盧武鉉
노무현
20030514Roh Moo-hyun (cropped).jpg

任期 2003年2月25日2008年2月24日[1]
首相

任期 2000年8月8日2001年3月25日
元首 金大中

任期 1988年5月30日 - 1992年5月29日
1998年7月22日 – 2000年5月29日

出生 1946年9月1日[2](旧暦:8月6日
南朝鮮の旗 南朝鮮 慶尚南道金海郡(現:金海市)進永邑本山里烽下村
死去 (2009-05-23) 2009年5月23日(62歳没)
大韓民国の旗 韓国 慶尚南道梁山市
政党
出身校 釜山商業高校(現:開成高校)朝鮮語版
配偶者 権良淑
子女
署名 Roh Moo-hyun Signature.svg
盧武鉉
各種表記
ハングル
  • 노무현(韓国)
  • 로무현(北朝鮮)
漢字 盧武鉉
発音:
  • ノ・ムヒョン(韓国)
  • ロ・ムヒョン(北朝鮮)[6]
日本語読み: ろ・ぶげん
2000年式

MR式

英文表記:
  • No Mu-hyeon
  • Ro Mu-hyeon
  • No Mu-hyŏn
  • Ro Mu-hyŏn
Roh Moo-hyun[7]
テンプレートを表示

盧 武鉉(ノ・ムヒョン、朝鮮語: 노무현1946年9月1日〈旧暦8月6日〉- 2009年5月23日)は、韓国政治家、第16代大統領(2003年2月25日-2008年2月24日)。弁護士出身。本貫光州盧氏。妻の権良淑(クォン・ヤンスク)との間に1男1女。歴代大韓民国大統領で最初の日本統治時代を経験していない世代の大統領である。

経歴

生い立ち、弁護士として

アメリカ統治時代の1946年9月1日に慶尚南道金海郡(現、金海市)進永邑(チニョンウプ)烽下(ポンハ)村(マウル)の貧しい農家である父、盧判石(ノ・パンソック)、母、李順礼(イ・スンレ)の三男二女の末っ子に生まれる[2]。母親は身ごもっている最中に胎夢英語版を見たという[8]。6歳ですでに千字文を諳んじた神童であった[9][2]。テチャン小学校の学籍簿には『小農で生活は下流』と記されたが、小学校では生徒会長を務め、中学校では成績トップを争うほどだった。しかし、貧困により1年の休学を余儀なくされている。苦しい家計を思い、一度は高校進学を諦めるが、長兄盧英鉉の強い説得と助力もあり、1963年に名門の釜山商業高校朝鮮語版(現:開成高校)に進学。警備員のバイトをして日銭を稼いだ[2]。当時商業学校からの花形コースであった銀行マンを志し、農協の就職試験を受けるも叶わず[10]、卒業後に「三海工業」という小さな魚網会社に就職するが、その待遇に失望して一カ月半で退職。司法試験への挑戦を決意する[11]。盧武鉉は自著に、貧しさ故に高卒で社会に出たこと、就職に失敗して独学で弁護士の道を志すようになったことは、盧武鉉の政治家人生における一種の稀少価値となったと記している[12]。当時、高卒では司法試験を受ける資格が与えられなかったが、故郷に帰って村外れのぼろ家に手を加えて「磨玉堂」と名づけて勉強の場とし[2]、日雇い労働をしながら1966年11月に資格試験(司法及び行政要員予備試験)に、1971年に三級公務員の一次試験に合格。1968年から1971年の兵役をはさんで勉強を続け、1975年に29歳で第17回司法試験に合格した後、盧に他の道が開けた[2]

司法研修院で研修を終えた後、1977年大田地方法院(裁判所)判事に就任。1978年判事を辞めて弁護士事務所を開業。当初は登記業務・不動産・租税関連の訴訟を専門とし、ヨットが趣味で琵琶湖でのイベントに参加するなど、釜山でも稼ぎのいいブルジョア弁護士の盧弁(ノビョン、盧弁護士)として知られていた[13][2]

しかし1981年に別の弁護士の代理として釜林事件の弁護を引き受けて学生運動に関わった事が転機となり、徐々に政治、社会問題への関わりを深めて路弁(アスファルト弁護士)に変貌した[2]。1982年にはこの年に弁護士になった文在寅が盧武鉉の法律事務所に入所し、「弁護士盧武鉉・文在寅合同法律事務所」を開設(後に文在寅は盧武鉉大統領の下で大統領府民情主席、大統領秘書室長などを務める)。1982年の釜山アメリカ文化院放火事件では被告側弁護人を担当。1985年には釜山民主市民協議会の常任委員長となり、本格的に韓国の民主化運動に足を踏み入れた。1987年には大統領直接選挙制を求める6月抗争を主導し、大宇造船事件では逮捕と拘留も経験している。盧武鉉は後年、人権派弁護士への変身は覚悟や決意を要求されたものではないと語った。平凡な常識と良心、そして「拷問されて真っ黒になった学生の足の爪」を見ての憤りと怒りであったと自著に記している[12]

政界進出

1988年に統一民主党(当時)の金泳三に抜擢され、同年4月に行なわれた13代国会議員選挙釜山市東区選挙区から出馬して当選し、政界入りした[2]。国会の労働委員会では、李海李相洙とともに「労働委員会三銃士」と呼ばれ、活発な活動を行った。同年、第五共和国の不正調査特別委員会の委員となり、第五共和国聴聞会における全斗煥時代の不正追及の場面がテレビ中継されたことがきっかけで、国民的スターになった。

1990年に民主党の金泳三派が盧泰愚民主正義党金鍾泌新民主共和党と合党し(三党合同)、大与党・民主自由党を結成した。盧武鉉はこれを野合として合同への参加を拒み、他の議員とともに1990年6月に改めて結成された民主党に加わり野党に残った。盧武鉉は金大中率いる新民主連合党との野党統合運動を推進し、1991年9月に統合野党としての新・民主党を発足させた。

その結果、恩師でもあった金泳三に睨まれることになり、1992年には14代国会議員選挙で落選。統合民主党候補として1995年の釜山市長選挙[2]および翌1996年の15代国会議員選挙に立候補したがいずれも落選した。1998年の補選にてようやく国会議員(ソウル市鍾路区[14]で当選。新政治国民会議)に復帰した。2000年の16代国会議員選挙でソウル・鍾路区ではなく釜山市の江西乙選挙区から出馬(新千年民主党)し、再度落選するが、勝てなくても立候補し続ける姿が一部の国民の共感を得て、2000年にインターネット上で盧武鉉のオンライン・サポーター組織「ノサモ」(ノムヒョヌル・サランハヌン・モイム=盧武鉉を愛する集まりの意)が結成された[2]

2000年8月、落選していた盧武鉉は金大中大統領によって海洋水産部の長官に任命された[2]。これは湖南(全羅道)を地盤とする民主党が、民主党の支持が薄い嶺南(慶尚道)出身者を次期大統領候補(のひとり)として遇しようとしたためと言われている。

大統領選挙

2002年大統領選挙に際し、新千年民主党(以下、民主党)の大統領候補の選出は、アメリカ合衆国の予備選挙制に似た国民参加選挙(国民競選)を通じて行われた。立候補登録を行ったのは、金重権、盧武鉉、鄭東泳金槿泰李仁済、韓和甲の各常任顧問と柳鍾根全羅北道知事の7名だった。世論調査では李仁済が優勢とされ、またハンナラ党の大統領候補李会昌による忠清圏票の独占を防げるということで、「李仁済大勢論」(李仁済以外にいない)と思われた。だが、李仁済では李会昌に勝てず、進歩主義陣営の票を取りこぼすと主張する意見もあり、それは急速に「盧武鉉代案論」として浮上した。

全国で行われた予備選挙で、盧武鉉は蔚山光州と勝利を重ねた。嶺南と湖南で勝利したことにより、民主党候補が地域対立を越えて大統領に当選する期待を抱かせた。苦戦する李仁済は盧武鉉の思想、財産、盧武鉉の義父の左翼歴にいたるまで取り上げて批判した[15]。だが大勢を覆すに至らず、盧武鉉は勝利を重ねて「盧風」(盧武鉉旋風)を巻き起こした。そして4月27日に民主党の大統領候補に選出された。

しかし金泳三との和解を演出した「YS腕時計事件」[16]は、進歩・改革の旗手として支持者が描いていた盧武鉉のイメージを傷つけた。また、金大中の側近や親族の逮捕は民主党の大統領候補である盧武鉉への逆風となり、6月の統一地方選や8月の補選に惨敗した民主党では候補の交代や、鄭夢準との候補一本化が取り沙汰されるようになった。

このような事情から、盧武鉉は鄭夢準との候補一本化を模索した。調整の結果、二人はテレビ討論会を行い世論の支持を集めた側を統一候補として擁立する事にした。テレビ討論会は11月22日に行われ、その後の世論調査で盧武鉉は46.8%、鄭夢準は42.2%の支持率となり、盧武鉉が統一候補に決定した。そして大統領選挙戦は、事実上盧武鉉とハンナラ党の候補李会昌の一騎討ちとなった[2]

同年11月13日に全国農民会総連盟所属の農民およそ5万5000人が、ソウル汝矣島の漢江市民公園において、米の輸入・市場開放に反対する全国農民大会を行ったデモの最中の午後4時40分頃、3人の候補の一人だった盧が演説途中で顔面に卵をぶつけられた[17]

これ以前の6月に、在韓米軍の兵士が女子中学生を交通事故死させる事件(議政府米軍装甲車女子中学生轢死事件)が発生していたが、11月20日、在韓米軍の軍事法廷は、当事者のアメリカ兵に無罪の判決を下した。これは米韓行政協定(SOFA)のもとに行われたことだったが、民主活動家たちが運動を活発化させるきっかけを与えた。労働組合や左派団体はソウルや各地の都市で繰り返しキャンドルデモを促し、メディアもそれを報じて反米機運を増幅した。アメリカは11月27日にハバード駐韓大使とラポート在韓米軍司令官が謝罪し、さらに大統領(当時)のジョージ・W・ブッシュの謝罪声明を発表して事態の沈静化を図ったが、デモの主催者たちはこれを欺瞞とし、デモを続けた[18]。投票日を前に発生したこの事件は、有権者の投票行動に少なくない影響を与えた。

2002年11月27日および28日、盧武鉉と李会昌、民主労働党の權永吉ほか4名が大統領選挙の候補に登録を行い、選挙戦が正式に開始した。盧武鉉は金大中による太陽政策(包容政策)の継承、行政首都を忠清圏に移転するといった政治改革や、7%の経済成長を公約に掲げた[19]。一方、比較的親米的な李会昌は金大中政権の路線を全面的に転換することを望み、対北・対米方針の違いが、大統領選挙の主要な争点の一つとなった。

投票日前日の12月18日、鄭夢準が盧武鉉への支持を撤回するというハプニングが起きた。対北朝鮮政策の違いや、将来の大統領をめぐる盧武鉉の発言など原因であるといわれている[20]。しかし土壇場での「裏切り」はかえって盧武鉉への同情を呼び起こし、またノサモによる盧武鉉への投票の呼びかけが功を奏して、盧武鉉は約57万票差の僅差で李会昌を制し、第16代大統領の座を射止めた。なお、地方での得票率においては盧武鉉は湖南地域で軒並み90%以上を獲得する一方、大邱広域市の一部で20%を下回るなど一部地域間での差が顕著に表れた[2]

大統領職

就任

2003年10月、ジョージ・W・ブッシュと会談する盧武鉉

盧武鉉は相対的に高い国民の支持を得て大統領職に就任したが、与党の新千年民主党は国会では少数派だった。国会ではハンナラ党が過半数を占めており、選挙訴訟、人格攻撃、大統領としての適性を取り上げ、あるいは言葉尻をとらえて盧武鉉を攻撃した。さらに与党の新千年民主党では、盧武鉉を中心とする主流派と、全羅道を基盤とする金大中派との間で与党内抗争が激化し、ついには主流派が離党し「ヨルリン・ウリ党」を結成したことによって新千年民主党は下野した。議会での基盤を大幅に損なった盧武鉉は苦境に立たされた。

与野党共に大統領選挙における不正資金疑惑が浮上した。経済運営も難航した。イラク韓国軍を派遣したことが支持者離れを引き起こし、支持率は急落した。起死回生を図るべく、盧武鉉は国民投票による再信任を提案するが、各方面から批判を浴び撤回を余儀なくされた。盧武鉉は与野党代表と会合を行い「われわれが昨年の大統領選挙で使った不法資金の規模がハンナラ党の10分の1を超えれば、大統領職を退き、政界を引退する」と述べたが[21]、調査が進んで8分の1に迫ると、敵対的なメディアでの主観的な計算の問題としてその数字に異議を唱えた。

イラク追加派兵問題をめぐり、外交通商部および国防部の「韓米同盟派」と、大統領府・国家安全保障会議(NSC)を中心とした「自主派」が軋轢を起こした。2004年1月、盧武鉉は外交通商部幹部の失言と監督責任を理由に尹永寛外交通商部長官を更迭し[22]、後任に潘基文を任命した。

弾劾

総選挙を控えた2004年3月9日、野党であるハンナラ党新千年民主党は国民の理解を得られると踏んで大統領の弾劾訴追を発議した。3月12日、投票(賛成193、反対2)の結果、大統領弾劾訴追案が可決され、一時的に大統領職務を停止された。これにより、当時国務総理(首相)だった高建が大統領職務代行を務めた。

しかし、党利党略から大統領を弾劾し、国政を混乱させた野党に世論が反発、総選挙でのウリ党の地滑り的勝利に繋がり、これをもって事実上の信任と見なされた。5月14日には憲法裁判所により大統領弾劾訴追が棄却され、職務に復帰した。結果として、盧武鉉は政治基盤を大幅に強化し、政策を推進する体制を整えることとなった。

改革

盧武鉉は自らの政権を「参与政府」(国民が政治に参与する政府)と称し、より進歩的かつ理念的な改革を指向した。「ノサモ」などのインターネットの力を借りて政権の座に就いたこともあり、ホームページを通して積極的な情報公開を行うだけでなく、重大な政策論争に行き当たるたびに、国民に直接語りかける機会を設け、ネットを利用したポピュリズムを形成して、既存の保守勢力の抵抗を突破しようとした[23]。しかし、保守野党の激しい反対にぶつかって国家保安法廃止、言論改革、検察改革、私学法改正など多くの改革立法が挫折し、盧武鉉大統領は、改革対象として言及した組織にチャックを負うことになる。

大連立論争

改革立法が失敗し、敵だけが増えつつ、経済はかえりみず政治争いばかりだと判断した民心は政権に刃物を突きつけて、その後、与党のヨルリン・ウリ党は補欠選挙で惨敗することになる。これに盧武鉉は協治を掲げ、野党ハンナラ党に権力を渡すことを含めた選挙制度改革と大連立(挙国連立)政権を提案した。しかし、この提案は、特に保守野党を嫌っていた与党(その中でも釜山出身の盧武鉉を牽制していた一部の全羅道の)支持層の大きな反発を買うことになり、かえって盧武鉉政権のレームダックを加速させることになる。それでも盧武鉉は、反対だけのための反対や政権の揺さぶりは、次の政権のためにも、もう終わらせなければならないとし、地域主義の打破とともに、大連立の提案に固執する。

2005年9月7日、盧武鉉とハンナラ党の朴槿恵代表との単独会談が行われ、2時間30分にわたり二人は意見を交わしたが、双方は合意を見出せずに物別れに終わった[24]。大連立構想はいずれの政治派閥からも支持を得ることなく廃棄された。ただ、皮肉にも盧武鉉政権当時、朴槿恵が取ったすべての言動は約10年後彼女が大統領になった時、正反対の姿で現れ、ネチズンたちに盧武鉉と比較される決定的な契機になる。

レームダック

2006年5月31日に行われた統一地方選挙では、盧武鉉政権の両極化の深化への批判やハンナラ党代表の朴槿恵への襲撃事件の影響も重なって、与党のウリ党は惨敗を喫した。この選挙は、事実上大統領および政府与党への信任選挙であったため大統領の責任論が浮上したが、「一度や二度の選挙結果に惑わされるようでは民主主義とはいえない」と述べ、与野党双方からさらに批判が巻き起こった。この選挙結果により以前から言われていた「レームダック(死に体)政権」のイメージがますます強くなってしまい、支持率は20%を切るようになった。

2006年8月、盧武鉉は任期切れとなった尹永哲憲法裁判所所長の後任に、全孝淑憲法裁判所裁判官を内定した。しかし任命手続きに法的な瑕疵があったことを理由に国会が同意せず、憲法裁判所所長の座が空位となった。

2006年10月、国家情報院は386世代民主化闘士が北朝鮮と通じてスパイ活動をしたとして、民主労働党の幹部などを国家保安法違反で逮捕した。しかし、捜査の指揮を執っていた金昇圭国家情報院院長が突如辞意を表明し、その後、情報機関の長としては異例にも朝鮮日報へのインタビューに応じて捜査内容を語るという事件が発生した。同月、尹光雄英語版朝鮮語版(ユン・グァンウン)国防部長官が辞任した。宥和政策に対する批判の高まりから統一部長官の李鍾も辞意を表明し、国連事務総長へ転出するため辞任した外交通商部長官の潘基文と合わせて、外交・安保の責任者がすべて入れ替わることとなった。

2006年11月、盧武鉉は憲法裁判所所長の指名を撤回した。盧武鉉は議場を占拠して任命同意案の採決を阻んだ国会を非難するとともに、指名撤回を「屈服」と表して、任期を終えることのできない最初の大統領にはなりたくないと述べた[25]

2006年12月、盧武鉉は民主平和統一諮問会議の席上で、韓国の国防力に自信を示すと共に、在韓米軍基地移転や戦時作戦統制権の返還に反対する退役軍人に対し「アメリカの後ろに隠れて『兄貴、兄貴のパワーだけ信じるよ』とばかりしてはいられない。一度は度胸をみせるべきじゃないか」「自国軍隊の作戦統制さえきちんとできない軍隊を作っておいて、『私は国防長官です』、『私は参謀総長です』と威張りたいというのか」と反論した[26]。この時に出された有名な言葉が"恥を知るべきだ!"。 ただ、超大国米国の力は認めて、現実的に尊重しなければならないという言葉も付け加えた。

党争

度重なる補選の敗北と次期大統領選挙を見据えて、与党ウリ党では金槿泰を中心に、かつて袂を分かった民主党との再統合を模索する動きが活発化した(統合新党論)。盧武鉉は再統合を地域主義への回帰であるとして非難し、長文の手紙を発して党員へ呼びかけた。また、次期大統領選の有力候補と注目されたが、官僚出身で政治家でなかった高建の競争力を弱いと見て事実上大統領選出馬断念に追い込んだ。

ウリ党の親盧勢力も、盧武鉉の意を受けて党を死守するとの立場を見せた。金槿泰らが党の進路を決める全党大会を前に、外部人材の受け入れを妨げるとして基幹党員制の撤廃に踏み切ると、改正手続きに不備があるとして仮処分を申し立て、法院はこれを認めた。ここに至り、ウリ党の現職議員が全党大会を待たずに脱党を始めた。盧武鉉は党の現状を知り、青瓦台に親盧勢力を招いて党の分裂を防ぐように方針転換を促した結果、党憲の改正は改めて議決されたが、現職議員の脱党を完全に押し留めるには至らなかった。

そして2007年大統領選挙の結果、保守の李明博(イ・ミョンバク)候補に政権を譲る。余談に盧武鉉本人は時間が経って歴史が評価してくれることとし、比較的淡々と政権交代を受け入れる。