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鳥羽天皇
鳥羽法皇画像(安楽寿院所蔵)

即位礼 1108年1月15日(嘉承2年12月1日
大嘗祭 1108年12月24日天仁元年11月21日
元号 嘉承
天仁
天永
永久
元永
保安
時代 平安時代
先代 堀河天皇
次代 崇徳天皇

誕生 1103年2月24日康和5年1月16日
崩御 1156年7月20日保元元年7月2日
安楽寿院御所
大喪儀 1156年7月20日(保元元年7月2日)
陵所 安楽寿院陵
追号 鳥羽院
(鳥羽天皇)
宗仁
元服 1113年1月20日天永4年1月1日
父親 堀河天皇
母親 藤原苡子
皇后 藤原泰子(高陽院)
藤原得子(美福門院)
中宮 藤原璋子(待賢門院)
子女 崇徳天皇
後白河天皇
近衛天皇
統子内親王(上西門院)
暲子内親王(八条院)
姝子内親王(高松院)
ほか(后妃・皇子女節参照)
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鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽1103年2月24日康和5年1月16日〉- 1156年7月20日保元元年7月2日〉)は日本の第74代天皇(在位: 1107年8月9日嘉承2年7月19日〉- 1123年2月25日保安4年1月28日〉)。宗仁(むねひと)。

堀河天皇の皇子。母は贈皇太后藤原苡子。子の崇徳天皇近衛天皇後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた

来歴

生後間もなく母・苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育された。誕生から7か月で立太子され、父・堀河天皇の死後、5歳で即位する。幼いころの大病がもとで、病弱な体となる。

幼い鳥羽天皇は政務を執る事ができず、また当時の摂関の藤原忠実は立場が弱く白河法皇の風下にあり、実際の政務は白河法皇が執った。永久5年(1117年)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年には中宮となり5男2女を儲ける。保安4年(1123年)1月23日、第一皇子・崇徳天皇に譲位、その後も実権は白河法皇が握り続けた。父親の堀河天皇の在位中は、摂関家や天皇が実権を全て、あるいはある程度は握っていたが、このように鳥羽天皇の治世において白河院政が本格化した。

白河法皇崩御の後、大治4年(1129年)より院政を敷く。白河法皇の勅勘を受けて宇治に蟄居していた前関白・藤原忠実を天承元年(1131年)に呼び戻し、娘の泰子(高陽院)を入内させ、上皇の妃としては異例の皇后とした。また、白河法皇の側近であった藤原長実家保兄弟らを排除して院の要職を自己の側近で固める[1][2]。有力な院司として、藤原顕頼藤原家成がいる。また伊勢平氏平忠盛内昇殿をゆるし、政権に近づけた。さらに白河法皇の後ろ盾を失った待賢門院璋子にかわり、長承2年(1133年)頃より藤原得子(美福門院)を寵愛した。永治元年(1141年)、23歳であった崇徳天皇を譲位させ 、得子所生の第九皇子・体仁親王(近衛天皇)を3歳で即位させた。康治元年(1142年)に東大寺戒壇院で受戒し法皇となる。

久寿2年(1155年)に近衛天皇が早世すると、第四皇子で崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(後白河天皇)を即位させた。これにより崇徳上皇が院政を敷く可能性は失われる。間もなく病に力を奪われ力尽きるが、この後白河天皇即位が保元の乱が勃発する原因となった。

父・堀河天皇と並ぶの名人として知られ、譲位後に崇徳天皇が朝覲行幸に訪れた際に自ら笛を演奏して歓待している(朝覲行幸では子である天皇が父である院に対する孝養の一環として楽器を演奏するのが通例であった)。また、催馬楽朗詠にも優れ、天永3年(1112年)の白河法皇の60歳の御賀の際には自ら催馬楽を披露している[3]

系譜