親王。

昭和天皇は1901年(明治34年)4月29日(午後10時10分)、東京府東京市赤坂区青山(現:東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の第三皇男子で皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と皇太子嘉仁親王妃節子(後の貞明皇后)の第一男子として誕生した。身長は168(約51センチメートル)、体重800(3,000グラム)であった。 皇室典範の規定による「皇孫」の誕生であった[6]

祖父の明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補複数を挙げさせた。

出生7日目(5月5日)に明治天皇が「称号を迪宮(みちのみや)・諱を裕仁(ひろひと)」と命名している。皇族身位は、親王

他の候補に称号は「謙宮」、諱は「雍仁」「穆仁」があった。

同じ日には宮中賢所皇霊殿神殿において「御命名の祭典」が営まれ、続いて豊明殿にて祝宴も催され出席している皇族・大臣らが唱えた「万歳」が宮中祝宴において唱えられた初めての「万歳」と言われている[8][注釈 12]

生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官川村純義海軍中将伯爵)邸に預けられた。1904年(明治37年)11月9日、川村の死去を受け弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に住居を移転した。1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には学習院初等科に入学し、学習院院長乃木希典陸軍大将)に教育された。また、幼少時の養育係の一人には足立たか(のち、鈴木姓。鈴木貫太郎夫人)もいた。

皇太子時代

闕腋袍に空頂黒幘を被った昭和天皇
1916年頃(少年時代)撮影
1919年(大正8年)4月、陸軍歩兵大尉の正衣を着用して撮影された18歳の裕仁親王。

1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、旧皇室典範の規定により皇太子となる[6]。大正と改元されたあとの同年(大正元年)9月9日、「皇族身位令」の定めにより11歳で陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ住居を移転する。1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。1915年(大正4年)10月、14歳で陸海軍中尉に昇任した。1916年(大正5年)10月には15歳で陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所立太子礼を行い正式に皇太子となった。

1918年(大正7年)1月久邇宮邦彦王の第一女子、良子女王皇太子妃に内定。1919年(大正8年)4月29日に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われるとともに、帝国議会貴族院皇族議員となった。1920年(大正9年)10月に19歳で陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。

大正天皇の病状悪化のなかで、3月3日から9月3日まで、軍艦「香取」でイギリスをはじめ、フランスベルギーオランダイタリアヨーロッパ5か国を歴訪した。1921年5月9日イギリス国王ジョージ5世から「名誉陸軍大将(Honorary General)」に任命された[9]。同年11月25日、20歳で摂政に就任し[10]摂政宮(せっしょうみや)と称した(2021年令和3年〉1月現在、日本史上最後の摂政である)。

日本統治時代の台湾台湾総督府に到着した摂政時の皇太子を出迎える騎兵隊(1923年4月)

1923年(大正12年)4月、戦艦「金剛」で台湾を視察する。

9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。10月1日に御学問開始。10月31日に22歳で陸海軍中佐に昇任した。12月27日虎ノ門附近で狙撃されるが命中せず命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)、良子女王と結婚した。1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。8月、戦艦長門樺太を視察、10月31日に23歳で陸海軍大佐に昇任した。12月、第一女子/第1子・照宮成子内親王(のちの盛厚王妃成子内親王→東久邇成子)が誕生した。

即位

1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇の崩御を受け葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、「昭和(読み:しょうわ)」と改元[注釈 13]。なお、即位に伴い皇太子は空位となり、長弟の秩父宮雍仁親王皇位継承順位第1位の皇嗣である状態が、7年後の1933年(昭和8年)12月23日継宮明仁親王の誕生まで続いた。1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う[注釈 14]。同年9月10日、第二皇女/第2子・久宮祐子内親王が誕生した。同年11月9日に行われた愛知県名古屋市での名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴された(北原二等卒直訴事件)。

1928年(昭和3年)3月8日、第二皇女/第2子の久宮祐子内親王が薨去(夭折)。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所即位の大礼を挙行。11月14 - 15日、仙洞御所内に造営した大嘗宮で大嘗祭を挙行する。1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社を参拝。9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王(のちの鷹司和子)が誕生した。

1931年(昭和6年)1月、宮内省(現宮内庁)・文部省(現文部科学省)は、正装姿の昭和天皇・香淳皇后の御真影を日本全国の公立学校および私立学校に下賜する。3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王(のちの池田厚子)が誕生する。1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。

1933年(昭和8年)12月23日、自身の5人目の子にして待望の第一皇子(皇太子)・継宮明仁親王(のちの第125代天皇、現:上皇)が誕生し、国民から盛大に歓迎祝賀される。1935年(昭和10年)4月には日本を公式訪問する満州国皇帝溥儀朝最後の皇帝)を東京駅に迎えた。11月28日には第二皇子・義宮正仁親王(のちの常陸宮)が誕生した。

日中戦争と第二次世界大戦

昭和天皇御前の大本営会議の様子
(1943年(昭和18年)4月29日 朝日新聞掲載)

1937年(昭和12年)11月30日、日中戦争(当時の呼称:支那事変)の勃発を受けて宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、自身の末子になる第五皇女・清宮貴子内親王(のちの島津貴子)が誕生する。

1941年(昭和16年)12月1日に御前会議で対イギリスおよびアメリカ開戦を決定し、12月8日に自身の名で「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」を出し、大東亜戦争が勃発する。1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月21日には御前会議を開いた。1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に香淳皇后とともに移住した。同年5月31日に御前会議において「大東亜政略指導大綱」を決定する。

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、その8日後の3月18日に昭和天皇は東京都内の被災地を視察した。同年5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。連合国によるポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前会議にていわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾を決定し、終戦の詔書を出した(日本の降伏)。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日ラジオ放送において自身の臣民に終戦を伝えた(玉音放送)。この放送における「堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ」の一節は終戦を扱った報道特番などでたびたび紹介され、よく知られている。

昭和天皇は9月27日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を率いるダグラス・マッカーサーとの会見のため駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問した。11月13日に、伊勢神宮へ終戦の報告親拝を行った。また、同年には神武天皇の畝傍山陵(現在の奈良県橿原市大久保町に所在)、祖父・明治天皇の伏見桃山陵(現在の京都府京都市伏見区桃山町古城山に所在)、父・大正天皇の多摩陵(現在の東京都八王子市長房町に所在)にも親拝して終戦を報告した。

「象徴天皇」として

1956年(昭和31年)11月、国家元首国賓としては戦後初となるエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世を迎えての宮中晩餐会にのぞむ昭和天皇と香淳皇后。

戦後、昭和天皇は1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、「天皇の神格性」や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、「新日本建設への希望」を述べた。2月19日、戦災地復興視察のため神奈川県横浜市へ行幸、以後1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した。行幸に際しては、迎える国民に向かって食事のことなど、生活に密着した数多くの質問をした。行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の「涼しくなってからでいいのでは」との反対を押し切り、「東北の農業は夏にかかっている」という理由での季節時期を選ぶなど、民情を心得た選択をし、国民は敬意を新たにしたとされる[11]

1946年(昭和21年)11月3日、昭和天皇は大日本帝国憲法第73条の規定により同憲法を改正することを示す裁可とその公布文である上諭により日本国憲法を公布した。1947年(昭和22年)5月3日、大日本帝国憲法の失効と伴い日本国憲法が施行され、昭和天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて自身の一人称として「わたくし(私)」を用いる。1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。

1952年(昭和27年)4月28日日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で挙行された「主権回復記念式典」で天皇退位説(当時の次期皇位継承者である長男の継宮明仁親王への譲位、当時まだ未成年であった明仁親王が成人するまでの間は、三人いた実弟のうち長弟秩父宮雍仁親王結核を患い療養下にあったため、次弟高松宮宣仁親王摂政を務めるというもの)を否定し、引き続き「象徴天皇」として務めていくという意思を示す。また同年には、伊勢神宮と初代・神武天皇の畝傍山陵、祖父である明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、「日本の国家主権回復」を報告した。10月16日、初めて天皇・皇后が揃って靖国神社に親拝した。

1969年(昭和44年)1月2日に皇居新宮殿にて1963年(昭和38年)以来の皇居一般参賀が行われた。長和殿のバルコニーに立った際、パチンコ玉で狙われた。昭和天皇は負傷こそなかったものの、これを機に、長和殿のバルコニーに防弾ガラスが張られることになった。犯人は映画『ゆきゆきて、神軍』の主人公奥崎謙三で、暴行の現行犯で逮捕された。

1971年(昭和46年)、昭和天皇は香淳皇后とともにイギリスオランダなどヨーロッパ各国を歴訪し、1975年(昭和50年)に香淳皇后とともにアメリカ合衆国を訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた[12]

1976年(昭和51年)には、「天皇陛下御在位五十年記念事業」として東京都立川飛行場跡地に「国営昭和記念公園」が建設された。記念硬貨が12月23日(当時の皇太子明仁親王の43歳の誕生日)から発行され、発行枚数は7000万枚に上った。

1981年(昭和56年)、昭和天皇は新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には政府主催で「天皇陛下御在位六十年記念式典」が挙行され[注釈 15]継体天皇以降の歴代天皇で在位最長を記録した。

晩年

1983年(昭和58年)11月9日、国賓として来日したアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン夫妻を赤坂迎賓館に迎えての歓迎式典にのぞむ昭和天皇。

1987年(昭和62年)4月29日、昭和天皇は天皇誕生日(旧:天長節)の祝宴・昼食会中、嘔吐症状で中座した[注釈 16]。8月以降になると吐瀉の繰り返しや、体重が減少するなど体調不良が顕著になった。検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ、「腸閉塞」と判明された。食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性があるため、9月22日に歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。12月には公務に復帰し回復したかに見えた。

手術にあたり1987年(昭和62年)9月14日の拡大侍医団会議では、「陛下の体(玉体)にメスを入れるのはいかがなものか」といういわゆる玉体論が噴出した[14]。侍従からは「輸血をしては万世一系の血脈が途絶えるのではないか?」との声もでたという。

しかし、1988年(昭和63年)になると昭和天皇の体重はさらに激減し、8月15日全国戦没者追悼式が天皇として最後の公式行事出席となった。9月8日、那須御用邸から皇居に戻る最中、車内を映し出されたのが最後の公の姿となった。

昭和天皇は9月18日に大相撲9月場所を観戦予定だったが、高熱が続くため急遽中止となった。その翌9月19日の午後10時ごろ、大量吐血により救急車が出動、緊急輸血を行った。その後も上部消化管からの断続的出血に伴う吐血・下血を繰り返し、さらに胆道系炎症に閉塞性黄疸尿毒症を併発、マスコミ陣もこぞって「天皇陛下ご重体」と大きく報道し、さらに日本各地では「自粛」の動きが広がった(後述)。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇は皇居吹上御所において宝算87歳をもって崩御した[注釈 17]。死因は、十二指腸乳頭周囲腫瘍腺癌)と発表された[注釈 18]神代を除くと、歴代の天皇で最も長寿であった。午前7時55分、藤森宮内庁長官と小渕恵三内閣官房長官(のちの内閣総理大臣)がそれぞれ会見を行い崩御を公表した。これに伴い、昭和天皇第一皇男子の皇太子明仁親王がただちに皇位継承して第125代天皇に即位した。

その直後、竹下登内閣総理大臣(当時:竹下改造内閣)が「大行天皇崩御に際しての竹下内閣総理大臣の謹話」を発表した[注釈 19]

1989年(平成元年)1月31日、天皇明仁が勅定、在位中の元号から採り「昭和天皇」(しょうわてんのう)と追号した[15]

同年2月24日新宿御苑において日本国憲法・現皇室典範の下で初めての大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点あまりが副葬品としてともに納められたとされる[16]

年譜

1916年、立太子した皇太子裕仁親王(当時)の姿を見ようと宮城前広場に集まる日本国民
1921年、5月15日ロンドン近郊のクロウフォードで、イギリスの首相ロイド・ジョージらと
1925年11月、妃良子女王及び照宮成子内親王と
1938年(昭和13年)1月、陸軍始観兵式において「白雪」号にまたがり帝国陸軍将兵の閲兵を行う昭和天皇
1946年(昭和21年)11月3日日本国憲法に署名する昭和天皇
昭和天皇と香淳皇后