皇帝(こうてい、中国語: 皇帝ラテン語: imperator英語: emperor; king of kings[1]ドイツ語: Kaiserギリシア語: Βασιλευςロシア語: императорトルコ語: İmparator)は、帝国世襲君主[2]王の中の王(諸王の王)君主国の君主の称号[3]。皇帝による政治体制は「皇帝制 imperialism」(帝国主義)と言い[4][5]、その支持者は「皇帝支持者 imperialist」(帝国主義者)と言う[6]。皇帝という君主号には「唯一神」の意味や[1]模倣僭称も存在し[7]、一神教では、人間が崇拝すべきは唯一神という「唯一の皇帝[8]・「宇宙で唯一の正当な王者[9]・「全人類の皇帝」[10]のみであるとされている[9]

現代まで在位が続くイスラーム系君主号「スルタン Sultan」は、権威・専制的意味があり、「皇帝 Emperor」とも訳される[11][12]。「皇帝」(スルタン)の復権を目指す運動は、イスラーム帝国主義新オスマン帝国主義)と同調している[13]。日本では「皇帝」と「天皇」が併用されていたが、1936年(昭和11年)には「天皇」に統一された[14](現代英語での「天皇」は“emperor”[15]、“Emperor of Japan”[16]、“tenno”等[17])。君主とは伝統的に、国家で特定の一人が主権を持つ場合のその主権者であり[18]帝王天子・皇帝・きみなどとも言う[19]。『国史大辞典』では法制上、象徴天皇は君主ではないとされている[20]。『日本大百科全書』によれば、天皇に通常の立憲君主の権限は無く、『法律用語辞典(第4版)』によれば、象徴天皇と元首天皇は別となっている[21]

概説

王の中の王」としての皇帝は、王権の範囲が共同体部族氏族連合を越える帝国と結びついており、国際関係を帝国の秩序に組み込む観念と不可分と言える[22]。「帝国主義」という言葉の語源は「皇帝国家(インペリウム imperium)」であり[23]、元来「帝国主義」の語は皇帝政治や帝国政治を意味する[24]。「王」に対し、皇帝はいくつもの異民族を包括する普遍的な国家首長である[25]。皇帝は本来、一つの部族民族の首長としての王より上位の、普遍的支配者と考えられた[7]

ヨーロッパにおける皇帝の概念は、その語源が古代ローマ元首の称号「インペラトル」(imperator)および「カエサル」(caesar)であるように、古代ローマ帝国の元首政治との結びつきによって生まれた[26]中国では始皇帝から、歴朝天子尊号として用いられた[26]。始皇帝の創始した「皇帝」は東アジアの他地域に拡大・継承され、モンゴルのカガン(可汗)や日本の天皇も、こうした概念拡大の系統に属する[27]。日本の天皇号は、中国を統一した隋王朝の国際秩序の中で、朝鮮半島の三国との国際関係から自らを「大国」と位置づけることによって成立したとされる[22]

女性の皇帝を「女皇」や「女帝」と言う[28]。「女帝」は女性の皇帝・帝王・天皇、女王などの君主を指す[29]。皇帝(天皇)の配偶者は「皇后[30]、「皇妃」[31]

なお、「諸王の王」(king of kings)や皇帝(emperor)は、唯一神ヤハウェイエス=キリストアッラーフ)をも意味する[1][32]。一神教で唯一神は皇帝、「唯一の皇帝 (sole emperor)」、「真の皇帝 (true emperor)」等と見なされている[8][33]

皇帝の称号は皇帝権から派生して、その模倣や僭称としても使用されるようになった[7]

中国の皇帝

はじめて「皇帝」を名乗った始皇帝

中国の皇帝は、中華歴史・思想と密接に関係している。

「皇」と「帝」

「皇」という漢字は、「自」(はじめ)と「王」の合字であり、伝説的な人類最初の王を意味している。中国の伝説で最初に中国(したがって天下)を支配したのは、三皇であるとされている。

「帝」という漢字は、元来、3本の線を中央で束ねるという意味(現代ではこの意味で用いる時は、糸偏をつけた「締」と表記する)だが、宇宙の全てを束ねる至上神という意味で代に用いられるようになった。王は、祖先や山河などを神として崇めていたが、より上位の神を崇めることが生まれ、「帝」あるいは「上帝」と呼んだ。

「皇帝」の登場

の君主は「」を称した。周王は地上世界(すなわち天下)を治めるべく天命を受けた天子とされた。周の封建制の下で諸侯は領地()を治め、最高位の爵位は「」が与えられた。しかし、周王朝が衰えると、南方のが、自国の君主の称号として「王」を使うようになり、戦国時代に入ると、他のかつて周王朝に従っていた諸侯も「王」の称号を使うようになった[34]。以降は「王」は「国」を治める君主の号として定着した。このような背景から王政は、他の国を滅ぼした後、天下を治めるに相応しい尊称として新たに「皇帝」を称した。これが秦の始皇帝である。漢朝以降もこれを継承した。

「王」以前の君主の称号として、「后」というものがあったということが考古学的発見や文献学的研究からわかっている。王が君主号として用いられて以降は、后は君主に準ずる存在に対する称号となった。君主の妃や母親は君主に準ずる存在とみなされ、「皇后」は皇帝の妃、「皇太后」は皇帝の母親を意味することとなり、「后」は原義を離れて「きさき」の意味で固定化された。

」という言葉はもともと広く自称の言葉として使われていたが、始皇帝は「朕」を皇帝専用の自称とした。他にも「」・「」などの皇帝専用語も策定した。

皇帝の定着

始皇帝は自身から始めて二世皇帝、三世皇帝と続かせる意図であったが、その死後は反乱が相次いだため、秦の皇帝は2代で終わった。始皇帝から数えて3代目の嬴子嬰は、始皇帝死後の反乱によって中国全土を支配することができなかったため、単に「王」と称した。反乱を起こした者たちもまた、次々と各地で「王」を称した。中でも、戦国時代の楚王の末裔である羋心は、項羽劉邦などの助けもあり、秦を滅ぼした後に、各地に並び立った「王」よりも一段上の称号として「帝」の称号を名乗った(義帝)。その後、義帝を殺した項羽は「西楚の覇王」を称した。項羽を倒した劉邦の「皇帝」に即位し、以後、歴代の中国の支配者は「皇帝」を名乗るようになった。さらに劉邦は、一族や功臣を「王」(諸侯王)として各地に封じた。これにより、皇帝が王を封じるという図式が成立した。また、「帝」は「皇帝」の略として広く使われるようになった。

ただし代には、高宗が皇后武則天の影響で「天皇大帝」という別称を採用した時期もあった。

中華思想では、皇帝は地上(天下)の支配者として天命を受けた者(天子)であり、周辺諸国の君主よりも上に立つ者とされた。皇帝と周辺諸国との交流は、周辺諸国の君主が皇帝の徳を慕って使節を送り、皇帝がそれを認めてその君主を王として冊封するという形をとった。中華の秩序の上では近代的な国境という概念はなく、したがって皇帝の支配する領域という意味での「帝国」という言葉も使われなかった。

皇帝の乱立

三国時代、中原を支配したのみならず、の君主もそれぞれ皇帝を称し、五胡十六国時代五代十国時代など中央の王朝の力が弱まった時代には、周辺の勢力の君主も皇帝を名乗るようになった。南北朝時代には2人以上の皇帝が同時に存在した。

軍事力に劣った北宋の皇帝は、北の異民族王朝であるの君主を皇帝と認めた上で自らを格上(叔父と甥の関係、兄と弟の関係などと表現された)に位置付け、辛うじて面子を保たざるを得ず、中国君主が地上の唯一の皇帝であるという東アジアにおける理念を自ら覆した。金と南宋に至っては、南宋の皇帝のほうが格下という位置付けになってしまった。

また、中国の皇帝の冊封体制にない、日本天皇のような君主は、自らを皇帝として、周辺諸国に君臨した。朝鮮高麗朝の草創期やヴェトナム阮朝のように、中国王朝に朝貢しながら国内に向けては密かに皇帝を称することもあった。

近代には、日本ととの間で下関条約が締結された後の1897年、朝鮮国(李氏朝鮮)が、清の冊封体制から離脱したことを明らかにするために、王を皇帝に改め、国号を大韓帝国1897年 - 1910年)とした例がある。

日本の皇帝

日本における皇帝号の使用

韓国併合ニ関スル条約」に関する李完用への全権委任状。文中に「大日本國皇帝陛下」と書かれている。

古代の日本は、中国の三皇の一つ「天皇」を、和名の君主号「すめらみこと」に当てた。歴史学者の間では、「天皇」という称号の出現は天武天皇の時代とする説が有力である。「天皇」号の使用は、607年聖徳太子煬帝に送った手紙において、隋との対等を表明するため「日出づる処の天子」や「東の天皇」と記したことに由来し、663年の白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗れたことで、明確に唐と対等の独立国家であることを主張するためにとられた方策であったと考えられる。

701年大宝律令儀制令公式令において、「天子」および「天皇」の称号とともに、「華夷」に対する称号として「皇帝」という称号も規定されている[35]。称するものとして規定されているが、「華夷」の意味については、「内国および諸外国」と解する説と「中国その他の諸外国」と解する説が対立していた。実際、律令を制定した文武天皇期に新羅国王に対して出された国書で「天皇」号が使用された事例がある[36]

天皇(すめらみこと)と異なる用法での尊号としては、758年に淳仁天皇が即位した際、譲位した孝謙天皇に「宝字称徳孝謙皇帝」、孝謙の父聖武天皇に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号が贈られている。また、翌年には淳仁天皇の父である舎人親王が「崇道尽敬皇帝」と追号されている。「文武天皇(もんむてんのう)」といった今日使われている漢風諡号は、聖武および孝謙(称徳)を除き8世紀後半に淡海三船が撰んだことに始まる[37]ため、その直後に完成した『続日本紀』では原則として巻名に天皇の和風諡号が用いられているが、孝謙天皇のみ巻第十八から巻第二十まで「宝字称徳孝謙皇帝」の漢風尊号で記載されている点で特異である[38]。なお、重祚した巻第二十六から巻第三十では巻名に「高野天皇(たかののすめらみこと)」の和風の号が用いられている(重祚後の漢風諡号は称徳天皇)。

近世以降の西洋においては、日本に関する最大の情報源であるエンゲルベルト・ケンペル著の『日本誌』において、徳川将軍は「世俗的皇帝」、天皇は「聖職的皇帝」(教皇のようなもの)と記述され、両者は共に皇帝と見なされていた。その一年前に出版された『ガリバー旅行記』においても、主人公のガリバーが「江戸で日本の皇帝と謁見した」と記載されている。

安政3年(1854年)の日米和親条約では条約を締結する日本の代表、すなわち徳川将軍を指す言葉として「the August Sovereign of Japan」としている。これは大清帝国皇帝を指す「the August Sovereign of Ta-Tsing Empire」と同じ用法であり、アメリカ側は将軍を中華皇帝と同様のものと認識していた[39]。しかし日本の政治体制が知られるようになった安政5年(1858年)以降、徳川将軍が称していた外交上の称号「日本国大君」から「タイクン(Tycoon)」と表記するようになった[40][41]。一方で天皇は「ミカド(Mikado)」「ダイリ(Dairi)」[42]、「テンノー(Tenno)」などと表記されていた[43]

慶応4年1月15日(1868年)、新政府が外交権を掌握すると、兵庫港で各国外交団に「天皇」号を用いるよう伝達し、外交団もこれに従った[40]。しかし外国君主に対する「国王」号の使用が、外交団から反発を受け、「皇帝」号を使用するよう要求された。日本は「皇帝」は中国()の号であるから穏当ではないとし、各国言語での呼び方をそのままカタカナで表記する方針を提案したが、各国外交団はあくまで「皇帝」の使用を求めた。このままでは国家対等の原則から外国君主に対しても「天皇」号を用いなければならない事態に陥る可能性もあった[44][45]。結局明治3年(1870年)8月の「外交書法」の制定で、日本の天皇は「日本国大天皇」とし、諸外国の君主は「大皇帝」と表記するよう定められた[46]

明治7年(1874年)7月25日の太政官達第98号でこの方針は確認され、条約締結を行った君主国の君主は全て(国名は「○○王国」であっても)「皇帝」と呼称することが法制化された。ただし実際にはこの措置は王国に限られ、ルクセンブルク大公モンテネグロ公ブルガリア公モナコ公等、公国の君主に対しては「大公」もしくは「公」と呼称されている[47]

ただし李氏朝鮮との関係では、朝鮮を「自主ノ邦」[48]としながらも、冊封関係を否定することを恐れていた朝鮮側を考慮し、「君主」や「国王」の称号を用いながらも、「陛下」や「勅」など皇帝と同様の用語を使用していた[49]。日清戦争後、朝鮮が国号を大韓と改め、皇帝を称するようになると「皇帝」の称号が正式に使われるようになった[50]

しかし明治4年に清と締結された「日清修好条規」では両国の君主称号は表記されていない。これは清側が天皇号を皇帝すら尊崇する三皇五帝の一つ「天皇氏」と同一のものであるから、君主号とは認められないと難色を示したためであった[51]。明治6年1月(1873年)頃から次第に外交文書で「皇帝」の使用が一般化するようになったが、これは対中国外交で「天皇」号を用いていないことが、再び称号に関する議論を呼び起こすことを当時の政権が懸念したためと推測されている[52]。この時期以降、外国からの条約文などでも「Mikado」や「Tenno」の使用は減少し、「Emperor」が使用されていくようになった[53]

これ以降、天皇号の他に皇帝号の使用も行われ、民選の私擬憲法元老院の「日本国憲按」などでも皇帝号が君主号として採用されている[54]。また陸軍法の参軍官制師団司令部条例でも皇帝号を用いている[55]。政府部内でも統一した見解はなかったが、明治22年(1889年)の皇室典範制定時に伊藤博文の裁定で「天皇」号に統一すると決まり、大日本帝国憲法でも踏襲されている[56]。伊藤は外交上でも天皇号を用いるべきと主張したが、同年5月に枢密院書記官長の井上毅が外務省に対して下した見解では、「大宝令」を根拠として外交上に「皇帝」号を用いるのは古来からの伝統であるとしている[55]。井上は議長の指揮を受けて回答したとしているが、この当時の枢密院議長は伊藤である[55]。この方針は広く知られなかったらしく、後に陸軍も同内容の問い合わせを行っている[57]

大正10年4月11日の大正十年勅令第三十八号[58]で外国君主を皇帝と記載する太政官達は廃止されたが、以降の条約等[59]でも国王や天皇に対して皇帝の称が使用されている。

国内使用では殆どの場合が「天皇」号が用いられたが、「日露戦争宣戦詔勅」など一部の詔書・法律で皇帝号の使用が行われた。大正期までは特に大きな問題とはならなかったが[60]、昭和期になると国体明徴運動が活発となり、昭和8年(1933年)には外交上も「天皇」号を用いるべきとの議論が起きた[61]。外務省は条約の邦訳に対してのみ「天皇」号を用いるが、特に発表はしないことで解決しようとしたが、宮内省内の機関紙の記事が新聞社に漏れ、昭和11年(1936年)4月19日に大きく発表を行わざるを得なくなった[62]。ただし、外国語においては従来どおりとされた[63]

ヨーロッパの皇帝

ナポレオン・ボナパルトが、1804年国民投票によってフランス皇帝となるまで、長きにわたってヨーロッパにおける皇帝の称号は(若干の例外を除いて)「ローマ皇帝の後継者」としての称号であった。ヨーロッパ諸国で皇帝を意味する単語は、ローマ帝国の支配者の称号が起源である。

ローマ帝国

元首政

初代ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)

帝政ローマの最高支配者となったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)は、後世において最初の「ローマ皇帝」とされる。しかし、彼は建前としての共和政を遵守する立場であり、大きな権威と権力を手中にしながら、共和政下のローマでは伝統的にネガティブなイメージを帯びていた「王」の称号を採用せず、代わりに共和政時代から存在する官職や権限を一身に兼ねるという形をとっている。そのため、ローマ帝権は多数の称号を身に帯びることになった。中でも特に重要な称号が「インペラートル」「カエサル」「アウグストゥス」の3つである。

インペラートルimperator)は、英語の「エンペラー」(emperor)やフランス語の「アンプルール」(empereur)、トルコ語の「インパラトール」(imparator)の語源であり、皇帝と訳される称号のように認識されているが、そのまま当てはめることはできない。インペラートルの語源であるインペリウムimperium)は「命令権」や「支配」を意味し、王政期には王権の一部だったが、共和政期には軍指揮権を意味した。インペラートルはこの語に由来し、「命令者」を意味する。そのため将軍を指す称号のひとつとなり、凱旋式に際しては兵士たちが将軍に呼びかける際の尊称として用いられた。したがって共和政期にはインペラートルが同時に複数存在することもあった。共和政後期になると意味が広がり、ローマの支配権や支配領域を指してインペリウムというようにもなった。このように、ローマのインペラートルとインペリウムは必ずしも君主制を前提としてはおらず、語源は同じでも「帝国の支配者=皇帝」に対して用いることを予定したものでもなかった。この特徴はローマ滅亡後の後代にも引き継がれ、皇帝のいない国を「帝国」と呼ぶ用法などが生まれることとなった。

カエサルcaesar)もまた皇帝の称号のひとつであり、ドイツロシアなどで用いられた称号(カイザーツァーリ)の語源である。カエサルは、本来ユリウス氏族に属するカエサル家の家族名である。ここの出身であるガイウス・ユリウス・カエサルが終身独裁官となり、その養子となりカエサル家を継いだオクタウィアヌス(アウグストゥス)によって帝政が開かれたことから、皇帝を表す名のひとつとなった。後のディオクレティアヌス帝の時代には「副帝」を意味する称号となり、正規の君主号となった。

アウグストゥスaugustus)は「尊厳者」を意味し、元はオクタウィアヌスに贈られた添え名である。権威的には重要な称号だが、命令権や血統とは直接関係ないものだった。しかしながらオクタウィアヌスがこの名を贈られた紀元前27年1月16日が歴史的に帝政開始の日とされること、以後すべての後継者が帯びる称号となったこと、インペラートルやカエサルと異なりローマ皇帝以外に保持者のいない称号であること、ディオクレティアヌス帝の時代には正規の皇帝号になったことなどから、ローマ皇帝を指す最も重要な称号として認識されている。また、単にアウグストゥスといえば前述の初代ローマ皇帝アウグストゥスを指す。

専制君主制

ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、293年に広大な領土を東西に分け、2人の正帝と2人の副帝が共同で統治する四分治制(テトラルキア)を導入した。ここで「アウグストゥス」が正帝、「カエサル」が副帝の称号となった。以後、東西の帝国が統合したり分裂したりを繰り返し、395年に皇帝テオドシウス1世が没すると、テオドシウスの長男アルカディウスが帝国の東の正帝に、次男ホノリウスが帝国の西の正帝になった。

東西のローマ帝国における皇帝については以下で述べる。

東ローマ帝国

皇帝レオーン6世(在位:886年 - 912年)の銅貨。裏面には"+LEOn En ΘEO bASILEVS ROMEOn"(レオーン、神に(忠実なる)ローマ人バシレウス)と書かれている。
キリストに加冠される皇帝コンスタンティノス7世(在位:913年 - 920年、944年 - 959年)の象牙浮彫(10世紀 プーシキン美術館蔵)。コンスタンティノスの上にギリシア語で「コンスタンティノス、神に(祝福された)アウトクラトール」、キリストとコンスタンティノスの間に「ローマ人のバシレウス」と書かれている

東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)では「皇帝」の称号は、王朝の交代はあったものの、1453年に東ローマ帝国が滅びるまで代々受け継がれた。東ローマ帝国では、7世紀以降公用語ラテン語からギリシア語となった。「皇帝」を表す称号としては、元はアケメネス朝サーサーン朝シャーを指したギリシア語である「バシレウス: Βασιλεύς)」(バシレイオスと表記することもある。古典ギリシア語読み。中世ギリシア語の読み方ではヴァシレフス。なお古代ギリシャ時代には単なる「王」を示す単語だった)が用いられた(それまではラテン語の「インペラトル」「カエサル」「アウグストゥス」が引き続き使われていた)。

これは、7世紀の皇帝ヘラクレイオス628年サーサーン朝ペルシャ帝国を降して首都コンスタンティノポリスへ凱旋した時に「キリスト教徒のバシレウス」と名乗ったことによる。この「バシレウス=シャー」には、「諸王の王」(ペルシャ語の「シャーハーン・シャー」、ギリシア語の「バシレウス・バシレオーン」)という意味を含んでおり、ローマ帝国の皇帝であると同時に「諸王の王」である、という宣言であった[64]。これによって東ローマ帝国の皇帝は、古代のローマ皇帝とは異なって「君主」としての意味が強くなり、このことは西欧の皇帝にも大きな影響を与えた。またキリスト教化の進行によって、皇帝は「神の代理人」という位置付けがされ、宗教的にも大きな権威を持つ存在となった。

ただし一方で、帝位の正統性は「元老院・軍隊・市民の推戴」によって示される、という古代ローマ以来の原理も残され(例えば皇帝の即位式の際は、「軍隊が、民衆が、元老院が帝位に就けと要求しているのだ」、という歓呼がされた)、帝位は必ずしも世襲されるとは限らなかった。この辺りに東西の文明が融合した東ローマ帝国の特徴を見ることが出来よう。

他に皇帝の称号としては「アウトクラトール: αὐτοκράτωρ 」(単独の支配者、専制君主を意味するギリシア語。既に6世紀からインペラートルに相当する称号として、ギリシア語版の勅令で使われていた)、「セバストス英語版(: σεβαστός )」(尊厳なるもの。ラテン語アウグストゥスに相当)などが用いられた。

西ローマ帝国が滅亡した際、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝ゼノンに返還していたため、西ローマ帝国の滅亡後は名目上、東ローマ皇帝がローマ帝国全土の皇帝であった。こうした経緯もあってか、一時はイタリアイベリア半島の一部にまで及んだ東ローマ帝国の勢力が後退した後も、唯一の正統なローマ皇帝として単に「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」と名乗り、「東ローマ皇帝」という呼び方は使われなかった

また、後にフランクカールブルガリアシメオンドイツ神聖ローマ帝国)の王たちが「ローマ皇帝」を名乗った際は、東ローマ皇帝は彼らを「皇帝」としては認めるが「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」としては認めない立場をとり、あくまでも自分だけが唯一のローマ皇帝であると主張した。

この他にも東ローマ帝国を一時滅ぼした第4回十字軍が建国したラテン帝国や、それによって亡命した東ローマの皇族達が建てたニカイア帝国エピロス専制侯国トレビゾンド帝国の君主も、東ローマの正統な後継者であることを示すために「皇帝」を称した(エピロスは一時期のみ)。

亡命政権ニカイア帝国は1261年にラテン帝国を滅ぼし、ミカエル8世パレオロゴスコンスタンティノポリスにおいて改めて皇帝に即位し、東ローマ帝国の復活を果たした。東ローマにおける皇帝権はこの後も継承されたが、国威はふるわず、15世紀には帝国は首都コンスタンティノポリスとわずかな属領だけに押し込められてしまった。1453年、オスマン帝国によってコンスタンティノポリスは攻略され、最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは戦死、ここに、アウグストゥス以来約1500年にわたって受け継がれてきた「ローマ皇帝」の正統は消滅した(オスマン皇帝の中には、ローマ皇帝の継承者であるとして「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った者もいるが、一時的なものに終わった)。

中世以後の西ヨーロッパ

カール大帝の「西ローマ帝国」

476年に西ローマ帝国が滅びた後の西ヨーロッパに対しては、前述のように東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスにいる皇帝が全ローマ帝国の皇帝として宗主権を主張し、6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の時代には、イタリアイベリア半島の一部を東ローマ帝国が征服した。

このため、西ヨーロッパ諸国やローマ教皇は、コンスタンティノポリスにいる皇帝の宗主権を認め、その臣下とならざるを得なかった(ヨーロッパにおいて、王が皇帝よりも格下であるという認識は、この時に生まれた)。ゲルマン人に布教を進めてローマ教会の勢力を拡大し、「大教皇」と呼ばれた6世紀末のグレゴリウス1世でさえも、それは同じであった。実際、7世紀の教皇マルティヌス1世のように、教義をめぐって対立した東ローマ皇帝コンスタンス2世によって逮捕され、流刑に処せられた者もいたほどであった。

しかし7世紀以降、東ローマ帝国イスラム帝国ブルガリア帝国などの攻撃を受けて弱体化したためにイタリアでの覇権を維持できず、またローマ教会とは聖像破壊論争などの教義の問題や、教会の首位をめぐるローマとコンスタンティノポリスの争いなどで対立を深めるようになった。このためローマ教会は、東ローマ帝国に代わる新たな後ろ盾を必要とするようになった。

797年、東ローマ帝国で皇帝コンスタンティノス6世の母エイレーネーがコンスタンティノスを廃位し、自ら女帝として即位するという事件が起きた。これを機に、ローマ教皇レオ3世は「コンスタンティノスの廃位によって正統なローマ皇帝は絶えた」として、800年に国力の伸張著しいフランク王国の国王カールに「ローマ帝国を統治する皇帝」の称号を与えた。これがカール大帝である。ただし、カールは自分の皇帝位に満足せず(それまで、教皇から皇帝位が与えられるという前例はなかった)、東ローマ帝国に自分の皇帝位を承認してもらうための運動を粘り強く行った(5世紀の西ローマ帝国滅亡以前は、東西の皇帝は即位の際に互いに承認し合っていた)。その結果、812年になって、東ローマはカールを皇帝(ただし、「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」ではない)として承認した。

以後、西ヨーロッパの皇帝は西ローマ皇帝の後継者、キリスト教の守護者の意味を持つようになる。また、本来ローマ皇帝は「元老院・市民・軍隊」によって選ばれるものだったのだが(東ローマ帝国では最後までその建前が守られた)、カール大帝の戴冠の経緯は、ローマ教皇が皇帝の任命権を主張する根拠ともなった。

神聖ローマ帝国

カール大帝以降のフランク王による帝位の継承は1世紀余りで途絶えてしまっていたが、962年に東フランク王オットー1世は、ローマ教皇ヨハネス12世から皇帝の冠と称号を受けた。ここに復活した帝国は、大空位時代を経ていわゆる神聖ローマ帝国となる(なお、実際の称号は「皇帝」や「尊厳なる皇帝」などであって、「神聖ローマ皇帝」と称したことはない)。以後、皇帝の称号を帯びるためにはローマ教皇の承認を得なければならず、それまでの帝国君主はローマ王を名乗った。時代が進むにつれ帝国は諸侯の緩い連合体に変化し、皇帝の権力も弱まっていった。

1356年カール4世金印勅書を発布し、選帝侯がローマ王、ひいては皇帝を選出するようになり、ローマ教皇の干渉を受けなくなるようになった。1438年ハプスブルク家アルブレヒト2世が選出されてからは、女性当主のマリア・テレジアの例外を除いてハプスブルク家が皇帝位を独占するようになり、皇帝は帝国の最有力諸侯であるオーストリア大公のハプスブルク家が帯びる名誉称号に近いものになった。特に三十年戦争以後は、各諸侯領はほとんど独立国家同然となり、皇帝とは名ばかりの存在になっていった。この頃には「ドイツ人の帝国」もしくは単に「帝国」と名乗ることも多かった。皇帝も、ローマ皇帝ではなくドイツ皇帝と称するようになる。1806年フランツ2世が帝国の解散を宣言して、神聖ローマ帝国は名実共に滅びた。

スペイン(全ヒスパニアの皇帝)