1817年に譲位した光格上皇
2020年(令和2年)1月1日現在、直近の例で譲位した第125代天皇の明仁(歴代天皇の中で、59人目の譲位した天皇)。
天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づいて、譲位後は上皇となる。

譲位(じょうい)は、君主が存命中の間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。

本項では、主に日本天皇における譲位」について記述する。

概説

譲位は通常、バチカン市国におけるローマ教皇マレーシアにおける国王等のいわゆる選挙君主制の事例を除き、終身制が慣例ともされる君主制(対義概念:共和制)において、世襲を原則とした地位の継承を指し、地位の継承先に関わらず君主がその地位を手放すことを退位(たいい)、地位継承の規定や慣例に沿わない者に対して地位を譲ることを禅譲(ぜんじょう)、譲位によって地位を譲り受けて即位することを受禅(じゅぜん)という。

2016年平成28年)7月13日以降の天皇明仁(第125代天皇)の譲位(報道上の用語は、生前退位)の意向を示す報道で、NHKを筆頭に、ほぼ全てのメディアで『生前退位』(せいぜんたいい)との表現が用いられたが、同年10月20日の誕生日の談話で美智子皇后は「新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。」と述べ、表現に違和感があったことを明らかにした。それ以降、天皇が意向を関係者に示すときに実際に使った言葉は「譲位」であることが明らかになっている。その後、譲位や「譲位・退位」という表現での報道がみられるようになった[1][2]

譲位は、後継者を明確にしてその当事者への教育管理ができるという利点を含んだシステムであり、このシステムは「隠居」という形で日本社会全体に定着している[3]

天皇の譲位

日本において最初の譲位は645年に行われた皇極天皇(第35代)から孝徳天皇(第36代)への譲位とされており、神武天皇(初代)から徳仁(126代)まで過去125回の皇位継承のうち、59人57代の皇位継承が譲位によって行われている[3]

過去、譲位した天皇は太上天皇(読み:だじょうてんのう)、略称:上皇(読み:じょうこう)の尊号を受けており、太上天皇(上皇)の尊号を授けられた最初の事例は持統天皇(第41代)となる[4]。また、上皇となった天皇が再即位(重祚)した例もある。

譲位は皇位継承の争いを封じ込めるだけではなく、仏教伝来以降、死を穢れとする考え方が強まり、天皇が在位中に崩御することはタブー視されるようになったためでもある[3]

江戸時代後水尾天皇(第108代)は、紫衣事件など、天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行いに耐えかね、幼少の女性皇族であった興子内親王(読み:おきこ、後水尾天皇第二皇女子、後の明正天皇/第109代)へ譲位を行った。この譲位は、「幕府に対する天皇の抗議」という意味で捉えられている。

ただし、譲位がたとえ君主の意思表示であったとしても、それだけでは不可能である。譲位の儀式(譲国の儀)および譲位後の上皇の住居である御所造営には莫大な費用がかかり、朝廷がそれを負担できなければ譲位は行えなかった。実際、室町時代室町幕府の財政支援で儀式を行った後花園天皇(第102代)と安土桃山時代豊臣秀吉政権の支援で儀式を行った正親町天皇(第106代)の間の戦国時代に在位した3代(第103、104、105代)の天皇(後土御門後柏原後奈良天皇)は全て在位したまま崩御した[5]

1780年(安永8年)に即位、1817年文化14年)に仁孝天皇へ譲位し1840年天保11年)に崩御した光格天皇(第119代)は、太上天皇の尊号を奉呈された最後の天皇となった。

1889年明治22年)に制定された大日本帝国憲法及び旧皇室典範第10条にて、「天皇の崩御によって皇位の継承が行われること」が規定され、「天皇の譲位を認めないこと」が明文化された[6][7][8][9][10] 。当初、宮内省図書頭井上毅が策定した旧皇室典範原案では譲位に関する規定が盛り込まれていたが、高輪会議と呼ばれる会議にて当時内閣総理大臣であった伊藤博文が異を唱え典範から削除された[11]

1947年昭和22年)に施行された日本国憲法に基づく現行皇室典範においても、「皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われること[12]」を定めており、天皇の譲位は認められていない[13][14][15][10]。これらの制度や法律について、2016年平成28年)8月8日に、当時第125代天皇であった明仁が「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を表明した[16]

こうして、天皇の退位等に関する皇室典範特例法2017年(平成29年)6月16日に制定された。2019年/平成31年4月30日23時59分を以て明仁は退位、翌日の2019年/令和元年5月1日午前0時0分を以て皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位・践祚、退位した天皇は上皇となり、約200年ぶりの譲位が実現した。

譲位した天皇の一覧

- 譲位時
年齢
01 035 皇極天皇[17] 051歳
02 041 持統天皇 052歳
03 043 元明天皇 054歳
04 044 元正天皇 044歳
05 045 聖武天皇 048歳
06 046 孝謙天皇[18] 040歳
07 047 淳仁天皇 031歳
08 049 光仁天皇 071歳
09 051 平城天皇 035歳
10 052 嵯峨天皇 038歳
11 053 淳和天皇 047歳
- 054 (仁明天皇) 040歳
12 056 清和天皇 027歳
13 057 陽成天皇 015歳
14 059 宇多天皇 030歳
15 060 醍醐天皇 046歳
16 061 朱雀天皇 023歳
17 063 冷泉天皇 019歳
18 064 円融天皇 025歳
19 065 花山天皇 018歳
20 066 一条天皇 031歳
21 067 三条天皇 040歳
22 069 後朱雀天皇 035歳
23 071 後三条天皇 038歳
24 072 白河天皇 033歳
25 074 鳥羽天皇 020歳
26 075 崇徳天皇 022歳
27 077 後白河天皇 031歳
28 078 二条天皇 023歳
29 079 六条天皇 003歳
30 080 高倉天皇 018歳
31 082 後鳥羽天皇 018歳
- 譲位時
年齢
32 083 土御門天皇 015歳
33 084 順徳天皇 024歳
34 085 仲恭天皇 003歳
35 086 後堀河天皇 021歳
36 088 後嵯峨天皇 026歳
37 089 後深草天皇 017歳
38 090 亀山天皇 025歳
39 091 後宇多天皇 020歳
40 092 伏見天皇 033歳
41 093 後伏見天皇 013歳
42 095 花園天皇 021歳
43 096 後醍醐天皇 051歳
44 098 長慶天皇 040歳
45 099 後亀山天皇 042歳
- 北1 光厳天皇
- 北2 光明天皇
- 北3 崇光天皇
- 北4 後光厳天皇
- 北5 後円融天皇
46 100 後小松天皇 035歳
47 102 後花園天皇 045歳
48 106 正親町天皇 069歳
49 107 後陽成天皇 039歳
50 108 後水尾天皇 033歳
51 109 明正天皇 020歳
52 111 後西天皇 025歳
53 112 霊元天皇 033歳
54 113 東山天皇 034歳
55 114 中御門天皇 033歳
56 115 桜町天皇 027歳
57 117 後桜町天皇 030歳
58 119 光格天皇 046歳
59 125 明仁 085歳

譲位の主な理由

「帝室制度史 第3巻」より[19]

天皇の譲位についての議論(平成)

(左)2019年(平成31年)4月30日を以て譲位(退位)した上皇 (右)2019年(令和元年)5月1日に第126代天皇に即位した今上天皇 (左)2019年(平成31年)4月30日を以て譲位(退位)した上皇 (右)2019年(令和元年)5月1日に第126代天皇に即位した今上天皇
(左)2019年(平成31年)4月30日を以て譲位(退位)した上皇
(右)2019年(令和元年)5月1日に第126代天皇に即位した今上天皇

天皇の譲位は現皇室典範においては規定がなく、想定がされていなかった。これに対し、2016年(平成28年)5月半ばから風岡典之宮内庁長官や河相周夫侍従長らの会合で検討はされていたが[20]、明仁は、2016年(平成28年)8月8日に「おことば」として意向を表明[16]し、内閣では、2016年(平成28年)10月17日より「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」を開催している[21][22]

2017年(平成29年)6月9日の参議院本会議で、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(以下「退位特例法」)が可決・成立。退位時期は法案成立から3年以内に政令で定めることになった[23]。さらに同年12月1日に開かれた皇室会議において、天皇明仁の退位日が正式に決定し、退位特例法の施行日を定めた政令が公布された。そして退位特例法に基づき、2019年(平成31年)4月30日を以って明仁は退位、翌日令和元年(2019年)5月1日午前0時0分に皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位し、憲政史上初めての譲位が実現された。なお退位した後の明仁の称号は「上皇」(読み:じょうこう)であるが、これは特例法に基づいたあくまで正式な称号であり、光格上皇以前の歴史上用いられた「太上天皇」の略称ではない

譲位(退位)賛成・容認側の意見

  • 摂政は天皇の形式化を招きかねず、「象徴」としての役割を果たせない[24]
  • 天皇は皇居の奥に引き下がり、高齢化に伴う限界は摂政を置いて切り抜けようというのは、陛下が積み上げ、国民が支持する象徴像を否定することにつながりかねない[24]
  • 摂政制度はあくまで緊急時に起動するシステムである[24]
  • 摂政は「天皇の政務を奪った」という自責の念を感じてしまう[25]
  • 摂政を設置すると、国民から見て、「天皇とどちらが象徴か」という危惧が起きる[26]
  • 宇佐美毅宮内庁長官(当時)は、昭和39年(1964年)の国会答弁で「摂政の場合は、天皇の意思能力がむしろほとんどおありにならないような場合を想定している」と説明している[25]
  • 「象徴的行為」は、天皇に一身専属するもので、摂政には代行できない[27]
  • 公的行為の範囲が法的に定義されておらず、委任という考え方になじまない。

譲位(退位)反対・慎重側の意見