東宝株式会社
TOHO CO., LTD.
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東宝日比谷ビル(2018年4月30日撮影).jpg
東宝日比谷ビル(2018年4月30日撮影)
種類 株式会社
市場情報
本社所在地 日本の旗 日本
100-8415
東京都千代田区有楽町一丁目2番2号
東宝日比谷ビル10階から12階
北緯35度40分23.0秒 東経139度45分35.8秒 / 北緯35.673056度 東経139.759944度 / 35.673056; 139.759944座標: 北緯35度40分23.0秒 東経139度45分35.8秒 / 北緯35.673056度 東経139.759944度 / 35.673056; 139.759944
設立 1932年昭和7年)8月12日
株式会社東京宝塚劇場
業種 情報・通信業
法人番号 3010001008708 ウィキデータを編集
事業内容 映画事業
映像事業
演劇事業
不動産事業
代表者 代表取締役社長 島谷能成
資本金 103億5,584万7,788円
(2016年5月26日現在)
発行済株式総数 1億8,899万693株
売上高 連結:2,627億6,600万円
単体:1,221億1,900万円
(2020年2月期)
営業利益 連結:528億5,700万円
単体:308億円
(2020年2月期)
純利益 連結:366億9,700万円
単体:251億4,900万円
(2020年2月期)
純資産 連結:3,882億1,200万円
単体:2,240億8,100万円
(2020年2月期)
総資産 連結:4,902億8,300万円
単体:4,131億4,300万円
(2020年2月期)
従業員数 連結:3,253人 単体:372人
(2020年2月末日現在)
決算期 2月末日
主要株主 阪急阪神ホールディングス 12.06%(持分法適用会社
阪急阪神不動産 8.01%
エイチ・ツー・オー リテイリング 7.23%
主要子会社 東宝映画 100%
東宝東和 100%
国際放映 100%
東宝芸能 100%
TOHOシネマズ 100%
関係する人物 小林一三
渡辺銕蔵
秦豊吉
清水雅
高井英幸
松岡功(名誉会長)
外部リンク https://www.toho.co.jp/
特記事項:1943年12月に東宝株式会社へ商号変更。
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東宝株式会社(とうほう)は、映画演劇の製作配給・興行や不動産業を行う日本企業

阪急阪神ホールディングス持分法適用会社で、2019年現在、2つの直営演劇劇場(帝国劇場、新館シアタークリエ)を保有する。阪急阪神ホールディングス(阪急電鉄阪神電気鉄道)、エイチ・ツー・オー リテイリング阪急百貨店阪神百貨店)とともに、阪急阪神東宝グループの中核企業となっている。本社は東京都千代田区有楽町一丁目2番2号。

他の阪急阪神東宝グループ同様三和グループのメンバーであるが、阪急電鉄と異なり三水会には参加せず、みどり会のみに参加している[1]

歴史

発足と急成長

1932年8月に阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の小林一三によって、演劇、映画の興行を主たる目的として株式会社東京宝塚劇場を設立。1934年東京宝塚劇場を開場の後、有楽座、日本劇場帝国劇場を所有し、日比谷一帯を傘下に納め、浅草を手中に収める松竹とともに、東京の興行界を二分するに至る。

一方、会社設立前年に創設された、トーキーシステムの開発を行う写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCL)は、1937年関連会社JOと合併し、東宝映画株式会社となる。1943年8月30日、東宝映画を合併し、映画の製作・配給・興行および演劇興行の一貫経営に乗り出し、同年12月10日に社名を東宝株式会社と改めた(本社は旧東宝映画があった銀座7丁目大日本麦酒本社内)。PCLには大日本麦酒なども出資しており[† 1]、東宝は発足当初から、従来の市井の興行師からスタートした映画会社とは一線を画する、財界肝いりの近代企業として期待と注目、そして反発を集めた。なお、その名前の由来は「塚」の略である。

戦中、東京宝塚劇場と日本劇場は風船爆弾工場となり、戦後は東京宝塚劇場が進駐軍専用のアーニー・パイル劇場と改名され、10年間観客としての日本人が立入禁止となるなど、歴史の証人を演ずることになる。

林長二郎事件

東宝は設立時、天下の二枚目こと松竹林長二郎をはじめ、多くのスターを驚くほどの高給で他社から引き抜いた。

1937年11月12日、長二郎が、左顔面を耳下から鼻の下にかけて斜めに切りつけられ、骨膜に達する重傷を負う。犯人のヤクザ松本常保[2]は、同年秋、長二郎が松竹から東宝に移籍したことから、松竹系の新興キネマ京都撮影所長の永田雅一らに教唆され、犯行におよんだものと判明した。

松本はこの事件で実刑を受けたが、後に刊行した自伝「みなさんありがとう」において「犯行に荷担していない」と表明している。事件後、長二郎はこの名を松竹に返し、本名の長谷川一夫を名乗るようになった。

プロデューサーシステム

東宝の資本とPCLの技術の上に映画の興行面で変化をもたらしたのは、製作における予算と人的資源の管理を行うプロデューサー・システムの本格的導入であり、これをもたらしたのがアメリカ帰りの森岩雄とされる。松竹の城戸四郎、日活の根岸寛一と並び称される森だが、この分野における足跡は大きい。

東宝は、PCL時代より民主的な社風で知られ、監督や大スターでも個室がなく、大物に対しても「さん」付けや「ちゃん」付けであった。巨匠監督も部下の助監督や名もない俳優を「さん」付けや「ちゃん」付けで呼んだ。また東宝は歌舞伎の因習やヤクザっぽい親方子方気質を引きずった、他の映画会社の封建的な体質を公然と批判し、他社のようにスタッフや俳優を縁故採用に頼るのではなく、公募を戦前より行い、優秀な人材を得た。しかし、獲得した優秀な人材は戦後の東宝争議の中心メンバーとなったため、後に縁故採用を強化し、権力に逆らわない人材を入れる傾向に変わっていった。

東宝争議とその後の混乱

1946年から1950年にかけて経営者と労働組合の対立が激化し、そんな最中、1948年3月4日に本社を東宝文芸ビルに移転。だが同年6月1日には撮影所を占拠した組合員を排除するため、警視庁予備隊、果ては占領アメリカ軍戦車戦闘機まで出動する騒ぎになる。これが「来なかったのは軍艦だけ」と言われた東宝争議である。

この間、大河内伝次郎、長谷川一夫、入江たか子山田五十鈴藤田進黒川弥太郎原節子高峰秀子山根寿子花井蘭子の十大スターが結成した十人の旗の会と、反左翼の渡辺邦男をはじめとする有名監督の大半は、1948年4月26日に第三組合によって設立された新東宝(4月26日には系列会社・国際放映も設立)で活動することになる。そのため東宝は再建不能と言われ、1949年3月15日に映画制作は新東宝に任せ、東宝は配給部門のみ受け持つ方針が真剣に協議されたこともあった。

大スターや大監督がごっそり辞めたことで、入社したての三船敏郎らがすぐに主役として抜擢され、若い監督も活躍の場を得やすい状況になった。残留組イコール左翼的という単純な色分けはできないが、共産党員の多くは放逐され、新東宝はまもなく東宝と絶縁して独立会社となったため、比較的リベラルだが政治には深入りしなかった人材が多く残ることになる。新東宝は独立後、文芸映画路線が不振で経営がすぐに悪化、新社長に迎えた大蔵貢の低予算通俗映画路線で一時的に持ち直したものの、1961年倒産。市川崑など一部のスターや監督はそれより遥か以前、完全独立の前後に東宝に復帰していた(市川はほどなく新生日活へ移籍)。

日本映画黄金時代

1950年代に迎えた日本映画の黄金時代に際し、1957年からは「東宝スコープ」を採用し、『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』などの黒澤明作品や『ゴジラ』や『モスラ』などの円谷英二による特撮作品を始めとする諸作品によって隆盛を極め、映画の斜陽化が始まった1960年代にもクレージー映画若大将シリーズでヒットを飛ばす。また、社長シリーズ駅前シリーズ(これらは東宝四大喜劇シリーズとも呼ばれている)など安定したプログラムピクチャーの路線を持っていたことも強みであった。財界優良企業らしく健全な市民色、モダニズムを鮮明な作品カラーとし、日本映画が暴力、猟奇、エロティシズムに傾斜していく中でも東宝はそれらの路線とは一線を画し、距離を置いた。上記のシリーズ物が定着する前は現代アクション物も得意とし、後年も『殺人狂時代』、『100発100中』などの異色作に名残を残す。これらは興行的には伸びなかったが、その後の再上映でカルト的な人気を誇った。

1959年にはニッポン放送文化放送、松竹、大映と共にフジテレビを開局。テレビにも本格的に進出する。

映画製作部門の大幅縮小

1960年代から映画は斜陽産業と言われるようになり、東宝も顕著な観客減少に悩んでいたが、大規模な量産体制を他社と共に保っていた。しかしカラーテレビの普及が本格化した1970年代になると観客減少は更に深刻な状況となり、大映は倒産、日活ポルノ会社に転向。東宝もこの危機を脱するため、前述の東宝四大喜劇シリーズを全て終了するなど1972年に本社での映画製作を停止し五社協定が終焉する。製作部門を分離独立させて発足した「東宝映像」(現在の東宝映像美術、設立1971年、社長田中友幸)と傍系会社の「東京映画」(のちの東京映画新社、設立1983年、社長川上流一)、「東宝映画」(設立1971年、社長藤本真澄)、新たに設立した製作会社「芸苑社」(設立1972年、社長佐藤一郎)、「青灯社」(社長堀場伸世)を5つの核とした製作体制に切り替えた。ただし、専務取締役の藤本をトップに据えた(まもなく田中友幸に交替)東宝映画ですら年に数本、他は芸苑社と東宝映像が年1、2本しか稼働せず、事実上この分社化をもって東宝の自社製作体制は幕をおろすことになる。不採算作品が多くリスクの高い製作部門の停止に伴い、外部からの買取作品・委託引受け作品の配給に力を入れ、自社の興行網を維持する形に転換。

事実上、映画製作会社の看板を降ろし、配給や不動産部門、芸能事務所である東宝芸能へ軸足を移しながら経営の合理化を進めた。ただし阪急グループとしてのイメージや、駅から近い一等地に座席数の多い一流映画館を多く持つため、同業他社のようなポルノ映画ヤクザ映画の製作は行わず、そのような外部製作品を配給することも少なかった。この時期、「東宝の映画館なら家族連れやアベックでも安心」といったイメージを死守したこと自体は、現在の東宝の繁栄の伏線となっている。しかし予算的には非常にタイトとなり、今日でも評価の高い山本迪夫監督の怪奇映画の多くは二本同撮で作られ、ゴジラ映画は音楽や着ぐるみの使い回しが目立つようになった。

映画製作本数が急激に減った分、テレビ部の奮闘が目立つようになり、『太陽にほえろ!』、『俺たちは天使だ!』などがヒット。ただし、70年代までは砧撮影所は使用せずに国際放映円谷プロを制作協力のクレジットで孫受け発注したり、スタジオを持たない円谷プロの場合などは東京美術センターなどの傍系スタジオを使用するケースが多かった。東宝配給の劇場映画も実際は大映京都撮影所勝プロダクション作品など)や日活撮影所石原プロモーションホリプロ作品など)で製作するものが増えた(これらの映画は監督やメインスタッフも大映系、日活系が殆どである)ため、砧撮影所は急速に稼働率が低下、人員も離散した。大ベテランの岡本喜八堀川弘通両監督を解雇した1977年を一時代の終焉と見ることもできる。

それでも1980年代半ばまでは、東宝シンデレラコンテスト出身の東宝芸能所属タレントで人気アイドルだった斉藤由貴沢口靖子主演のアイドル映画を東宝映画が製作するなど、独立プロダクション程度の活動は継続していた。そしてこの時期からアニメーションの製作にも関与するようになる。一方で、1969年 - 1978年東宝チャンピオンまつりとして子供向け映画を上映した。 また、この時期はバブル期であり、そのためか日劇渋谷東宝会館日比谷映画劇場有楽座梅田劇場、北野劇場などが建て替えられ映画興業以外もおこなう複合施設となり、資産価値を増加させている。

現在

1990年代に入ると、自社(株式会社東宝映画)での邦画製作は「ゴジラ シリーズ」を除き行われなくなり、主にテレビ局(特に資本関係の強いフジテレビとの提携が中心)や外部プロダクションが製作した映画を配給し、成功を収めた。

2000年以降は、ワーナー・マイカル・シネマズが優位に立っていたシネコン市場に本格的に参入し、2003年のヴァージン・シネマズ・ジャパン株式会社(現・TOHOシネマズ株式会社)の買収で、グループ企業のスクリーン数では第1位を誇っていた(2019年現在ではワーナー・マイカルの後身であるイオンシネマが第1位)。

その後も日本映画界や興行界に不動の地歩を占め続け、現在に至っている。製作会社(テレビ局が多い)も大予算をかけた自信作は興行に強い東宝へ配給委託し、それがまた数字を積み上げるという好循環が重なった結果、平成期以降は一人勝ち状態が定着、21世紀にはさらに独走の幅を広げた。1980年代前半までライバルとして競り合ってきた東映や松竹(特に東映は70年代までは映画配給収入でおおむね東宝の上位に位置していていた)は、今では二社の興行収入を合わせても東宝の数分の一である。

また、かつて映画館用地として購入した全国の一等地の物件の賃貸を中心とする不動産事業も、営業利益のうち約4割を占め、地味ではあるが、業績を下支えする安定した重要な事業になっている[3]

なお同社は大手映画会社としては唯一撮影所出身の社長が存在しなかったが(経営陣待遇の大物プロデューサーと言われたうち、森岩雄と藤本真澄は副社長、田中友幸は東宝映画会長どまり)、2002年に初のプロデューサー経験者(キャリアパスとしての短期間ではあるが)として高井英幸が社長に就任した。

近年は、東宝本体で製作委員会に参加するなど、映画製作において積極的な姿勢をとっている。また砧撮影所の空洞化や技術伝承の中断に危機感を持ってレンタル展開を積極化。単独出資での「東宝映画」はほぼ絶えたものの、製作参加・配給・撮影所供給といった形で東宝カラーを打ち出し、守る方向が試されつつある。

2013年には『アニメ事業室』を新設、同時に自社音楽レーベルも立ち上げ、自社企画でのアニメ事業の強化に乗り出している[4]

2020年12月1日、東宝映画と、東宝スタジオを管理する「東宝スタジオサービス」を統合し「TOHOスタジオ株式会社」を設立。当該会社で撮影所管理とプロダクションの両方を行い、制作準備から撮影・仕上げまでをワンストップで提供できる体制となる。

主要映画作品

主要テレビ作品

1960年代