桂 正和
ルッカコミック&ゲームにて (2014年(平成26年))
ルッカコミック&ゲームにて
2014年(平成26年))
本名 同じ
生誕 (1962-12-10) 1962年12月10日(58歳)[1]
日本の旗 福井県[1]
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1981年 -
ジャンル 少年漫画
青年漫画
SF漫画
ラブコメディ
代表作
受賞
  • 第19回手塚賞佳作(「ツバサ」)
  • 第21回手塚賞準入選(「転校生はヘンソウセイ!?」)
  • 公式サイト 桂正和 公式サイト K2R村 (日本語)
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    桂 正和(かつら まさかず、本名同じ[3]1962年昭和37年)12月10日[1] - )は、日本男性漫画家。プロダクション名は STUDIO K2R。福井県生まれ[1]千葉県育ち[4]阿佐ヶ谷美術専門学校[5]中退[4]血液型A型[1]2015年平成27年)から嵯峨美術大学客員教授

    1981年昭和56年)に『週刊少年ジャンプ』(集英社)32号掲載の「転校生はヘンソウセイ!?」でデビューし、1983年(昭和58年)に同誌5・6合併号から連載を開始した『ウイングマン』で連載デビュー[6]。主に『週刊少年ジャンプ』で活躍し、その後『週刊ヤングジャンプ』(同)に移籍。代表作に『ウイングマン』・『電影少女』・『I"s』など[2]

    評価は日本国内に留まらず香港[7]台湾[7]アメリカ[8]フランス[9]など様々な地域ファンから支持されている[10]

    来歴

    バルセロナのイベントにて(2006年(平成18年))

    連載デビューまで

    1962年昭和37年)福井に生まれ、小学生の時に千葉県千葉市村田町へ引っ越し、さらに中学になる頃に同県市原市八幡へ移り20歳頃までを過ごす。子供の頃から絵は得意で受賞などもしていたが、アニメ漫画にはさほど惹かれておらず、ウルトラシリーズ仮面ライダーシリーズといった特撮ヒーロー物に夢中になっていた[11]

    中学時に V55 (Technics) という50万円のコンポーネントステレオが欲しくて、当時50万円だった賞金目当てに手塚賞への応募を始める。最初の道具は手塚治虫の入門書を読んで小遣いで揃えた物だった[12]。それまでは漫画家を目指していたわけでもない上に漫画もほとんど読んでおらず[13]、当初は賞金だけが目的であった。目的のコンポは賞金を手に入れる前に買ってもらったが、漫画を描き続ける中で描く面白さを覚え[13]高校時には授業中にペン入れをするなどして漫画に没頭する。そして1980年(昭和55年)の高校卒業間際にフレッシュジャンプ賞に投稿した作品が選外ながらも編集者鳥嶋和彦の目に止まり、また同時期に手塚賞に応募していた「ツバサ」が佳作に入選する[14]

    高校時代には『電子戦隊デンジマン』をきっかけとし東映特撮テレビドラマにのめり込む[15](詳細は趣味の節後述)。こうした特撮ヒーロー物のファン故、そのトレースしただけの様なSF作品ばかりを描いていたが、担当となった鳥嶋にラブコメディ作品を描く様に薦められ「転校生はヘンソウセイ!?」を執筆する。同作は初めてのラブコメであったにも関わらず手塚賞準入選に入賞して『週刊少年ジャンプ』 (以下『WJ』)に掲載され、専門学校在籍中に漫画家としてのデビューを果たす。その後『WJ』で「ウイングマン」の連載を開始し多忙となったこと、そして3年への進級に失敗したこと[13]から専門学校を中退[4]。同作は自身の好きなヒーロー物にラブコメディ要素を取り入れたことによりヒットし、アニメ化もされた[14]

    恋愛作品のヒット

    『ウイングマン』終了後は『超機動員ヴァンダー』・『プレゼント・フロム LEMON』と短期終了の連載が2作続き、不遇の時代を迎える。再び担当となった鳥嶋のサポートから「恋愛モノ」に取りかかり、『ウイングマン』とは逆に恋愛にSF要素を取り入れた読切「ビデオガール」を1989年平成元年)に発表、同年さらにこれを基にした『電影少女』の連載を開始する。『電影少女』は単行本巻数としては『WJ』時代最長となる15巻まで続き、OVA化・実写映画化等様々なメディアミックス展開が行われるヒット作となった。両作は桂にとって漫画家としてのターニングポイントとなっており、作風に様々な変化をもたらした(詳細は作風の節で後述)。またこの年公開された映画バットマン』をきっかけに桂は『バットマン』のファンとなり[16]、以降の作品に影響を与えた[17](詳細は趣味の節後述[14]

    『電影少女』終了後、1992年(平成4年)からは鳥嶋が創刊編集長を務めた『週刊少年ジャンプ特別編集増刊 V JUMP[注 1]において『SHADOW LADY』【VJ版】を連載[注 2]、その後『WJ』に戻り1994年(平成6年)から『D・N・A² 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜』・1995年(平成7年)からは『SHADOW LADY』【WJ版】とアクション色の強い作品を続けて発表する。『D・N・A² 』の連載は単行本5巻分と比較的短期だったが、テレビアニメ化されている[18]

    1996年(平成8年)には初の青年誌向け作品[注 3]として『エム』を『MANGAオールマン』にて発表する。そして翌1997年(平成9年)にはWJ編集部の意向に沿う形で、SF要素を一切排した恋愛漫画『I"s』の連載を開始する[19]。同作は『WJ』時代最長の作品[注 4]となり、連載終了後にもメディアミックスが行われるヒット作となった。

    ヤングジャンプへの移籍

    2000年(平成12年)の『I"s』連載終了と同年に掲載された読切「Dr.チャンバリー」を最後に、桂は長年活動の場として来た『WJ』を離れる。そして2002年(平成14年)に発表された『M 完全版』以降は活動の場を『週刊ヤングジャンプ』に移し、同年より『ZETMAN』の連載を開始する。5年以上[注 5]にわたって連載が継続されており、桂最長の作品となっている。移籍後に発売された『I"s』の完全版は『WJ』連載作品でありながら、ヤングジャンプ・コミックスレーベルからの発売となっている。

    年表

    連載誌の記載がないものは『週刊少年ジャンプ』において連載。