日本の旗 日本政党
自由民主党
Jimin Honbu at Tokyo in 2018.jpg
自由民主党本部
総裁 安倍晋三
副総裁 空席
幹事長 二階俊博
参議院議員会長 橋本聖子
成立年月日 1955年昭和30年)11月15日[1][2]
前身政党 自由党[注 1]
日本民主党
本部所在地
〒100-8910
東京都千代田区永田町1-11-23
北緯35度40分42.6秒 東経139度44分29.1秒 / 北緯35.678500度 東経139.741417度 / 35.678500; 139.741417
衆議院議席数
282 / 465   (61%)
(2018年11月11日現在)
参議院議席数
124 / 242   (51%)
(2018年11月1日現在)
都道府県議数
1,266 / 2,614   (48%)
(2017年12月31日現在[3]
党員・党友数
1,068,560人
(2017年12月31日現在[4]
政治的思想・立場 中道右派-右派[要出典]
保守主義[注 2][5][6][7][8][9]
国民保守主義[10]
社会保守主義[11]
自由保守主義[12][13]
伝統保守主義[14][15]
新憲法制定[注 3][5][18]
経済的自由主義[19]
保守的自由主義[20]
反共主義[21][22]
機関紙 自由民主[23][24][25]
政党交付金
176億0296万8000 円
(2017年11月21日決定[26]
公式サイト 自由民主党
シンボル ロゴタイプ
陰十四菊
シンボルマーク「明るい太陽のもとで、自由にのびのびと暮らす人びと[27]
党歌「我ら」[27]
法人番号 4010005002276
テンプレートを表示

自由民主党(じゆうみんしゅとう、英語: Liberal Democratic Party of Japan)は、日本の政党である[7]。略称は自民党(じみんとう)[6][8]自民(じみん)[28]LDP[8][29]。1字表記の際は、と表記される[28]1955年の結党以来、政権与党の座にあり続け、世界的にも稀な一党優位政党制の中核にあったが[6]1993年平成5年)に自民党と共産党以外の政党による連立政権に政権を奪われた。翌1994年に自社さ連立により政権を奪還。2009年民主党を中心とする連立政権である民社国連立政権に再び政権の座を奪われたが、2012年に公明党との連立により政権を奪還し、現在(2018年)まで、自民党と公明党の連立政権が続いている[30]

概要

1955年昭和30年)に自由党日本民主党の「保守合同」により結成された保守政党[8]太平洋戦争大東亜戦争)前の二大政党立憲政友会立憲民政党を遠い起原とし[2]、戦時中の翼賛政治の中核を担った会派である翼賛議員同盟翼賛政治会大日本政治会(以上3会派は日本進歩党の前身)及び翼賛政治に批判的な会派である同交会(日本自由党の前身)と護国同志会(日本協同党の前身)、また敗戦直後に結成された日本自由党日本進歩党日本協同党の流れを汲む。

党の運営は永らく執行部の権力が弱く、ベテラン政治家が「派閥」を形成してその派閥間での駆け引きで政治が行われることが常態化していた。これは、一つの選挙区に複数候補を立てる必要のある中選挙区制が採用されていたためである。同じ選挙区の同僚議員は、同じ政党でありながら当選を競い合うライバルであった[注 4]。立候補者は党本部の応援を独占することができず、選挙区で個人の後援会を組織したり、さらには大物政治家の派閥に加わり、平時はその政局の駒となるのと引き換えに選挙においては派閥の援助を受けた。互いに有権者の歓心を買うため、金権政治の温床ともなった。日本では55年体制で野党第一党であった日本社会党[注 5]マルクス・レーニン主義社会主義を主張していたため、西欧で左派第一党として広く見られた社会民主主義を主張していた政党は日本には存在しなかった。しかし、自民党は貧しい地域や地方に補助金分配と公共事業を行い、護送船団方式で規制を設けることなどで様々な業界を保護してきたことによって、都市部の国民から支持を失いながらも、西欧と異なった方法で相対的な平等が一億総中流国家として達成された[独自研究?]日本の経済成長を牽引しながら都市から地方への分配政策を行っていたとして[要出典]「戦後の自民党体制は成功した社会主義であった」との皮肉もある[31]

党章は、陰十四菊の中央に「自民」のモノグラム。広報宣伝用として「明るい太陽のもとで、自由にのびのびと暮らす人びと」と名づけたシンボルマークを用いている。また、かつては緑色の象をシンボルマークにしていたこともある。

自民党は多数の政治家を輩出しており、90年代以降の政界再編で非自民勢力の大物政治家であっても、元をたどれば自民党出身者が多い。内閣総理大臣では細川護熙羽田孜鳩山由紀夫、その他では岡田克也小沢一郎亀井静香などである。

党名

党名は1955年(昭和30年)11月、党結成に際して作られた「新党結成準備会」の「党名委員会」によって広く党内外から公募された。全国から 2,191通もの応募があり、多かった案から順に「日本保守党」が546通、「民主自由党」と「保守党」が同数で187通、「日本国民党」が159通であった[32]。最多となった「日本保守党」については「これでは選挙に不利だ」[33]などの意見が出て採用されず、党内で話し合われた結果、自由民主主義を最も端的に象徴する「自由民主党」が党名となった。

菅直人鳩山由紀夫が結党した旧民主党小沢一郎の作った自由党が登場した後は、党の正式名称である「自由民主党」を使うと混同される恐れがあるため[要出典]、略称の「自民党」または「自民」を使う頻度が増えていくようになった。機関紙も、それまでの『自由新報』から『自由民主』に改題した[24]

野党となった2009年(平成21年)9月、党の政権構想会議で「自由民主党」に「世論の拒否反応がある」との理由で党名変更論が出た[34]。「和魂党」「自由新党」などの新党名が提案されたが、批判が相次いだため結果として改名はされなかった[35][36]

党史

結党と55年体制成立

1955年自由党日本民主党保守合同による自由民主党結成大会。

1950年代当時、日本の政党は保守・革新両勢力ともに分立状態にあった。戦後の保守政党は戦前の政友会民政党の系譜を踏みながら複数の政党として再建され、「保守合同」が何度か模索されながらも実現に至らなかった[37]1955年(昭和30年)、4年のあいだ左派右派に分裂していた日本社会党が先んじて再統一で合意したことから[1]保守勢力にも統一した保守政党が急務という声が高まり、社会党再統一に危機感を覚えた財界の圧力もあって保守合同が実現した[37]自由党日本民主党は、両党の公認だけで当時の定数(467)を上回る534人が立候補しており、両党の共倒れを避けることも目的の一つだった。

政治学者北岡伸一によると、政党発足当初は吉田派・反吉田派、党人派官僚派、戦前派・戦後派など複雑な派閥対立要素が絡んでいたため、保守合同の立役者となった三木武吉は「10年も一党体制を維持できればマシな方だろう」という程度の認識だったという[38]自由民主党の派閥は、結党時は8派閥が存在し、「八個師団」と称された。

結党から最初の総選挙となった1958年(昭和33年)の第28回総選挙で、自民党は追加公認を併せ298議席を獲得(定数467)。社会党は同じく167議席で、両党で議席の99%以上を占めた[注 6]。こうして自民優位の二大政党制である、55年体制が成立した[注 7]

なお、結成直前の1954年(昭和29年)から1964年(昭和39年)まで、アメリカ合衆国(以下米国、具体的にはホワイトハウスおよびアメリカ合衆国国務省)の反共政策に基づいて中央情報局(CIA)の支援を受けていたことが後年明らかになった[39][40][41]。CIAは、日本に社会党政権が誕生するのを防ぐことを目的に自民党に金を渡し、さらに選挙活動に向けたアドバイスを行っていた[41]。現在米国政府はこの事実を認めているが、他方で自民党はこれを否定している[41]

高度経済成長と党安定期

1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)に渡って岸内閣のもとで繰り広げられた安保闘争によって政治運動が盛り上がり、与野党の対立が深刻化したが、岸内閣が退陣した後、自民党は「経済のことはこの池田にお任せください」と言う池田勇人総裁のもとで、経済政策を重視する路線転換を行った。また、安保闘争から間もない1960年の第29回総選挙では、社会党と民社党の分裂の間隙を縫って議席を増やした。そして、「所得倍増計画」が策定されて日本は高度経済成長を遂げていくようになり、外交をめぐる政治運動は退潮していくようになった。また、池田内閣は国会運営面で「話し合いの政治」の方針を掲げて野党との融和を図り、政局が安定していくようになった。

1963年(昭和38年)10月に党組織調査会会長であった三木武夫が党近代化に関する答申(いわゆる三木答申)を取りまとめた。派閥の弊害について述べており、派閥の解消や政治資金を党に集中化させる答申であったが、総裁の池田は「三木答申なんぞはクソくらえだ。あんなもの何の意味もない」[42]オフレコで述べるなど各派閥にとって受け入れがたい内容であった。ただ、派閥は形だけではあるが一旦すべて解散した[43]

1964年、池田は病気に伴い総理総裁の辞任を表明し、後継に佐藤栄作を指名した。同年には大野伴睦が死去しており、翌1965年(昭和40年)7月には河野一郎が死去、病気療養していた池田も同年8月に死去、と相次いで佐藤のライバルであった党内実力者が減ることとなった。1966年(昭和41年)には黒い霧事件と呼ばれる不祥事が続出して、自民党は批判にさらされ、1967年(昭和42年)の第31回総選挙では不利が予想されたが安定多数を確保した。佐藤内閣は「人事の佐藤」[44]と呼ばれた佐藤が自民党内を巧みに掌握し、総裁四選を果たす中で、日韓基本条約の成立、公害対策の実施、沖縄返還などの政策を実現して、1972年(昭和47年)7月まで7年8か月の長期政権を維持することとなった。

結党から1960年代の終わりまでの時期は、自民党は毎回候補者を減らし、得票率も少しずつ減少させる守りの選挙だったが、全体として安定期であった。また、地方の建設業界に対して一定の公共事業を発注するなど特定利権は生じるものの、いわゆる「均衡ある国土発展」と呼ばれる、富の再分配政策を行って地方の経済を回していくことを重視し、「一億総中流」を唱えるなど平等を重視する保守本流派が主流となって、農山漁村や地方小都市など地方を支持基盤としてきた。一方、新住民層が多い大都市やそのベッドタウンでは比較的弱く、社会党や共産党と票の奪い合いが続いていた。しかし、社会党は離党者による民主社会党の結成や公明党・共産党の台頭で都市部の地盤を失い、それに比べると自民党は比較的地盤を守った。

保革伯仲と党内抗争

佐藤長期政権後に行われた1972年自由民主党総裁選挙では党の実力者で、いわゆる三角大福と呼ばれた三木武夫田中角栄大平正芳福田赳夫の四人が立候補し、日本列島改造論日中国交正常化を掲げた田中が総理総裁に就任した。田中内閣は成立早々の1972年(昭和47年)9月には日中共同声明を発表した。この動きに対して、1973年(昭和48年)7月には派閥横断でタカ派の政策集団である青嵐会が結成され、青嵐会は日中国交正常化反対の立場を取って活動した。

田中内閣は日本列島改造論を基礎とした、高速道路建設や新幹線整備など公共事業費を増額した1973年度予算を編成した。しかし、同年10月にはオイルショック(第一次石油危機)が起こり、のちに狂乱物価と呼ばれたインフレーションが発生して日本経済は混乱状態に陥った。田中は同年11月にはライバルで均衡財政志向であった、福田を蔵相に任命して対応に当たらせた。福田は予算の圧縮、金融引締めなどを本格的に行うようになり、田中内閣は需要喚起政策から需要抑制策政策へと政策転換をしていくようになった。1974年(昭和49年)には、日本は戦後初めて経済成長率がマイナスとなった[45]1975年(昭和50年)には経済成長率はプラスとなったものの、この頃を境に、日本は高度経済成長時代から安定成長時代に移行していくようになった。

1974年7月の第10回参院選では過半数の議席を維持したものの、与野党の議席数の差がわずかとなり、保革伯仲と呼ばれる時代となった[46]。同年12月には田中金脈問題で田中は総理総裁を辞任した。田中の後継総裁選挙は行われず、自由民主党副総裁椎名悦三郎による指名(いわゆる椎名裁定)と両院議員総会の承認により三木武夫が総理総裁に就任した。三木は党の近代化や政治浄化、不況の克服を掲げた。

1976年(昭和51年)2月にはロッキード事件が発覚した。同年6月には党所属の河野洋平山口敏夫ら6人の国会議員が離党し、「腐敗との決別」をキャッチフレーズとした新自由クラブを結成した。同年7月には東京地検特捜部が田中角栄を逮捕し、田中は自民党を離党した。総理大臣経験者の逮捕は党内外に衝撃を与えた。同年8月には田中は受託収賄罪外為法違反容疑で起訴された。三木や法務大臣の稲葉修はロッキード事件解明に積極的な立場を取ったが、党内は反発し、三木おろしの動きが強まった。党内の動きに対して三木は対抗し、反発する閣僚を罷免して衆議院を解散する構えを見せたが、結局、任期満了まで解散しなかった。同年12月に行われた第34回総選挙で自民党は結党以来初めて過半数割れ(後に無所属議員の追加公認で過半数は確保した)となった。三木は選挙の責任を取り、総理総裁を辞任した。以降国会は与野党伯仲の不安定状態が続いた。さらに田中は離党しながらも最大派閥のオーナーとしてふるまい続け、のちの政治改革運動と、自民党の下野につながってゆく。

1976年12月に福田赳夫が執行部による推挙と両院議員総会の承認により総理総裁に就任した。この際には福田が先に総理総裁を一期だけ務めた後、大平に交代することを示唆した大福密約があったとされる[47]福田内閣は当初、内閣支持率は低かった[47]が、景気回復や外交で成果を上げていくようになった。また、伯仲国会という状況下ではあったが執行部が野党の一部に対して部分連合を呼びかけるなど協調的でもあり、それほど問題とならなかった。なお、自民党は1977年(昭和52年)に党員、党友参加による総裁選の導入を決めた。また、党友組織の自由国民会議も結成した。さらに派閥解消が唱えられ、各派閥は形だけではあるが解散した[48]1978年(昭和53年)の自民党総裁予備選挙に福田は大福密約を無視して立候補するも、田中派の支持に支えられた大平が勝利し、福田は本選進出を辞退し、大平が総理総裁に就任した。

大平は、1979年(昭和54年)10月の第35回総選挙一般消費税の導入を公約として掲げたが、自民党は前回の衆議院議員総選挙に続いて過半数割れとなった。党内で大平の責任が追及されたが、大平は辞任要求には応じず、選挙後の首班の座を巡って事実上の党内分裂状況に陥った。特別国会での首班指名選挙の投票の結果は僅差であったが大平が勝利した。同年11月の第2次大平内閣の発足で一旦、抗争は収まったがこの抗争は後に四十日抗争と呼ばれた。

1980年(昭和55年)5月16日、社会党が、衆議院に大平内閣不信任決議案を提出した。自民党内で反主流派となっていた三木派福田派などの議員69人は本会議を欠席して不信任決議案は可決され、史上初の衆参同日選挙となった。なお、この解散劇は予測に反したハプニング的な解散であることからハプニング解散と呼ばれた。総選挙が公示された5月30日に大平は心筋梗塞の発作を起こして入院し、選挙期間中の6月12日に急死した。6月22日に行われた衆参同日選挙の結果は大平が死去したものの自民党の勝利となり、衆参ともに過半数の議席を確保し安定多数を得た。大平の後継の総理総裁には大平派鈴木善幸が就任し、「和の政治」を掲げて党内融和に尽力し、行財政改革に取り組んだ。

二重権力構造と保守回帰

1980年代に入ると、革新自治体も減少し、都市部を中心に自民党への回帰現象が起こった。

1982年(昭和57年)11月の党総裁選挙に鈴木善幸は立候補せず、中曽根康弘河本敏夫安倍晋太郎中川一郎の4人が立候補した。党員党友参加による予備選挙で中曽根康弘が過半数を超える票を獲得したため、2位以下の候補は本選挙を辞退し、中曽根が総理総裁に就任した。中曽根派は小派閥であり、党内基盤が弱く、党総裁選挙では党内最大派閥である田中派の力を借りる形になった結果、田中派の議員は党と内閣人事で主要ポストを占めて優遇されたため、第1次中曽根内閣は田中角栄の影響力の強さをマスコミや野党から指摘され、「田中曽根内閣」や「直角内閣」などと呼ばれた[44]

中曽根はスローガンとして「戦後政治の総決算」を掲げた。具体的には行政改革公社民営化規制緩和、民間活力の活用などの新保守主義的な政策を打ち出した。また、教育改革国防の見直し、靖国神社公式参拝問題などの点で保守的な言動を行った。外交面では1983年(昭和58年)1月の訪米の際でのロナルド・レーガン大統領との会談で「日米両国は太平洋を挟む運命共同体」と発言するなど日米関係強化に努め、冷戦下での西側諸国の一員としての立場を明確に表明した。

1983年(昭和58年)10月12日、東京地裁はロッキード事件に関して田中角栄に有罪判決を下した。野党は田中に対して議員辞職を求めたが田中は議員辞職を拒否し、国会は紛糾した。野党は国民の審判を求めて衆議院解散を要求した。田中も有罪判決後早期の選挙による決着を図った。結局、衆参両院議長のあっせんもあり、中曽根は衆議院を解散した(田中判決解散)。同年の第37回総選挙で公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割る(これまで同様、保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保)と、中曽根は「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する。政治倫理を高揚し、党体質の抜本的刷新に取り組み、清潔な党風を確立する」との総裁声明を発表した。12月27日、自民党は新自由クラブと連立政権(第2次中曽根内閣)を組んで安定多数を確保した。

1984年(昭和59年)に鈴木善幸福田赳夫らが、田中派大番頭の二階堂進を総裁に推す二階堂擁立構想が同じ田中派の金丸信によって潰されると、やがて田中派は分裂の兆しを見せ始める。ついに、1985年(昭和60年)2月に田中派内で竹下を支持する勢力が田中に反旗を翻す形で、派中派である創政会(のちの経世会)を結成した。田中は木曜クラブを離脱した竹下に対して「同心円でいこう」[49]と融和的発言を行ったが、同月、脳梗塞で入院した。田中は障害が残って政治活動は出来なくなり、かつての政治力を失った。代わって、田中派を離脱した竹下が金丸信の後ろ盾により、台頭するようになる。

中曽根主導の下、1986年(昭和61年)6月に国会は解散(死んだふり解散)され、7月の衆参同日選挙第38回総選挙第14回参院選)で自民党は追加公認込みで衆参それぞれ304議席(衆議院)、74議席(参議院)を獲得した。選挙後、特例で中曽根の党総裁任期一年延長が決まった。また、8月に新自由クラブは解党し、多くの党員は自民党に合流した。

1987年(昭和62年)10月の党総裁選挙ではニューリーダーと呼ばれた安倍晋太郎竹下登宮澤喜一のいわゆる安竹宮3人が立候補したものの、かつてのような激しい抗争を嫌った3人は話し合いをした結果、候補者一本化を中曽根に委ねた。結果として竹下を総裁にするという中曽根裁定が下った。なお、このとき皇民党事件が同時に進行していた。こうして中曽根内閣は日本電信電話公社日本専売公社の民営化、国鉄分割民営化、1987年度予算で防衛費1%枠撤廃するなどの政策を実現して4年11か月の長期政権を終えた。

1988年(昭和63年)7月の臨時国会竹下内閣消費税法案を含む税制改革関連六法案を提出した。同じ頃、リクルート関連会社であるリクルートコスモス社の値上がり確実な未公開株政界官界財界の多数の有力者や有力者の秘書、家族らに譲渡されていたとするリクルート事件が発覚した。野党は税制改革関連六法案の審議よりもリクルート問題の解明を優先すべきだと主張して、審議拒否や関係者の証人喚問等を要求し、国会はたびたび空転した。野党は法案採決の際に牛歩戦術などで抵抗し、12月9日には副総理兼蔵相であった宮澤がリクルート問題で辞任したが、12月24日に税制改革関連六法案は成立した。

1989年(昭和64年)1月7日には昭和天皇が崩御し、元号昭和から平成となった。

同年4月1日には消費税が導入されたが、同月に竹下は総理辞任の意思を表明した。5月22日に東京地検特捜部は中曽根派の藤波孝生をリクルート事件に関与した疑いで受託収賄罪在宅起訴し、藤波は自民党を離党した。5月25日に衆議院予算委員会は中曽根を証人喚問し、その後、中曽根は自民党を離党した。竹下の後継総裁には様々な候補が取りざたされたが最終的には後継総裁指名を一任されていた竹下と党四役はリクルート事件に関係がなく、外務大臣を務めていた中曽根派の幹部である宇野宗佑を推薦し、宇野も受諾した。6月2日、宇野は党両院議員総会の「起立多数」により総裁に就任し、6月3日には竹下内閣は総辞職した。

同年6月に宇野が総理総裁に就任するやいなや、宇野の女性スキャンダルが発覚した。宇野は女性スキャンダルに対して明確に否定することはなかった。7月の第15回参院選ではリクルート事件、消費税問題、農産物自由化問題のいわゆる三点セットが争点となり、自民党は逆風にあって当選者はわずか36議席にとどまり、敗北した。一方、土井たか子委員長率いる社会党は女性候補者を多数擁立してのマドンナ旋風を巻き起こし、改選議席の2倍を越す46議席を獲得して躍進した。参議院では与野党勢力が逆転(比較第一党は維持)、宇野は総理総裁を辞任した。

8月の総裁選挙には海部俊樹林義郎石原慎太郎の3人が立候補し、竹下派、旧中曽根派の支持に支えられた海部俊樹が過半数の票を獲得して総理総裁に就任した。海部内閣は少派閥である河本派の海部を党内最大派閥である竹下派会長の金丸信、派閥オーナーの竹下、党幹事長の小沢一郎のいわゆる金竹小3人が背後から操るという構造であり、「二重権力」と指摘された[50]

1991年(平成3年)9月、海部内閣は重要な政治テーマとなっていた政治改革について決着を図るべく、臨時国会にて衆議院の選挙制度に小選挙区制を導入する政治改革法案を提出した。しかし、9月30日、衆議院政治改革特別委員会理事会にて政治改革法案の廃案が決まった。この廃案決定に対して海部は「重大な決意で臨む」と発言して[44]衆議院を解散する構えを見せたが、党内の反発と、海部を支持していた竹下派の解散反対もあり、解散を断念した。海部は10月の党総裁選への立候補も辞退して退陣した。

55年体制崩壊と連立時代の到来

1991年(平成3年)10月27日、総裁選で宮澤喜一が勝利し、72歳にして総理総裁に就任した(参議院議員経験者としては初)。ところが1992年(平成4年)の東京佐川急便事件により国民の政治不信が増大し、自民党単独の長期連続政権による金権体質が度々指摘されるようになった。また、金丸信が失脚したことにより竹下派後継争いに敗れた小沢一郎と羽田孜らは竹下派後継の小渕派と袂を分かち、改革フォーラム21(羽田派)を結成した。

政治改革が必要との流れを受けて、宮沢内閣は政治改革関連法案の成立を目指したが廃案となった。折から三塚派若手の武村正義や、羽田派など、これに反発した自民党議員が大量に離党した。内閣不信任案が可決されて国会が解散となっての1993年(平成5年)の第40回衆院選では、自民党は解散時勢力を維持したものの過半数にはとうてい届かず、保守3新党(日本新党新生党新党さきがけ)が大勝した。また、55年体制の片割れである社会党は惨敗した。この結果、日本新党の細川護熙を首班とする非自民の連立政権が成立し、結党以来の自民党単独の長期連続政権に終止符が打たれた。宮澤はこの選挙結果を受けて総理総裁を辞任し、7月30日に行われた総裁選で渡辺美智雄を破って勝利した河野洋平が総裁に就任した。自民党が野党に転落すると、連立政権に移籍を図る議員が目立つようになった。その一方、細川内閣小選挙区比例代表並立制を柱とした政治改革関連法案の成立を目指し、1994年(平成6年)1月29日、自民党の要求を容れる形で修正案を可決した。

連立政権は細川、新生党の羽田孜と続いたが、いずれも長続きせず、連立政権内で新生党・日本新党・公明党と、社会党・さきがけの不協和音が大きくなっていた。そこで自民党は、社会党の村山富市委員長を首相に推す奇策で、1994年(平成6年)6月30日、社会党・さきがけとの連立政権として与党に復帰した。

1996年(平成8年)1月11日、自民党の橋本龍太郎首班となり、同年の第41回総選挙では、過半数にこそ満たなかったが239議席と復調。1996年(平成8年)に改革を訴える民主党の結成によって政権維持のために行政改革を迫られた橋本内閣では、大きな政府路線を志向する平成研究会(旧経世会)系議員と、小さな政府路線を志向する清和政策研究会(森派)系議員との間で不協和音が生まれるようになる。

旧非自民連立政権側は、主に新進党に集約されていたが、この情勢を見て、今度は新進党などから自民党に移籍・復帰する議員が現れ、自民党側も積極的に引き抜いた。その結果、1997年(平成9年)には総選挙を経ることなく過半数を回復。年末には新進党は解党し、1998年(平成10年)には社会・さきがけとの連立を解消し単独政権に戻った。

橋本政権下の経済政策の失敗により同年の第18回参院選で大敗し、参議院での過半数確保に失敗したことから、橋本内閣は総辞職、小渕恵三が後継となり小渕内閣が発足した。政権安定のため、1999年(平成11年)、小沢一郎率いる自由党(旧新進党小沢派)の政策を呑む形で自自連立を組み、その後10月に公明党との自自公連立政権を新たに組み、2000年(平成12年)には自由党の離脱で、自由党から分裂した保守党(後に保守新党)との自公保連立政権に変わった。この時期から公明党との本格的な選挙協力関係が始まった。小渕が病に倒れると森喜朗が後継となり森内閣が発足。しかし、森自らの度重なる失言やKSD事件などの不祥事もあり支持率は低迷、加藤の乱が勃発。その後、森内閣は総退陣に追い込まれ、山崎拓加藤紘一小泉純一郎YKK小泉内閣の樹立を達成した。

構造改革とねじれ国会

経済面では、1991年(平成3年)にバブル景気が終焉を迎える。冷戦が終結しグローバル化が急速に進展したことにより、従来型の官僚主導による利益分配的な政治手法が機能しなくなっていたが、経済政策を劇的に転換する事が出来ず、経済成長効果が小さかったとされる公共事業を軸とした膨大な財政出動を続け、国と地方も莫大な財政赤字を抱えるようになった。右肩上がりの経済成長を前提とした経済政策の転換を迫られることになり、そうした時代的要請から、2001年(平成13年)に小泉内閣が発足する。小泉純一郎は、公共事業の削減などにより政府の財政出動を抑制し、中央政府の権限を民間企業地方自治体に委譲すべきとする聖域なき構造改革を主張し、旧来の地方への利益分配により政党の支持基盤を磐石なものとしてきた大きな政府路線から小さな政府路線に政策を転換した。2003年(平成15年)に保守新党を吸収してからは、自公連立政権となった。

小泉は、国民的な人気を集め、小泉旋風と呼ばれる現象を引き起こす。発足時(2001年4月)の第1次小泉内閣内閣支持率は、戦後の内閣として歴代1位(当時)の数字となり、最も高かった読売新聞社調べで87.1パーセント、最も低かった朝日新聞社調べで78パーセントを記録した。「小泉内閣メールマガジン」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。こうした小泉人気に乗るかたちで同年7月の参議院議員選挙で自民党は大勝した。

小泉は、2002年(平成14年)9月に電撃的に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問し、金正日国防委員長と初の日朝首脳会談を実現させるなど積極的な外交にも取り組んだ。

2003年(平成15年)10月の第43回衆議院議員総選挙を控え、選挙前に小泉が中曽根康弘宮澤喜一両元首相に比例代表の73歳定年制を適用する方針を表明。83歳の宮澤は引退を表明した一方、85歳の中曽根が頑強に抵抗して話題となった。結局、中曽根はこれを受け選挙に出馬しなかった。結果、自民党と公明党、保守新党の与党3党で絶対安定多数を維持したものの、自民党は10議席を減らし、与党全体としては12の議席減となった(選挙後に保守新党は自民党に吸収されたため、自民党は単独過半数は確保している)。

2004年(平成16年)7月の第20回参議院議員通常選挙を控え、年金制度改革が争点となった。小泉内閣は参院選直前の6月に年金改革法を成立させたが、これが影響し選挙では自民党が改選50議席を1議席下回り、民主党に勝利を許した。

2005年(平成17年)8月、第162回通常国会における郵政民営化法案参議院否決後に行われた第44回衆院選では、「小泉劇場」と言われるポピュリズム的政治手法をとり、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327議席を獲得、歴史的圧勝をおさめた。その一方で「抵抗勢力」とされた議員が郵政民営化法案に反対票を投じたため党を除名されたり、党公認の候補(いわゆる「刺客候補」)に敗れ落選したことで、党内保守派(主に民族派)および保守系の議連が大きな打撃を受けた結果、「自民党が保守政党でなくなっていく」可能性が指摘された[注 8]

小泉政権の後期となる2005年ころより、「ポスト小泉」と呼ばれるニューリーダーが登場。特に、麻生太郎谷垣禎一福田康夫安倍晋三の4人はポスト小泉の最有力候補とされ、4人はそれぞれの名前から一字ずつ取った『麻垣康三』と呼ばれるようになる。

2006年9月20日の自民党総裁選では、選挙前から確実視された安倍晋三が後継に選ばれる。翌9月21日に小泉の自民党総裁任期は満了し、9月26日に小泉内閣は総辞職して内閣総理大臣を退任した。任期満了による退任は1987年の中曽根政権以来であり、また、小泉政権は戦後4位であり平成時代最長(退任当時)ならびに21世紀最初の長期政権となった。

しかし小泉内閣以降の政権は、小さな政府路線を目指した構造改革の負の部分に苦しむことになる。本来結党以来の地盤であった地方は、小さな政府路線への反発から自民党離れが進み、年金記録問題閣僚のスキャンダルもあって、安倍政権下の第21回参院選では民主党に惨敗、結党以来初めて参議院第1党から転落した。衆議院参議院で多数派が異なる構図になった(ねじれ国会)ことで与野党の対立が激化、政策の決定、実行のスピードが遅くなった。これにより首相の指導力も著しく低下し、総理総裁が安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と毎年のように変わった。

2度目の野党時代と再度の与党復帰

2009年(平成21年)8月30日の第45回衆院選では、低迷する景気による閉塞感や、首相の指導力低下など、国民の不満は過去にないほど高まり、自民党は首相経験者や派閥領袖を含む大物議員が次々と落選する大敗を喫し、民主党に衆議院第1党の座を明け渡すことになった。獲得議席数は119議席に止まり、2度目の野党転落となった。前回下野した時は野党とはいえ衆議院での比較第1党であったため、自民党が衆議院で第1党を失ったのは、結党以来初めてのことであった。大臣経験者を含む現職国会議員の離党が相次ぎ、2010年(平成22年)6月までの1年弱で現職国会議員の離党者が15人に上った[51]。この衆議院総選挙惨敗ならびに下野の責任を取り、総理総裁の麻生太郎は引責辞任。直後の2009年自由民主党総裁選挙に勝利した谷垣禎一が総裁に就任。

反転攻勢のきっかけは、2010年7月の第22回参院選である。自民に代わって第一党となった民主党に加え、社会民主党(社民党)・国民新党が連立を組み民社国連立政権としてスタートしたものの、鳩山由紀夫内閣の失政と崩壊、続く菅直人の失言などに助けられて、改選第1党となり与党の参院過半数獲得を阻止した。

2011年(平成23年)、菅内閣東日本大震災の対応不手際などで総辞職。代わって野田佳彦が首相となったものの、野田内閣は発足当初から閣僚の不祥事や離党者が連発し、民主党は分裂寸前であった。2012年(平成24年)9月の総裁選で安倍晋三が返り咲きを果たすと、野田との党首討論で解散総選挙の言質を引き出すことに成功する。12月、第46回衆院選で自民党は絶対安定多数を超える294議席を獲得[52](その後鳩山邦夫が復党し295人)、3年3か月ぶりに与党復帰を果たした。

以降、民主党は党勢を政権獲得前にまで回復させることができず、低迷している。また、中堅野党の日本維新の会みんなの党なども分裂・解党を繰り返しており、野党は停滞状況にある。そのため、2013年(平成25年)の第23回参院選で公明党と合わせて過半数割れを解消、2014年(平成26年)の第47回衆院選でも現有議席をほぼ維持するなど、自民党優位の体制は継続している。

2016年(平成28年)の第24回参院選では、民進党(民主党が改称)・共産党社民党生活の党の野党4党が共闘し、全一人区で候補者を一本化(民共共闘)して選挙戦に臨んだが、その一人区では32選挙区中21勝11敗で勝ち越すなどして、自民党は追加公認も含め56議席を獲得した(非改選と合わせて121議席)。また、いわゆる「改憲勢力」(自公におおさか維新の会日本のこころを大切にする党、その他改憲に前向きな諸派・無所属議員を加えた勢力)が衆参両院で3分の2を超え、憲法改正の発議要件を満たすことになった。その後、民主党(現・民進党)を離党し無所属で活動していた平野達男が入党したことで、27年ぶりに参院単独過半数を回復した。

2017年(平成29年)1月、前年の参院選で改憲勢力の一つとして活動した日本のこころを大切にする党(のちに日本のこころへ党名変更)が参議院において、自民党と統一会派を結成することが明らかになった[53]。1月11日、日本のこころ側は党の与党化を宣言[54]。その後、1月16日に、統一会派「自由民主党・こころ」を結成[55][56]

2017年10月の第48回衆議院議員総選挙では、小選挙区で218議席(うち無所属で当選後、公示日に遡って自民党公認となった議員3人を含む)、比例代表で66議席の選挙前と同じ284議席を獲得する圧勝。また南関東ブロック、近畿ブロック、中国ブロックでは小選挙区の候補者が比例復活も含めて全員当選した[57]。勝因の一つには、野党第一党の民進党が分裂し、希望の党立憲民主党の2つの新党が結成され、反自民票が分散したことなどが挙げられる[58]

2018年11月、日本のこころを吸収合併。それに先立ち、前月に参議院での会派名を「自由民主党・国民の声」に変更[59]

略史

前史

  • 1953年(昭和28年)頃から、保守合同への動きが活発化[60]
  • 1954年(昭和29年)
  • 1955年(昭和30年)
    • 5月 自由党・日本民主党の両党幹部会談[60]
    • 6月 緒方竹虎・自由党総裁と鳩山一郎・日本民主党総裁による党首会談。「保守勢力を結集し、政局を安定させる」ことで意見の一致をみる。両党から選出された委員からなる政策委員会・新党組織委員会が置かれる[60]
    • 10月 政策委員会・新党組織委員会を新党結成準備会に切り替える。

結党から1970年代まで