とよはしし
豊橋市
YoshidaJo Toyokawa.JPG
Futagawa-shuku Honjin Museum - Entrance.jpg
Playground BotanicalGarden.jpg
Toyohashi Gion Maturi.JPG
ToyohashiSkyline02.jpg
Flag of Toyohashi, Aichi.svg Emblem of Toyohashi, Aichi.svg
豊橋市旗
1963年7月1日制定
豊橋市章
1909年6月6日制定
日本の旗 日本
地方 中部地方東海地方
都道府県 愛知県
市町村コード 23201-7
法人番号 3000020232017 ウィキデータを編集
面積 261.86km2
総人口 372,449[編集]
推計人口、2020年4月1日)
人口密度 1,422人/km2
隣接自治体 豊川市新城市田原市
静岡県浜松市湖西市
市の木 くすのき
市の花 つつじ
市の歌 豊橋市歌、躍進
豊橋音頭、ちぎり音頭
豊橋市役所
市長 佐原光一
所在地 440-8501
愛知県豊橋市今橋町1番地
北緯34度46分9秒東経137度23分29.5秒座標: 北緯34度46分9秒 東経137度23分29.5秒
豊橋市役所
外部リンク 公式ウェブサイト

豊橋市位置図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

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名鉄電車と豊橋市街地遠景
豊橋市中心部広小路通
豊橋市中心部駅前大通

豊橋市(とよはしし)は、愛知県にある東三河地方の中心都市であり、同地方の人口の約半数を占める。中核市に指定されている。人口は愛知県において一宮市に次いで5位である。

概要

吉田城吉田大橋(のち豊橋)

愛知県の南東部に位置する。東三河地方における経済・交通の中心であり、愛知県の県庁機能の一部を有している[1][2]。人口約67万人の豊橋都市圏[3]を形成している。ただし2015年には昼夜間人口比率は97%まで低下している[4]

中世から江戸時代まで市の中心部は吉田(よしだ)と呼ばれていた。吉田という地名は全国各地にあったため、三州吉田と呼ばれることが多かった。

吉田は豊川朝倉川の合流地点であり、渥美郡宝飯郡、そして八名郡の境目に当たる。江戸時代には 吉田藩城下町吉田宿宿場町豊川水運で栄えた湊町であった。明治2年6月(1869年)の版籍奉還で、吉田から豊橋に改称した。

市徽章は、江戸時代末、吉田城に8代君臨した長沢・松平大河内(ながさわ・まつだいら・おおこうち)家が用いていた馬印を横から見た形の千切(ちぎり)である。

三河港と豊川用水を擁し、貿易港と農業を主軸とする。16世紀の今橋城(のち吉田城と改称)建築以来、東三河の中心に台頭し、江戸時代は特に、三州吉田藩の城下町、東海道五十三次吉田宿二川宿があった。幕末の石高は7万石であり、岡崎藩西尾藩を上回って三河国内では最大だった。

市名の由来

吉田と今橋

伊勢神宮の神領の一覧表である神鳳鈔に、吉田御園と記載があり、神宮雑書にも、建久3神領注文、外宮領、承平年間宣下、長寛1免租。神宮雑書・建久3神領注文 = 吉田御園、外 = 給主故少納言重綱(藤原ヵ)所由 = 件御園、雑(新ヵ)神戸内往古神領也、承平以後官符宣旨重畳之上、長寛元年重被下奉免宣旨也 = 供祭物、上分米3石、雑用料17石、件上分米近年不究済之・神鳳鈔 = 吉田御園 = 外宮上分3石菓子、雑用20石・諸国御厨御園帳 = 吉田御園 = 3石、菓子、栗6篭。このことから、平安時代には、吉田の地名が確認できる。

今橋の初見は、応永5年11月21日の足利義満御判御教書の今橋御厨である。

貞応3年(1224年)頃の豊川は飽海川と呼ばれており、そこに架けられた橋の名前が今橋とされた。その後、大永2年(1522年)頃に今橋から吉田と改名されたという[5]

牧野氏による吉田城築城のくだり(牛窪記)や、天文年中の牧野氏・今川氏の書状に見え、今橋跡職、名字之知にて御座候間、という今川氏への訴状。藩翰譜の牧野氏の項目に、今橋城が吉田城と改名されたという解説。天文年中の今川氏の書状で三州吉田という用語が見え、今橋が使用されなくなっている事実などから、牧野氏が治めていた時代には今橋が使用されていたが、今川氏が直轄支配の時代になると、吉田がもっぱら使われ、今橋は使用されなくなる。

徳川家の史料である三河物語家忠日記では一貫して吉田となっており、伊勢神宮の史料でも吉田御園であり、今川氏による三河国領土化・吉田城の取得以後、一貫して吉田と呼称され、今橋が廃号となっていることなどからも、今橋が吉田に改称されたとは言い切れないだろう。

遊嚢賸記には、今橋ハ渡津ノ今道ヘカケタル故ノ名ナルベシ、という記述があり、東関紀行の文中にある、渡津の今道、という文言に今橋は由来するという。

明治維新により豊橋と改名

前述の通り明治新政府は当時の三河国吉田藩の藩名が伊予国吉田藩(宇和島藩の支藩)(旧愛媛県北宇和郡吉田町、現愛媛県宇和島市)に似て紛らわしいとのことで藩名変更の命を下した[6]。その命を受け藩主は「豊橋、関屋、今橋」の3つの名を選んだ。新政府はその一番目の「豊橋」を採用して、正式に「豊橋藩」という藩名とすることを命じた。その後廃藩置県の後も豊橋の名が使われる。

豊橋(とよはし:吉田大橋)

『三州吉田記』の記述にあるように、酒井忠次の吉田川(豊川)への架橋以前に、橋は存在しておらず、鎌倉時代の史書(『東関紀行』・『海道記』・阿仏尼の『うたたねの記』および『十六夜日記』)にも、川の浅瀬を渡っていることが記述されている。 徳川氏の武将の酒井忠次が、1570年元亀元年)、関屋口から下地にかけて吉田川(豊川)に吉田大橋(土橋)を架ける土木工事を実施した。[7]その後、池田輝政が、船町を整備し前城主・酒井忠次が吉田川に架けた土橋の吉田大橋を木橋に架け替え、その位置も整備した下流の船町に移動させた。『三州吉田記』に「元亀元年、関屋之渡口始メテ土橋ヲ架ス」とあり、1591年天正19年)にこの土橋を船町へ移すと記す。江戸時代には、江戸幕府が整備、管理する長さ120間の大橋であった。

この船町の吉田大橋(吉田橋)は、明治時代に架け替えた時、とよはしと名称を変更した。さらに、昭和に入ってから国道1号を整備した際、その上流(関屋口から下地)に新たに掛けられた橋を、以前の船町で呼称していた吉田大橋(よしだおおはし)と、再び名付けた。この国道整備により、かつての東海道は愛知県道496号白鳥豊橋線として県道になり、正式にはもともと架かっていた県道の大橋(西側の橋)の名を豊橋(とよはし)とするようになった。ただ、市名と橋名を区別するため、橋名を(とよばし)と呼ぶようになった。国土交通省は、豊橋(橋)の名前を(とよはし)として、登録している。

豊川(とよかわ)・豊川(とよがわ)の違い

豊川(とよわ)というのは、古代律令制の三河国宝飯郡豊川郷に由来する。平城宮出土木簡に「参河国寶飯郡豊川郷」。長岡京出土木簡に、「延暦10年豊川里」。鎌倉時代になって鎌倉街道が整備されると「豊川宿」として機能した。鎌倉時代の史書では『海道記』に「豊河の宿」とある。『東関紀行』に「豊川といふ宿」と記載される。そして、現在の愛知県豊川市に至る。

豊川(とよわ)は、古代律令制では飽海川(あくみがわ)と呼ばれた[要出典]。飽海(あくみ)とは渥美郡のことであり、7世紀までは、飽海(あくみ)と書かれたことが835年承和5年)の木簡(太政官符)で確認されている。その後、室町時代から江戸時代までは吉田川と呼ばれた。[要出典] ことが『三河国聞書』から確認できる。1622年元和8年)成立の『三河物語』においても、吉田河と記載されている。1849年嘉永2年)の『徳川実紀』においても、吉田川と記載されている。愛知県図書館所蔵の江戸後期の三河国図においても、吉田川と記載されている。

中世から江戸時代まで、豊橋は吉田(三州吉田)と呼ばれていた。明治2年6月の版籍奉還で、吉田を豊橋と改めた。明治2年9月に成立した伊那県足助庁作成の三河国全図に、豊川(とよがわ)と記載されている。

地理

豊橋市中心部周辺の空中写真。市街地の北部を豊川が曲流する。1988年撮影の37枚を合成作成。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。

愛知県の南東部に位置している。渥美半島の付け根部分であり、豊橋平野の上に市域が広がっており、高い山はほとんどない(主な山は北東部の石巻山(358メートル)など)。南部は高師原天伯原と呼ばれる台地となっている。市内を、豊川梅田川などが流れ、北東部は低い山々(弓張山地)が存在し、静岡県との境界を形成している。市西部の豊川、梅田川河口は三河湾と、市南部沿岸は太平洋と接している。

太平洋岸は片浜十三里(表浜海岸)と呼ばれ、ウミガメの産卵で知られる。三河湾と接する地域は大規模な埋め立て地があり、工業地の他、神野新田など穀倉地帯となっている

中心部を東海道が横断し、吉田宿二川宿など古くから城下町、宿場町として栄えた。現代でも東海道沿いに中心部を国道1号JR東海東海道新幹線東海道本線名古屋鉄道名古屋本線が通っている。三河湾岸の三河港は、自動車や貨物などの輸出入の重要拠点となっている。

気候は年間を通じて比較的温暖であり、冬季の降雪や積雪はほとんどない。

地形

山地

主な山