織田氏
家紋
織田瓜おだうり
本姓 桓武平氏資盛流
藤原北家利仁流?
忌部宿禰?
種別 武家
華族子爵
出身地 越前国織田庄
主な根拠地 尾張国 ほか
著名な人物 織田敏広
織田敏定
織田信秀
織田信長
織田有楽斎
織田信忠
織田信雄
織田孝一
支流、分家 津田氏武家
凡例 / Category:日本の氏族
家紋・揚羽蝶
家紋
揚羽蝶あげはちょう

織田氏(おだし)は、日本氏族武家斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「」、大和守家の「」、後に近世大名となる弾正忠家の「」など。

概略

織田一族の発祥地は越前国織田荘(現・福井県丹生郡越前町)にある劔神社である。本姓藤原氏藤原北家利仁流?、のちに桓武平氏資盛流を称する)。実際は忌部氏の流れを汲むとされる。甲斐氏朝倉氏と同じく、三管領斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。室町時代尾張国守護代を務める。戦国時代には一族同士の争いの結果、弾正忠家織田信長が勢力を大きく広げた。しかし、天下統一を目前に本能寺の変で信長および嫡子の織田信忠が討たれると織田家有力家臣の勢力争いとなった。最終的に羽柴秀吉が織田家中を纏めたが、織田家当主とされた織田秀信成長後も政権は織田家に返されることはなかった。しかし織田家の本国である岐阜城は返却され美濃の領主とされた。関ヶ原の戦いで西軍についたことで徳川家康により織田秀信が改易され、5年後の彼の死を以って織田家嫡流は断絶したと言われている。しかし、織田信長の次男である織田信雄を筆頭に弾正忠家の庶流は存続し続け、江戸時代には外様の小大名や高家旗本尾張藩明石藩家老などとして存続した。なかには藤掛氏津田氏のように織田を称しない一族もいる。現在でも直系子孫が続いている。

明治維新後、大名の織田家四家が子爵に列した。

出自

織田氏は系図の上では平資盛の子と自称する平親真の子孫と称している。しかし、福井県越前町織田法楽寺で発見された親真を供養した五輪塔の一部には「喪親真阿聖霊(あしょうりょう)正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、つまり親真は正応3年(1290年)2月19日に亡くなったと刻印されており、『信長記』(小瀬甫庵)などの文献と照らし合わせると親真が100歳を超える寿命になり信憑性が問われる[1]。ただし資盛の親戚である四条貞子のように100歳以上の長寿もいないわけではないので真実はわからない。

この他、越前国織田荘福井県丹生郡越前町)の織田剣神社神官の出自であるともされている[2]

また、福井県郷土史家である松原信之の研究によると、織田剣神社にある『藤原信昌・兵庫助弘置文』の古文書で、明徳4年(1393年)の6月17日に剣神社宝前に奉納し、置文を記した鎮守府将軍藤原利仁(あるいは利仁の岳父で、敦賀郡の豪族藤原有仁忌部氏?))の系統と思われる藤原信昌藤原兵庫助将広常松?・常竹?)父子が越前織田家の先祖に関連がある人物と伝わる。事実として織田信長は「藤原信長」と称しているが、その根拠はここから来ており、元東京帝国大学史料編纂官の博士・田中義成の研究によると、信長は実際に天文18年(1549年)11月、熱田八ヶ村の熱田神宮で自ら「藤原信長」と認(したた)めていると述べている(『加藤文書』より)。また、天文23年(1554年)6月11日、織田信長は熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。その絵巻には「藤原織田勘十郎」と記してある。

また、他の学説としては、親真自身が忌部氏の出自とする説もある。

なお、「織田」の読み方について、『寛永諸家系図伝』仮名本の振り仮名を根拠として当時(江戸時代前期)には「をた(おた)」と読まれており、織田信長も生前は「おたのぶなが」と清音で読まれていた可能性があるとする橋本政宣の見解がある[3]

建武の新政 〜 安土桃山時代

斯波氏の重臣

元弘3年(1333年)、建武の新政において足利高経(斯波高経)が越前国の守護に補任されて以降、越前守護職は斯波氏が世襲していくこととなり、越前の国人であった織田氏も暫時その被官層に組み込まれていったと考えられる。

後に斯波氏は応永7年(1400年)に尾張守護を、応永12年(1405年)に遠江守護をそれぞれ加えられると、斯波氏の筆頭家臣であった執事甲斐氏が越前守護代と遠江守護代を兼任し、織田氏は尾張守護代を世襲するようになった。織田氏の最初の守護代は織田将広の子の織田常松(織田教広)[4]であるとされ、この頃より織田一族は越前から尾張へ移住していったものと見られる。斯波家中においては、将軍直臣扱いで室町将軍の御成を受ける程の家格を誇った甲斐氏に次ぐ序列二位であり、宝徳3年(1451年)、織田郷広を8代将軍足利義政自らが赦免して尾張守護代へ復帰させようとした問題は、義政の母日野重子が出奔して抗議する程の事件となった。

尾張守護代を世襲した織田氏惣領家は代々伊勢守を称したため伊勢守家と呼ばれ、主君である斯波氏とともに在京生活を送って中央政界での権力闘争に終始し、尾張には在国の又守護代(守護又代とも)として、代々大和守を称する一族(大和守家)を配置して統治を行っていた[要出典]

なお、室町将軍のブレーンであった醍醐寺座主・満済の日記(『満済准后日記』)によれば、正長元年(1428年)8月6日、織田常松は病に侵され危篤状態にあったとされ、満済が常松の許に見舞いの使者を送った際、織田弾正という者が応対したという記述があり、これが織田弾正忠家(後述、織田信長の家系)の史料上の初出と見られている。

応仁の乱と織田氏の分裂

織田氏の主君である斯波氏は7代当主の斯波義淳の没後、8代義郷・9代義健と短命の当主が続き、家中の実権は執権の甲斐氏をはじめ織田氏・朝倉氏などの重臣層と、斯波一族の大野家などが握っていた。やがて重臣層と一族衆の対立が深刻化し、寛正6年(1465年)には重臣層が推す渋川義鏡の子義廉と大野家出身の義敏が家督を巡って対立する武衛騒動が起こることとなった。

この争いが将軍家・畠山氏の家督相続と連動したため、応仁元年(1467年)の応仁の乱が勃発、義廉と甲斐氏や織田氏などの主だった重臣層は西軍となり、義敏と斯波一族、そして一部の重臣やその庶流は東軍となり争った。この時、義廉は京都で西軍の主力として戦い、義敏は守護職回復を狙って越前で戦っている。また義敏の子義良(義寛)は尾張に居たと思われ、文明7年(1475年遠江国は東軍である駿河守護今川氏の侵攻を受け、同じく東軍であった遠江守護代甲斐敏光とともにこれを防ぎ、今川義忠を敗死に追い込んでいる。しかし、越前国では西軍から東軍に寝返った朝倉孝景が越前守護を称して西軍の勢力を越前から一掃していき、さらに文明13年(1481年)頃までには朝倉氏は同軍であり主君でもある義敏・義良親子の勢力も駆逐してしまった。この間、義廉も将軍足利義政の不興を買って管領職・三ヶ国守護職・斯波氏家督の全てを剥奪され、都落ちを余儀なくされている。

尾張国では、守護代の織田敏広(伊勢守家)が西軍ということもあって西軍の優勢な地域であった。この頃、尾張の守護所が下津城(中島郡)から清洲城(春日井郡)に移されたという。このため都落ちを余儀なくされた義廉も尾張へ落ち延び、敏広とともに勢力の巻き返しを図ることとなった。しかし、応仁の乱が終結した翌年の文明10年(1478年)、東軍であった尾張又守護代・織田敏定(大和守家)が室町幕府第9代足利義尚から正式な尾張守護代と認められると、敏広と義廉は兇徒と断じられて討伐対象に指定されて清洲城を追われた(義廉は以後の記録には見えなくなる)。しかし、伊勢守家は、織田敏広の岳父であった美濃国斎藤妙椿(旧西軍)の支援を得て盛り返し清洲城を包囲した。この時、織田敏定は右目に矢を受けたという。

翌文明11年(1479年)、再三の幕府の介入により、織田敏広と斎藤妙椿は清洲城の包囲を解き、尾張上四郡(丹羽郡葉栗郡中島郡春日井郡)を伊勢守家、尾張下四郡(愛知郡知多郡海東郡海西郡)を大和守家が治めることで和睦したとされる(しかし、実際には知多郡と海東郡は一色氏が分郡守護であった)。文明13年(1481年)3月に伊勢守家は大和守家と争って勝利した。織田敏広の後を継いだ寛広は斯波義寛(義良)に帰順した。文明15年(1483年)には京から尾張に下向した斯波義寛が清洲城に入城し、守護・斯波義寛、守護代・織田敏定の体制で尾張はひと時の安定期を迎えた。

守護・義寛のもとで安定化した尾張であったが、長享元年(1487年)に近江守護・六角高頼攻め(長享・延徳の乱)が起こると義寛は両織田氏を率いて将軍の元に参陣した。延徳3年(1491年)には、斯波氏の織田敏定、赤松氏浦上則宗の両名は、第10代将軍足利義稙から戦功を評され剣が与えられている[5]。また、その後の六角氏との簗瀬河原での合戦でも幕府の主力として織田敏定、浦上則宗、若狭武田氏の逸見弾正の名が見える[6]。義寛は将軍家に越前侵攻の支援を望んでいたが、明応2年(1493年)の明応の政変により越前奪還の夢は完全に潰えることとなった。

斯波氏の失脚

明応3年(1494年)に美濃守護土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、織田寛広(伊勢守家)は斎藤妙純方に付き、石丸利光方に付いた織田敏定・寛定父子(大和守)がそれぞれ陣没・戦死するなど尾張国内が乱れたため、遠江も駿河守護の今川氏親の配下であった北条早雲の侵攻を許すこととなった。以降の斯波氏は今川氏との長い抗争に終始することとなる。なお、船田合戦終結の翌年、斎藤妙純も近江で戦死したため、伊勢守家は後ろ盾を失い急速に勢力を失った。

その後、斯波義寛の後を継いだ義達は遠江奪還のための遠征を繰り返したが、この際の義達の軍勢に織田氏は従軍しておらず、一連の遠征は織田氏にとって決して賛同できるものではなかったと思われる。このため永正10年(1513年)にはついに守護代・織田達定が守護・義達に叛旗を翻したものの、義達によって返り討ちにされてしまった。守護代の下剋上を阻止した義達はなおも遠江遠征を続行させるものの、永正12年(1515年)に決定的な敗北を喫して捕虜となり尾張へ送還されたために失脚し、わずか3歳の斯波義統が当主となり、斯波氏の権威は失墜した。

  • 清洲織田氏(大和守家)
    • 織田常竹(尾張又守護代)
    • 織田五郎(尾張又守護代)
    • 織田久長(尾張又守護代)
    • 織田敏定(尾張又守護代 → 尾張守護代)
    • 織田寛定(尾張守護代)
    • 織田寛村(尾張守護代)
    • 織田達定(尾張守護代)
    • 織田達勝(尾張守護代)
    • このような中で急速に台頭を果たしてきたのが、清洲織田氏の三家老の一つ、織田弾正忠家の織田良信信定父子であり、海東郡津島に居館を構えて交易を押さえ、海西郡や中島郡を侵食して勢力を伸ばし、勝幡城(海東郡、中島郡)などを築城した。大永7年(1527年)、織田信定がその子の織田信秀に家督を譲った頃には弾正忠家は主家を凌ぐ力をつけており、今川那古野氏今川氏豊から那古野城(愛知郡)を奪うなど信秀は更に勢力を拡大し、美濃国では斎藤道三と、三河国では松平清康広忠や、駿河守護の今川義元と抗争した。

      その子・織田信長は、父の没後に起こった織田家の内紛を鎮める一方で、名目上の主君であった斯波義統が守護代・織田信友により殺害されると、斯波義銀を奉じて清洲織田氏(大和守家)を滅ぼし、更に岩倉織田氏(伊勢守家)も滅ぼし、後に斯波義銀も追放した。さらに尾張へ進出してきた今川義元桶狭間の戦いで破り、尾張知多郡や三河碧海郡を擁する水野氏や、岡崎城を中心に三河一帯を制した徳川氏と同盟を結び、さらに甲斐国の武田氏とも友好的関係を築いた。

      信長はこうした外交的安定を背景に美濃・伊勢へ勢力を広げ、上洛し将軍・足利義昭を擁立する。信長は義昭と連携し中央政権としての影響力を誇示していたが義昭はやがて独自性を強め、近江国浅井長政越前国朝倉義景、さらに本願寺甲斐国武田信玄ら反信長勢力を迎合し信長に対抗する(信長包囲網)。元亀年間には武田信玄西上作戦を行い遠江・三河へ侵攻するが信玄の死去により作戦は中止され、反信長勢力は各個撃破され、将軍義昭は山陽道備後国へ追放され、室町幕府の滅亡により織田政権が樹立される。

      その後も信長は家臣を各方面へ派兵して統一事業を進めるが、天正10年には本能寺の変において家臣の明智光秀に攻められ自害。この際、信長の嫡男で織田氏の当主であった織田信忠二条城で自刃したため、政権の中核となるべき人物を失った織田政権は崩壊した。

      • 勝幡織田氏(弾正忠家)
        • 織田敏信(清厳)?
        • 織田良信(材厳)?
        • 織田信定(月厳)
        • 織田信秀(桃厳)
        • 織田信長(泰厳)
        • 織田信忠(仙厳)
        • 信忠(信長嫡男)の末裔

          本能寺の変の後、清洲会議での決定により信忠の嫡男・秀信(三法師)が織田宗家(織田弾正忠家の宗家)を継いだ。実権は羽柴秀吉に奪われたものの、その後秀吉から祖父・織田信長のかつての居城であった岐阜城13万3千石を与えられ、大名に取り立てられた。また、秀吉の旧主でもあったため貴人として遇され、官位は中納言まで昇進し岐阜中納言と呼ばれ、豊臣政権を構成する有力な大名の一人となった。

          しかし、秀信は関ヶ原の戦いで西軍に属して戦ったために改易され、身柄は高野山へ送られた。そして、秀信の死をもって織田信長の嫡流の断絶ということになった。このことから織田家嫡流は徳川家康により滅ぼされたともいえる。

          なお、『江源武鑑』(一般的には偽書とされる)では秀信に娘がいたとしており、その娘と六角義郷の間に氏郷が生まれたという。また、嫡流男系が郷士西山氏や織田(おりた)氏として土着したという記録もあり、これが事実であるとすると嫡流男系は正式な武士としての身分は失ったものの、士分の階層には留まり存続したことになる。以上の記述が正しいとするならば、信長の嫡流男系と嫡流女系は存続していたことになる。『寛政重修諸家譜』など、公的な系譜では秀信に子女はいなかったとしている。

          信雄(信長次男)の末裔

          本能寺の変以降、織田信長の血筋を引き継いで明治まで続いた系統は、主として次男信雄・七男信高・九男信貞の子孫である。信雄は小牧・長久手の戦いで徳川家康と組んで秀吉と戦うものの講和、服属するにいたった。小田原征伐の後に国替え(従来の109万石から家康の旧領130万石への転封)をめぐって秀吉と対立し、改易となった。ほどなく許されて、御伽衆として秀吉・秀頼父子に仕えた。長男・秀雄は父とは別に越前大野5万石を与えられたが、関ヶ原で西軍に属し改易となった。次男・重雄、三男・高雄は早世した。

          信雄自身も関ヶ原で西軍に与したため、いったん所領の1万8千石を没収された。大坂冬の陣の直前に大坂城から退去。豊臣家滅亡後には、大和国宇陀郡および上野国甘楽郡などで5万石余を与えられ、大名に復帰した。


          織田信雄の子孫は、四男・信良の系統が上野小幡藩、後に出羽高畠藩天童藩の2万石の大名となった。

          また、五男・高長の系統が大和宇陀松山藩3万1千石(のち2万8千石)、後に丹波柏原藩2万石の大名となった。信良の子・信昌の家臣団は、信昌の後見人という立場の高長が自ら宇陀松山を領有することに反対し、「宇陀も織田信良家(小幡藩)の所領である」と主張したが、幕府は高長の相続を認め、その代わり信良系を織田本家とした。

          宇陀松山藩主・織田高長の三男・長政は3,000石を分け与えられて分家し、交代寄合となり、その子孫は高家旗本になった。明治期から昭和期にかけて活躍した芸術家の織田一磨は直系の子孫である。さらに、長政の次男・信清は300石を分け与えられて分家し、旗本になった。

          信良系・高長系の両織田家ともに信長の末裔ということで、小藩でありながら幕府から準国主(国持並)[注釈 1]の優遇を受けた。しかし、江戸時代中期に、それぞれ明和事件宇陀崩れにより、陣屋(無城)大名に降格された。高長系織田氏は、家格引き下げだけでなく、さらに2万石へ減封となった。


          柏原藩織田家(高長系)[注釈 2]は以後も騒動や不祥事が続き、信旧信憑信守信古の四代にわたり藩主の地位をめぐるお家騒動(「秘命騒動」および「保野騒動」)が起きている。信貞の代で信長の男系は絶え、細川氏黒田氏などから養子が入る。また信民は、拝領した江戸屋敷に町人を住まわせて金品を受領していたのが発覚、下屋敷を没収される。

          天童藩織田家(信良系)は、財政再建に成功した隣藩・上杉家の助言を得て、米沢藩から淡水魚の提供と工匠の派遣、豪商からの資金提供[注釈 3]、などを受け、稚魚の養殖や将棋駒の製造、浮世絵の販売[注釈 4]、紅花の専売を始める[7]。手彫りの将棋駒や「左馬」の工芸品はのちに天童の特産品となる。

          その他、天童藩・柏原藩の両織田家は庶子には津田姓などを与え、家臣として分家させた。具体的には、宇陀松山藩主・織田高長の五男津田頼房の系統や高畠藩主・織田信浮の十男・津田長郷の系統などをあげられる。明治に入り、両家ともに華族となり、子爵を与えられた。

          天童藩最後の藩主で子爵・信敏の養嗣子(娘婿)となった信恒は「正チャンの冒険」で知られ、「正チャン帽」などの流行を産む。その後、彼の長男である織田信正、次男の織田信昭と引き継がれ、信昭の子である織田信弘へと続いている(女系一代挟むが信長の血筋である)。現在でも天童市との交流が続く。 また庶流の信和が21世紀に、人間将棋への参加や明智家の末裔との交流を行っている[8]

          柏原藩織田家の当主はコピーライター信孝である。歴史雑誌・ムック[9]に度々寄稿している。

          その他の信長の子の末裔

          信長の3男・信孝は、秀吉との抗争に破れたのち天正11年(1583年)に自害。4男・秀勝(於次丸)は、天正13年(1585年)に病死。5男・信房(勝長)は、本能寺の変では長兄の信忠と共におり、二条城で戦死した。信房の長男・勝良前田利長に仕え、600石を知行した。

          信長の6男・信秀から11男・長次までの息子たちは秀吉の家臣となった。しかし関ヶ原の合戦で、息子たちの多くは西軍に属して没落した。

          6男・信秀は、父信長より美濃の揖斐に所領を与えられた。秀吉が権力を掌握すると、近江国栗太郡[注釈 5]に移された。関ヶ原以前に死去。長男重治は理由不明ながら父の遺領を継げず、次男・虎法師も賊徒に殺害されてしまい、家は絶家となった 。

          7男・信高の系統は徳川幕府の旗本となり、後に高家旗本になった。近江国内で2,000石余りを領有し、9代・信真で維新を迎えている。フィギュアスケート選手の織田信成は、この家系の末裔と自称する。

          8男・信吉は、秀吉から近江国神崎郡および犬上郡で2千石[10]を与えられる。関ヶ原では西軍の大谷吉継に属し、主将吉継はじめ大半の同陣諸将が討ち死にしたものの、信吉は戦場を離脱した。戦後に改易となり、長男・良甫の子である吉雄は京極高国の家臣になった。

          9男・信貞も秀吉から近江国の神崎郡、蒲生郡内に1,000石の所領を与えられたが関ヶ原後に改易。長男信次は病気がちであったが、その子(信貞の孫)である貞幹は、尾張藩主・徳川光友に召し抱えられて、家老にまで抜擢された。また、貞幹の次男・長居は分家し、同じく尾張藩に仕えた。

          信貞の次男・織田貞置は、寛永元年(1624年)、父に代わって再び1,000石余が与えられ旗本(のちに高家)となった[注釈 6]。後に分知により700石余りに減った。

          貞置の3男・貞則、4男・貞輝は分家し、それぞれ旗本になった。静岡藩主・徳川家達に仕えた織田泉之は貞輝の子孫である。

          貞置の孫・津田長経は、高家織田家の嫡子であったものの、病気のために嫡子の地位を退き、近江国神崎郡河合寺村に閉居した。その子孫である織田瑟々津田貞秀の長女・政江)は江戸時代後期の画家として知られる。

          10男・信好も秀吉の家臣になり、のちに茶人となったが慶長14年(1609年)に病死。11男・長次は、関ヶ原では兄・信吉と同じく西軍の大谷吉継に属し、戦場から脱出できず戦死した。ほかに信忠の上に、庶長子信正がいたという説があるが、実在したかまた信長の実子か不明である[11]

          信長の弟の末裔

          織田信勝
          織田信長の弟・信行(信勝)の子孫は、2家が旗本になっている。信行の孫・昌澄藤堂高虎豊臣秀頼に仕え、豊臣家の滅亡後は近江国内に2,000石を与えられて、旗本に取り立てられた。その子・信高は三男・信英に500石を分け与え、旗本として分家させた。
          織田信包
          織田信長の弟・織田信包は、関ヶ原の戦いで西軍に属したものの、大名として存続を許された。丹波柏原藩[注釈 7]主となり、三男の信則が家督争いのすえに相続したが、孫・信勝のときに無嗣断絶した。ただし、改易に際して信包の四男・信当は幕府から3,000石を与えられて、旗本として召し抱えられた。
          なお、信包の長男・信重は父とは別家として伊勢林藩1万石を領有する大名であったものの、父の死後に弟・信則と遺領である丹波柏原3万6千石の相続争いをおこして、改易となった。その子孫は肥後熊本藩細川家の家臣になった。
          織田長益系(有楽流
          織田信長の弟で有楽斎こと織田長益は、関ヶ原の合戦で東軍に属し、加増されて摂津味舌3万石の大名となった(味舌藩)。ただし、戦後は大坂城にあって豊臣秀頼の補佐にあたった。豊臣家の滅亡後、長益は隠居し、四男・長政と五男・尚長に各1万石を分け与えた。長政の子孫は大和戒重藩芝村藩の藩主、尚長の子孫は大和柳本藩の藩主となった。
          また、関ヶ原の合戦後、織田長益の長男庶長子)・長孝美濃野村藩1万石の大名に取り立てられたものの、その子・長則のときに無嗣改易となった。ただし、長則の弟・長政の子孫は、加賀藩前田家の家臣になった。
          なお、長益自身が領有した(支藩を分与後の)味舌藩1万石は、次男(嫡男)・頼長の子である織田長好に継がせる予定であったが、届出を出さないうちに長益が死去してしまったため断絶した。
          長好は、有楽流宗家の再興を画策したが、父・頼長が「猪熊事件」への関与や「大坂の陣」での牢人衆との指揮権をめぐる紛争のあげく大坂城退去など、印象が悪かった点もあり実現しなかった。
          長益の子で残る三男・俊長だけは父と不和であり、強制的に出家させられたり、勝手に還俗して叱責されたりで長益から所領の分与が得られなかった。のちに肥前鹿島藩主の鍋島直朝に仕えたという[注釈 8]
          柳本藩織田家(尚長系)は、宝永6年(1709年)、秀親朝廷からの使者の御馳走役と同僚への指南役を命じられるが[注釈 9]、同役への指導が厳しく[注釈 10]前田利昌の恨みを買い刺殺された。秀綿の代には、明和6年(1769年)1月には百姓が重税に反対して強訴を起こす。享和2年(1802年)12月にも百姓による年貢軽減を求める一揆が発生し、織田軍と百姓との間で乱闘による死傷者が多数出ている。さらに文政13年(1830年)には原因不明の火事により柳本屋敷が全焼する。幕末には信陽が無城から城主格に昇進した。維新の動乱期には、信成は再三にわたって上洛延期を申請し、様子見に徹した。
          芝村藩織田家(長政系)は、輔宜の代に幕府領13000石を預けられる。長教の代には預かり地9万3430石を任されるようになった。自領と合わせ10万石を超え織田家としては、岐阜13万石で関ヶ原東軍主力を迎え撃った織田秀信以来の広大な統治領域である。ところが、年貢増徴に対して預かり地における百姓一揆が頻繁に発生し、遂には百姓たちが芝村藩を批判して織田家からの預かり地撤回を奉行所に要求するに至った(「芝村騒動」)。さらに寛政6年(1794年)に芝村藩の代官による不正が発覚し、全ての預かり地召し上げと藩主に差控の処罰を受けた。
          藩内においても、明和5年(1768年)末には年貢減免を求める強訴が発生する。安政6年(1859年)には藩の借金は銀2693貫(金換算で5万両。五公五民の1万石大名では、年貢の10年分に相当)という莫大なものになったと言われている。幕末に長易は尊王攘夷の過激派である天忠組追捕の功績を挙げたが、その後は日和見的な態度になっている。
          凡例
          実線は実子、点線は養子、太字当主、□は名不詳。
          ※ 著名な事蹟がない人物、傍系の人物については掲載されていないこともある。
          

          信長公記による系譜[

          信長公記以外に基づく系譜

          系図には諸説あるため併記する

          尾張守護代家

          『清洲町史』の信長以前の織田氏系図(推定)。藤原将広と織田常松を同一人物とし、織田常竹をその兄弟としている。

          因幡守家

          弾正忠家(勝幡織田氏)

          勝幡系織田氏

          織田信雄系統

          織田長政系統(信雄系統の分流)

          織田信勝系統

          織田信包系統

          織田信貞系統

          楽田城の織田氏