枕石寺
所在地 茨城県常陸太田市上河合町1102-1
位置 北緯36度30分18秒
東経140度30分40秒
座標: 北緯36度30分18秒 東経140度30分40秒
山号 大門山
院号 伝灯院(傳燈院)
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
寺格 助音
本尊 阿弥陀如来
創建年
開山 親鸞
開基 入西房道円
札所等 真宗二十四輩第15番
文化財 紺紙金泥三部妙典(常陸太田市指定文化財)
枕石寺の位置(茨城県内)
枕石寺
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枕石寺(ちんせきじ[注釈 1])は、茨城県常陸太田市上河合町にある真宗大谷派寺院である[3]山号大門山(おおかどさん)[4][5]院号伝灯院(でんとういん)[3][5]真宗二十四輩第15番入西房道円開基の名刹であり、寺に伝わる「紺紙金泥三部妙典」は常陸太田市指定文化財に指定されている[6]。枕石寺に伝わる創建の縁起は倉田百三戯曲出家とその弟子』に描かれたことで知られ[7][8][9][10]、周辺は「梵天山古墳群と枕石寺」として茨城百景の一つに選定されている[11]。なお、本項では現在の常陸太田市上大門町にあった同名の枕石寺についても併せて解説する。

概要

出家とその弟子
初版本表紙(函)

1212年建暦2年)[注釈 2]真宗二十四輩第15番入西房道円によって、常陸国久慈郡大門村(現在の茨城県常陸太田市下大門町)で創建された[3][16][17]真宗大谷派に属する[16][18][19][20]。寺伝で伝わる「親鸞雪中枕石」の創建の縁起は、倉田百三戯曲出家とその弟子』で描いたことで広く知られている[7][8][9][10]

その後、同郡内田村(現在の同市内田町)を経て[21][22]1540年天文9年)に同郡上河合村(現在の同市上河合町)に移転したとされる[7][23][24][注釈 3]。内田村時代は内田山と号していたが[3][28][29]徳川光圀によって「大門山傳燈院」の山号院号が与えられた[30][31]本尊阿弥陀如来像も光圀が寄贈したとされている[32][33][34]

常陸太田市指定文化財の「紺紙金泥三部妙典」のほか[6][35]親鸞が雪中で枕にしたと伝わる「枕石」[7][36]、親鸞直筆と伝わる「六字名号[34][37][38]、道円筆とされる「二十四輩仁法の絵像」などの寺宝を有する[5][39]。境内はツツジの花やカエデの紅葉が美しく[39]、周辺は「梵天山古墳群と枕石寺」として1950年昭和25年)5月10日に茨城百景の一つに選定された[11]

なお、同市内には上大門町にも枕石寺跡とされる地がある[17][30][40]。この上大門の枕石寺は、下大門で創建された上記の枕石寺とは別寺であるとする資料がある一方で、同源であるとするものや[41][42]、「不詳」とする資料などもある[26]。上大門の枕石寺は、常福寺末寺にあたる浄土宗の寺院であったが[43]1843年天保14年)に廃寺となっている[44][注釈 4]

歴史

創建縁起

出家とその弟子』第一幕
親鸞に詫びる日野左衛門)

寺伝によると、創建の縁起は次の通りである。

近江国蒲生郡日野出身の日野左衛門尉頼秋は[9][20][39][45]北面武士であったが[34][36][46]、驕慢な振る舞いが多く[47]常陸国配流となった[9][46][48]。のち1207年承元元年)には赦免されたがには戻らず[47]、そのまま久慈郡大門に居ついた[2][25][45]。常陸国に土着した頼秋は、盗賊をしていたともいわれる[47]
1212年建暦2年)[21][25][48][49][注釈 2]、雪の中を弟子の性信西仏とともに[注釈 5]常陸国を行脚していた親鸞は、大門郷に差し掛かったところで日が暮れたため、頼秋宅の門を叩き一夜の宿を求めた[26][46][50]。しかし頼秋は「樹下石上は沙門の習いなれば、とくとく去れ」と冷たく断り、さらには杖で親鸞を打とうとしたため[51]、やむなく親鸞は門前で石を枕に夜を明かすことにした[9][15][37][52]
このとき親鸞は、
「わびしさに(わびしきは) 石を枕に 假寝して 明くるを待つは ひさしかりける」[42][53]
「寒くとも たもとに入れよ 西の風 みだの国より 吹くと 思へば」[34][52]
と詠んだ。
その夜、頼秋の夢に千手観音[注釈 6]が現れて頼秋を諭した[32][54][55]。頼秋は驚き、戸外で寝ていた親鸞を家に招き入れ、罪を詫びた[9][39][46][56]。親鸞は頼秋に阿弥陀仏の教えを説き[15][36][56]、頼秋は歓喜してその教えを受け入れ[37][39][51]、親鸞の弟子となって入西房道円の法名を与えられた[18][22][37][56]。道円は自らの居宅を寺とし[18][37][48]、親鸞が石を枕にしたことにちなんで「枕石寺」と名付けた[4][27][46]

この伝説は、倉田百三戯曲出家とその弟子』に描かれたことによって広く知られている[7][8][27][48]。しかし、親鸞が配流されていた越後国から常陸国に移ったのは1214年建保2年)とされており、1212年(建暦2年)には常陸国にはいない[8][26][30]。そのため、少なくともこの伝説の年代については疑問が呈されている[30]。ただし、親鸞は日野有範の子で頼秋と出身地が同じであること[8][30]、当時の大門は山深く不便な地であったことなどから[57]、自らと同じく配流の身となった同族の頼秋を[58]親鸞がわざわざ訪ねた可能性もあるとする指摘もある[30][57][59]

創建後

開基から21年後の1232年貞永元年)、道円は内田村(現在の常陸太田市内田町)に移り[17][22][28]山号を内田山とした[22][28][29]1245年寛元3年)に道円が没すると[21]、寺は俗弟の唯円(日野頼俊[30])が相続した[21][45]。枕石寺の系図では、親鸞開山第一世とし、道円を二世、唯円を三世としている[30]

内田村時代の枕石寺は里川の河川敷にあったため、たびたび洪水に悩まされ[24][47]1540年天文9年)には現在の上河合の地に移転した[7][17][24][46][注釈 3][注釈 7]。現在地に移転した後の1666年寛文6年)の洪水では、移転後も旧地に残されていた墓石などが流され、わずかに残った石碑などは里川の西に移された[8]1663年寛文3年)の開基帳によると、「末寺四ケ寺百姓旦那四百九人」を擁していたとされている[4][6]

1673年延宝3年)、徳川光圀が親鸞作とされる阿弥陀如来像を寄進し、本尊となった[32][33][34]。光圀は、1678年(延宝6年)[3][6][33]には、山号を「大門山」[8][23][30]院号を「傳燈院」に改めさせ[30]、本堂の額を贈っている[23]。また、光圀は、「伝えこし 石を枕の ことわりや 世々にかゝぐる 法のともし火」の和歌を残している[42]

なお、堂宇は1829年文政12年)に一度焼失したが、1843年天保14年)に再建された[30]。枕石寺の住職は、道円の子孫によって代々法灯が継承されている[60]

年表