たかつきし
高槻市
130928 Settsu-kyo Gorge Takatsuki Osaka pref Japan03s3.jpg
200111 Takatsuki Catholic Church Takatsuki Osaka pref Japan05s.jpg
Flag of Takatsuki, Osaka.svg Emblem of Takatsuki, Osaka.svg
高槻市旗 高槻市章
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 大阪府
市町村コード 27207-8
法人番号 4000020272078 ウィキデータを編集
面積 105.29km2
総人口 347,624[編集]
推計人口、2020年4月1日)
人口密度 3,302人/km2
隣接自治体 枚方市茨木市寝屋川市摂津市三島郡島本町
京都府亀岡市京都市
市の木 ケヤキ
市の花 ウノハナ
市制記念日 1月1日
高槻市役所
市長 濱田剛史
所在地 569-0067
大阪府高槻市桃園町2番1号
北緯34度50分45.6秒東経135度37分2.1秒座標: 北緯34度50分45.6秒 東経135度37分2.1秒
高槻市役所
外部リンク 公式ウェブサイト

高槻市位置図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町・村

特記事項 市外局番:072(市内全域)
 表示 ウィキプロジェクト

高槻市(たかつきし)は、大阪府北摂三島地域に位置する中核市に指定されている。

「水とみどりの生活文化都市」がキャッチフレーズ。大阪市京都市とのちょうど中間に位置し[1] 、二大都市のベッドタウンとして発展している。市章も、大阪市と京都市の市章を融合させたデザインとなっている[2]

地名の由来

「高槻」の地名の由来は、2つの説がある。

  • 古事記』や『日本書紀』にある神武東征の時に、大和で長髄彦一族に苦しめられた。そこで道臣命可美真手命を東征軍の長に任じ、征伐に成功したことから天皇は三島の土地を与えた。その軍隊の旗印が月をかたどっていたので、褒美に貰った土地を「高月」と呼ぶようになったという説。
  • 安満庄にあった天月弓杜(あめのつきゆみのやしろ)が高月読杜(たかのつきよみのやしろ)とも呼ばれ、そこからその一帯は「高月」と呼ばれたという説。

「高月」が「高槻」に転じた理由は、槻(の古称)の大木があり、戦国時代に槻の近くに本陣が立てられたことから、月を槻に変えたとされる[3]

地理

高槻市中心部周辺の空中写真。1987年撮影の6枚を合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。

大阪府の北東部に位置し、東西10.4km・南北22.7kmと、市域は東西に狭く、南北に広い。北端を北摂連山・南端を淀川で区切られ、地勢は北高南低になっている。市内最高標高はポンポン山の678.7m、最低標高は柱本の淀川河川敷で3.3m。

大阪から21.2km、京都から21.6km[注釈 1]と、京都大阪間のほぼ中央に位置する。市域面積は105.31km2、広さは府内第4位[注釈 2]で、大阪府の5.6%を占める。市域の33.29km2 (31.6%) が市街化区域となり、残りの72.02km2 (68.4%) が市街化調整区域として開発が制限されている。市街化率は北摂7市の中で最も低く[注釈 3]、山林や農地が多く残されている。主な市街化調整区域は、保安林近郊緑地保全区域に指定され、市域の48%を占める北部の山林[注釈 4]、南部の三箇牧地域、東部の五領地域、郡家や土室などがあり、三箇牧地区、五領地区、樫田地区は農用地区域としても農地が保全されている[注釈 5]

山裾には大小500基以上の古墳を有する三島古墳群が拡がり、古代・山陽道西国街道)が市内中央部を東西に通り、交通の要所として街道沿いに発展し、郡衙宿場などが作られた。古代・河内湾により高槻付近まで海が迫っていたことから、津之江の地名が残り、筑紫津が作られ、九州へ出発する港が整備されていた。淀川では、淀川三十石舟など水運の要所にもなり、前島浜・唐崎浜・三島江浜などの河港が整備され、柱本でくらわんか舟が誕生した。鵜殿は奈良時代には都の牧場として使われており、鵜殿や大塚には対岸の枚方市との渡し場があった。六玉川のひとつ三島の玉川や三島江、芥川などは歌枕として有名。

地勢

北部は北摂山系になり、主な山には、ポンポン山、三好山(みよしやま)、黒柄岳(くろがらだけ)、明神ヶ岳(みょうじんがだけ)、高ヶ尾山(たかおさん)、阿武山(あぶやま)がある。主な川には、南東から市の南端に沿って流れる淀川をはじめ、北から南へ市内中央部を流れる芥川や、女瀬川(にょぜがわ)、桧尾川など12の一級河川があり、新川など5つの準用河川がある。

JR京都線阪急京都本線を中心に市内中央部から周辺部へと市街地が拡がっている。北部は大半が山間地で、南部は大阪平野北部を形成する三島平野の低地が広がる。北から、700m以下の山間部、山地に囲まれた田能盆地や原盆地、服部谷、成合谷等の農村部、高槻丘陵や奈佐原丘陵といった丘陵地に広がる日吉台、安岡寺、南平台、奈佐原等の住宅地、歴史的な街なみが残る標高10 - 30m程の富田台地と続き、大阪平野を形成する標高10m以下の沖積低地が広がる。市内には国道170号線と国道171号線が走り、丘陵部を東西に名神高速道路が貫通している。市北部には新名神高速道路高槻インターチェンジがある。

地形

高槻市の地形的特色としては、山地谷底平野丘陵地台地沖積低地の5つに区分される[4]

高槻市を上から見ると、北半分は丹波高地に連なる北摂山地へ楔形に食い込んだ形をしており、市北部の北摂山地は、堅く固結した古生代の堆積物である丹波層群でできている。山地は標高700m以下の低山性山地で、大阪平野に面する斜面は急だが、山頂部は定高性[注釈 6]が強く、高原状の地形を形成している。

北摂山地の川や谷に沿って形成されている谷底平野は、小低地で、芥川の源流部にある田能盆地、中流の原盆地や服部谷、桧尾川中流の成合谷などがあたる。田能盆地は樫田地区を中心とする地域で、標高は330 - 360m、周りをさらに150mほど高い山地に囲まれている。原盆地・成合谷は、ポンポン山の山裾と高槻丘陵との間に挟まれた谷底平野で、標高は、原盆地で100 - 130m、成合谷で20 - 50m、河川に沿って南北に長い平面型となっている。服部谷は、摂津峡の南端から南南東に伸びる谷で、谷の両側を丘陵地に挟まれ、面積のほとんどが扇状地となっている。

北摂山地と淀川低地とが接する市中央部には、鮮新世末期 - 更新世前期の堆積物である大阪層群で構成される丘陵部があり、日吉台、安岡寺、南平台、奈佐原といった住宅地が形成されている。高槻丘陵は、ポンポン山の山裾から南側に広がる丘陵地で、北部の標高は100m以上で自然が残され、南部は50 - 110m、比較的起伏が小さく住宅街が広がる。高槻丘陵の西には、標高50 - 100m奈佐原丘陵があり、さらに奈佐原と南平台に分けることができる。

更新世後期の富田礫層に覆われた富田台地が、丘陵部から南方へ突き出た形に伸びている。富田台地は、標高10 - 30mの舌状台地で、北西端が継体天皇陵、南西端に総持寺、南東部に富田寺内町といったものを有する。

市域の南半分が、大阪平野の北部を形成する淀川低地にあたり、その全域が沖積層である。 大部分が標高10m以下の低湿地で占められ、排水が悪い低湿な後背湿地氾濫平野が広がり、小規模な島状の高台が散在している。

市内北部を有馬-高槻断層帯が東西方向に通過し、山地部にも「大沢」や「萩谷」などの推定活断層が通る。

高槻市中心街と北摂山系

気候

高槻市
雨温図説明
123456789101112
 
 
66
 
15
-1
 
 
118
 
18
0
 
 
110
 
22
2
 
 
77
 
29
4
 
 
68
 
30
10
 
 
132
 
33
15
 
 
271
 
34
19
 
 
89
 
35
20
 
 
44
 
33
17
 
 
111
 
28
12
 
 
138
 
24
4
 
 
37
 
17
0
気温(°C
総降水量(mm)
出典:平成22年(2010年)度版 高槻市統計書

平野部を中心としたほとんどの地域が、夏や冬に降水量の少ない瀬戸内海気候の周辺部に位置し、北部の山間部は日本海側気候の影響を受け、冬には降雪が見られる。年間平均気温は、16℃前後で、湿度は67%前後。ポンポン山などの山間部では平均風速6m/sを超える地域があるが、市内の年間平均風速は3.1m/sで、異常気象を除き、年間を通じてあまり大差がない。風向きは概ね、春は北から西、夏から秋にかけては東から北、冬は西ないし北から吹く。1970 - 2007年までの降水量の年平均は1,318mm。平均気温の推移をみると、市街地の形成に伴い、ヒートアイランド現象等もあり、1980年代以降上昇傾向にある。

高槻市消防本部の観測による2009年の年間気象は、気温が年平均16.5℃、最高35.4℃、最低-0.5℃。降水量は年間1,259.1mm、降水日数121日。湿度は年平均70.1%、最高100%、最低13%。風速は年平均3.1m/s、最大風速17.9m/s。表は2009年のもの。

歴史

今城塚古墳
淀川水運の拠点であった三嶋江。浪花百景より

高槻に人が住み始めたのは、約2万年前の旧石器時代で、郡家今城遺跡で生活跡が発見されている。その後弥生時代になり、安満遺跡では三島地方で最初の米作が開始された。古墳古代は摂津国嶋上郡にあたる。日本でも有数の古墳群地帯で、真の継体天皇陵とされる今城塚古墳など古墳時代初期から末期までの各時代の古墳が現存している。新池遺跡(今城塚古墳附(つけたり)新池埴輪製作遺跡として国の史跡に指定)は日本最古(5 - 6世紀)最大級の埴輪工場で新池遺跡ハニワ公園として保存・公開されている。 7世紀末に役小角により神峯山寺が開創され、修験霊場七高山の一角とされるほど栄えた。 「たかつき」の地名が初めて史料に出てきたのは、鎌倉時代にあたる14世紀ごろ、奈良の春日神社の荘園であった「安満庄」の耕地目録の中に、「麦下地 高月二町十歩」「野畠 高月七反半」とみえる[5]

室町時代には、富田が一向宗(浄土真宗)北摂布教の拠点として栄える。この頃の史料には「高槻」の地名が見られる。

戦国時代には、三好長慶高山右近が拠点とする。

安土桃山時代には、高槻領主高山右近がキリシタン大名だった影響でキリスト教が広がり、1581年には日本で最初の復活祭がいとなまれた[6]

江戸時代には山陽道の流れをくむ西国街道参勤交代などに利用され、芥川宿は六宿駅の一つとして栄える。富田は8,000石余りを醸造する酒蔵として栄える(高槻藩を参照)。富田は酒所として栄えた。

江戸時代に日本を欧州に初めて体系的に紹介したオランダ商館付医師エンゲルベルト・ケンペルは、1691年2月28日、長崎から江戸に行く途中、大阪から守口、枚方、橋本、淀、京都の順に旅をし、昼食をとった枚方から高槻を望み、そこに「左側のほうに、地元の君主の白い城が大変美しく際立って見えた」と記録している[7]

明治時代には隠れキリシタンの里として発展した。

JR高槻駅

1970年代以降、大阪市及び京都市のベッドタウンとして宅地開発が進み人口が急増、1975年には30万人の大台に到達した。その後も順調に増加を続け、1995年には362,270人と統計上過去最高を記録した。しかしその後少子高齢化の進展や都心回帰などの影響により人口は減少に転じ、2005年には351,802人となった。ただ大阪府の調査・推計では2004年初頭を境として高槻市の人口動態は社会減から社会増に転じており、依然続く自然増と併せて人口動態そのものは年々改善している。これはJR高槻駅周辺の再開発によって市中心部の商業機能が向上し、市内の生活がより便利になったため周辺地区からの流入が増えたことが理由と見られる。

なお市内の人口動態については、主に居住用のマンション建設が相次いでいる摂津富田駅、高槻駅周辺では増加、市北部の山際に広がる団地群や市南部の淀川近くに広がる旧来の市街地においては減少という形になっている。市への流入者は多くが近畿圏内から来るが、近年は東京など首都圏からの移住も見られるようになった。

行政区域の変遷