読売ジャイアンツ(よみうりジャイアンツ、Yomiuri Giants読売巨人軍、よみうりきょじんぐん)は、日本のプロ野球球団である。セントラル・リーグに所属する。略称は「ジャイアンツ」「巨人」。日本野球機構 (NPB) 傘下球団において最初に設立した球団である(日本初プロ球団は日本運動協会)。現在の監督は原辰徳(第19代)。キャプテンは坂本勇人(第19代)。

読売ジャイアンツ
会社名 株式会社読売巨人軍
創設 1934年12月26日(85年前) (1934-12-26
今シーズン
現在進行のスポーツイベント 2020年の読売ジャイアンツ
ロゴデザイン
Giants Cap Insignia.svg
所属リーグ

セントラル・リーグ

歴代チーム名

大日本東京野球倶楽部(1934年
東京巨人軍(1935年 - 1946年
読売ジャイアンツ(1947年 - )

本拠地
東京ドーム東京都文京区
Interior of Tokyo Dome 201904b.jpg
収容人員 約46,000人[1](東京ドーム)
フランチャイズの遍歴
永久欠番
獲得タイトル
アジアチャンピオン(1回)

2012

日韓クラブチャンピオンシップ(1回)
日本一(22回)
リーグ優勝(46回)
セ・パ交流戦優勝・最高勝率(2回)
(2015年から2018年までは最高勝率)
成績(タイトル以外)
アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)
日韓クラブチャンピオンシップ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)
日本シリーズ出場(35回)(太字は勝利した年)
クライマックスシリーズ(12回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

5勝7敗

球団組織
オーナー 山口寿一
運営母体 読売新聞グループ本社
監督 原辰徳
読売ジャイアンツ
公式サイト

読売ジャイアンツ 公式サイト

Twitter 読売巨人軍(ジャイアンツ)

Facebook 読売ジャイアンツ

Instagram 読売ジャイアンツ

TikTok 読売ジャイアンツ
YouTube
チャンネル
活動期間 2016年3月2日 -
ジャンル 野球
登録者数 約27.7万人
総再生回数 約1億589万回
事務所(MCN 株式会社読売巨人軍
チャンネル登録者数、総再生回数は2020年7月24日時点。
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球団の歴史

誕生

1931年読売新聞社社長の正力松太郎が中心となってメジャーリーグ選抜軍を日本に招待し、全日本代表チームや六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めた。これを受けて正力は再度のメジャーリーグ選抜軍の招待、特に前回叶わなかったベーブ・ルースの招聘を目論んだ[2]が、1932年文部省(当時)が発令した野球統制訓令によってメジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チームを対戦相手とすることはできなくなった[3]

市岡忠男浅沼誉夫三宅大輔鈴木惣太郎の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。その結果1934年6月9日、日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ6月11日には創立事務所が設けられた。平行して選手獲得も行われプロ契約第1号選手として6月6日付で三原脩、第2号選手として6月15日付で苅田久徳を獲得する[4]などチームが形作られていった。この時日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった[5]

「読売巨人軍発祥の地」の碑、谷津バラ園入口脇、習志野市

1934年10月15日千葉県の谷津海岸に新設された谷津球場に30名[7]の選手が集まりチームは結成され11月2日、横浜にメジャーリーグ選抜チームが来日し全日本代表チームと全国で親善試合興行を行った。試合は全日本代表チームの15戦全敗(他に対全東京が1試合、日米混合が2試合[8])で試合内容も圧倒的だったものの、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグらを擁した全米代表は読売新聞の報道もあって大きな注目を集めた。この時の1試合が草薙球場にある沢村栄治像とベーブ・ルース像の元となる、沢村が1失点完投した試合である。12月26日に全日本代表チームの選手を中心にした選手19名で、後に巨人軍の前身となる大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が結成された。このことから、「読売巨人軍発祥の地」の石碑が、かつて谷津球場のあった千葉県習志野市谷津の谷津公園内に設けられており、長嶋茂雄王貞治原辰徳ら歴代の巨人軍の監督や選手らの手形サイン付きの石のプレートが並べられている。現役選手が訪れることもある[9]

1935年1月14日から2月3日まで草薙球場で練習を重ね、2月14日第1次アメリカ遠征に出発する。当時の選手ら総勢18人で秩父丸に乗船し横浜港からアメリカに向けて出発、選手たちは船上でも試合に向けての練習をこなした。当初は「大日本東京野球倶楽部」と名乗る予定だったが、現地マネジャーのフランク・オドールから「『大日本東京野球倶楽部』はわかりにくい」という指摘を受けることになる。元ジャイアンツであったオドールはトーキョージャイアンツという名前を薦め、結局その名称がつかわれることになった。トーキョージャイアンツは全米各地で128日間109試合(ダブルヘッダー17日34試合含む)という日程を戦った。主な対戦相手はメジャーリーグマイナークラスのチーム。最初は物珍しさもあって観客が集まったものの徐々に減少。その為ダブルヘッダーを開催することで、ファン確保を狙ったが、選手らは体力の負担を強いられるとして反対意見も相次いだという。75勝33敗1引き分けの好成績でアメリカ遠征は終了した。7月16日に帰国し9月6日からは国内各地を転戦、これが翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。

アメリカ遠征からの帰国後、大日本東京野球倶楽部の名称問題が再燃する。ジャイアンツという名前を使い続けるか、それとも金鵄勲章から名を取った「金鵄軍」に変えるかというもので、最終的に正力はジャイアンツという名前を選んだ。翌1936年にジャイアンツを巨人と訳した東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)に正式改称する。こうして巨人軍は始まったのであった。

戦前期

日本プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成した沢村栄治

1936年2月5日日本職業野球連盟が結成され、9日には、名古屋市郊外・鳴海球場で開かれた名古屋金鯱軍との対戦は現在の日本野球機構にあたる職業野球連盟に所属するチーム同士が行った初めての試合である。この試合は巨人軍の2回目のアメリカ遠征の壮行会と金鯱軍の結成記念を兼ねたもので、第1試合は金鯱軍に3対10で敗れたが、翌日行われた第2戦、第3戦は巨人が連勝した。この直後の2月14日に前年に続き、第2次アメリカ遠征に出発。アメリカでは1次と同じくマイナーリーグクラスのチームを相手に10州を巡回して89日間で76試合を行い、対戦成績は42勝33敗1分であった。春には日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人は上記のアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。7月5日に大東京戦に勝利して、公式戦球団初勝利[10]。この夏季大会で計2勝5敗と惨敗を喫し、9月5日より群馬県館林市の茂林寺・分福球場で緊急キャンプを張った[10]。猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名で知られる。なお7月15日中島治康が対大阪タイガース戦で放った本塁打が球団第1号本塁打である[11]。1936年の秋季大会はリーグ戦とトーナメント戦の混じった6回の小規模な大会の勝ち点制で開催され、5回目のリーグ戦までリードしていたが6回目のリーグ戦で大阪に並ばれる。9月25日には沢村栄治が対大阪戦において、日本プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成[10]洲崎球場で3戦制の優勝決定戦を行い、12月11日に第3戦に勝利して2勝1敗で大阪を下し公式戦初優勝球団に輝いた[12]

1937年9月11日には後楽園球場が開場[13]、以来実質的な本拠地として使用する。春季戦は7月11日に対セネタース戦(上井草)に勝利して前年に続く2季連続優勝を達成[12]。秋季戦は大阪に7戦全敗して9ゲーム差の2位に終わり、初めて優勝を逃す。戦前は巨人と大阪の2球団で優勝を分け合うことになった。

「巨」マークのユニフォームを着るヴィクトル・スタルヒン(当時の登録名は須田博)

1939年より年間通じてのリーグ戦となり、11月9日の対南海戦(後楽園)に勝利して2季連続優勝。1月と12月の2度に渡ってマニラ遠征を行っている[10]1940年9月13日には戦局悪化の影響で、連盟より英語禁止の通達が出て、ジャイアンツのニックネームを使わず、ユニフォームのマークが「GIANTS」から「巨」に改められている[10]11月10日の対阪神戦(後楽園)に勝利し、3季連続優勝。1941年10月29日の対阪神戦(後楽園)に勝利して4季連続優勝。1942年志度商業学校から川畑博が入団する。捕手だったが、戦時中ということもあって投手も兼任していた。同年の春季リーグ17歳で球団史上最年少の初出場、初登板、初先発、初奪三振、初打席、初安打・二塁打、初打点の記録を樹立、11月1日の対阪急戦(甲子園)に勝利して、5季連続優勝。1943年10月31日の対名古屋戦(後楽園)に勝利して、6季連続優勝[12]。徴兵により3季ぶりの復帰となった沢村栄治は10月24日の対阪神戦での代打出場を最後に、翌1944年シーズン前に解雇されており、同年3度目の徴兵を受けて12月2日に戦死。

1944年11月10日に野球試合不可能として会社は存続するものの営業が中止され、球団は解散となった。11月13日には国の指導により日本野球連盟が改称していた日本野球報国会がプロ野球の一時休止声明を発表し戦前のプロ野球は終わった[10]

戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし、3度のノーヒットノーランを達成した沢村、42勝をあげたスタルヒン(1940年9月に登録名を須田博に変更)、2度のノーヒットノーランを達成した中尾輝三、連続無失点記録62回、シーズン防御率0.73(日本記録)を記録した藤本英雄、職業野球契約選手第1号であった三原修、日本プロ野球史上初の2桁本塁打や三冠王(1965年にプロ野球実行委員会で認定)を記録した中島治康らを擁して第1次黄金時代を築いた。

戦後期

第一次巨人黄金時代の打の主力3人。左から川上哲治、千葉茂、青田昇

1946年のリーグ戦再開より参加、この年はグレートリングと1ゲーム差の2位に終わる(松竹ロビンス#没収試合第1号も参照)。1947年には読売新聞社が経営に当たることとなり[注 2]、球団名を東京読売巨人軍(とうきょうよみうりきょじんぐん)に改称、ニックネームを読売ジャイアンツとする。南海ホークスの台頭や、戦後の混乱で戦力確保への苦慮があり1947年に球団史上初めて勝率5割を切るなど、再開から3シーズン続けて優勝を逃すが、監督・三原脩や「赤バット」の川上哲治千葉茂青田昇をはじめとする第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰、また1948年オフには南海の別所昭(巨人時代の登録名は別所毅彦)を獲得するなどして徐々に戦力が充実。1リーグ最後の1949年には戦後初優勝を飾った。1947年6月23日黒沢俊夫が死去、黒沢の背番号4と、戦死した沢村栄治の背番号14は日本プロ野球界初の永久欠番となった。1949年シーズンオフ、日本プロ野球はセントラル・リーグパシフィック・リーグに分裂、2リーグ制となり、巨人はセ・リーグに所属することになる。

水原監督時代

1950年

復帰した水原茂を監督に据えて、リーグ分立1年目は8球団中3位。

1951年

シーズン途中に来日し、入団した与那嶺要の活躍もあって2リーグ分裂後初優勝。

1952年

8月8日、対広島11回戦の勝利で日本プロ野球史上初の公式戦通算1000勝。

1953年

初めての海外キャンプをサンタマリアで行う。このシーズンは、開幕から1回も首位から転落することなくリーグ3連覇を達成。シーズンを通しての首位完全独走で優勝したのは球団史上唯一の記録である。日本シリーズでは、1リーグ時代からの宿敵・南海ホークスを3年連続で下し、日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。

1954年

杉下茂擁する中日ドラゴンズが優勝し、2位となる。

1955年

リーグ優勝。日本シリーズでは南海との対戦となり、1勝3敗から3連勝。4勝3敗で逆転日本一を達成する。この頃から第2期黄金時代を支えた千葉茂、川上哲治らに衰えが目立ち始め、水原は新旧交代をしなければならなくなった。

1956年

リーグ優勝を果たし、日本シリーズでは水原茂と入れ替わりに巨人を退団した三原脩が監督で率いる西鉄ライオンズとの対決となる。以後日本シリーズでは、3年連続で巨人は西鉄との対決となり、両者の戦いは「巌流島の決戦」とマスコミに喧伝された。

1958年

立教大学から長嶋茂雄が入団し、初年度から3割29本37盗塁の活躍を見せる。日本シリーズでは、第1戦から3連勝するも、第4戦から稲尾和久の力投などで4連敗を喫し、3勝4敗の逆転で3年連続で西鉄に敗退。この年限りで川上哲治が現役引退している[14]

1959年

6月25日の阪神11回戦(後楽園)はプロ野球史上初めての天覧試合となった。この試合で・長嶋がはじめて2人ともホームランを打ち(ONアベック弾第1号)、9回ウラには長嶋が阪神・村山実からこの日2本目となるサヨナラホームランを放ち、5-4で勝利を収めた。 成績はリーグ優勝を果たし4連覇、しかし日本シリーズでは南海ホークスと対戦。南海のエース・杉浦忠の前に打線が沈黙、4連敗のストレート負けで敗退。

1960年

三原脩が当時6年連続で最下位だった大洋ホエールズの監督に就任し、再び「巌流島の対決」と呼ばれる。大洋は三原の手腕によって巨人と優勝争いを演じ、ついに巨人を破ってリーグ優勝。巨人は大洋と4.5ゲーム差の2位に終わった。シーズン終了後、水原茂は監督を勇退した。

川上監督時代

1961年

川上哲治がヘッドコーチから昇格して監督に就任する。就任1年目ながら打率と本塁打の二冠を獲得した長嶋を中心に2位中日と1ゲーム差でリーグ優勝、日本シリーズでも南海を破って6年ぶりに日本一を達成。

1962年

この年から一本足打法を始めた王が本塁打王打点王を獲得したが、長嶋の低迷と投手の駒不足もあって混戦のセ・リーグで勝率.515ながら4位、2リーグ分立後初めてのBクラスに終わる。

1963年

長嶋の復活と前年は2名に留まった二桁勝利投手を5名出すなど投手陣が安定してリーグ優勝、日本シリーズではこれまでの対戦でいずれも勝利することができなかった西鉄に4勝3敗で勝利し、日本一になる。王と長嶋で打撃三部門だけでなく打点と本塁打の2位までをも占める。

1964年

一転して、阪神と大洋の首位争いに加わることができず、王がシーズン記録となる55本塁打を記録するものの、優勝した阪神と11ゲーム差の3位に終わる。

この頃から巨人の3、4番に固定された(両名の打順は流動的だった)王と長嶋はON砲と呼ばれ、実力、人気ともに特別な存在となっていた。また牧野茂荒川博ら他球団出身のコーチが招かれた。

1965年-1973年

1965年に金田正一が国鉄から10年選手制度を利用して移籍した。

9年連続日本一

ペナントレース及び日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的に「V9」と呼ばれる。

この間、巨人はカラーテレビ普及による露出増加も相まって絶大な人気を博し、当時の子供が好きなものを表した「巨人・大鵬・卵焼き」は流行語となった。また、同時期に連載が開始し、後にアニメ化もされた漫画『巨人の星』や『侍ジャイアンツ』も人気を集め、プロ野球選手、特に巨人軍の選手という職業は当時の子供たちの憧れの職業となった。

V9の間、最優秀選手を王は5回、長嶋は3回受賞している。また、川上監督や牧野ヘッドコーチのもとでロサンゼルス・ドジャースの戦術(スモールボール)を取り入れた。またON以外にも、金田正一・城之内邦雄堀内恒夫高橋一三渡辺秀武などの投手や、森昌彦土井正三黒江透修柴田勲末次利光高田繁などの選手が揃っていた。

しかし、V9期後半になると長嶋など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、徐々に苦戦することが多くなった。1973年には湯口事件が露見。球団の工作や川上の非人道発言が次々に社会的バッシングを受け、以降プロ野球界においてヒールのイメージが付きまとうことになる。

1974年

中日ドラゴンズに20年ぶりのリーグ優勝を許し、V10を逃す(この年のチーム成績は、優勝した中日とゲーム差なし、勝率1厘差の2位)。この年を最後に川上が監督を勇退し、同時に長嶋茂雄、黒江透修、森昌彦も現役を引退した。

第1次長嶋監督時代

1975年

前年に引退した長嶋茂雄が監督に就任。「クリーン・ベースボール」のキャッチフレーズを挙げたが自身が引退したことによる戦力の穴を埋められず、開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上することができず、全球団に負け越した上に9月には球団史上新記録(当時)の11連敗で球団史上初の最下位(1975年の読売ジャイアンツ)に終わる。その年のオフに日本ハムから張本勲、太平洋から加藤初をトレードし補強する。

1976年

前年の最下位から一転してリーグ優勝を果たす[注 3]。しかし、日本シリーズでは、阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れる。

1977年

9月3日、王貞治がハンク・アーロンを抜く通算本塁打756本の世界新記録を樹立[15]。チームも独走状態で2年連続でリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは2年連続で阪急と対戦するが1勝4敗で2年連続シリーズ敗退。

1978年

ヤクルトと優勝争いを繰り広げる。8月末に2位のヤクルトに4.5ゲーム差をつけ首位に立っていたが、9月以降成績が急降下、ヤクルトに逆転を許し2位に終わる。このときの戦いぶりから長嶋に対して監督としての資質に、次第に疑問が投げかけられてゆくようになる。そして1978年オフ、当時法政大学野球部OBで作新学院職員としてアメリカへ留学した江川卓の獲得を巡って、いわゆる江川事件が起きる。最終的には1979年2月に、江川がいったん阪神タイガースに入団し、その直後に小林繁と交換トレードをすることで決着がつく。だが、この江川事件はマスコミの総攻撃を受けることになった。

1979年

5月まで首位に立ったものの、6月以降は成績が次第に降下していき、Bクラス5位に終わる。一方で中畑清が3塁のレギュラーを獲得するなど若手の台頭も若干見られるようになる。同年オフに、青田昇がヘッドコーチに就任し、伊東での秋季キャンプでは松本匡史中畑清、江川、西本聖角三男らを猛特訓した。後に「地獄の伊東キャンプ」として語られていく。

1980年

開幕早々ペナントレースから脱落し、長嶋茂雄に対する批判はこれまでにないほど高まっていった。シーズン後半から若手を起用して5割Aクラスを確保した。しかしながら、2リーグ分立後では球団史上初となる3年連続V逸であり、10月21日長嶋はチームの不振の責任を取って「男のケジメ」という言葉を残し辞任する。当日スポーツニッポンが「長島解任」とスクープ報道したように、読売新聞の幹部による事実上の解任だった。この動きに対してファンは激怒し、読売新聞報知新聞スポーツ報知)の購読打ち切りを行うファンが続出した[注 4]。同年オフ、王も現役を引退、巨人一筋22年の現役生活にピリオドを打った。

藤田、王監督時代

第1次藤田監督時代

1981年

藤田元司が監督に就任、また、前年に現役引退した王貞治が助監督に就任。藤田元司、王貞治、牧野茂(ヘッドコーチ)による「トロイカ体制」が誕生。この年20勝の江川卓、18勝の西本聖、11勝の定岡正二、12勝の加藤初ら先発4本柱を形成し4年ぶりのリーグ優勝。日本シリーズでは、巨人と同じく後楽園をフランチャイズにする日本ハムファイターズと対戦[注 5]。4勝2敗で8年ぶりの日本一を達成。江川が史上5人目の投手5冠王(最優秀防御率最多勝、最高勝率、最多奪三振、最多完封)、西本は沢村賞、角三男が最優秀救援投手を獲得するなど、投手タイトル独占を達成、藤田監督の投手中心の守りの野球の成果が十分に発揮された。打者ではルーキーの原辰徳新人王を獲得、篠塚利夫が3割5分7厘の高打率をマークして阪神の藤田平首位打者争いをするなど若手の台頭が目立った。

1982年

10月まで中日との優勝争いを繰り広げるも、優勝した中日と0.5ゲーム差の2位となっている。

1983年

松本匡史盗塁王(このときの盗塁76はセ・リーグ記録)、原辰徳が打点王(103打点)を獲得するなどしてリーグ優勝するが、日本シリーズでは西武ライオンズと対戦、3勝4敗で敗れる。

この時期投手陣の中心となったのは江川卓、西本聖定岡正二である。西本は愛媛県立松山商業高等学校からドラフト外で入団したものの、持ち前の反骨心で同年齢の定岡、法政大学卒で米留学経て入団した江川と肩を並べるまでに成長した。藤田の監督在任時の成績は、江川55勝(20-19-16)、西本48勝(18-15-15)、定岡33勝(11-15-7)の成績を残している。

王監督時代

1984年-1988年

藤田政権の「トロイカ体制」で助監督を務めていた王貞治が監督として指揮を執るが、1984年・3位→1985年・3位→1986年・2位(優勝した広島とゲーム差なし、勝率3厘差)→1987年・優勝→1988年・2位と1987年に1度優勝したのみで、同年の日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。1988年には本拠地が後楽園球場から東京ドームへと変わったが、吉村禎章ウォーレン・クロマティのリタイアが響いて結果は2位、優勝した中日に12ゲーム差をつけられる。王はこの年限りで監督を引責辞任。

1987年、二軍がこの年から始まったファーム日本選手権の初代日本一に輝く。

第2次藤田監督時代

1989年

藤田元司が監督に復帰。斎藤雅樹(20勝・防御率1.62)、桑田真澄(17勝・防御率2.60)、槙原寛己(12勝・防御率1.79)と三本柱が機能し、チームは2位の広島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を達成する。1989年の日本シリーズでは近鉄バファローズに3連敗を喫した後、4連勝し逆転で17回目の日本一に輝く[17]

1990年

2年連続20勝した斎藤を筆頭に桑田・宮本和知(各14勝)、木田優夫(12勝)、香田勲男(11勝)と5人が二桁勝利を挙げ槙原も9勝とこの六人だけで合計80勝を挙げチーム勝利が88勝なので約9割を占め、完投数が70(130試合中)という先発投手中心のチームでペナントをリードし、9月8日の対ヤクルト戦(東京ドーム)で、吉村のプロ野球史上初となるサヨナラ優勝決定ホームランに[注 6]より史上最速で2年連続のリーグ優勝を果たす。2位・広島とのゲーム差を22ゲーム付けた。しかし、西武と対戦した日本シリーズでは、4連敗のストレート負けで敗退している。

1991年

投手陣では桑田が16勝を上げる大活躍をしたものの、斎藤、槙原、宮本、木田、香田の先発陣は軒並み不調で香田以外貯金を作れず(香田も貯金は1つだけ)前年80勝を上げた6人での合計は56勝に終わる。リリーフ陣はさらに深刻で、最多セーブは水野雄仁の3つが最多。この年優勝した広島、2位中日、3位ヤクルトと盤石のリリーフエースがいるチームとの明暗が別れるシーズンとなった。打撃陣も川相昌弘が犠打で当時の年間犠打数を更新する66個を記録、クリーンナップも原が犠牲フライ数で王貞治の記録を更新するなど数字は出ているが勝利に結びつかず他の打者の不振も響き、特に守備面での失態が多くチーム盗塁阻止率はこの年.156で2年連続12球団ワーストを記録し失策数も前年48個だったのが76個だった。1979年以来12年ぶりのBクラスとなる4位に転落した。シーズン終了後、近藤昭仁ヘッドコーチ・松原誠打撃コーチが、不振の責任を取る形で退団した。

1992年

序盤の不調が響き、5月には9日の対大洋戦に負け8年ぶりに最下位に転落する。特に前年の勝ち頭桑田が出れば打たれるの繰り返しで結局シーズンを通して尽く連勝ストッパーになってしまった。しかしチームはシーズン途中に西武から移籍の大久保博元と新外国人にロイド・モスビーの加入、生え抜きの石毛博史がリリーフエースとして頭角を現したこと等により大快進撃で、前半戦が終了する頃には首位に立った。しかし8月に入ると失速し、終盤のヤクルト・阪神・広島との大混戦の優勝争いの結果、最終的には阪神と同率2位になるも2年連続のV逸が決定[注 7]。この年限りで藤田は監督を勇退。後任には長嶋茂雄が13年ぶりに復帰、ドラフト会議で注目されていた松井秀喜の交渉権を阪神・中日・ダイエーとの競合の末獲得する。

この時期投手陣の中心となったのは斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己。斎藤は安定感、桑田は投球術、槙原は球威と、それぞれ違った持ち味を発揮して白星を積み上げていった。藤田の監督在任時の成績は、斎藤68勝(20-20-11-17)、桑田57勝(17-14-16-10)、槙原42勝(12-9-9-12)の成績を残している。

第2次長嶋監督時代

1993年

現役大リーガーのジェシー・バーフィールドやヤクルトから長嶋一茂を獲得して3年ぶりのリーグ優勝を期待されたが、打撃陣の不振(チーム打率は12球団最下位、得点、安打もリーグ最下位)、投手陣も斎藤、桑田の不調から3位に終わった。オフに、この年から導入されたフリーエージェント (FA) 制度によりFA宣言をした中日の落合博満を獲得する。その一方駒田徳広が同様にFA宣言を行って横浜へ移籍する。その横浜からは自由契約になった屋鋪要を獲得した。

1994年

開幕戦で松井・落合のアベックホームランが出てその勢いで前半は首位独走したが、夏場に失速。終盤最大10ゲーム差をつけていた2位・中日に猛烈な勢いで追い上げられ、シーズン最終戦(10月8日の対中日戦〈ナゴヤ球場〉、いわゆる「10.8決戦」)が優勝決定戦となった。史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦は日本全国の注目を集め、各マスコミでも大きく報道。長嶋監督は「国民的行事」と称した。その試合を槙原寛己、斎藤、桑田の当時のエース「三本柱」の継投で、リーグ優勝を達成。日本シリーズでは、4勝2敗で初めて西武ライオンズを破って日本一に輝く[注 8]。篠塚がこの年引退。

1995年

近鉄の阿波野秀幸を香田勲男との交換トレードで獲得。広島の川口和久、ヤクルトの広沢克己をFAで獲得。また同じヤクルトを自由契約となったジャック・ハウエルミネソタ・ツインズシェーン・マックを獲得し30億円補強と呼ばれものの、阿波野は未勝利、川口は負けが先行でローテーションを守れず、広澤はチャンスで打てずまた6年ぶりの本格的な外野守備、また初の左翼手へのコンバートが慣れず守備でも足を引っ張ってしまった。斎藤は18勝で最多勝・槙原は11勝をあげローテーションを守ったが前年MVPの桑田が序盤戦でプレイ中に大怪我をしてしまい、翌シーズンも全休してしまった。抑え投手も木田・石毛が連日痛打を浴びて敗戦。投打に渡り歯車が噛み合わず優勝争いからどんどん後退していたが、新人の河原純一高村良嘉や若手の西山一宇後藤孝志杉山直輝吉岡佑弐など二軍からはい上がった生え抜きを使い出してからチームの歯車がかみ合い連勝を重ね最終的には貯金14個作ったが、優勝したヤクルトにはことごとく負けてしまい、結局優勝争いに加わることができず、優勝したヤクルトと10ゲーム差のシーズン3位で終わった。また、同年の最終戦で原が現役を引退した。

1996年

桑田の全休、槙原・河原のシーズン途中リタイアがあり、さらにシーズン序盤にリリーフ陣が崩壊し序盤Bクラスに落ちていたが、7月9日の対広島16回戦の2回に9連打のプロ野球タイ記録で勝つとチームは一気に加速。斎藤・新外国人のバルビーノ・ガルベスが共に16勝を上げ最多勝を獲得し、またシーズン中に補強しリリーフエースになったマリオ・ブリトーや日本ハムからFA移籍してきた河野博文がチームを支え、松井が1本差で本塁打王は逃したが主軸として成果を上げる。ルーキーの仁志敏久清水隆行らの台頭もあり世代交代も決まった。当時リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝を成し遂げた。「メークドラマ」とはこの年の大逆転を指すことが多い。日本シリーズではオリックス・ブルーウェーブと対戦するも、1勝4敗で敗れた。オフに岡崎郁長嶋一茂が戦力外通告を受け、引退した。

1997年

西武から清原和博がFA権を行使して入団した。松井とともに、ON(王・長嶋)以来の強打者コンビ「MK砲」として期待された。この際、清原に押し出されるように落合が「長嶋監督を悩ませることはできない」と異例の会見を開いて日本ハムに移籍。ロッテを自由契約となったエリック・ヒルマンを獲得し95年の30億円を超える33億円補強を行ったが、開幕戦で3年連続開幕戦完封勝利をあげていた斎藤がノックアウトされたのをきっかけにヒルマンを含め主力選手に故障者・不調者が続出。桑田が復活しカムバック賞は逃したが再起、松井が本塁打王争いを繰り広げていたが一向にチームが浮上できず夏場まで最下位に沈み大苦戦した。優勝争いから脱落してから調子を上げ最終順位は1991年以来6年ぶりのBクラスとなる4位、第2次長嶋監督時代では2度目の借金でのシーズンを終了した。同年オフにはドラフト1順目で高橋由伸が入団、宮本和知が現役を引退した。

1998年

開幕戦、前年にカムバックした桑田が勝ち投手になりスタートダッシュに成功。松井、ルーキー高橋由の活躍もあり横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、前半戦の勝ち頭趙成珉がオールスターゲームで右肘を故障。さらにガルベスが7月31日の対阪神戦(阪神甲子園球場)において審判に対しボールを投げつける暴挙でチームから離脱するなどアクシデントが響き3位に終わった。松井が2年連続1本差で逃した本塁打王を獲得した。更に打点王、最高出塁率のタイトルも獲得、吉村禎章・川口が現役を引退した。

1999年

村田真一や広澤の離脱、後半戦は清原の故障によるシーズン離脱などもあったが、20勝を上げた新人の上原浩治や前年西武を解雇されたドミンゴ・マルティネスをシーズン途中に獲得し清原の穴を埋める活躍もあり2位となったがチームの貯金は15個。上原がこの年挙げた貯金が16と上原以外の投手陣に課題の残るシーズンとなった。シーズンオフ、広澤が自由契約となり阪神に移籍した。

2000年

20世紀最後の年、FA宣言をしていたダイエーの工藤公康と広島の江藤智、さらに阪神のダレル・メイを獲得するなど大補強を敢行。長嶋監督は、江藤に背番号33を譲り自らが現役時代に付けていた背番号3を25年ぶりに復活させた。松井が4番として定着、5番にマルティネス・清原、6番に高橋由を擁した打線はシーズンで投打ともに他を圧倒。投手陣も工藤・メイ・ルーキーの高橋尚成の左3枚がしっかりローテーションを守る。9月24日の対中日戦(東京ドーム)では、0-4で迎えた9回裏に江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡智宏がサヨナラ本塁打を放ち4年ぶりのリーグ優勝を劇的に決めた。結果的には2位中日に8ゲーム差をつけた。日本シリーズの相手は、長嶋と共にV9時代の主軸を担った王が1995年から率いるダイエーで、2連敗からのスタートだったがその後シーズンで不本意な結果だった上原・斎藤の奮闘もあり4連勝。4勝2敗で19回目の日本一を達成し20世紀の最後を締めた。

2001年

シーズン終盤までヤクルトと優勝を争ったが投手陣の不振で2位に終わる。同年限りで長嶋監督は勇退し、「終身名誉監督」に就任した。それと同時に槙原寛己、斎藤雅樹両投手そして村田真一捕手が引退した。長嶋監督の後任として、ヘッドコーチの原辰徳が就任した。

第1次原監督時代

2002年

原ヘッドコーチが監督に就任、原監督と鹿取義隆ヘッドコーチは投手陣を立て直し不振で苦しんでいた上原、桑田が復活。故障がちで一軍に常時いられなかった河原を抑えに抜擢し年間通して活躍。松井が50本塁打を放ち打線を牽引。1年目でセ・リーグの全球団から勝ち越してのリーグ優勝を果たす。また、日本シリーズでも西武を相手に球団史上初でシリーズとして12年ぶりの4連勝のストレート勝ちで日本一に輝いた。シーズンオフに松井がFA権を行使してメジャーリーグ・ニューヨーク・ヤンキースへ移籍した。

2003年

松井に代わる大砲としてヤクルトからロベルト・ペタジーニを獲得。原監督は守備位置の問題を解決できず、鹿取コーチは一任されていた投手陣が崩壊し整備できず3位に終わった。6月27日には球団史上初めて6月での自力優勝消滅を記録、シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝した阪神に15.5ゲーム差をつけられた。また、この頃から巨人戦視聴率の大幅な低下が起こり始めた[18][19][20][21]。そして9月26日、原監督は責任を取り監督を辞任した。辞任をするにあたってのセレモニーも行われなかった[注 9]。辞任に関して、原監督と渡邉恒雄オーナーとの確執がマスメディアに報じられた。この混乱が原因で川相昌弘がコーチ就任要請を辞退して現役引退も撤回、中日に移籍した。後任監督に堀内恒夫が就任した。

堀内監督時代

2004年

V9時代のエースだった堀内が監督に就任、生え抜きの高橋由伸らに加え、前年までで近鉄との契約が終わったタフィ・ローズ、ダイエーから膝の靭帯を断裂した後出場のなかった小久保裕紀を獲得した。かねてより所属する清原和博、ペタジーニ、江藤智などのさまざまな球団で活躍した4番打者が1チームに顔をそろえるという超重量打線となった。長嶋終身名誉監督に「史上最強打線」と名付けられた打線は、事実この年に年間259本塁打のプロ野球新記録[注 10]を樹立。しかし、259本塁打の新記録を達成したものの100打点を挙げた打者が一人もいなかったことやチーム最多盗塁が鈴木尚広の9と機動力をあまり駆使しなかったことで繋がりを欠いたことや防御率の低下により成績は前年と同じ3位だった。近鉄・オリックスの合併問題に端を発したプロ野球再編問題では、球団スカウトが行った明治大学の投手一場靖弘への不正な金銭授受の責任を取り渡邉恒雄がオーナー職を辞任した。テレビ視聴率も前年より低下した[22]

2005年

ポジション争いをやめさせ、打順を固定することにより1年を戦う打線として「不動明王打線」と名付けたが、高橋由、二岡智宏らが軒並み故障。この年から始まった「セ・パ交流戦」では4位(セ・リーグでは阪神に次いで2位)と好調だったものの、抑えとして期待された新外国人のダン・ミセリが極度の不振で4試合に登板したのみで退団するなど、投手陣の崩壊やチームの空中分解により、8年ぶりにBクラスの5位に終わった。また、前年の球界再編騒動および原監督の辞任騒動から巨人人気が一気に下降した影響により、観客動員数の減少やテレビ視聴率の低下が顕著化する。そのため日本テレビを筆頭に各キー局が地上波巨人戦中継の延長短縮や中止、中継自体も深夜枠での録画放送および衛星放送への移行が進むようになった。この低迷によって2005年シーズン中からストーブリーグを見越した活動が表面化し、成績不振と怪我の重なったローズや清原が8月頃からチーム編成からはずれ、また初の他球団出身監督として阪神のシニアディレクター星野仙一の名前があがった。星野シニアディレクター招聘の報道が表面化すると球団出身者のみが監督となってきた伝統を崩すことに一部OBやファンが反発。星野シニアディレクターは9月10日に会見を開き、阪神に残留することを表明した。10月5日、堀内監督は成績不振の責任を取って任期を1年残し退任し(堀内自身は解任されたと述べている)[23]、翌年からの新監督として原が3年ぶりに復帰することを正式に発表した。

第2次原監督時代

第1次では同じ時期に現役として活躍した選手が中心であったコーチ陣容を組んだ原監督だったが、第2次では彼らに加えて他球団での豊富な経験のある人材を求めた。ヘッドコーチに近藤昭仁、守備走塁コーチに篠塚和典が復帰。投手コーチに尾花高夫招聘しょうへい、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より広島に戻っていた打撃コーチ・内田順三が復帰した。選手補強も積極的に行った。投手陣ではオリックスを自由契約となったジェレミー・パウエル、FA宣言した豊田清(西武)、野口茂樹(中日)を獲得した。野手ではロッテの李承燁を獲得。金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した小坂誠(ロッテ)を獲得した。一方で前年シーズン途中に既に構想から外れていた清原、ローズを自由契約で、豊田の人的補償で江藤を放出した。

2006年

チーム方針として2005年のワールドシリーズを制したシカゴ・ホワイトソックスに倣い「スモール・ベースボール」を掲げた。開幕当初は首位を独走していたが、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手に負傷者が続出したことで失速することとなった。これに対して西武を自由契約となり米国挑戦したものの契約を結べず帰国していた小関竜也を入団テストで、広島の木村拓也を交換トレードで、前年阪神を解雇されたもののメキシカンリーグで好成績を収めていたジョージ・アリアスを来日させそれぞれ獲得するなど建て直しを図ったが、6 - 7月には8連敗、10連敗、9連敗と立て続けに大型連敗を喫し、一時は最下位にまで転落した。最終的にチーム防御率は1点以上の改善があったものの野手陣の不調で4位に終わり、いずれも球団史上初の4年連続完全V逸と2年連続Bクラスとなった。この結果を重く見た球団はさらなる改革に着手した。首脳陣ではまず走塁面の強化に西武黄金期に三塁ベースコーチとして活躍した伊原春樹を野手総合コーチとして招聘。篠塚守備走塁コーチを打撃コーチへ配置転換、伊勢孝夫スコアラーを打撃コーチ補佐として現場復帰させた。なお近藤ヘッドコーチが退任し、総括ディレクターに就任、それに伴って開幕直前に伊原がヘッドコーチに配置転換することとなった。選手では仁志敏久を交換トレードで横浜に放出、小久保がFAでソフトバンクに移籍したが、ソフトバンクを戦力外となったベテランの大道典嘉を無償トレードで、オリックスの谷佳知を交換トレードで、日本ハムの小笠原道大をFAでそれぞれ獲得したほか、残留を前提としたFA交渉を打ち切られた横浜の門倉健も加入する。一方門倉の加入に伴って補償選手として工藤を放出することとなり、逆にソフトバンクから小久保の補償選手として吉武真太郎を獲得した。

2007年

5月2日に行われたナゴヤドームの中日5回戦でプロ野球史上初となる球団通算5,000勝を達成した。これまで主にクリーンナップを打っていた高橋由を1番に、怪我で出遅れていた上原浩治を先発からクローザーとして起用するなどの大胆な配置転換を行った。これが成功し、前年のような大型連敗もなく安定した戦いを続けた。鬼門だった交流戦も2位でクリア。そして9月23日の横浜戦に勝利し、この年から導入されたクライマックスシリーズの出場権をセ・リーグ一番乗りで獲得。中日・阪神との三つ巴のデッドヒートの末、優勝マジックナンバーが1となってむかえた10月2日のヤクルト戦、9回裏二死満塁から、清水隆行の遊撃内野安打と、宮本慎也の一塁悪送球の間に二塁走者が生還し、サヨナラ勝ちで5年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、同年より導入されたクライマックスシリーズ第2ステージで、第1ステージで阪神を2連勝で破った中日に0勝3敗でストレート負け。日本シリーズ出場権を逃し、史上初の「リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できないチーム」となっている[注 11]。球団は、期待不足に終わったジェレミー・ゴンザレスジェレミー・パウエルデーモン・ホリンズの外国人3選手を自由契約とすると、ロッテから自由契約となった藤田宗一、横浜から自由契約となったマーク・クルーン、ヤクルトから自由契約となったセス・グライシンガーアレックス・ラミレスを獲得した。

2008年

オープン戦から主力選手の故障、台頭した坂本勇人を除いた若手の伸び悩み等でなかなか満足な試合運びができず、黒星を重ねていった。ペナントレース開幕直後もチームはオープン戦の不調を引きずり、開幕戦となる3月28日のヤクルト戦(神宮球場)から4月2日の中日戦(東京ドーム)まで、球団ワースト記録となる開幕5連敗を喫した。開幕戦で4番打者を務めた李承燁、昨年のクローザーから先発に復帰した上原が共に不調で二軍降格するなど戦力が揃わず開幕ダッシュに失敗した。だが、交流戦あたりから調子を上げはじめ、若手の積極的な起用策が功を奏したのに加え、投手陣では2年間1軍登板のなかった越智大祐がリーグ2位の68試合に登板し150キロ近い速球と落差のあるフォークで101三振と12球団で唯一かつ40試合以上登板したリリーフ投手の中で最も多く三振を奪ったのに加え、山口鉄也がリーグ3位の67試合に登板し、3.91の防御率だった昨年を大幅に上回る2.32と結果を残し球団史上初の全てリリーフ登板で二桁勝利を挙げる11勝、6月1日に福岡ソフトバンク戦とのビジターゲームで当時日本球界最速の162キロをマークしたクルーンが61試合登板で球団新記録の41セーブを挙げた。また7回から9回の3イニングに喫した失点数は前年は168失点だったのがリーグ最少の132失点。投手を5人以上起用した試合は前年10勝27敗2分け、勝率.270だったのが29勝20敗2分け、勝率.592とリーグ断トツの成績を残し強力中継ぎ陣が確立された事で抑えから復帰した上原を含めた先発陣の不調[24]をリリーフ陣がカバーした。また打撃陣ではオガラミ弾と呼ばれる3番・小笠原と4番・ラミレスのアベックホームランが15試合あってそのうち7月8日に阪神に敗れて以降最終戦までの66試合で11試合も記録し、7月9日から最終戦までのホームランが100本と198本のホームランにモノを言わせた強力打線でパ・リーグを制した渡辺久信監督率いる埼玉西武ライオンズをも凌ぐ破壊力[25]とリーグ2位の78盗塁を記録する機動力野球を武器に後半戦も順調に勝ち星を重ね、7連勝中の9月19日から首位阪神に3連勝、最終的に球団32年ぶりの12連勝を記録する等猛追し、同率で迎えた10月8日の最終直接対決で勝利し単独首位に立ち、10日に接戦の末にセ・リーグ記録となる最大13ゲーム差[注 12]からの逆転優勝を果たし、1989年 - 1990年以来となるリーグ2連覇を達成した[26]。11.5ゲーム差を逆転し「メークドラマ」と呼ばれた1996年の優勝時以上の大差を逆転したので、マスコミ等は、「メークレジェンド」と呼んだ。クライマックスシリーズでは、第2ステージで昨年ストレートで敗れた中日と対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で勝ち抜けし、2002年以来6年ぶりの日本シリーズへの出場を決めるが、リーグ連覇を決めた試合の6回表にキャプテンの阿部がセカンドの牽制球を頭から帰塁した際に右肩を負傷してしまい、診断の結果右肩関節挫傷で離脱。阿部の出場機会が減った事が祟ってか先に日本一に王手をかけながら東京ドームに戻っての最後の2戦を落としてしまい、3勝4敗で埼玉西武に敗れた。日本シリーズ後上原がFA宣言してメジャーリーグ・ボルチモア・オリオールズへ移籍し、トレードで日本ハムからマイケル中村工藤隆人を獲得したが、その2人との交換トレードで坂本の台頭や足の故障、スキャンダルで出番が激減した二岡・不調でシーズンの大半を二軍で過ごした林昌範が移籍した。また清水が移籍を志願し金銭トレードで西武へ移籍し第2次長嶋体制時代から主力として支えてきた生え抜き選手が形は違えど相次いでチームを去る形になった。なおヤクルトを自由契約になったディッキー・ゴンザレスを獲得した。

巨人軍優勝パレード(2009年11月22日撮影)
優勝パレードの原監督(2009年11月22日撮影)
2009年

シーズンは、創設75周年を迎えた。原監督が2009 ワールドベースボールクラシック日本代表監督に就任した事もあり、オープン戦は伊原春樹ヘッドコーチが監督代行を務めた。シーズンに入ると、坂本を1番打者、松本哲也を2番打者に固定するなど選手起用が当たり、開幕8試合目で首位に立つとそのままシーズンを乗り切り、9月23日の対中日ドラゴンズ戦に5-3で勝利し、1965年から1973年のV9時代以来となるリーグ3連覇、33回目のセントラル・リーグ優勝を決める[27]クライマックスシリーズでは、第2ステージで中日と対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗で勝ち抜けて日本選手権シリーズに出場を決めた。1981年の後楽園シリーズ以来となった北海道日本ハムとの日本シリーズは、4勝2敗で勝利し2002年以来7年ぶり21回目の日本一を獲得した。11月14日には長崎で行われた韓国シリーズ勝者起亜タイガースとの日韓クラブチャンピオンシップに勝利し、日韓王者に輝いた。ドラフト会議では巨人を熱望してきた長野久義を1位指名で獲得した。

2010年

開幕直後に前年限りで現役を引退しコーチとなっていた木村拓也が試合前の練習中にクモ膜下出血で倒れ急死、野手では亀井義行、投手ではゴンザレスが不調でグライシンガーも故障で長期離脱だったが、ルーキーの長野久義を加えた強力打線は相変わらずで開幕からしばらくの間は先発投手陣も好調であり、首位に立っている時期も長かったが、7月以降は相次いで好調だった先発投手陣が不調に陥り[注 13]、野手陣でも坂本と松本が調子を落としてしまう。また、この年のクローザーのマーク・クルーンが不振に陥り、抑え投手がたびたび変わるなど中継ぎ投手陣も安定しなかった。それでも最後まで首位争いに絡み続けるが、前述の投手陣の低迷とナゴヤドームの中日ホームゲームで2勝10敗と大きく負け越したのが響き、優勝した中日と1ゲーム差ながら3位に終わり、リーグ4連覇を逃した。クライマックスシリーズでは第1ステージで阪神に2連勝し勝ち上がるものの、続く第2ステージでは中日相手に1勝4敗で敗れ敗退している。この年、南海ホークスを経験した最後の現役選手であった大道典嘉が引退した。また不安定な投球が目立ったクルーンが翌シーズンの構想から外れ退団した。ドラフト会議では、中央大学の澤村拓一をドラフト1位で指名し獲得した。

2011年

この年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で開幕が3月25日から4月11日に延期。開幕戦は山口県の宇部市野球場で行われ[注 14]、1952年のフランチャイズ制導入以後、地方球場で初となる巨人主催試合開幕戦となった。また電力の節電要請で4月の東京ドームの使用を自粛、延期になった分を含めて大幅に試合日程が変更となっている。この年から導入された統一球の影響を12球団で一番と言って良い程もろに喰らってしまい、小笠原とラミレスが不調に陥り、打撃陣全体の長打力も2010年までと比べると激減(特に本塁打)する等、打撃陣が不振に陥った。一方で投手陣はルーキーの澤村拓一が4月21日に初勝利を挙げるなど、先発投手陣が引っ張った。その反面、前半は抑え投手が固定出来なかったこと、阿部慎之助が開幕時にケガで離脱したこと、獲得した多くの外国人選手が活躍できなかったこともあり、オールスターまでの前半戦はBクラスに低迷することとなった。後半戦に入り抑え投手に久保裕也が固定できたことなどで8月に7連勝するなど調子を上げていく。終盤は阪神との3位争いとなったが、10月の阪神、中日との6連戦を5勝1敗として、クライマックスシリーズ進出を決め、最終的には首位から3.5ゲーム差の3位で終えている。クライマックスシリーズはヤクルトと対戦するが、先発投手が好投するも継投でつまづき1勝2敗で敗退している。打撃陣では長野が首位打者、藤村大介盗塁王のタイトルを獲得している。11月11日、ヘッドコーチ人事を巡って清武英利球団代表が渡邉球団会長が不当に介入したとして渡邉球団会長を告発する問題が起きた。清武球団代表はこれを理由に18日付で職を解任されている(詳細は清武の乱参照)。このオフ、FAで横浜DeNAベイスターズから村田修一を、福岡ソフトバンクから杉内俊哉をそれぞれ獲得した。その一方でラミレス、グライシンガー、大村三郎鶴岡一成らが退団した(ラミレスと鶴岡はDeNAに、大村とグライシンガーはロッテにそれぞれ移籍)。

2012年

3月15日、球団が1997年から2004年度に6選手と結んだ契約でこのうち計27億円が最高標準額(2007年までは上限ではなく超えても構わないというのがプロ野球全体の理解であり、超過の場合に制裁措置と定められたのは2007年以降)を超過していたのではないかと朝日新聞の記事で報じられた。開幕序盤は球団史上初の開幕戦完封負けを喫するなど低迷し、4月4日の対広島戦(マツダ)に敗れ単独最下位となり[28]、開幕8試合で5度の完封負けで46イニング無得点を記録する[29]など、4月は2度の5連敗を記録した[30]。しかし、原監督は「必ず噛み合う様になる」と信じた通り、5月は6日の阪神戦から25日のロッテ戦まで破竹の10連勝(3分挟む)を記録、5月14日に勝率5割としている[31]。交流戦に入っても好調は続き、6月6日にリーグ首位に立ち[32]6月16日の対楽天戦(Kスタ宮城) に勝利して、17勝7敗でセ・リーグ球団初の交流戦優勝を達成[33]。その後中日との首位争いとなるが、東京ドームで行われた6月29日からの中日戦をスウィープ(同一カード3連勝)して7月1日に首位に立つと[34]、前半戦を中日と4.5ゲーム差、貯金20の首位で折り返す。後半戦に入っても7月は14勝4敗3分け(勝率.778)と一気に駆け抜けると8月には6連勝と7連勝を記録、8月23日に優勝へのマジックナンバー30を点灯させ[35]9月8日の対ヤクルト戦(新潟)に勝利してクライマックスシリーズ進出を決め[36]、1度も優勝へのマジックナンバーを消滅させる事なく9月21日の対ヤクルト戦(東京ドーム)で勝利して3年ぶり34度目のリーグ優勝を達成[37]。最終的に86勝43敗15分で、2位中日に10.5ゲーム差。最終戦ではDeNAに2-1でサヨナラ勝ちしDeNA相手に東京ドームで無敗を記録した。打者では阿部慎之助が首位打者打点王の二冠、長野と坂本が最多安打を獲得、投手では15勝の内海哲也最多勝、杉内俊哉が最多奪三振最高勝率の二冠を獲得した。チームとしても防御率2.16は、1966年の西鉄ライオンズ(2.13)以来の好成績となり、2年目の澤村が10勝、福岡ソフトバンクから移籍した杉内とホールトンが12勝と1990年以来となる二桁勝利の投手が4人誕生。ルーキーの高木京介が球団記録の29試合連続無失点を記録した。クライマックスシリーズファイナルステージでは2位の中日と対戦するが、3連敗で中日に王手をかけられ土俵際まで追い込まれた後に怒涛の3連勝という、クライマックスシリーズ史上初の3連敗からの3連勝で日本シリーズ進出を決める[38]。3年ぶりに実現した日本ハムとの日本シリーズは主将の阿部が負傷離脱するアクシデントに見舞われながらその阿部が6戦目で決勝タイムリーを放ち4勝2敗で3年ぶり22度目の日本一を達成[39]アジアシリーズ2012では決勝戦で台湾Lamigoモンキーズに6対3で勝利し、初のアジア王者となった。これで交流戦、セ・リーグ、クライマックスシリーズ、日本シリーズ、アジアシリーズの全てで優勝し、日本プロ野球史上初の5冠を達成した。ドラフト会議では前年日本ハムの1巡目指名を拒否した東海大の菅野智之を単独指名で獲得した[40]。また東野峻をオリックスへトレードし、交換で阿南徹香月良太を獲得した。

2013年

開幕から球団タイ記録の7連勝を飾り[41]5月5日の東京ドームでの対広島戦の試合前に長嶋茂雄終身名誉監督と巨人OBの松井秀喜の国民栄誉賞の授与式が行われている[42]。交流戦は13勝10敗の3位[43]。前半戦は2位の阪神と2.5ゲームの首位で折り返し[44]8月9日に優勝へのマジックナンバー39が点灯[45]。9月7日に7年連続でクライマックスシリーズ進出が決定[46]。9月22日の対広島戦(東京ドーム)の試合開始直後に2位の阪神がヤクルトに6対7で敗れたため、この時点で巨人の2年連続35度目のセ・リーグ優勝が決定した[47]。開幕戦以降、6月に阪神が一時首位に立った以外は、巨人は首位を譲らなかった[48]。広島とのクライマックスシリーズファイナルステージは3連勝で日本シリーズ進出を決めた[49]。迎えた楽天との日本シリーズでは第5戦までに2勝3敗で王手をかけられたものの、第6戦でシーズンから無敗の田中将大にこの年初の黒星をつけタイに持ち込むが[50]、第7戦で敗れて3勝4敗で敗退した[51]。この年のオフにFAで西武の片岡治大と広島の大竹寛、中日を自由契約となった井端弘和を獲得。

2014年

球団創設80周年を迎えた。4月19日キューバの国内リーグ「セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル」の中心選手であるフレデリク・セペダと契約[52]。同時に球団はセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボルとの友好関係を結ぶことを発表した[53]。シーズン序盤より投打ともに勢いに乗りきれず、交流戦に入る段階では首位の広島とは4.5ゲーム差の3位だったが、交流戦ではソフトバンクと優勝を争い、交流戦の最終戦でのソフトバンクとの直接対決に勝利し、2年ぶりに優勝を達成。6月を11勝5敗とし、6月8日に首位に立つと以降は首位から陥落することはなかった。8月には13勝13敗で一時は2位の阪神と0.5ゲーム差となるが、9月に入り4日にはこの年初めて優勝へのマジックナンバー22が点灯、翌日に消滅したものの、11日には16で再点灯。20日の対ヤクルト戦に勝利し、クライマックスシリーズ進出を決め、優勝へのマジックナンバーを2とした9月26日の対DeNA戦に6対3で勝利し、マジック対象チームの広島が阪神に敗れたため、3年連続通算36度目のセ・リーグ優勝が決定した[54]。なお打線では規定打席に到達しての3割打者がおらず、先発投手においては菅野と大竹寛を欠いた状態でCSに臨んだことが響き、2位の阪神とのCSファイナルステージではCS史上初の4連敗で敗退し、日本シリーズ進出を逃してしまった[55]。同年オフ、東京ヤクルトスワローズから相川亮二がFA権を行使して入団[56]、また横浜DeNAベイスターズから金城龍彦も入団した。さらに、テキサス・レンジャーズからマイルズ・マイコラスアーロン・ポレダを獲得した。

2015年

序盤はDeNAと首位を争う展開となった。4月15日に原監督がB型インフルエンザウイルスに感染し、当面自宅で静養となり監督代行を川相ヘッドコーチが務めることが発表された[57]。約1週間の休養を経て、4月21日の広島戦で復帰[58]。4月末、阿部、坂本、亀井が故障離脱、レイズから自由契約になっていたホアン・フランシスコを獲得した。交流戦では4年ぶりに負け越し11位に終わった[59]。6月後半に首位の座を阪神に明け渡すも、7月にはすぐに首位に復帰。しかし前半戦最後のカードの対横浜DeNA戦に3連敗を喫し首位から陥落、前半戦を2位で通過した[60]7月18日ニューヨーク・メッツ3Aからアレックス・カステヤーノスを獲得した。8月5日の対ヤクルト戦(神宮)において、公式戦通算10,000試合を達成した[61]。阪神、オリックス、中日に次いでプロ野球4球団目となった[62]。ちなみに試合は村田のホームランなどもあり、6-5で巨人がヤクルトに勝利。後半戦は阪神・ヤクルトとの熾烈な首位争いを演じていた。しかし、カステヤーノスらを補強しても相変わらず打線が不振で、首位に立つチャンスを幾度となく逃し、終盤はヤクルトや阪神の後塵を拝する事になる。そして9月27日に東京ドームでのヤクルト戦を1-2で落としてヤクルトの優勝マジック3を点灯させたことが決定打となり、10月2日にヤクルトの優勝が決定したことでリーグ4連覇への挑戦は失敗に終わり、レギュラーシーズンは2位で終えることになった。CS開幕前の10月5日所属選手の野球賭博への関与を発表し告発[63]クライマックスシリーズのファーストステージは、シーズン3位の阪神と対戦、2勝1敗で勝利する。そして迎えたシーズン1位のヤクルトとのファイナルステージに挑み、初戦こそキャプテン・坂本の2ランホームランなどもあり勝利を挙げたものの、2戦目以降は勝ち頭のマイコラス・菅野で落とし、打線も2戦目以降は規定打席越えの3割打者が1人もいなかった事を象徴する貧打、26イニング連続無得点などもあり3連敗した[64]。最終的には1勝4敗(アドバンテージ1敗含む)で、2年連続で日本シリーズ進出を逃す結果となった。なお、巨人が2年連続でCSファイナルステージで敗退したのはこれが初めて。そしてCS終了後、原監督は辞任を表明し[65]10月19日、記者会見で原監督が監督退任を正式表明し、第2次体制の10年、第1次体制と合わせて12年間の監督生活にピリオドを打った[66]。次期監督として球団OBで野球評論家の江川卓川相昌弘ヘッドコーチ[67]高橋由伸打撃コーチ兼外野手[68]などが候補と報道された。10月22日、2016年シーズンから、一軍、二軍のほかに育成選手を中心とした三軍を編成することを発表[69]10月23日、高橋由伸の新監督就任および2015年限りの現役引退が発表された[70]。同時に井端弘和金城龍彦が引退し、それぞれ一軍内野守備・走塁コーチ、三軍打撃コーチに就任した。10月26日、高橋監督の就任会見が行われた。3年契約で背番号は現役時代と同じ「24」[71]。また、前監督の原辰徳が2016年1月1日付で、球団特別顧問に就任することが決定[72]11月23日、この日行われたジャイアンツ・ファンフェスタ2015において高橋由伸の現役引退および監督就任セレモニーが行われた[73]。シーズンオフにはリーグ優勝・日本一奪回に向け補強を行った。埼玉西武ライオンズから脇谷亮太が古巣に復帰、長打復活のためにニューヨーク・ヤンキースから4番候補のギャレット・ジョーンズ(登録名:ギャレット)、千葉ロッテマリーンズから自由契約となったルイス・クルーズを獲得し、打線強化を図った。

高橋監督時代

2016年

チームは開幕3連戦(VSヤクルト)において3連勝スタートを切った。なお、巨人が新監督で開幕3連戦を3連勝するのは、1981年の藤田元司監督以来35年ぶり[74]。序盤は阪神・広島と首位争いを繰り広げるも巨人が4月は15勝10敗3分けと一歩先を行く展開が続いていたが、月が替わった5月は21日の中日戦から7連敗で急失速と前年同様打撃陣の低調で特に代打での打率と失策率が12球団最下位だった事や投手陣の見殺しや中継ぎ陣が打たれたり等が大きく響いて負けが込む様になった。交流戦は五分で終えるも6月10日のソフトバンク戦で同一カード3連敗を喫し借金生活に入ったのと同時期に広島の快進撃が始まると、首位を奪われてしまう。その後、首位広島を一時4.5ゲーム差まで追いつめたものの、8月7日の広島戦で7-6とリードしていた9回に澤村が菊池にサヨナラホームランを打たれて同一カード3連勝のチャンスを潰すとそこから広島が持ち直し再び差を広げ始め、8月24日に広島との直接対決で敗れた事でマジックを点灯させてしまい、その後負けが続き、広島のマジックを減らす手助けをする形となり、9月10日の対広島戦で敗戦し広島のリーグ優勝が決まってしまい、2年連続V逸が確定した。その後は終盤はDeNAとの2位争いとなるが、シーズン2位が確定。坂本勇人が初の首位打者になり、菅野智之が2年連続で最優秀防御率と最多奪三振を獲得し、澤村拓一セーブ王になるもエース・菅野の勝利投手になる権利を3回も消滅させる悪い印象を与え、2桁勝利を達成したのは田口麗斗のみだった。クライマックスシリーズでは、クライマックス初出場の3位・DeNAと対戦。しかし、1勝2敗で1stステージで敗退し、5年連続のファイナル出場の夢は消えた。10月13日に足のスペシャリスト鈴木尚広が現役引退を発表した[75][76]。また、オフには、総額30億円をかけた大補強を敢行。ソフトバンクから森福允彦、DeNAから山口俊、元楽天のケーシー・マギー、日本ハムから陽岱鋼、抑え候補の新外国人としてアルキメデス・カミネロを獲得した。

2017年

開幕5連勝と好スタートを切り、序盤は阪神と2位を争った。しかしこの間に、昨シーズンオフにFAで獲得した山口俊、陽岱鋼らFA補強組が不振や故障で相次いで離脱。5月中旬以降は負けが込みだし、5月25日の対阪神戦(甲子園)に敗れるとその後広島に3連敗を喫し、4連敗継続中に交流戦を迎えるが楽天、オリックス、西武と共に同一カード3連敗で負け続け、球団史上ワースト記録となる13連敗を喫した。6月、球団OB初のGMとして、鹿取義隆が就任した。7月中旬に山口俊が傷害事件を起こし、シーズン終了までの出場停止・罰金・減俸という非常に重い処分が科せられた。また、前半戦終了後、二軍監督の斎藤雅樹が一軍投手コーチ(ベンチ)に、ベンチ担当の尾花高夫がブルペン担当、ブルペン担当の田畑一也が前半戦から苦戦している広島専従スコアラー、後任の二軍監督に巡回打撃コーチの内田順三が就任することを発表した。 後半戦以降は二塁にマギーをコンバートする攻撃重視の策が功を奏し、DeNAとの3位争いを演じるまで持ち直すも、10月1日の試合で敗れ、DeNAが勝ったため、シーズン4位が確定。30億円かけ補強した結果がBクラスという信じられない結果に終わった。巨人がBクラスになるのは11年ぶりで、2007年に導入されたCSへの出場を球団史上初めて逃した。カード別の対戦成績では広島に7勝18敗と大きく負け越した以外、他の4球団には勝ち越しているが、同一リーグの4球団に勝ち越しながらBクラスに転落したのはNPB史上初。打撃陣は2位にマギー(20個)、4位に長野(17個)、6位に坂本(16個)、7位に村田(15個)ワースト10に主力選手がランクインしたのに代表される様に球団史上ワーストの129併殺と攻撃もちぐはぐであと一本が出なかったのに合わせ、投手陣は先発が菅野、マイコラス、田口だけで27の貯金を作った先発陣とは対照的に中継ぎ陣は2006年の62を下回る57ホールドとこちらも球団史上ワースト(12球団断トツのワーストで11位の東京ヤクルトは85ホールドである)。27ホールドのマシソンが安定した一方でマシソンに続くのが10ホールドの西村健太朗。昨シーズン19ホールドの山口鉄也が3ホールド、新戦力の森福がソフトバンク最後の年は16ホールドだったのが6ホールドと戦力にならず、勝ちパターンを確立出来なかったのが誤算だった。ちなみに10月1日のゲームも含めて1点差のゲームを27試合も落とした一方でものにしたのはセリーグワーストの13勝。接戦の弱さを露呈する結果となった。シーズン後若返りを図る一環として村田に戦力外通告を行い、片岡、相川、松本哲、藤村らが現役を引退。先発の一角を担っていたマイコラスもメジャー復帰が決まり退団した。

なお、9月26日の対ヤクルト戦で内野手の中井大介が相手投手の岩橋慶侍から本塁打を放ち、これが球団通算1万号本塁打となった[11]

2018年

球団ロゴを刷新し、中央に「G」、左右に創設年の「1934」、下部に本拠地の「TOKYO」を配置した。

主な補強選手として、西武からFA宣言した野上亮磨、前中日のアレックス・ゲレーロ、マイコラスに代わる先発候補として期待される新外国人テイラー・ヤングマンを獲得。さらに、3月上旬には上原浩治が10年ぶりに巨人復帰。3月中旬には野球賭博問題に関与し、失格処分のち育成選手となっていた高木京介を2年ぶり支配下登録することが決まった。この年は開幕から若手の岡本和真吉川尚輝がスタメンに定着するなど若手の活躍も垣間見えた反面、6月に篠原慎平河野元貴Instagramに不適切な動画を投稿し出場停止になり、さらに7月には柿沢貴裕がチームメイトの野球道具・ユニフォームを盗み転売していたことが判明し契約解除となる等、前年に続き不祥事も相次いだ。一連の不祥事の責任を取る形でオーナーの老川祥一が辞任し、後任として山口壽一が新オーナーに就任[77]

開幕後は打線の好調で上位戦線につけ、マイコラスの抜けた穴や田口や野上の不調で負けが込み始め菅野が8完封、昨年傷害事件を起こしシーズン終了までの出場停止を命じられた山口俊が2完封と先発の完投は21と断トツで12球団トップだったものの、先発陣が不調になった時にカバーしなければならない中継ぎ・抑えは抑えのカミネロが度重なるリリーフ失敗で二軍降格になったのを皮切りにマシソン、アダメスと抑えが固定出来ずセーブ数は25と12球団ワースト、そのマシソンも怪我により戦線を離脱したり、本来は先発枠であった山口俊をリリーフに回す等リリーフ陣に至っては生命線であるホールドが73と球団史上ワーストの57ホールドだった前年よりは上がったものの2年連続12球団ワースト(12球団11位の中日は82ホールドである)と崩壊し始め、前年同様広島に大きく負け越し、首位独走を許す事になった。7月以降は育成から這い上がったメルセデスが菅野と共に先発陣を支えた。しかし、開幕戦から期待がかかっていた吉川尚輝が8月1日のDeNA戦でヘッドスライディングによる左手の骨折で戦線離脱、その前の7月17日の阪神戦で坂本勇人が左脇腹を痛めた事による一軍登録抹消、更に7月27日のヤクルト戦で新外国人投手テイラー・ヤングマンが左手骨折と、夏場に故障者が続出。その影響からか、2位以下を5チームで争う展開の中で9月に借金が込みだし、3位をDeNA、阪神、中日と争う様相を呈す。結局シーズン最終盤までDeNAと3位を争い、1度は自力でのCS進出が消滅するも、10月3日にDeNAがヤクルトに敗れたため3位に浮上すると同時に自力でのCS進出の可能性が復活。10月10日のシーズン最終戦(阪神戦)で勝利し、3位が確定。2年振りのCS進出となった。しかし、球団ワーストタイの4年連続V逸と12年ぶりの勝率5割以下が確定し、オーナーは若手育成の手腕を評価し2019年も続投を要請する意向をするが、高橋監督は「チームの勝敗は監督が背負うものと責任を取って辞めます。」と自ら辞任を申し入れ了承された。同一監督が無冠のまま辞任したのは堀内恒夫以来となった。又、岡本和真が同日望月惇志から放った本塁打がプロ野球史上最年少となる100打点となった。 CSファーストステージではヤクルトと対戦。2連勝で3年ぶり(3位になったシーズンとしては8年ぶり)のファイナルステージ進出を決めたと同時に、第2戦で菅野がCS史上初ノーヒットノーランを達成した。 ファイナルステージでは広島と対戦、第1戦は初回に坂本がヒットで出塁するも田中俊太が併殺打しチャンスを生かせず。その裏に1点を失うと4回に鈴木誠也、7回に丸佳浩にホームランを浴び追加点を失って6-1で敗戦。第2戦はシーズン僅か2勝の田口が6回1安打無失点の好投。6回に1点を先制するも。7回から高橋が田口に変え「予め決めていた」という畠にスイッチ。この投手交代が裏目に出て、7回こそ無失点だったものの、8回に2018年シーズン限りでの引退を表明している代打の新井貴浩に同点タイムリーを打たれ、さらに菊池涼介に勝ち越しの3ランホームランを浴びて逆転負け。第3戦は今村が野間に2点タイムリーを浴び3回にはまたも丸にホームランを浴びる等追加点を奪われ万事休す。タイムリーで1点を挙げた反撃も焼け石に水となり、投打とも全く奮わず、3連敗でファイナルステージ敗退となった。杉内俊哉脇谷亮太山口鉄也西村健太朗寺内崇幸が現役引退。2度の連覇を支えた選手が前年に続き、ユニフォームを脱ぐことになった。また、中井大介(DeNAに移籍)、廖任磊(西武に移籍)らが戦力外となり、ケーシー・マギーアルキメデス・カミネロの両外国人の退団も発表された。

第3次原監督時代

高橋の後任として、前任者の原辰徳の4年ぶりの復帰が発表された。2018年10月22日、全コーチ名が球団から発表された[78]。1999年以来のヘッドコーチ職を置かないという体制である事も発表された[79]。翌23日には両者が並んだ就任会見も行われた。 ドラフト会議では一位指名で高橋優貴との交渉権を獲得した。 新体制発足後、同年オフの11月8日の2018日米野球「エキシビジョンゲーム 巨人×MLBオールスターチーム」が初の公式戦となる[80]。今オフも大型補強を敢行。主な補強選手として、広島からFA宣言し2年連続でセ・リーグのMVPを受賞した丸佳浩[81]、西武からFA宣言した炭谷銀仁朗、オリックスを自由契約となった中島宏之、パドレスからクリスチャン・ビヤヌエバ、マリナーズからライアン・クック岩隈久志を獲得した。その一方で、炭谷の人的補償として内海哲也が西武に移籍することが決まったほか、丸の人的補償として長野久義が広島に移籍することが発表され、大型補強の代償として生え抜きのベテランが相次いで退団する事態となった。

2019年

5月、上原浩治が現役を引退した。

序盤は吉川尚輝や丸、坂本など打線が好調で首位に立つも、5月になると菅野や岡本の不調により、やや調子を落とし、同時期に復調してきた広島に抜かれ首位から陥落し、阪神にも抜かれ、交流戦を3位で迎える。交流戦に入るとソフトバンク以外に2勝1敗で勝ち越し、5年ぶりに交流戦を勝ち越すも、最終戦にソフトバンクに敗れ、5年ぶりの交流戦優勝とはならず、交流戦を3位で終えた(セリーグでは1位)。また6月18日のオリックス戦に勝利し、首位に返り咲く。この間に打線では若林晃弘が、投手陣では序盤から安定していた中川皓太が抑えに回るなど、課題となっていた若手の台頭がやや見られるようになった。交流戦明け以降はオールスターまで10勝1敗と大きく勝ち越し、前半戦は2位とのゲーム差を9.5と大きく引き伸ばして折り返す。また6月には日本ハムの鍵谷陽平藤岡貴裕吉川光夫宇佐見真吾の2体2の交換トレードと新外国人としてルビー・デラロサを、7月には楽天の古川侑利和田恋との交換トレードで獲得した。その後7月下旬から8月上旬にかけ大型連敗があり、2位DeNAに最大10.5あったゲーム差を0.5まで迫られた。しかし6月18日以降首位から陥落することなく9月21日、対DeNA戦(第24回戦)にて3対2で勝利し、5年ぶり37回目のリーグ優勝を果たした[82]

クライマックスシリーズでは3位の阪神と対戦。アドバンテージを含む4勝1敗で、6年ぶりの日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズではソフトバンクと前身のダイエー時代以来の19年ぶりに対戦するも、投手陣が崩れ、1勝もできずに4連敗を喫し、敗れた。1勝もできずに4連敗で終えたのは1990年の西武以来。

リーグ優勝直後に阿部慎之助が引退を表明(後に二軍監督に就任)し、マシソンも引退を表明した[83]。オフには山口俊が球団初のポスティングシステムを利用しトロント・ブルージェイズに移籍[84]

2020年

シーズン前、ワシントン・ナショナルズで世界一に貢献した現役大リーガーのジェラルド・パーラシカゴ・ホワイトソックスチアゴ・ビエイラSKワイバーンズエンジェル・サンチェス、を獲得した。

6月19日、新型コロナウイルスの影響により約3ヶ月遅れの開幕戦となったこの日、吉川尚の逆転本塁打で3-2で逆転勝ちし、プロ野球史上初の球団通算6000勝を達成したのに続き[85]、翌日は6回まで3-1と接戦の状況から7回に打者一巡の猛攻で一挙8点を奪い連勝(6001勝目)。3戦目も先制を許しながら4回に5点を奪って逆転し7-1で勝利。過去8度あった阪神との開幕カード3連戦で球団史上初のスウィープに成功(同一カード3連勝を達成)した。

所属選手・監督・コーチ

チーム成績、記録

  • チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。
  • 特に断りのない場合は2012年シーズンまでの数値。

試合、勝敗、勝率に関する記録

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
  • 優勝(レギュラーシーズン最高勝率) 46回(日本プロ野球記録)※2リーグ分立以降37回。
(1936年秋 - 1937年春、1938年秋 - 1943年、1949年、1951年 - 1953年、1955年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1976年 - 1977年、1981年、1983年、1987年、1989年 - 1990年、1994年、1996年、2000年、2002年、2007年 - 2009年、2012年 - 2014年、2019年)
  • 日本一 22回

1951 1952 1953 1955 1961 1963 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1981 1989 1994 2000 2002 2009 2012

  • セ・パ交流戦優勝 2回
(2012年、2014年)
  • クライマックスシリーズ優勝 5回
(2008年、2009年、2012年、2013年、2019年)
  • アジアシリーズ優勝 1回
(2012年)
  • 日韓クラブチャンピオンシップ[注 15]優勝 1回
(2009年)
  • 連続優勝最長記録・連続レギュラーシーズン最高勝率最長記録 9年(日本プロ野球記録)
(1965年 - 1973年)
  • Aクラス 76回 ※2リーグ制以降62回。
(1936年秋 - 1946年、1948年 - 1961年、1963年 - 1974年、1976年 - 1978年、1980年 - 1990年、1992年 - 1996年、1998年 - 2004年、2007年 - 2016年、2018年 - 2019年)
  • Bクラス 9回 ※2リーグ制以降8回。
(1947年、1962年、1975年、1979年、1991年、1997年、2005年 - 2006年、2017年)
最下位は1975年の1回のみ。
  • 連続Aクラス入り最長記録 14年(1948年 - 1961年)
  • 連続Bクラス最長記録 2年(2005年 - 2006年)
  • シーズン最多勝利 92勝(1955年)
  • シーズン最多連勝 15連勝(1951年7月16日 - 8月3日)※1引き分けを挟む
  • シーズン最多敗戦 80敗(2005年)
  • シーズン最多連敗 13連敗(2017年5月25日 - 6月8日)
  • シーズン最多引分 16引き分け(1978年)
  • シーズン最高勝率 .769(1938年秋)(2リーグ制以降.731 1951年)
  • シーズン最低勝率 .382(1975年)
  • 通算試合 10615試合(日本プロ野球記録・2リーグ制以降9394試合)
  • 通算勝利 6004勝(日本プロ野球記録・2リーグ制以降5216勝)
  • 通算敗戦 4291敗(2リーグ制以降3881敗)
  • 通算引分 325引き分け(2リーグ制以降297引き分け)
  • 通算勝率 .583(日本プロ野球記録・2リーグ制以降.573)
  • 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1974年、1986年)
  • 最大ゲーム差 27.0ゲーム(1975年)
  • 最長試合時間 6時間21分(2015年8月21日対広島東洋カープ)
  • 最短試合時間 1時間14分(1951年3月31日対大阪タイガース)

チーム打撃記録

  • 通算本塁打 10343本(日本プロ野球記録・2リーグ制以降9904本)
  • シーズン最多得点 738得点(2004年)
  • シーズン最多安打 1375本(2009年)
  • シーズン最多2塁打 221本(1953年)
  • シーズン最多3塁打 57本(1946年)
  • シーズン最多本塁打 259本(2004年・日本プロ野球記録)
  • シーズン最多塁打 2340本(2004年・日本プロ野球記録)
  • シーズン最少本塁打 1本(1936年秋)
  • シーズン最多打点 719打点(2004年)
  • シーズン最多盗塁 212盗塁(1950年)
  • シーズン最多犠打 144犠打(1990年)
  • シーズン最多犠飛 43犠飛(1978年)
  • シーズン最多四死球 591個(1950年・日本プロ野球記録)
  • シーズン最多三振 1083三振(2004年)
  • シーズン最高打率 .292(1952年)
  • シーズン最低打率 .208(1943年)(2リーグ制以降.227 1961年)
  • ゲーム最多得点 26得点(1946年8月31日対中部日本軍、1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多安打 27本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多2塁打 11本(1948年10月16日対大陽ロビンス・日本プロ野球記録)
  • ゲーム最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス、1957年8月27日対大洋ホエールズ)
  • ゲーム最多本塁打 8本(1984年7月4日対ヤクルトスワローズ、1984年9月4日対中日ドラゴンズ、1985年6月28日対阪神タイガース)
  • ゲーム最多塁打 59本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多打点 25打点(1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多盗塁 5盗塁(1943年4月11日対西鉄軍、1951年9月12日対国鉄スワローズ)
  • ゲーム最多犠打 4犠打(1952年2度、1966年1度、1987年1度)
  • ゲーム最多犠飛 4犠飛(1939年10月8日・日本プロ野球記録)
  • ゲーム最多四死球 16個(1946年8月31日対中部日本軍)
  • ゲーム最多三振 17三振(2004年8月1日対阪神タイガース)
  • イニング最多得点 13得点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録)
  • イニング最多安打 10本(1941年5月11日対阪急軍4回、1951年8月8日対広島カープ7回)
  • イニング最多2塁打 6本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回・日本プロ野球記録)
  • イニング最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス3回・日本プロ野球記録)
  • イニング最多本塁打 4本(1985年9月9日対横浜大洋ホエールズ4回、1987年5月12日対阪神タイガース7回、1999年7月31日対広島東洋カープ1回、2000年6月21日対中日ドラゴンズ7回)
  • イニング最多塁打 18本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回)
  • イニング最多打点 13打点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録)
  • イニング最多盗塁 5盗塁(1937年5月16日対名古屋金鯱軍1回)
  • イニング最多犠打 3犠打(多数)
  • イニング最多犠飛 2犠飛(多数)
  • イニング最多四死球 8個(1959年10月20日対中日ドラゴンズ5回)
  • イニング最多三振 4三振(2004年8月1日対阪神タイガース2回)
  • 最多連続得点 10得点(2003年4月27日対横浜ベイスターズ8回)
  • 最多連続試合得点 174試合(1980年8月4日 - 1981年9月20日)
  • 最多連続イニング無得点 31イニング(1985年6月5日対阪神タイガース4回 - 6月8日対中日ドラゴンズ7回)
  • 最多連続打席安打 9打席(1996年7月9日対広島東洋カープ2回・日本記録)
  • 最多連続打数安打 9打数(1954年9月29日対広島カープ1回、1四球を挟む)
  • 最多連続イニング安打 21イニング(1985年7月10日対中日ドラゴンズ6回 - 7月16日対横浜大洋ホエールズ1回・日本記録)
  • 最多連続試合本塁打 33試合(2004年4月2日 - 5月12日、開幕からの連続記録)
  • 最多連続イニング本塁打 6イニング(1967年10月10日対広島カープ2回 - 7回)
  • 最多連続本塁打 3人(通算5度)
  • 最多連続打数本塁打 4人(1四球を挟む)
  • 最多連続四死球 5人(1963年5月3日対国鉄スワローズ2回、1964年4月7日対国鉄スワローズ9回)
  • 最多連続試合盗塁 16試合(1951年7月29日 - 8月9日)

チーム投手記録

  • シーズン最多被安打 1427本(2005年)
  • シーズン最多被本塁打 193本(2004年)
  • シーズン最多与四死球 529個(1978年)
  • シーズン最多奪三振 1123個(2003年)
  • シーズン最多失点 737点(2005年)
  • シーズン最高防御率 1.38(1943年)
  • シーズン最低防御率 4.80(2005年)
  • ゲーム最多被安打 25本(1994年9月10日対広島東洋カープ)
  • ゲーム最多被本塁打 8本(1949年4月26日対大映スターズ)
  • ゲーム最多与四死球 16個(1985年7月30日対広島東洋カープ)
  • ゲーム最多奪三振 16個(1967年6月7日対大洋ホエールズ、1994年8月13日対阪神タイガース)
  • ゲーム最多失点 19点(1994年9月10日対広島東洋カープ、2003年6月11日対ヤクルトスワローズ、2003年9月16日対中日ドラゴンズ)
  • イニング最多被安打 10本(1994,1997,1998,2003に4度)
  • イニング最多被本塁打 3本(多数)
  • イニング最多与四死球 10個(1978年7月6日対広島東洋カープ)
  • イニング最多奪三振 4個(1997年7月4日対阪神タイガース3回、2005年4月6日対横浜ベイスターズ6回)
  • イニング最多失点 12点(2003年9月16日対中日ドラゴンズ6回)
  • 最多連続試合完封勝利 4試合(9度・日本記録)
  • 最多連続イニング無失点 50イニング(1966年6月15日 - 6月22日)
  • 最多連続試合被本塁打 18試合(2001年8月11日 - 9月2日)

歴代本拠地

後楽園球場(写真右下)
東京ドーム(写真中央)
後楽園競輪場(左写真中央)の跡地に東京ドームは建設された。