秩父宮雍仁親王
秩父宮家
Chichibunomiya Yasuhito.jpg
1940年12月5日撮影
続柄 大正天皇第2皇男子[1]

宮号 秩父宮(ちちぶのみや)
全名 雍仁(やすひと)
称号 淳宮(あつのみや)
身位 親王
敬称 殿下
お印 若松(わかまつ)
出生 1902年6月25日
日本の旗 日本東京府東京市赤坂区青山東宮御所
(現:東京都港区赤坂
死去 (1953-01-04) 1953年1月4日(50歳没)
日本の旗 日本神奈川県藤沢市鵠沼別邸
埋葬 1953年1月12日
日本の旗 日本、東京都文京区豊島岡墓地
配偶者 親王妃勢津子(松平節子)
父親 大正天皇
母親 貞明皇后
役職 Japan-army-1938-1945 15-1-.gif 陸軍少将
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1921年(大正10年)、大正天皇の4皇子。
左から皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)、澄宮崇仁親王(後の三笠宮)、光宮宣仁親王(後の高松宮)、淳宮雍仁親王

秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年明治35年〉6月25日 - 1953年昭和28年〉1月4日)は、日本皇族大正天皇貞明皇后の第2皇男子。昭和天皇は兄、上皇は甥、今上天皇は従孫にあたる。

妃は勢津子(旧会津藩主・松平容保の四男で外交官を務めた松平恆雄の長女)。御称号淳宮(あつのみや)。身位親王お印若松(わかまつ)。階級陸軍少将勲等功級大勲位功三級。勢津子妃との間に子女はない。

来歴

赤坂表町の秩父宮御殿

生い立ち

幼少の頃は兄の迪宮裕仁親王(当時)、弟の光宮宣仁親王と共に育ち、年齢の近い三兄弟とも仲は良かったと言う。兄弟の中では最も活溌であり、そのことは1つ違いの兄宮とよく比較された。玩具の取り合いで兄宮と喧嘩し、先に手を出すことも多々あった。しかし兄がいない時は小心であり、自ら「内弁慶であった」と、戦後に回想している。

祖父である明治天皇には、「よく玩具を与えられた」と回想しているが、実際には明治天皇と触れ合う機会は、天皇自身が公務を優先したため生涯ほとんど無く、崩御寸前まで声を聞くこともなかった。反面、義理の祖母にあたる昭憲皇太后とはよく会い、兄弟や学友たちと共に芝居を披露したこともあった。

陸軍軍人として

1909年(明治42年)4月に学習院初等科入学、学習院中等科2年修了後、皇族身位令に基づき陸軍中央幼年学校予科第2学年に学友9人とともに[2]編入した(19期)[3]。この際、幼年学校側は親王に配慮し、二人称と一人称は学習院同様に「君-僕」を生徒に使わせようとしたが、雍仁親王本人が「貴様-俺」を率先して用いた[3]。在学中は、従来の武道以外に、野球テニス卓球等の他のスポーツが盛んになり、極東選手権競技大会も観戦する等、雍仁親王が幼年学校の校風に影響を与えた[3]。少年らしい悪戯や失敗の逸話も残されており、同期の団結の中心となった[2]

1920年(大正9年)10月、陸軍士官学校に入学した。同期には服部卓四郎西田税などがいる。卒業後1922年(大正11年)10月に陸軍少尉に任官した。

1928年(昭和3年)12月に陸軍大学校に入学、1931年(昭和6年)11月に卒業した(43期)。陸大の卒業時には、成績優秀であったため慣例に反して恩賜の軍刀を与えてはとの議論が教官の間であった[4]

1922年(大正11年)6月25日に20歳で成年式を行い、宮家秩父宮」創立。宮号の由来は、秩父嶺が帝都所在の武蔵国の名山であり、雍仁親王邸の西北に位置したことにちなみ選定された。1928年(昭和3年)9月28日、松平節子と結婚。成婚にあたり皇太后(九条節子)に遠慮して勢津子と改名した。当時は「世紀の大恋愛」と報道されたが実際には自由恋愛ではなかった。

妃勢津子との間に結果として子女はなかったが、一度だけ勢津子が懐妊したことがあった。親王は非常に喜んだが流産し、親王は勢津子と共に悲しみにくれた。

1930年(昭和5年)12月5日、帝都復興記念章を授与された[5]

1931年(昭和6年)11月23日より第一師団歩兵第3連隊の中隊長を務めた[6]。歩三時代には安藤輝三などとも交流を持ち彼らの革新思想の影響を受けた。本庄日記によると、この頃に秩父宮は昭和天皇に対して親政の必要を説き、憲法停止も考えるべきと意見したため激論となった。昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して「秩父宮の考えは断じて不可」と述べ、さらにこれを受けて1932年(昭和7年)6月21日に宮内大臣官邸において、一木喜徳郎木戸幸一近衛文麿原田熊雄が「秩父宮の最近の時局に対する御考がややもすれば軍国的になれる点等につき意見を交換」している。秦郁彦谷田勇から聞いた話として、秩父宮が村中孝次に同行し北一輝の自宅を訪問していたとしている[4]。昭和天皇からの内意により青年将校から引き離すため同年9月に参謀本部第一部第二課(作戦課)に転補された。

1935年(昭和10年)8月に弘前市歩兵第31連隊第3大隊長に任ぜられた。勢津子妃も同行し弘前市紺屋町の菊池長之の別邸に居住した[7]

1936年(昭和11年)2月26日早朝に皇道派青年将校らによって二・二六事件が発生した。26日朝に高松宮から連絡を受けた秩父宮は倉茂周蔵連隊長の許可を受けた上で、翌日の27日に奥羽本線、羽越本線、信越本線、上越線経由で上京した。平泉澄が群馬県水上駅まで迎えに行き車中で一時間半ほど会談している。平泉はのちに「みちのくのつもる白雪かき分けていま日の皇子は登りますなり」と歌を詠んだ[8]。秩父宮は夕方に上野駅に到着し憲兵の護衛を受け参内し昭和天皇に拝謁したが、翌日谷田には「叱られたよ」と語っている。同日に歩三の森田利八大尉を介して青年将校らに自決せよと伝えた。木戸日記によると、昭和天皇は「秩父宮は五・一五事件の時よりは余程宜しくなった」と広幡忠隆侍従次長に述べている[4]

同年12月に参謀本部第1部付となる。日英開戦の4年前の1937年(昭和12年)に兄・昭和天皇の名代としてイギリスジョージ6世国王戴冠式に出席し、その後は静養地としてスイス、その他スウェーデンオランダを訪問した。当初の予定にはなかったが、ヘルベルト・フォン・ディルクセン駐日ドイツ大使の要請によりドイツを訪れ、日独親善の証としてニュルンベルクで行なわれていたナチス党大会に来賓として出席し、ヒトラー総統とニュルンベルク城で会談を行なった。ヒトラーはソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンを激しく罵り、「私は彼を信じない、また憎みます。」と口にした。これに対して秩父宮は英語で「お互いに一国の責任者として、民族を指導し、世界の平和に貢献しなければならない重大な責務のある貴方のような方が、他国の代表者を、そのように毛嫌いしたりまた憎んでもよいものでしょうか?」と返した[9]。この面会について秩父宮は、付き武官の本間雅晴に対して「ヒトラーは役者だ。彼を信用することは難しい。」と述べている。

昭和天皇独白録によると、日独伊三国同盟の締結が議論されていた1939年(昭和14年)、同盟に消極的な兄・昭和天皇に対して週に3度参内して締結を勧めたが、「この問題については直接宮には答えぬ。」と天皇に突っぱねられている[10]

1938年(昭和13年)1月に大本営戦争指導班参謀に、同年3月に陸軍中佐に、1939年(昭和14年)8月に陸軍大佐に昇進した。

闘病生活

勢津子妃と軽作業をする(1951年撮影)

1940年(昭和15年)に肺結核と診断され、翌年より静岡県御殿場で療養生活を送る。1941年(昭和16年)3月に参謀本部附、1945年(昭和20年)3月に陸軍少将に昇進したが、戦時中は御殿場別邸にて療養を余儀なくされた。戦後は療養生活を送りながら皇族として執筆を含む活動を行った。 1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職[11]

1952年(昭和27年)1月に、静岡県御殿場市から神奈川県藤沢市鵠沼別邸に移った。同年暮に病状が悪化し、1953年(昭和28年)1月4日に50歳で薨去した。

薨去後

葬儀の様子

薨去に先立ち遺書をしたためており、その中で「遺体解剖に附すこと」、「火葬にすること」、「葬式は如何なる宗教にもよらない形式とすること」を指示していた。勢津子妃が天皇に許可を求めたところ、昭和天皇は「秩父宮の遺志を尊重するように」とこれを即座に許し、皇族としては異例の病理解剖が行われた。

1953年1月12日葬儀は皇族として最低限の神道形式で行われ、皇族・各国大使・スポーツ関係者ら800人が参列した[12]。その後、無宗教での一般告別式が行われ、2万5000名あまりの市民が秩父宮の遺体に拝礼した[13]。その後、午後1時から火葬された(皇族の埋葬は、当時は土葬が基本)。遺骨は、同日午後4時20分に、豊島岡墓地の比翼塚形式の簡素な墓に愛用の品々とともに埋葬された。

この葬儀に、昭和天皇は出席しなかった。これは天皇が親王など「目下」の者の葬儀に出御した前例がなく、皇室喪儀令(廃止されたが、基準となっている)にも規定がないため、天皇が出席することで仰々しくなり秩父宮の遺志に副わないとの懸念から、出御を断念したものである[14]。ただし、天皇・皇后は何度も、遺骸と対面し、翌13日には墓へ参拝している。また秩父宮存命時の見舞いも、天皇が見舞うのは危篤の場合のみという前例から、結局果たせなかった。

42年後の1995年(平成7年)8月25日に、勢津子妃の薨去により秩父宮家は絶家となった。

栄典