高野参詣道こうやさんけいみち)は、弘法大師(空海)が開創した日本を代表する真言密教の聖地「高野山」に参詣する為の参詣道である。主たる参詣道として「高野七口」と呼ばれる7つの参詣道があり、また、その「高野七口」に繋がる「その他参詣道」がある。

概略

高野山は、和歌山県北部の伊都郡高野町に位置し、周囲が1,000m級の山々に囲まれている盆地である。外界から聖地「高野山」へ通じる入り口が7つあり、それら入口に繋がる参詣道は峠を進み、中には険しい道もある。弘法大師(空海)が切り開き、かつて最もよく使われたとされる主要参詣道「町石道」等、参詣者の出発地点に応じた7つの参詣道が、聖地「高野山」の入口へと繋がる。それら入り口と、それに繋がる参詣道は、総称して「高野七口」と呼ばれている[1][2]。また、主たる参詣道である高野七口以外に、高野七口に繋がるその他参詣道がある。

高野参詣道の内、高野七口と呼ばれる外界から高野山への入り口7つと、それに繋がる各参詣道を「入口名 - 参詣道名」として、次にあげる。

上記以外の、その他参詣道を、次にあげる。

女人堂は、高野七口参詣道の到着地点である聖地「高野山」への入り口に置かれた女性の為の籠り堂として置かれた参籠所であり、高野山奥の院にある弘法大師御廟遥拝所である。1872年(明治5年)に女人禁制が解かれるまで、聖地「高野山」への女性の立ち入りが厳しく制限され、その為、女性のための「参籠所」として女人堂が設けられ、女性はそこから先の聖地「高野山」の中へは入れなかった[3]

国の史跡「高野参詣道」の構成資産として、「町石道」「黒河道」「京大坂道不動坂」「三谷坂」「女人道」が指定されている[4]

国の史跡「熊野参詣道」の構成資産の一部として、「小辺路」が指定されている[5]

ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』を構成する「高野参詣道」の構成資産として、「町石道」「黒河道」「京大坂道不動坂」「三谷坂」「女人道」が登録されている。

ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』を構成する「熊野参詣道」の構成資産の一部として、「小辺路」が登録されている[6]

高野七口

各地域からの高野参詣道が高野山に近づくにつれ次第に集約されいき、最終的に7つの参詣道となる。外界から聖地「高野山」への入り口が7つあり、それぞれの入口に7つの参詣道が繋がり、それら入口と参詣道は、総称して高野七口と呼ばれている[7]

町石道

町石道(ちょういしみち)は、和歌山県伊都郡九度山町慈尊院が起点の参詣道で、高野山内への入り口は大門口である。弘法大師(空海)によって高野山の開創直後に設けられた参詣道であり、表参道といわれている[8]。名前の由来は、参詣道に1町(109 m)ごとに町石が建てられている事による。町石は高野山内の根本大塔を起点とし、慈尊院まで180基あり、そのうち8割以上が鎌倉時代に建立されたもので、かつては町石1本1本に礼拝しながら高野山へ向かったと伝わる[9]。同じく山内の奥の院弘法大師御廟まで36基の計216基が建てられている。四国八十八箇所を歩き遍路し結願した参詣者が、高野山奥の院へ歩いてお礼参りする場合に、お礼参りの道としても利用される[9]。慈尊院から徒歩で高野山上まで6 - 7時間掛かり、参詣道の途中にある丹生都比売神社からでは4 - 5時間、矢立からでは2 - 3時間程度[10]である。

国の史跡「高野参詣道」の構成資産の一部として、「町石道」が指定されている[4]

ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』を構成する「高野参詣道」の構成資産の一部として、「町石道」が登録されている[6]

黒河道

黒河道(くろこみち)は、奈良方面からの参詣道であり、起点は橋本市の定福寺で高野山の入り口は黒川口である。起点から奥の院まで、徒歩で6 - 7時間掛かる。豊臣秀吉が母大政所三回忌の際、歌舞音曲(茶会)禁止という高野山開創以来の戒めを破り能楽を催したところ、一天にわかに掻き曇り、凄まじい雷雨が襲い、禁を破った祟と恐れおののいた秀吉は、単騎一目散に山を駆け降り難を逃れたとの逸話が残る[10]

国の史跡「高野参詣道」の構成資産の一部として、「黒河道」が指定されている[4]

ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』を構成する「高野参詣道」の構成資産の一部として、「黒河道」が登録されている[11]

京大坂道

京大坂道(きょうおおさかみち)は、和歌山県橋本市学文路が起点で、高野山入り口は不動坂口となる参詣道である。京都市八幡を起点とする東高野街道大阪市平野を起点とする中高野街道、大阪市四天王寺を起点とする下高野街道大阪府堺市を起点とする西高野街道、それらが大阪府河内長野市で合流して高野街道に集約される。高野街道は和歌山県橋本市で紀の川を渡り、橋本市学文路から高野町極楽橋を通り高野山内への入り口となる不動坂口に至る。この学文路から不動坂口の区間を京大坂道と呼び、かつて最も多くの参詣者で賑わった高野参詣道といわれている[6][7][10]。また、その京大坂道の極楽橋から不動坂口に至る区間は「不動坂」と呼ばれ、京大坂道における一区画を指し、約 2.7 km と比較的短い距離だが、高低差 310 mの急坂で京大坂道最後の難所であった。特に京大坂道不動坂といった場合は、この不動坂部分のみを指す。京大坂道不動坂は、高野山開創1100年を期に大正時代に大改修が行われ、幅員、ルート共に大幅に変更された新道が作られた[12]。また永らく山に埋もれ忘れられていた旧道が近年整備され、往時の不動坂中の難所とされた「いろは坂」や罪人を突き落としたと言われる「万丈転かし」も見事に蘇っている[2]。かつて高野山が女人禁制の時代に、女性は高野山内へは入れず、高野山内への入り口各7つに、女性の為の参籠所として女人堂が置かれ、女人堂で弘法大師御廟を遥拝したといわれる。京大坂道不動坂の終着地点である不動坂口に、唯一現存する女人堂がある[3]

国の史跡「高野参詣道」の構成資産の一部として、「京大坂道不動坂」が指定されている[4]

ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』を構成する「高野参詣道」の構成資産の一部として、「京大坂道不動坂」が登録されている[11]

小辺路

小辺路(こへち)は、高野山熊野本宮大社を結び、熊野古道と呼ばれている参詣道で、高野山への入り口は大滝口である。距離は約80 km、標高1,000 m以上の伯母子峠、三浦峠、果無峠の三つの大きな山越えがある。高野山からの標準の行程は伯母子手前の大股、伯母子を越えた三浦口、三浦峠を越えた十津川で宿泊すると三泊四日となるが、バスを利用すれば高野山から1日の行程を楽しむことができる[10]

国の史跡熊野参詣道」の構成資産の一つとして、「小辺路」が指定されている[5]

ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』を構成する「熊野参詣道」の構成資産の一部として、「小辺路」が登録されている[6]

大峰道

大峰道(おおみねみち)は、高野山奈良県吉野修験道の行場大峰山を結ぶ道であり高野山への入り口は大峰口である。古くから修験者がよく通った事から、その装束にちなみ「すずかけの道」とも呼ばれている[10]。修験に関係する天川村(奈良県吉野郡天川村)などを経由し、空海作と伝えられる弁財天坐像を本尊とする野川弁財天や石造物など参詣道沿いに多数の宗教施設が存在している[13]。今は歩く人は殆どいないが、昭和の初期まで大峰信仰とも相まって参詣者で賑わったと言われる。また、この道は弘法大師が最初に高野山に入った道とも言われている。奈良県五条からバスを利用して、小代下から高野山奥の院まで徒歩5 - 6時間程度[10]である。

有田・龍神道

有田・龍神道(ありだ・りゅうじんみち)は、和歌山県有田からの参詣道と、和歌山県田辺市龍神からの参詣道が合流し、高野山の入り口は龍神口である。高野山側から見ると、高野山大門より南へ下る道で、花園で西へ向かう有田道と南へ向かう龍神道に分岐する。有田道は四国から等の参詣者が船で有田の北湊に着き、高野山を目指した道で、江戸時代には多くの参詣者があったされるが、現在ほとんどが自動車道となっている。龍神道は南へ向かうと龍神温泉を経て、熊野古道中辺路ルートに出るが、高野龍神スカイラインにある箕峠(みのとうげ)に至る地道は崩落が激しく、ほとんど通行は不能となっている。現在、この道を歩く場合は花園 - 大門が一般的で、ほとんどが舗装道路となっているものの、花園寄りの数キロは地道が残っている。所要時間は徒歩4 - 5時間程度[10]である。

相ノ浦道

相ノ浦道(あいのうらみち)は、中世後期から近世前期に成立した参詣道で、高野山への入り口は相ノ浦口である。高野山以南の参詣者が利用する為だけの参詣道でなく、高野山と比較的近い高野槙の産地として知られる相ノ浦集落とを結ぶ道で[13]、「紀伊名所図会」に織田信長の家臣、佐久間信盛が追放され住み着いた場所と記載されている。高野山中心部から南へ下る国道371号線沿いの西側の尾根を下り、高野七口の中で一番短い古道。霊宝館の東側の道を南に行けば、徒歩2 - 3時間で相ノ浦まで下れる[10]

その他参詣道

三谷坂

三谷坂(みたにざか)は、丹生酒殿神社から丹生都比売神社および町石道に合流する参詣道。町石道の起点である慈尊院の西約4kmに位置し、平安時代12世紀ごろ)に皇族により利用された山麓の丹生酒殿神社を出発し、丹生都比売神社を中継して町石道に合流する町石道の側副路である。慈尊院を出発する町石道よりも距離が短いため、町石道を登るよりも短時間での高野山への参詣が可能であり、町石道よりも水はけが良いとされる。経路沿道には、空海の伝承に係りのある石造物が遺存する。

国の史跡「高野参詣道」の構成資産の一部として、丹生酒殿神社を含め「三谷坂」が指定されている[4]

ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』を構成する「高野参詣道」の構成資産の一部として、丹生酒殿神社を含め「三谷坂」が登録されている[11]

麻生津道

麻生津道(おうづみち)は、西国街道とも呼ばれ、江戸時代には和歌山城下から高野山へ参詣する時の主要参詣道であった。紀ノ川北岸沿いに奈良へ向かう大和街道の高野辻を起点に、紀ノ川を渡り麻生津峠を越えて矢立で町石道に合流する[10]

女人道

女人道(にょにんみち)は、高野七口にある女人堂を巡る道である。1872年明治5年)に女人禁制を解くまでは、高野七口の7つの高野参詣道の各到着地点には、女性の為の籠り堂として女人堂と呼ばれる7つの堂が建立され、女性はそこから先への聖地「高野山」へ入れなかった。それら女人堂を結ぶ高野山周辺の峰々を巡る参詣道が、女人道である。女人信者は女人堂で、弘法大師(空海)御廟を遥拝するために、女人堂から女人堂へ峰々を巡礼したとされる。その為、女人道は高野山の周囲を取り囲むようにあり、高野七口の各参詣道到着地点を繋ぐように存在する。女人道は、女人堂を巡る為の道であり、他の高野参詣道は各地域から高野山へ参詣する為の道である。その為、女人道の参詣道としての意味合いは、他の参詣道とは少し違う。

高野山といっても「高野山」という山があるのではなく、標高千メートル級の山々が連なる山域の総称である。高野山の周囲の山々である外輪山を、古来より「外八葉」と呼ぶ。八葉とは蓮華の花びらを象徴してる事による。また内輪山を「内八葉」と呼び、外八葉と合わせて16葉の山々を金剛界曼荼羅の十六大菩薩に相当させ、蓮の花を象徴する曼荼羅の中心に高野山があるとされる[14]。その外八葉の中で標高が高く、奥の院に近い転軸山(915 m)、楊柳山(1008.5 m)、摩尼山(1004 m)に祀られる菩薩像を巡拝するための道を、女人道の一部でもあるが、別に高野三山巡りの道と呼んでいる[5]。高野三山巡りの道は、徒歩3時間程度で高野三山だけを一周する事ができる[15]

国の史跡「高野参詣道」の構成資産の一部として「女人道」が指定されている[4]

ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』を構成する「高野参詣道」の構成資産の一部として、「女人道」が登録されている[11]

槇尾道

槇尾道(まきおみち)は、空海が得度した大阪府和泉市の槇尾山山腹に位置する槇尾寺(現、施福寺)を起点とし、蔵王峠紀の川を渡り、九度山町慈尊院槇尾山明神社、梨木峠、椎出、高野町神谷を通り、高野七口の一つの京大坂道不動坂で合流する。

1925年(大正14年)に南海鉄道(現、南海電気鉄道高野線)の高野下駅が高野山に最も近いターミナル駅として開業し、高野山へ近い参詣道とし利用され、「新高野街道」とも呼ばれた。その後、1929年(昭和4年)に、高野山電気鉄道(現、南海電気鉄道高野線)が極楽橋駅まで延伸され、1930年(昭和5年)に極楽橋駅 - 高野山駅間に、鋼索線が開通した。1932年(昭和7年)に、南海鉄道(現、南海電気鉄道高野線)と高野山電気鉄道(現、南海電気鉄道高野線)が相互乗り入れをし[16]、参詣道の主体は鉄道となった。

高野七口および、その他参詣道概略図

次の図は、高野七口の7つの参詣道とその他3つの参詣道の位置関係を概略図として示している。

高野七口の7つの参詣道が高野山に集まり、高野山を囲むように存在する女人道(楕円黄線)が、各参詣道と繋がっている。また各参詣道と女人道の交点付近に女人堂が置かれていた。現存する女人堂は、京大坂道と女人道の交点付近にある不動坂口の女人堂だけである。その他参詣道の、三谷坂と麻生津道(西国街道)が、町石道と繋がる。

史跡

国の史跡として「高野参詣道」の名で指定されている。

1977年昭和52年)7月14日に国の史跡として、「高野山町石道」が指定される。2015年10月7日に、既指定の史跡「高野山町石道」に構成資産として、「黒河道」「京大坂道不動坂」「三谷坂」「女人道」が追加指定された際、指定名称が「高野山町石道」から「高野参詣道」に変更となり、構成資産の「高野山町石道」は「町石道」に名称変更された[4]

国の史跡「高野参詣道」の構成資産として、以下の参詣道が指定されている[4]

国の史跡「熊野参詣道」の構成資産の一部として、以下の参詣道が指定されている[5]