逆恨み(さかうらみ)とは、元来以下のような意味である。
ただ、近年においてはいわれのない恨みを無関係な第三者に向けることや、それによって引き起こされた犯罪を指して「逆恨み的犯行」と表現することもある。
なお本来の意味からいえば、無関係なものを恨むことを指すのは誤用ではあるが、こういった恨みの形態は防衛機制のうち「投影(投射)」の一種で、社会的にもネガティブ(否定的)な感情と解される。本項ではそういった「逆恨み的」な感情も合わせて説明する。
逆恨みは、この恨みを発する主体から見れば、自身に非(行いの悪いこと、犯罪の原因など)があるにもかかわらず、それらを棚に上げ「他に問題があるから発生する正当な怒りだ」と位置付けることや、そういう価値観・感情に基く行動のことである。特に対象とされた側が善意でその者に働き掛けをしている場合や、逆恨みを受ける側に非がなかったり、あるいはそれだけの恨みを被るほどではないにもかかわらず攻撃されることでもあるため、そもそもそういった恨み自体が社会一般においては不当で理不尽なものとして扱われる。
しばしば子供など社会性の未発達な者の社会において正義は主観的なものであり、「勝てば官軍」という図式になる。このような状況では勝負や喧嘩の勝ち負けこそが重視され、結果的にことの可否は顧みられないが、それでは社会秩序は成立しない。この危険性にもより、多くの社会では道徳や人道ないし法律(刑法)など、客観的で普遍的な価値判断基準により公正な正義の行使が行われている。
逆恨み的な感情では、前述の通り恨みを被る側が全く無関係な第三者である場合もみられる。例えば通り魔(スプリー・キラー)では、犯人側の恨みは社会全般や特定の集団などに向けられており、結果として社会の構成要因の一部である、往来を歩いていた人や学校という施設に集まった無関係な子供らなどに向けられる。これらは被害者にしてみれば理不尽極まりない扱いであるが、当人の主観(→客体)では「社会に対する復讐」である。
多くの場合においては、逆恨みは特定の個人に向けられる。例えば「A」が「B」の行為を注意した場合、注意された「B」がなぜ注意されたのか、その理由を認識できなければ不当な迫害と感じたり、場合によっては差別など他の理由付けに伴う批判だと感じることもある。こういった「A」「B」双方の主観的な判断の食い違いによって、逆恨みの関係が成立する。もちろん注意した「A」の側がそういった批判を発した理由の中にステレオタイプや過去の他の原因によるものなど、実際には批判する行為・対象とは直接関係しないものが含まれる場合もあるかもしれないが、大筋において「A」の批判が正しいのであれば、それは逆恨みの範疇に含まれる。