有馬記念(グランプリ)
Arima Kinen[1]
リスグラシュー(2019年有馬記念).jpg
第64回有馬記念
優勝馬:リスグラシュー
鞍上:ダミアン・レーン
開催国 日本の旗 日本
主催者 日本中央競馬会
競馬場 中山競馬場
創設 1956年12月23日
2016年の情報
距離 芝2500m
格付け GI
賞金 1着賞金3億円
出走条件 サラ系3歳以上(国際)(指定)[注 1]
#競走条件も参照
負担重量 定量(#負担重量を参照)
出典 [2][3]
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有馬記念(ありまきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で実施する中央競馬重賞競走GI)である。

寄贈賞は日本馬主協会連合会会長賞、中山馬主協会賞[2][3]

概要

有馬頼寧(1884 - 1957)

1955年(昭和30年)まで、暮れの中山競馬場では中山大障害が最大の呼び物であった[4]が、東京優駿(日本ダービー)などと比べ華やかさに欠けていた[4]ことから、当時の日本中央競馬会理事長であった有馬頼寧が中山競馬場の新スタンド竣工を機に「暮れの中山競馬場で日本ダービーに匹敵する大レースを」と提案[4][5]。当時としては他に類を見ないファン投票で出走馬を選出する方式[注 2][注 3]が採用され、1956年(昭和31年)に「中山グランプリ(なかやまグランプリ)」の名称で創設された[4][6]

しかし、第1回中山グランプリの興奮も冷めやらぬ1957年(昭和32年)1月9日に創設者の有馬理事長が急逝した[4]ため、有馬の功績を称えて第2回から「有馬記念」に改称[4][6]。以来、中央競馬の一年を締めくくるレースとして定着した[4]。施行場は創設時より中山競馬場で変わっておらず、施行時期も12月下旬で定着している。

地方競馬所属馬は1995年(平成7年)から出走が可能になった[4]外国馬は2000年(平成12年)から2006年(平成18年)まで、当該年度のジャパンカップを優勝した馬のみに出走資格が与えられていた[4]。2007年(平成19年)からは国際競走となり、外国馬の出走枠も6頭に増やされた[4]

国際的評価

世界の競馬開催国は国際セリ名簿基準委員会(ICSC)によってパートIからパートIVまでランク分けされており、2014年(平成26年)時点で日本は平地競走が最上位のパートI、障害競走はパートIVにランク付けされている[7]

国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表した「世界のトップ100GIレース」によると2016年の格付けランキングでは世界13位、日本国内のレースでは1位に位置付けられている[8]

1996年には売上額が約875億円となり、日本競馬における1レースの売上最高額としてギネス世界記録に登録された[9]

競走条件

以下の内容は、2016年(第61回)現在[2][3]のもの。

サラ系3歳以上(出走可能頭数:最大16頭)

  • JRA所属馬(ファン投票選出馬、及びJRA選定馬)
  • 地方競馬所属馬(JRA選定馬のみ)
  • 外国調教馬(最大6頭まで、優先出走)

出走馬の選定方法は以下の通り。

  • 特別登録を行った馬のうちファン投票上位10頭、及び外国馬は優先出走できる[注 4]
  • 上記以外のJRA所属馬・地方競馬所属馬は「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI競走における収得賞金」の総計が多い順に出走できる。

枠順(馬番号)の決定方法について

2014年(平成26年)は出走馬の枠順(馬番号)決定方法についてJRA初の試みとして、「出走馬の関係者が希望する枠順を選択する方法」とされた。あわせて、BSフジにてテレビでの生中継も実施された[10][11]。手順は以下のとおり。

  1. 枠順(馬番号)を選択する出走馬1頭を抽選で選定
  2. 選定された出走馬の関係者が、希望する枠順を選択

上記を繰り返して、すべての枠順(馬番号)を決定する。

従来「枠順は抽選で決める」としていた競馬施行規程および規約が改正され、2014年(平成26年)11月25日に農林水産省から認可されたことで、このような選定方法が可能になった[11][12][13]

2015年以降は従来通り枠順も抽選に戻ったが、抽選会の生中継は引き続き行われている。馬名の抽選を行う際は、その年のJRAのテレビコマーシャルのイメージキャラクターとして出演した俳優などの著名人がゲストとして行う事が多い。抽選方法は以下の通り。

  1. ゲスト抽選者が出走馬1頭を抽選で選定。
  2. その競走馬の関係者(調教師・騎乗予定の騎手[注 5])が登壇し馬番号の抽選を行い、馬番号を決定。

上記を繰り返し、すべての枠順を決定。

負担重量

  • 定量(3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬2kg減)
  • 負担重量の変遷
    • 第1回:3歳54kg、4歳以上55kg(牝馬2kg減)
    • 第2回 - 第9回、第29回 - 第45回:馬齢重量
    • 第10回 - 第24回:3歳54kg、4歳56kg、5歳以上55kg(牝馬2kg減)
    • 第25回 - 第45回:3歳55kg、4歳57kg、5歳以上56kg(牝馬2kg減)

出典:[4]

賞金

2016年(平成28年)の1着賞金は3億円で、以下2着1億2000万円、3着7500万円、4着4500万円、5着3000万円[2][3]

中央競馬で施行される競走では、ジャパンカップと同じく最高額の1着賞金が設定されている[14][注 6]

褒賞金・特別出走奨励金

天皇賞(秋)ジャパンカップ・有馬記念の3競走を同一年にすべて優勝したJRA所属馬には内国産馬2億円、外国産馬1億円の褒賞金が交付される[16]

また、当該年度のGI・JpnI競走で3着以内の成績、または平地の重賞競走で優勝したJRA所属馬がファン投票上位(1位 - 10位)で出走する場合、1位から3位は2000万円、4位・5位は1000万円、6位から10位は500万円の特別出走奨励金を交付する[17]

上記の褒賞金・特別出走奨励金はいずれも、クラス分けに用いる収得賞金には算入されない。

歴史

有馬頼寧と「有馬特例法」

1948年(昭和23年)、太平洋戦争後に日本に進駐し間接統治を行っていた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本国内の競馬施行体で唯一の全国組織であった日本競馬会独占禁止法に抵触する機関として問題視し、閉鎖を指示。同年7月の(新)競馬法施行に伴い日本競馬会は解散し、以後しばらく競馬は農林省競馬部により運営されることとなった(国営競馬[18]。その後、1951年(昭和26年)に自由党内の競馬小委員会において「競馬民営化論」が提唱され、同年サンフランシスコ平和条約調印により日本の主権が回復されると民営化論はさらに活発化、1954年(昭和29年)には民営(農林省監督)による競馬施行体・日本中央競馬会の発足に至った[19]。しかし国家財政への寄与という名目で控除率が高く設定されたこともあり、客足は地方競馬競輪といった新たな公営競技に向き[20]、民営化後第1回開催の売上は目標額に到達せず、その運営は前途多難なものだった[19]。日本中央競馬会初代理事長には、日露戦争当時から競馬の振興に取り組み、「競馬翁」の異名があった安田伊左衛門が就任したが、翌1955年(昭和30年)4月4日には第1次近衛内閣農相を務めた有馬頼寧が第2代理事長に就任した[19]

競馬が国営であった間、競馬関連の諸施設は部分的な補修、修理が行われていたものの予算の関係上、大規模な改修は行うことができず、なかでも中山競馬場の大スタンドは老朽化が進み危険な状態にあった[19]。しかし当時の日本中央競馬会はその改修に充てる費用を持ちあわせていなかった[19]。そこで新理事長の頼寧は、ときの農相・河野一郎ら政府関係者に働きかけ、「1960年(昭和35年)12月31日までの間、日本中央競馬会は農林大臣の許可を得て行う臨時の競馬開催により得た収益を、政府指定の建造物に限りその改築に充てて可なり、また収益の一部を国庫に納付する義務も負わない」という旨の、「日本中央競馬会の国庫納付金等の臨時特例に関する法律」(いわゆる「有馬特例法」)成立に漕ぎつけた[19]。そして翌1956年(昭和31年)1月1日、中山競馬場の大スタンドがこの法律の適用される「政令指定工作物」の第1号となり[19]、3月22日に特例法による臨時開催が中山で8日間[21]行われたのち、10月13日にスタンド新築を含む第1期工事が竣工した[22]

中山グランプリ創設 - 「有馬記念」へ

中山改築前年の1955年(昭和30年)末、頼寧は競馬会のパーティーにおいて「ファンが決めるレースを中山でやってみたい」という腹案を明かした[20]。頼寧は戦前にプロ野球・東京セネタースのオーナーを務めていたことがあり[20]、野球のオールスターゲームから着想を得て「ファン投票による出走馬選定」という企画に至った[22]。従来の中山では中山大障害皐月賞が二大競走だったが、同じ関東の主要場であり、東京優駿(日本ダービー)天皇賞(秋)優駿牝馬(オークス)という大競走を抱える東京競馬場に比して格が落ちるという意識が中山の関係者間にもあり、この案は好意的に迎えられた[20]。さらにこの競走には、4歳クラシック競走を走り終えた4歳馬と、古馬(5歳以上馬)の最大目標である天皇賞(秋)を終えた馬がぶつかる日本一決定戦という大きな要素も加えられることとなった[20]

第1回の競走名は「中山グランプリ」とされた。フランスには「パリ大賞(Grand Prix de Paris)」という名の大競走があったものの、日本において「グランプリ」という語は、黒澤明監督の映画『羅生門』が1951年(昭和26年)にヴェネツィア国際映画祭の最高賞(グランプリ)を受賞してから巷間に広まり、ために当時は映画絡みの言葉という感が強く、競馬の競走名として適当でないとの見方もあった[22]。このため、「中山グランプリ」はあくまでも仮の名称として、第1回競走の投票用紙には競走名の案を書く欄も設けられた[22]。競走名案には3812通が寄せられ、中山グランプリのほかに中山大賞典、中山王冠賞、中山王冠、中山栄冠賞、栄冠賞、中山大賞典記念、中山賞典、王冠、王冠賞、中山クラウン賞といったものがあった[22]。しかし妙案がないということで競走名は「中山グランプリ」のまま据え置かれ[22]、1956年(昭和31年)12月23日、新スタンドを備えた中山競馬場において第1回競走が行われた。出走12頭のうち、天皇賞の優勝馬が3頭、クラシック競走の優勝馬が4頭と当時の強豪が一堂に会し、中山では1万人入れば大入りといわれた時代にあって、当日の入場者は2万7801人という盛況であった[20]

ところが、第1回中山グランプリからわずか17日後の1957年(昭和32年)1月9日、頼寧が肺炎により急逝した。理事長として1年9カ月という短い在任期間中に様々な功績を残した頼寧の名を称え[22]、同年11月23日に中山グランプリは「有馬記念」と改称された[21]。その後、有馬記念は日本競馬の根幹競走のひとつとして定着[22]。また、勝馬投票券の売上は日本一を誇る競走となり[20]、1996年(平成8年)度には世界の競馬史上最高額となる875億円を売り上げ、ギネス世界記録に認定登録された[23]。有馬記念は競馬界のみならず日本の年末の風物詩として、社会的な認知を得るに至っている[22]

年譜